第13話 恩返し
◆ゲルト
寄り合いの小屋は男たちの汗と溜め息でむせ返っていた。
寄り合いの小屋は村の真ん中にある。古い梁の下に村の男たちが二十人あまり。窓のない小屋の中で油の灯りが一つ揺れている。
「だから、出たって負けるだけだろうが!」
「負けたってまた一年待つだけだ! 出なきゃ来年も再来年も同じだぞ!」
「なら誰が出るんだよ! お前か!?」
「そ、そりゃ……」
怒鳴り声が途切れる。いつもそこで途切れる。
三日後までに聖堂へ戟申しを届けなければ今年の郷戟はない。川は来年までベッカのものだ。
「うちの水車はもう三年回ってねえ。粉が挽けなきゃ、粉挽きは飯が食えねえんだ」
「猟場の獣も減った。水場が干上がって、鹿が山の向こうへ移っちまった」
「うちは畑を半分捨てた。残りの半分も、このままじゃ来年は駄目だ」
「娘が嫁に行く先がねえよ。水のねえ村に、誰が嫁をくれる」
皆が口々に暮らしの苦しさを言う。どれも嘘ではない。どれもわしが一番よく知っていることだ。
「分かっとる。皆の苦しいのは、分かっとる」
わしは村長の席で黙って皆の顔を見回した。
ダグは腰を痛めて二年になる。猟師のフランツはもう歳だ。若い連中は皆目を逸らす。
去年の代表は……わしの息子だった。
カイは小屋の隅に座っていた。吊った左腕を右手で抱え込むようにして。
あいつが名乗り出た日のことをよく覚えている。親父、俺がやる。村の水を取り返す。
止めなかった。止めるべきだった。
郷戟の河原で骨の鳴る音を聞いた時、わしは動けなかった。担架で運ばれていく息子の顔は真っ白だった。それでも歯を食いしばって声ひとつ上げなかった。
女房が生きていたら何と言っただろう。あいつはカイが生まれた時、この子は優しい子になると言った。裸戟なんかに出す子じゃないと。
わしは女房の言葉を守れなかった。
「村長。あんたはどう思ってるんだ」
「……出ない」
小屋が静まり返った。
「出れば、また誰かが壊される。わしはもう、村の若い者を差し出すような真似はしたくない」
「でもよ、村長……」
「水はある。少ないが、ある。皆で分け合えば冬は越せる」
嘘だ。自分でも分かっている。
畑はもう半分が駄目になった。来年も同じなら村を捨てる家が出てくる。
いや。もう出ている。去年は三軒。今年はもう二軒。村長として、わしは出ていく荷車を見送ることしかできなかった。
「……分かった。村長がそう言うなら」
「仕方ねえな」
誰かが諦めたように言った。皆が俯いた。それで決まりのはずだった。
「すみません」
戸口の方から声がした。低い。だがよく通る声だった。
振り返るとあの男が立っていた。戸口の梁に頭をぶつけないよう少し身をかがめている。
アサヒ。娘が川で拾ってきた男だ。
「……アサヒさん。寄り合いは村の者だけで」
「分かってます。でも、一つだけ言わせてください」
アサヒは小屋の真ん中まで進み出た。床板がみしりと鳴る。
それから膝をついた。両手を床について深々と頭を下げた。
床に両手をついて頭を下げる。そんな礼の仕方をする者はこの村にはいない。だが、それがどれほど深い礼なのかは誰にでも分かった。
「恩返しをさせてください」
「……何?」
「郷戟に、俺を出してください」
小屋の中がどよめいた。
「余所者が何を言いやがる!」
「でかいだけだろ。ボルグはもっとでかいぞ」
「いや、でもあいつ、市でボルグを押し返したって」
「ヨハンが言ってたな。ボルグのほうが一歩下がったって」
「水樽を二つ担いでるのも見たぞ」
「でかい荷物持ちと裸戟は別もんだろうが!」
「待て」
ダグが低い声で言った。腰を痛めて二年になる男だ。
「俺はこいつと山道を歩いた。崖でペーターが落ちかけた時、こいつは樽を担いだまま片手で引き戻した。足が一寸も揺れなかった。……あれは荷物持ちの足じゃねえ」
「わしも見た」
猟師のフランツが言った。
「倅を助けてもらった。礼も言わせてくれん男だ」
「言っとくが、俺の腰を治したのもこいつだ」
ダグがにやりと笑った。
小屋がざわついた。空気が少しだけ変わった。
「だめ!」
鋭い声が飛んだ。
リネだった。いつの間にか戸口に立っていた。
戸口に立つ娘の顔は、死んだ女房にそっくりだった。
「だめです、アサヒさん。兄さんみたいになったら、どうするんですか」
「リネ……」
「あなたは村の人じゃないんです。そこまでしてもらう理由なんてありません」
娘の目に涙が溜まっていた。
アサヒは顔を上げた。そしてリネのほうを向いて静かに笑った。
「理由ならある。あの朝、君は自分の家の水を俺にくれた」
「あれは……」
「水がいちばん大事な村で、いちばん大事なものをくれたんだ。俺はそれを返したい」
リネが言葉に詰まった。
「水をくれたって……リネがか」
「あの子らしいや」
誰かがぽつりと言った。
アサヒはわしに向き直った。
「村長。俺の国では、裸戟と同じものを千年以上やってきました。俺は十七年、それだけをやってきた。それしか取り柄のない男です」
「……十七年」
「怪我で、どん底まで落ちたこともあります。そこから這い上がって、また上に戻った。だから、負けた人間の気持ちは分かるつもりです」
小屋の隅でカイが顔を上げたのが見えた。
「ボルグには、勝てます」
誰かが笑うかと思った。誰も笑わなかった。
静かな声だった。
大口を叩く男の声ではない。明日の天気でも告げるような当たり前の声だった。
わしは長いあいだ黙っていた。
村長として。父親として。どちらの答えも出せなかった。
村長なら、この男に賭けるべきだと分かっている。水が戻れば村は助かる。だが父親としては、もう誰にもあの円に入ってほしくなかった。息子の腕が折れた音が、まだ耳に残っている。
そしてこの男もまた、誰かの息子なのだ。
「……カイ」
「……」
「お前が決めろ。去年の代表はお前だ。ボルグと取ったのも、この村でお前だけだ」
皆の目がカイに集まった。
カイは長いあいだ黙っていた。吊った左腕を右手で強く握っていた。
カイはゆっくりと立ち上がった。アサヒを睨みつけるように見下ろす。
「……明日の朝、日の出前に村の外れに来い」
「ああ」
「稽古ってやつを見せろ。話はそれからだ」
寄り合いはそれで終わった。男たちが一人また一人と小屋を出ていく。最後に残ったのは、わしとあの男だけだった。
「村長」
「なんだ」
「息子さんの時間を、少しお借りします」
「……あいつが決めたことだ」
男は深く頭を下げて小屋を出ていった。灯りが揺れた。わしはしばらくその場を動けなかった。
女房が生きていたら、あの男を何と言っただろう。たぶん笑って言ったはずだ。いい人を拾ったね、と。




