第5話 時間遡行(澄波の人々)
少しだけ時間を遡る。
中天京の絢爛さも遠い記憶となるほどの辺境——豊かな山々に囲まれた集落、澄波。
その集落の一画に構える武術道場「蒼武館」の門前では、
館主である玄蔵が近所の住民たちと笑顔で言葉を交わしていた。
何の変哲もない穏やかな日常のひととき。
住民たちが立ち去った後、ふと街道に視線を向けると、
一人の美女が機嫌良さそうに歩いてくるのが見えた。
「こんにちは、澪さん。お?今日は随分と御機嫌だねぇ? 何か良いことでもあったの?」
玄蔵が親しく声をかけると、澪さんと呼ばれた美女は
手に持った扇子で愛らしく口許を隠し、意味深に微笑んだ。
「うふふ、内緒じゃ……もうすぐ来るのう」
「え? もうすぐ何だって?」
「やはり内緒じゃ」
軽やかにはぐらかす澪さんだったが、次の瞬間、その雰囲気がガラリと一変した。
美貌に冷たい緊張感が走り、鋭い視線が遠くの森へと向けられる。
「——玄蔵、あちらで禍つが騒いでおる。人がいるようじゃ」
パチン、と扇子を勢いよく閉じ、澪さんはある方角を指し示した。
その言葉に玄蔵の目つきが変わる。
「えっ? それは大変だ!」
玄蔵はすぐさま道場の中にいる妻の緋乃に声をかけ、
二人で急ぎその方向へと駆け出した。
◇
同じ頃、深閑とした森の中。
蒼太という名の少年と、鈴という名の少女が、
たった二人で禍つを狩っていた。
蒼太は丸腰でありながら、淀みのない体術だけで禍つの群れを素手で叩き伏せていく。
傍らの鈴は、鋭く輝く湾刀を手にしなやかに舞い、禍つを斬り裂いていた。
ふと、鈴が手を止めて耳を澄ませる。
「蒼太、あれ……禍つの群れ……?」
「馬が追われてる……!?」
木々の奥から響く異様な咆哮と猛烈な蹄の音。
二人は顔を見合わせるや否や、弾かれたように走り出した。
「鈴ちゃん!馬に人が乗ってる!」
蒼太の脚力は常人の域を遥かに超えていた。
地を蹴るたびに風を巻き起こし、木々を置き去りにして疾走する。
鈴もまた、湾刀を握り直してその後を必死に追う。
木立を抜けた瞬間、蒼太の視界に跳び込んできたのは、
狂乱した馬の背から今にも落ちそうになっている一人の少女だった。
指先が離れ、宙へと放り出される華奢な身体。
蒼太はさらに加速し、間一髪でその身体をしっかりと両腕で受け止めた。
「大丈夫!?」
抱きかかえた少女に声をかけるが、高貴な着物を纏ったその少女は顔色を失い、
ぐったりと力なく崩れ落ちるだけだった。答える気力すら残っていない。
「蒼太! 来てるよ!」
追いついた鈴が叫ぶ。
背後から咆哮をあげて迫る禍つの大群。
蒼太は気を失った少女を腕に抱いたまま、軸足を深く踏み込んだ。
一瞬のタメから放たれた鋭い回し蹴りが空気を切り裂き、
先頭の禍つ数体をまとめて豪快に弾き飛ばす。
「ハッ!」
生じたわずかな隙に、すかさず鈴が割り込み、
湾刀の一閃で残りの禍つを瞬時に斬り伏せた。
蒼太は気を失った見知らぬ少女をそっと木陰の草むらに横たわらせた。
「……よし。こっちを先に片付けるか」
腕の筋肉を軽くほぐし、蒼太は残った禍つたちの群れに向かって、
足を踏み出した。
拳が唸る。
振り下ろされた一撃は禍つの頭蓋を容易く陥没させ、
返す蹴りで二体、三体とまとめて弾き飛ばす。
武器などいらない、彼の肉体そのものが得物だった。
組み付いてきた大柄な個体を軽々と持ち上げ、地面に叩きつける。
骨が砕けるような音がしたのは禍つの方だった。
「危ない、そっちも!」
鈴の声と共に、湾刀の刃が横なぎに閃く。
一太刀で二体を両断し、返す刀で更に一体の急所を貫く。
二人の動きに合わせるように、群れの数はみるみる減っていく。
囲まれても慌てず、背を預け合うでもなく自分の間合いで決着をつけていく。
息を合わせる必要すらないとでも言うように。




