第26話 企画書―仕事か?デートか?―
今日は、ハンコを作る際に必要な道具などをノミの市に調達をしに行く日。
私の中では恒例となっている。
朝のノミの市は、まだ熱を帯びきらない人のざわめきで満ちていた。
広場には布を張った簡易の屋台が並び、木箱の上に並べられた品々が光を受けて揺れている。香辛料 の乾いた匂い、金属の冷たい匂い、そして木材のほのかな甘さ。色々な匂いが混ざり合っていた。
「すごいな、これ」
隣でルーカス様が、完全に目を輝かせている。
「人、多すぎないか?」
「ノミの市ですからね」
「いや、それは分かるけどさ」
ルーカス様は、人の流れを縫うように歩きながら、あちこちを見回す。
「こういうとこ、初めて来たかも」
「そうなんですか」
「うん。なんか、見ているだけで楽しいな」
その声は、思っていたよりも、ずっと弾んでいた。私は、ちらりとルーカス様を見る。
(……思った以上に浮かれているわ)
本来は一人で来るつもりだった。だが、あまりにもしつこく行きたいと言ってくるので、仕方なく同行を許したのだ。
「ほら、あれ見てごらんよ」
ルーカス様が少し前に出て、露店の一つを指さす。
細かい彫刻の施された小箱。
「細かいなぁ。ああいうの、ミラも作れるのか?」
「時間をかければ作れると思います」
「すごいな。今度作ってくれる?」
「……気が向いたら」
「本当?! でもミラの気はいつ向くか分からないからなぁ」
ルーカス様は笑いながら、別の店へ視線を移す。
値段交渉の声がする。
「今の見た? あれ駆け引きだよね? 値段交渉しているのも面白いなぁ」
「店主は、そもそも相場より高くして、下げる前提で売っているのでしょう」
「へえ、そういう戦略か」
興味深そうにうなずく。
「あれ、僕もやってみようかな」
「無理だと思います」
即答すると、ルーカス様が笑った。
「なんで? やってみないと分からないよ?」
「相場よりも高く買わされちゃいそうですから」
「僕って、騙されそうに見えるか?」
ルーカス様が笑う。その様子は、まるで初めて祭りに来た子どものようだった。
(……連れてきたのは正解だったのかもしれないわ)
ルーカス様の足取りは、完全に『観光客』のそれだった。
私は小さく息をつき、歩調を保つ。
「……こちらです」
私が歩みを止め、小さな露店の前に立つ。
木製の棚に並ぶ瓶。見慣れたつや出し用の油。
「あ、ここが油屋?」
「ええ。ハンコのつや出し用に使っています」
「結構来ているの?」
「最近はハンコの注文も増えたので。ちょくちょく来ています」
「常連さんなんだな」
「そうですね」
店主が顔を上げる。
「おや、いらっしゃい。また来てくれたのかい」
「えぇ。油を補充したくて」
「今日は連れも一緒なのか。珍しいね。ところで、お兄ちゃん。整った顔してるなぁ!」
ルーカス様は、顔のことを言われると、眉をひそめて下を向いてしまう。
嫌なことが多かったため、条件反射的になってしまっているようだ。
そんなルーカス様の態度を全く見もせず、店主は、瓶を選ぶ。
「はいよ」
「ありがとうございます」
「そうだ、実はさ……」
言いかけて、店主が少し困った顔をした。
「ちょっと見てほしいのがあるんだが」
「何かありましたか?」
「いや、たいしたことじゃないんだが」
店主は1枚の紙を取り出す。
「これ、発注書なんだけど、いつもどおり6番を頼んだはずなんだよ。なのに、納入された商品が、いつもの6番となんか違うんだよ」
ルーカス様がひょいとのぞき込む。
「……これ『8』に見えますけど」
「え?」
店主が慌てて紙を引き寄せる。
「いや『6』だよ。もうお兄ちゃん、何言ってるのさ。こちとら、ずっとこの書き方でやってたんだよ?」
私は店主に対して、静かに手を差し出す。
「納品書ありますか?」
「ああ、あるよ」
渡された紙を並べる。
納品書にはハッキリと『8』
「8ですね」
「8だな」
「そんなはずは……」
店主が頭を掻く。
3人で紙を見比べる。周囲の喧噪が遠く感じられるほど、短い沈黙。
やがてルーカス様が言う。
「この発注書、普通に『8』に見えるよな」
「ええ」
「……お兄ちゃん達に言われてみれば、そう見えてきた」
店主も苦笑いをしている。
「でもおかしいなぁ。いつもはこれで6番の品物が来てたんだよ」
「今回は、担当者が違ったのでは?」
店主がはっとする。
「ああ……そうだ。いつもの担当が休みで、新人に任せていた」
「慣れてなきゃ読み間違えますよ」
ルーカス様が苦笑する。
「これは、間違えて8番納品されても仕方ないですね」
店主は、そっかぁ、俺の書き方のせいかぁとつぶやく。
「こっちは『6』のつもりでも、相手は分かってはくれないんだな」
「誰が見ても同じに読める形にする必要があります。曖昧さをなくせば、トラブルは減りますよ」
私の言葉に、店主は大きく息を吐いた。
「助かったよ。文句を言いに行くところだった」
「平和的に解決しましたね」
ルーカス様が軽く笑う。
「まったくだ」
店主も笑う。
「ほら、これ持って行きな。少し多めに油入れておいたから」
「いえ、多めの分は、ちゃんと払いますよ」
「いいから、いいから。いつも来てくれるしな。それにクレーマーになっちまうところだったのを止めてくれたお礼だ」
私は一瞬だけ間を置いて、お礼を言って受け取った。
露店を離れる。人の流れに戻ると、ざわめきが一気に戻ってきた。
ルーカス様が隣で言う。
「いやー、楽しいなここ」
「そうですか? 気に入りましたか?」
「うん。見ているだけで時間が足りない」
少し歩いてから、ふと笑う。
「こういうのってさ、一人じゃ来ないんだよな」
私は、視線を前に向けたまま答える。
「確かに、用事がないと、普通の人はあまり来ないかもしれないですね」
「うん。でも、来て良かった」
ルーカス様が軽く肩をすくめる。
「連れてきてもらって正解だった」
「……楽しんでもらえて良かったです。でも、私は、仕事の一環ですよ?」
「はいはい」
ルーカス様は笑いながら、少しだけ距離を詰める。
「で、次はどこ行く?」
「……木材を見た後、先ほどのルーカス様が気になっていた店に戻っても構いません」
ルーカス様がぱっと顔を上げる。
「ほんとに? なんだかデートみたいになってきたなぁ」
「……やっぱり辞めましょうか?」
「辞めない! 行く!」
私は、ルーカス様の勢いの良い回答に少し笑ってしまった。
「じゃあ、私の用事を済ませたら、そこに行きましょう」
「よし、決まり」
ルーカス様は満足そうにうなずく。私が歩き出すと、そのすぐ隣に自然に並ぶ気配。
隣にいるというだけで、心が温かくなる。でも、私は口に出さず、ただ前を見る。
「次は、あちらです」
「了解。案内お願い」
楽しそうな声が、すぐ横で返ってきた。
並ぶ距離は、最初より、ほんの少しだけ近かった。




