第4話 時間割表―平民ミラの一日―
小さな工房の扉を押し開けると、朝の光が木の机を淡く照らしていた。そこには、印材と小刀、細かく散った木くずが無造作に置かれている。
「……よし」
私は、手袋をせずに指先を滑らせ、木の感触を確かめながら小刀を握る。切り傷が増えているが、痛みはもう気にならなかった。
「今日も、やるだけね」
誰にいうでもない声を漏らし、作業を始める。客はゼロ、依頼もない。
けれど、自分の手で刻み、試作を作る時間こそが、生きる証であり、独立した日々のすべてだった。
指先に伝わる木の堅さ、刃が木を削るかすかな振動、刻み終えた後の手作りの違い。小さな変化にすぐ反応し、微調整を加える。木くずが指の間に入り、床に落ち、軽く掃きながらも刻む手を止めない。
音も匂いも、すべてが私だけの世界だ。
「んーまだ甘いわね……もっと深く、もっと正確に」
そうつぶやきながら、私は次の線を刻む。完璧ではないけれど、だからこそ手を止めるわけにはいかない。
机の上には、いくつもの試作ハンコが並ぶ。
刻みの深さ、線の角度、余白のバランス。すべてを手と目で確かめる。
間違えた箇所は小刀で削り直し、何度もやり直す。時間はあっという間に過ぎ、昼の喧噪が窓越しに響くが、外の世界は関係なかった。
「ふぅ。喉渇いた……」
軽く水を口に含む。手を洗い、木くずを払い、再び小刀を握る。静かにだが、集中の熱量は高い。淡々としているのに、全身の感覚が研ぎ澄まされている。
「続きは、また明日」
私は小さく伸びをして、机に向かって頭を下げる。
誰に見せるわけでもなく、成果を認める相手もいない。それでも刻み続けることに意味がある。ひとつひとつの線が、自立した平民としての証であり、自由と強さの象徴だった。
夕暮れ、工房の明かりだけが残る。
床に落ちた木くず、机に積み重なった試作、静かに揺れるカーテン。世界から隔絶された小さな空間。
ここで私は自由であり、強くあり、何者にも縛られていない。――ただ、淡々と、自分の道を行くのだった。
◇
数ヶ月は暮らせる蓄えはあるとはいえ、お客ゼロの状態が続けば、いずれ枯渇する。
そこで、私は、短期のアルバイトを始めることにしたのだ。
「ミラちゃん。もう終わったのかい。助かるねぇ」
私は、近所にある小さな雑貨屋の手伝いをしていた。
「とんでもないです。この書類の整理もしておきますか?」
「そんなことまで手伝ってくれるのかい? いつも主人に任せていたから助かるよ」
雑貨屋のご主人が、骨折をして店を休んでいるため、その間だけの仕事だ。
「在庫と合わないわ……おばさま。在庫が計算に合わないのですが」
「あら! 大変。どうしましょう。いつも主人の頭の中で管理していたから、こういうときに困るのよね」
「ちょっと待ってください」
私は定規を借りて、紙に表を作る。そして、項目などを書き込む。
「こういうふうに在庫管理表を作っておけば、仕入れとの差額などがすぐわかりますよ」
「あら! 目に見えるとわかりやすいわね」
「いま分かるものだけでも作っておきますね」
私は、ハンコ職人だから細かな作業が得意だ。物を作るだけではなく、他の人は面倒くさがる細かな作業も得意なのだ。
数日後には、キレイな表ができあがった。
「ミラちゃん。本当に助かったわ。この表があれば、主人がいなくても注文数などがわかるわ」
「お役に立てて良かったです」
私の仕事は好評で、雑貨屋のアルバイトはとても充実したものになった。そんなアルバイト生活の最終日のこと。
「新しいハンコを買ったの。けど、古いハンコも、少し欠けていても使えるわよね?」
雑貨屋のおばさまが、ハンコの入った木箱を軽く指でつついた。
私は、仕事の手をそっと止める。
「いいえ。欠けていない方がいいです」
「え? でも押せれば同じじゃない?」
私は箱からハンコをひとつ取り出し、布の上に置いた。指先でそっと撫でる。
「これは、ただの木じゃなくて『約束の形』です。欠けていると、押したときに意味が揺れます」
私はそう言って、新しいハンコと欠けたハンコの二つを手にとる。軽くインクをつけて紙に押す。くっきりとした輪郭が浮かぶ。
「ほら、こっちの方が、ちゃんと『伝わる』でしょう?」
「……確かに、全然違うわね」
おばさまは目を丸くして、それを見比べた。
私は道具を静かに布へ戻す。
「少しの違いが、信頼を決めるのです」
「ミラちゃんに来てもらって、教えてもらうことが多いわ。18歳とは思えないほどしっかりしているわよね」
「ありがとうございます」
「今日で終わりなんてさみしいわ。またいつでも手伝いにきてね。それか、いっそのこと、うちで働いてもいいのよ。ほら、ミラちゃんと、少しだけ年齢は離れているけど、うちには息子もいるし」
おばさまはそう言いながら、背中の赤ん坊を私に見せてきた。
(少しどころじゃないけれど……)
「ありがとうございます。また何かのときはお手伝いさせてください」
私は、おばさまから給与を受け取り工房に戻った。
工房には『ご注文がある方は、ポストにご連絡先をお入れください』との札がかかっている。
ポストをのぞく。
「今日も来てないわね……」
営業活動をしていないのだから、それはそうだ。
私は、明日からは何のデザインを試してみようかと考えつつも、次は何のアルバイトをしようかと考えていた。
「ホントはハンコだけで食べていければいいんだけどね」
積極的な営業活動もしていないのに、そんなことを考えている自分に少し苦笑する。
……ただ、そのときはまだ知らなかった。
この静かな工房に、ハンコの依頼が『別の形』で訪れることになるなんて。
本日21時に第5話更新予定です。




