四、弍-後「役割」
ざわめきの質が違う。人の動きが、どこか一点へ引き寄せられている。
その方向へ、ツカサが自然と視線を向けた。
「おっ、なんだ?」
隣でジンも、遅れて反応する。
(うん?……)
耳に、断片的な声が飛び込んでくる。
「おいっ、囲め!」
「うっ、うわっ」
「どうする!?」
人の壁の向こう側で、緊張が一気に高まっている。
兵士たちが円を作るように構え、その外側には野次馬が膨らんでいた。
距離を取ろうとしながらも、完全には離れきれない群衆。
ケイがその様子を見て、わずかに目を見開く。
「え、ええ……」
ツカサは一歩、視界を確保するように位置をずらし、その中心を捉える。
「おっ、あれ獣魔か!」
その一言で、ジンの意識も引き寄せられる。
人の隙間から覗く“それ”を、目が捉えた。
「……」
(じゅ、じゅうま……)
兵士に囲まれた中心。
そこにいたのは、虎に似た異形の獣。
背の高さは人の腰を超え、全身にまとわりつくような黒い気配。
筋肉の動きに合わせて、空気が微かに歪む。
低く唸り、牙を見せるその姿は、ただの獣ではない。
ケイはすぐに動き、周囲の市民へ声を張る。
「非常に危険です!ここから先は立ち入らないでください!」
手で制しながら、少しでも距離を取らせようとする。
その横で。
ツカサは、まるで軽く様子を見るように、
腕を緩く下げ、獣魔へ顔を向けたまま、ジンに言葉を投げる。
「おい、ジン。あいつちょっと倒してこい」
さらりとした一言。
ジンの体が、わずかに固まる。
「えっ、俺!?……」
ツカサはそのまま、口元だけで笑う。
「お前、魔王を超えたいんだろ?」
ジンの思考が、一瞬だけ空白になる。
「えっ、あー、えっと……」
(あれ、魔王を超えるなんて、ツカサさんに言ったかな......
それで......ど、どうしよう……あ、あれと……)
視線がわずに獣魔へ向かう。距離。動き。兵士の配置。逃げ道。人の集まり。
頭は動いている。だが、体は。
その間にも、ケイの声が挟まる。
「ツカサさん、ジンさん、よろしくお願いします!」
期待と現実が、同時に押し寄せる。
獣魔は、体を低く沈め、周囲へじわりと気を放っている。
——さらに空気が、流れる。
ツカサは腕を組み、顔は獣魔へ向けたまま、目だけをジンへ滑らせる。
「ほら、ジン」
ジンの肩がわずかに跳ねた。
「えっ……」
(い、いや……)
思考がまとまらないまま、じわりと額と背に汗が滲む。
(ど、ど、どしよう......)
意識が散り、あちらこちらに動く、言葉だけが遅れて追いつく。
ツカサは、その様子を正面で見ながら。
「うん?どうする?やめとくか?」
少し離れた位置では、ケイもすでに状況を測りながら、
獣魔への対処に加わっていた。
ジンは喉を鳴らす。声が震えてうまく出ない。
「い、い、い、いきま……」
(さ、さ、さ、里で教えられた......こういう時は自分を変える、変わる時だと......)
言葉が揺れる。足も指先も、どこかぼやけて震えている。
ツカサは何も言わず、その様子をそのまま受け止めている。
ジンに涙がにじみ、視界が揺れる中で——
「……いきます……むしろ、行かせてださい......!」
かすれた声。それでも、無理やり押し出す。
ツカサは短く頷き、ジンを見る。
「よし」
ツカサはそう言うと、間を置かず一歩踏み込み——わずかに腕を引いた、その次の瞬間。
背の上の肩のあたりを、パン、と強く短く打ち込んだ。
押すというより、弾かれる感覚。ジンの体が、抗う間もなく前へと踏み出される。
(うっ......結構、強めだ......)
ジンは、獣魔の方へ震えた足を運ぶ。一歩ごとに、地面の感触が遠い。
踏んでいるはずなのに、確かじゃない。
「あっ、ジンさん!よろしくお願いします!」
ケイの声に、近くの市民が顔を向ける。
ジンも、それにびくりと反応した。
「は、は、はい……」
(俺はやれる、やるだけだ……!)
背後からもツカサの声が飛ぶ。
「おいっ、剣も元に戻せよ!」
ジンの肩が、また跳ねる。
(はっ、そ、そうだ......!)
そして、ツカサの方に少し振り向き。
「ツ、ツ、ツ……」
ツカサは何も言わず、ただジンを見て。
「ん?」
そのツカサの様子を見た瞬間、ジンの中で何かが緩んだ。
(そ、そうだ……俺は対魔一族……剣士……)
ケイはジンのその様子に、わずかに動きが止まる。
違和感を覚えながらも、視線だけで追う。
ツカサが、通り全体に響く声で、ジンへまた声を飛ばす。
「ジン!霊力を剣にこめろ!魔力は体の方に使え!」
その声に、通りにいた人々が、まばらにジン達の方へ顔を向ける。
(えっ、今!?......そんな一気に……やれるのか……)
ジンは、ほとんど泣いていた。
だが足を止めない。一歩、また一歩と、距離を詰めていく。
通りの人々が「なんだ?」とざわめきながら視線をジンに向けている。
その動きに反応するように、
獣魔を囲んでいた兵士たちの空気が一斉に張り詰めた。
一人が前に出る。槍の穂先をわずかに持ち上げ、
進路を遮るようにして声を張った。
「おい、そっち来るな!危ねぇぞ!」
鋭い制止に、ジンの足がぴたりと止まる。
ほんの半歩、踏み出しかけた重心が宙に残ったまま、戻せない。
(……俺が、今、ここにいる理由……)
その隙間を埋めるように、横からケイが一歩前へ出た。
現場の緊張をなだめるように、だが声ははっきりと通す。
「大丈夫です、この方は泰黎から来ていただいた対魔の方です!
対処はお任せください!」
獣魔の後ろに居た兵士の視線がジンへいく。
値踏みするような、疑うような、そして焦りを含んだ目。
「……はぁ?」
眉をしかめて。
「こんなガキに任せる気かよ」
別の兵士も、遅れて構えを解かないまま低く。
「ふざけんな、遊びじゃねぇんだぞ」
ジンの喉が乾く。汗がこめかみから顎へ伝い、妙にゆっくりと落ちていく。
(なんだ......体が、軽い......いや、違う......)
地に足がついていないような感覚。立っているはずなのに、どこか浮いている。
それでも、無理やり声を押し出す。
「ま、ま、ま……任せてください……!」
明らかに震えた声、それでも言い切る。その後に、
いけます……
ほとんど聞き取れないジンの声がした。
だが、ジンの言葉に被せるように返ってきたのは、即座の拒絶だった。
「いや、いい!お前は下がってろ!」
槍がわずかに前へ出る。守るというより、“これ以上前に出すな”という明確な意思。
「こっちはこっちでやる!足手まとい増やすな!」
空気が、さらに一段きつく締まる。
ジンはその場に立ち尽くす。進むことも、引くこともできないまま——
ただ、呼吸だけが浅く速くなっていった。




