第10話 借用書①―紛失したハンコ―
ルーカス様の事件以降、ちょこちょことハンコ作成の仕事が入るようになった。
ハンコの恐ろしさを感じた人がそれなりにいたようだ。
私は、すこし忙しい毎日を送っていたが、作業は好きなので苦ではなかった。
毎日、朝から晩まで、小刀を握り、文字やデザインを彫る。
そんないつもの変わらない毎日。そして、たいてい毎週末には、これも、いつもと変わらず、ルーカス様が食材を持ってやってくる。
「ミラ。たまには外に遊びに行かないかい?」
「結構です」
「外に行ったら、良いデザインのアイディアが思いつくよ?」
「……考えておきます」
(ルーカス様。誘い方がうまくなってきたわね。でも、外に行くのは面倒だわ)
◇
あるとき、一人の侯爵夫人がお客として工房にやってきた。
「すごく細かくて素敵なデザインのハンコを彫ってくださると聞いてきたの」
「ありがとうございます。では、こちらにご希望のデザインをご記入ください」
侯爵夫人は、希望のデザインと名前を記入しながらもお喋りが止まらない。
「あなた、あのヴァルデン子爵令息様が騙された事件を解決したのでしょ?」
「ヴァルデン子爵……ルーカス様のことですね。えぇ。まぁ」
「あんなことが起こるなんて、本当怖いわよね。うちの子どもも勝手に結婚させられていたらどうしようって不安だったわよ」
「……そうですね」
「婚姻届けを受け取った行政庁も、疑わないものなのね。本当に怖いわぁ」
侯爵夫人はお喋りに夢中で、ペンを持つ手も止まっている。
お喋りに付き合うことで、彼女に似合ったデザインのアイディアが浮かぶかもしれないという気持ちと、早く記入してくれないかなという気持ちがぶつかりあう。
「それにしても、私って、ほらすぐなくすでしょ。だから、あなたの作る素敵なハンコだったら、今度こそなくさないで大事にするのではないかなって思うのよ」
「はぁ……え? なくす?」
侯爵夫人は、さらりと聞き捨てならないことを言った。
「えぇ。もう嫌になっちゃうわ。今回も今まで使っていたハンコが、見当たらないのよ」
「ハンコをなくされた、ということですか?」
「そうなのよ! でも、ちょうど、ここのハンコの噂を聞いていたから、ちょうどいい機会だって思ってね」
「ちゃんと届け出ましたか?」
「わざわざ届け出ないわよぉ。だって、いつものことですもの」
「ダメです!」
私の突然の大きな声に、侯爵夫人も驚いている。
「ひっ!」
「あ、すみません」
私は、コホンと咳払いをして、侯爵夫人に言った。
「ハンコをなくしたけど、届け出ていない、ということですよね」
「えぇ、そうよ。私って、しょっちゅう、なくし物をするから、主人にも『また無くしたのか』って怒られるのよ」
「怒られるのは当然として、きちんと届け出ないとダメです」
「面倒じゃないの」
「だ・め・です!」
私の迫力に、侯爵夫人のお喋りの口が止まった。
「まず、今すぐに、王宮行政庁に行って、いつ、どこで、どのようなハンコをなくしたのかを話さなければダメです!」
「……そうなの?」
「今すぐ行きましょう。一緒に付き添います」
「え、ええ? まぁ、わかったわ」
◇
「ミラ! まさかここで会えるなんて!」
弾かれたように声をあげたルーカス様に、周囲の視線が一斉に集まる。
「ルーカス様、こんにちわ」
私が軽く頭を下げると、ルーカス様は、ぱっと表情を緩めて歩み寄ってきた。今にも尻尾を振り出しそうな勢いである。
「今日はどうしたんだい? 行政庁に来るなら言ってくれればいいのに!」
ルーカス様がさらに言葉を続けようとすると、侯爵夫人が割って入ってきた。
「あら、ヴァルデン子爵令息様じゃないの! 間近で見ると、本当に男前ね! 今度うちの夜会にお呼びしてもよいかしら?」
侯爵夫人がグイグイとルーカス様に近づく。
「……! ミラ。こちらのご婦人は?」
ルーカス様が、侯爵夫人の圧に押されて、のけぞっている。
「ベアトリス侯爵夫人です。私のお客様です」
「ベアトリス・レ―ヴァン侯爵夫人と申します。この前は、災難だったわねぇ。うちは、あの公爵家とは、あまりお付き合いしないようにしていたのだけど。まさかねぇ」
侯爵夫人の話が止まらない。ルーカス様はどう対応して良いのか分からないようで、タジタジとなっている。
「ベアトリス夫人! 紛失の報告をしにいきましょう。ルーカス様もお仕事中ですし」
「あ、あぁ。そうだったわね!」
私は、侯爵夫人の注意を無理矢理こちらに向けさせた。
ルーカス様は『紛失』という言葉を聞くと、引き締まった表情となった。
「何かを無くしたのか?」
「はい。ベアトリス夫人がハンコをなくしたので、その紛失を報告しに行くのです」
「私は、そこまでしなくて良いって言ったのですけどね。この子が絶対っていうのよ」
ルーカス様は、なるほど、という顔をした。
「なくしものなら、この建物の1階に遺失物受付所があるよ。そこまでお連れしましょう」
「ありがとうございます。ただ、今回は、きちんと記録してもらいたいのです」
「記録か。なるほど。それだと、文書局に行って記録官に願い出るといい」
「わかりました。ベアトリス夫人。文書局に行きましょう」
「僕も一緒に行こう」
私たちは、ルーカス様に案内されながら文書局に行った。
そして、記録官に、ハンコを紛失したことを記録してほしいと伝えた。
「ハンコを紛失した日時などを記録したい……ということですか?」
記録官は少し戸惑っている。
「あまり、この程度で記録局に持ち込まれることってないのですが……」
記録官は、あまり気乗りがしないようである。
「それに、費用がかかりますよ。新しいハンコを買った方がお安いかも知れない」
「ベアトリス夫人。費用は問題ございませんよね?」
「え? え、えぇ。それはいいけど。やはり大げさではないのかしら?」
私は侯爵夫人の了承を得たといわんばかりに、記録官に話しかけた。
「費用は大丈夫です」
侯爵夫人は、私の強引さに少し引いているようであった。
「記録の申出があれば、拒否出来る例外はないはずだが?」
ルーカス様が低い声色で短く告げる。私の前で見せていた子犬のような表情とは打って変わり、引き締まり、隙の無い文官の顔になっている。
記録官は、ルーカス様をチラリと見て、小さくため息をついた。
「まぁ、確かにそうですね。分かりました」
そして、私からの質問に答える形で侯爵夫人が記録官に話し、ハンコの紛失の日時や状況などを記録してもらった。
「では、以上を記録局に保管しておきます。保管期間は10年間となります」
「よろしくお願いします」
「ベアトリス夫人。お時間いただきましてありがとうございます」
「私も記録局というものがあることを知らなかったから面白かったわ。じゃあ、ハンコができあがるのを楽しみにしているわ」
「はい。少しお時間いただくかもしれませんが、素敵なハンコを作りますので」
こうして侯爵夫人は帰っていった。
「ルーカス様。今日はありがとうございました」
「僕は、記録局に連れて行ってあげただけだよ」
「ルーカス様がいらっしゃらなければ、こんなの記録する必要ない、と拒否されていたかも知れません」
「お役に立てたら良かったよ」
ルーカス様はニコニコしている。
「では、失礼します」
「え! もう帰っちゃうの?」
ルーカス様の悲しげな声を無視して、私はその場を後にした。
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