第12話 腰の高い相撲
◆朝日富士
あれは相撲じゃない。
ヨハンの肩を確かめながら俺はずっとそう考えていた。
立ち合いがない。呼吸を合わせるという考えそのものがない。
腰が高い。仕切りもせずに棒立ちで受ける。腕の力だけで放り投げる。あの体格とあの腕力なら素人相手にはそれで足りるのだろう。
(序ノ口の一番相撲でも、あれは通じない)
足腰が軽すぎる。下から一発当てればあの大きな体は簡単に浮く。
それだけじゃない。ヨハンを投げた時、ボルグは帯をつかんだ右手一本で振り回していた。左手は遊んでいた。踏み込んだ足も一歩だけ。腰はまるで回っていない。
あれは相撲の投げじゃない。薪を放り投げるのと同じだ。力があり余っているから、技がいらなかったのだろう。
強い相手とぶつかったことがない体だ。押し返された経験がない。だから押し返された時にどう踏ん張ればいいのかを知らない。
そういう相手を、俺は序ノ口の頃に何人も見てきた。体の大きな新弟子ほど最初の一年でつまずく。力だけで勝ってきた体は、一度崩れると立て直し方が分からないのだ。
「ツチフミの別嬪じゃねえか。久しぶりだな、リネ」
頭の上で声がした。
顔を上げるとボルグがリネの前に立ちはだかっていた。
「……お久しぶりです」
「聞いたぜ。今年は戟申しも出さねえんだってな」
「まだ決まってません」
「決まったようなもんだろ。で、どうだ。いい加減うちの村に嫁に来ねえか」
リネの顔から血の気が引いた。
「お断りします」
「つれねえなあ。ベッカに来りゃ水は飲み放題だぞ。干からびた村で親父と腕の折れた兄貴の世話をするより、よっぽどいいだろうが」
「兄さんの腕を折ったのは、あなたです」
「勝手に折れたんだよ」
ボルグは笑ってリネの手首をつかんだ。
「なあ、いいだろ」
「離してください!」
俺はヨハンをそっと地面に寝かせた。
立ち上がる。三歩。リネとボルグの間に体を入れた。
「その手を、離してくれないか」
「あ?」
ボルグが俺を見下ろした。
でかい。二メートル近いだろう。肩幅も胸の厚みも大したものだ。
だが見上げるのには慣れている。土俵の上では俺より大きい相手のほうがずっと多かった。
二メートルの外国出身の関取にも、二百キロの巨漢にも当たってきた。大きい相手ほど、懐は深いが足元は遠い。
「誰だてめえ」
「ツチフミ村の世話になってる者だ」
人垣がざわめいた。ボルグに口答えする人間を初めて見たという顔ばかりだった。
「……ああ。てめえが川で拾われたデブか」
ボルグがリネの手首を離した。代わりにその手を俺の胸に当てる。
「どけよ」
押してきた。片手で軽く。邪魔な荷物を払いのけるときの押し方だ。
俺は動かなかった。
「……あ?」
ボルグの顔から笑いが消えた。今度は両手で押してくる。肩に力がこもっているのが分かる。
それでも動かない。動く理由がない。
あの押し方は腕だけだ。腰が乗っていない。重心は踵の上にある。
俺は右手をそっとボルグの左肘の下に添えた。下から。軽く。押し上げるのではない。添えて締めるだけだ。
「っ……!?」
ボルグの腕から力が抜けた。肘が浮いて押す力が逃げていく。
ボルグが一歩下がった。自分で下がったのか下がらされたのか分からない顔をしていた。
「おい、今ボルグが下がったぞ」
「押し負けたのか?」
「まさか。自分から離れたんだろ」
人垣がざわめいた。
「……てめえ、今なにしやがった」
「何も。立ってただけだ」
嘘ではない。おっつけというのは本来そういうものだ。
相手の肘の下に手を添えて、腕の力を外へ逃がす。力の強い相手ほどよく効く。序ノ口の稽古場で最初に叩き込まれる技の一つだ。
「上等じゃねえか。円に入れ。興戟で白黒つけようぜ」
ボルグが顎で円をしゃくった。
人垣が一斉にこちらを見る。審司の老人まで身を乗り出していた。
俺は円を見た。
地面に白い粉で引かれただけの円だ。土俵とは似ても似つかない。それでもその線を見ると体の奥が熱くなる。
取りたい。
正直に言えば今すぐにでも取りたい。
体の奥で何かが疼いている。この世界に来てから、まだ一度も本気で誰かとぶつかっていない。
「断る」
「……は?」
「相撲は喧嘩の道具じゃない」
親方に叩き込まれた言葉だった。土俵の外で拳を使った力士は、土俵に上がる資格を失う。腹が立っても、殴りたくても、土俵の外では頭を下げろ。
ボルグがぽかんと口を開けた。
俺はヨハンを背負い直してリネに声をかけた。
「帰ろう、リネ。日が暮れる」
「は、はい」
背中にボルグの怒鳴り声が飛んできた。逃げるのか。デブ。腰抜け。いろいろ言っていたが振り返らなかった。
腰抜けと呼ばれるのは久しぶりだった。序二段に落ちた頃は毎日のように陰で言われていた。元大関のくせに。膝の壊れた見世物。あの頃に比べれば、面と向かって怒鳴られるほうがずっとましだ。
「あの、アサヒさん……俺、歩けます」
背中でヨハンが言った。
「黙って背負われとけ。肩を冷やすな」
「……はい」
ヨハンの体は熱かった。肩は打っただけで骨は無事だ。だが今夜は腫れるだろう。
市を出てしばらく歩いたところでリネがぽつりと言った。
「……アサヒさん」
「ん」
「怖くなかったんですか」
「全然」
「どうして」
「あいつの腰が、高かったからな」
リネはきょとんとした。それから小さく吹き出した。
「なんですか、それ」
「大事なことなんだぞ」
「ふふっ。……ありがとうございました」
リネは前を向いたまま俺の袖を少しだけつまんだ。
「でも、郷戟には出られません。父さんが決めたら、もう」
「……そうだな」
しばらく黙って歩いた。夕焼けが二人の影を長く伸ばしていた。
「……兄さんの腕が折れた日のこと、話してもいいですか」
「ああ」
「兄さんは、去年の郷戟に自分から名乗り出たんです。村でいちばん力が強いのは自分だからって。父さんは止めなかった。私も止めなかった。兄さんなら勝てるって、本気で思ってたんです」
リネの声が少しだけ震えた。
「立ち合いで兄さんがぶつかって、ボルグは一歩も下がらなくて。帯をつかまれて振り回されて、地面に叩きつけられて。その上にボルグが落ちてきて……骨の鳴る音が、河原じゅうに聞こえました」
「……」
「兄さんは泣かなかった。あの日の夜も、次の日も。代わりに、裸戟の話を一切しなくなりました」
リネは前を向いたまま言った。
「だから、怖いんです。誰かがまた、あの円の中で壊されるのが」
俺は何も言えなかった。大丈夫だとも、勝てるとも言えなかった。今それを口にするのは、ただの慰めにしかならない気がした。
「リネ」
「はい」
「話してくれて、ありがとう」
リネは小さくうなずいた。袖をつまむ指に、少しだけ力がこもった。
背中のヨハンが小さく呻いた。
夕焼けの道の向こうに干からびかけたツチフミの畑が見えていた。




