第16話 自白書面②―トビアスの葛藤―
その日の帰り道だった。
いつもより少し遅くなっただけなのに、通りは妙に静かだった。足音が、自分のものだけやけに響く。
「――そこの君」
不意に、背後から声をかけられる。
反射的に振り返ると、男が一人立っていた。見覚えのある顔だった。
いや、見間違えるはずがない。
先日、上司と一緒にいた男だ。
やはりこの男の顔、ベルニエ商会の代表であるラウル氏に間違いない。
「なにか?」
喉がわずかに渇くのを感じながら、言葉を返す。
男は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「賢い人間はね。余計なことを覚えていないものだ」
穏やかな声だった。
だが、その奥にあるものを直感で理解してしまう。
「行政庁の仕事は、長く続けたいだろう?」
言葉は柔らかい。けれど、逃げ場はどこにもなかった。
返事ができない。ただ、うなずく以外の選択肢はなかった。
それを確認すると、男は満足したように一歩下がった。
「それでいい」
それだけ言い残して、背を向ける。足音が遠ざかり、やがて完全に消えた。
トビアスは、しばらく、動けなかった。
冷たい空気が、やけに重く感じる。胸の奥で、はっきりと形を持つ。
ただの偶然じゃない。これは関わってはいけない『何か』だ。
それでも……
(本当に、それでいいのか?)
消えかけたはずの違和感が、今度は確信に近い形で残り続けていた。
その日から、ずっと視線を感じる。
職場では上司からの視線。外でも誰かに見られているような気がする。
それに、今のままでよいのかという自分を第三者的に見つめる自分自身。
上司の目を盗みながら、過去の資料を少しずつ集める。
(……違和感は、これだったのか)
あの商会は、橋の修復工事という1つの案件を、橋の基礎工事、橋の補強工事、橋周辺の整備と、細かく分割して別々の契約にしている。
(それぞれ、少しずつ水増しをしている……)
すべてを合計すると、異常に高い。あの男だ……。
過去のベルニエ商会が受注した公共事業の資料も調べてみよう。
そう思い、トビアスは、過去の記録を引っ張り出し、資料をめくる。
(あの建物の修復工事も、ベルニエ商会だったのか……)
資料を軽く確認しただけでも、ベルニエ商会が数多くの公共事業を請け負っていることはすぐに分かった。特に、ここ数年は、大型案件の入札を次々と勝ち取っている。
「何を見ているんだい?」
「……!」
振りかえると、上司のグレインがトビアスを見下ろしていた。
「ずいぶんと、ベルニエ商会が気になるようだな」
「いえ。すみません。何でもありません」
今日は上司が休みと聞いていたので、慎重さが欠けてしまっていた。
心臓がドキドキと脈打つ。
あれから1週間経った。
上司の様子は変わらなかった。
最初のうちは、何を言われるかとビクビクしていたが、大分落ち着いてきた。
(このままでは良くない。これは調査すべきではないだろうか)
段々と思考が正常になる。明日、財務監査部に相談をしにいこう。
そう思いながらの帰り道。
「少しいいか」
背後から声をかけられた瞬間、腕を捕まれた。
「っ、何を――」
振りほどくまもなく、そのまま路地へ引き込まれる。狭い裏通り。灯りは弱く、逃げ道は見えない。
壁に押しつけられ、ようやく相手の顔が見えた。先日、上司と一緒にいた男。ベルニエ商会の代表のラウルだ。
「たいした話ではない」
落ち着いた声だった。だが、捕まれた腕の力は緩まない。
もう一人、トビアスの背後に気配がある。いつの間にか、退路は塞がれていた。
「手荒なまねをしてすまなかったね」
トビアスの背後から現れたのは、上司のグレインだった。
「……! グレイン殿! こ、こんなこと許されませんよ!」
「ずいぶん、威勢のいい部下を持っているのですね」
「すみません。ご迷惑おかけして」
そう言うと、グレインは、そばに置いてあった木箱を積み重ねる。
そして、木箱の上に、紙を1枚。
すでに用意されたように、整った書面。
「署名するだけでいいんだ」
トビアスは、グレインから短く告げられる。
震える指で、文字を追う。
『――本件に関する記録の確認を行ったが、不正は認められなかった。』
息が詰まった。
「こんなもの――」
「事実だろう?」
グレインが、かぶせるように言う。
「君は、何も見ていない。そういうことにしておけばいい」
穏やかだ。ただ、その言葉には選択肢がなかった。
「行政庁の仕事は大事にしたいだろう?」
喉が渇く。声が出ない。
目の前の紙と、差し出されたペン。
ほんの少し手を伸ばせば、それで終わる。終わるはずなのに、手を動かすことは出来なかった。
「グレインさん。この人、危ないんじゃないですか? 信用出来ますか?」
ラウルがトビアスを指さしながら、グレインに言う。
「……君のため思って言っている。書きなさい」
トビアスは、動けずに震えたままだ。そんな様子を見て、書くのを拒んでいると思ったのだろう。
ラウルが別の書面を出してきた。
「グレインさん。やはり、このくらいの書面を書かせないと抑止力ないですよ」
「……分かりました。トビアス、書きなさい」
グレインはラウルが出してきた書類を見て、ため息をつきながら、トビアスの前に差し出した。
新たに出された書面。
『――横領をしたのは私です』
「……な、なんですか! これは!」
「これに署名をすれば、君も共犯者だということだ」
ラウルが肩をすくめながら言う。
「そんなの……書くはずないじゃないですか!」
「それくらいの書面を書いてもらわなきゃ、君は誰かに言ってしまうだろう?」
そう言うと、ラウルは懐から封筒を出してきた。
「書けば、このお金を君の物にしようじゃないか」
逃げ道はないのか。トビアスがただ震えていると、ラウルがしびれを切らして、声色を強めた。
「出来る部下と聞いていたが、賢い選択も出来ないのか?」
「……」
目の前にペンを差し出された。
「君一人の問題ですむと思うか? ご両親へ仕送りもしているのだろう? お父様はフェルディン男爵だったっけ? 小さくても領地経営は大変だろう」
ラウルが流れるように話す。トビアスは身体をこわばらせながら聞くしか無かった。
「そういえば、今度、隣町と繋がる街道を整備しようと計画しているそうじゃないか……男爵領だけでは負担できない規模だから、国への支援を求めようとしているとか」
トビアスは、思わず息をのんだ。
全て調べられている。
男爵領の街道整備は、流通改善のために、いま父と兄が一番力を入れて計画をしていることだ。
「これを書けば……街道整備もうまく行くだろう」
震える指でペンを受け取る。紙の上にペン先が触れる。
ためらいを押し殺すように、名前を書いた。線はわずかに歪んでいた。
ラウルが、トビアスの人差し指にインクを押し当てる。
なされるがまま、力を抜く。ラウルが、署名の横に、トビアスの指を押し当てた。
書類に赤い指紋がつく。
「グレインさん。これからもよろしくお願いしますね」
ラウルが紙を一瞥し、満足したようにうなずく。
そして、ラウルは、その紙をグレインに預けた。
「君には、約束通り、これね」
そう言うと、ラウルは、トビアスのポケットに封筒をねじ込んできた。
そして、そのまま闇夜に消えていった。
「トビアス。今日までのことはすべて忘れろ。明日はゆっくり休め。私が手続きしておくから気にするな」
「……」
「出世するのには、キレイなままでは無理なこともあるんだ。お前もいずれは分かるよ」
そういいながら、グレインは背中を軽くたたいてきた。
「あいつからの金は手をつけなくてもいい。今日はこれで飲みにでも行ってこい」
グレインはトビアスの手に、銀貨数枚を握らせ、その場を去って行った。
◇
誰かに言ったら、自分が横領をしたとの濡れ衣を着せられてしまう。
このまま何事もなかったように過ごすのが良い。
流通さえ改善すれば、実家の領地経営も少しは楽になるかもしれない。
今はまだ領地経営は苦しい。しかも、弟や妹もいるから、自分が稼がなければならない。
けれど――今のまま、不正を見過ごすことは許されない。
トビアスの中で、二つの意見を述べる自分が戦い、いつも勝負がつかない。
どちらにも態度を決めることが出来ないまま、1ヶ月が経過した。
「おはよう。トビアス」
「あぁ、おはよう」
出勤したトビアスに同僚が声を掛けると、軽くため息をつく。
「はぁ……アルト商会、潰れちゃったんだよ。あそこの親父、紳士的で真面目だったから残念だよ」
「アルト商会が?」
「あぁ。昔は、よく公共事業の仕事もあったから、お付き合いもあったんだけどなぁ。最近は、ベルニエ商会ばかりだから、段々と仕事が減っちゃったみたいだな」
「ベルニエ……」
「あぁ。そういえば、今度の公共事業も、ベルニエ商会が契約勝ち取ったんだよな。イケイケだよなぁ」
「……」
アルト商会が潰れた。
ベルニエ商会が契約を勝ち取ったのは正式な形ではない。上司と癒着しているからに違いない。
自分が黙っていたせいで、アルト商会が潰れた。
直接的な関係はないかもしれないが、そう思えて仕方なかった。
これ以上、黙っていれば、他の被害者が出る。本当に今のままでいいのか。
無理やり頭の片隅に追いやっていた良心が、再び頭の真ん中に出てきた。
「今のままじゃダメだ……」
トビアスは自分自身に言い聞かせるように、小さくつぶやいた。




