問答無用
でかい。圧倒的な存在規模が悠々と二人に肉薄する。
補食のためか攻撃のためかは分からないが、ぐわりと開かれた口の中には底無しの暗闇が見えた。
目の前の彼女が持つナイフ一本で到底敵う相手じゃない。
こんなところでまだ死にたくはなかった。
なんとかしたくて、でも何もできない。
呆然と前を見据える。
ホルムと呼ばれたその巨体がこちらに激突する寸前。
小さく無機質な瞳と目が合った気がした。
憂いを帯びた虹彩から視線を逸らせない。そして。
突如として辺りに爆発音が響く。
ぶわりと押し寄せる爆風に煽られ背後の壁に叩きつけられそうになるが、彼女が咄嗟に腕を掴んで止めてくれた。
この聞き慣れないキィ――ンという高音は巨大生物の叫び声だろうか。焼けただれた上皮が見るからに痛々しい。
勢いを削がれた怪物は階下の海へずるりと滑り落ちていく。コイツ、ここまで跳び上がってきたのか?
突然の爆発で耳がおかしくなってしまったようだった。収まってももう船の崩壊は目前で、沈むだけでなく発火したらしい床や壁からパチパチと焦げる臭いまでしている。
それでも辺りを静かだと感じた。
腕を伝う彼女の支えが無くなったと同時にかろうじて無事だった足元に膝から崩れ落ちる。
いろんなことが一気に起きすぎて何一つ処理しきれない。
頭がパンクして考えがまとまらない。
床を見つめる目の焦点が合わない。
「ほら、落としてるよ」
……あ、眼鏡。
どうやら怪物に襲われた時に落としていたらしい。そりゃ焦点も合わない。
手渡された眼鏡を再びしっかりと掛け直す。
これが無くては世界が見えない。壊れてなくて本当によかった。
クリアになった視界でもう一度見渡してみる。これは酷い。あんなに積もっていた埃はどこへやら吹き飛んでしまっていた。
こじんまりとした物置が解放感溢れるオープンテラスに劇的ビフォーアフター。これには匠もびっくり。
窓越しだった海はいまや崩落した元壁から遠く見渡せるまでになっていた。
水平線近くに深夜乗船したばかりの港が確認できる。
現状況を再認識したところで別にいい案は浮かばなかった。沈む船、焼ける部屋、海には怪物。
どうしよこれ。
思考停止に陥りかけた自身の手首を誰かが取った。彼女だ。
ぐいぐいと引っ張られて流されるまま行く先にあるのは……壁に開いた穴。血の気が引いた。
出会って間もない彼女の考えていることがなぜだか手に取るように分かる。
分かるので、一旦全力で暴れてみた。解けない。
己の無力を実感するだけに終わった。
体が無理ならと言葉で抗議にかかってみる。
「あのー!引っ張るの止めてもらっていいですか!」
「何故?死にたいのか」
「それはこっちのセリフですよ!この高さから落ちたらいくら下が海でもただじゃ済まないです!」
「このままここに残る方がただじゃ済まないと思うが?せっかく出口を作ってくれたんだ、利用させてもらおうじゃないか」
「こんなとこ出口だなんて思いたくないです!もっと他に何か…………」
「あるのか?他に助かる方法が?」
答えられない。おそらく他に取れる術は無かった。
既に事態は死の一歩手前まで来ているのだ。
腹を括って一か八かで飛び込むしかないのは自明の理であった。それでも駄々を捏ねているのは。
「……まだ下に人がいるんです!アイツが、まだ……!」
彼らの存在を覚えていたから。
せめて言葉に、行動に出して、助けようとはしているのだと誰かに分かってほしかった。
自分には何も出来ないと、理解しながら足掻くのは、そうしなければ罪悪感に押し潰されそうだったから。
はじめから心の奥底には諦めている自分が居て、その姿が表に出るのを恐れていた。
無意識のうちに自身の死と天秤にかけてしまうほどには。
「誰か下にいるのか。友人か?ソイツの名前は?」
「それは……まだ、聞けてなくて……」
聞けなかった。
タイミングとか気にせず聞けばよかった。
半年もあったのに、後悔するには遅すぎた。
「名前も知らない奴相手にそこまで構うか。あんた、随分とお人好しなんだな」
「違います、ほんとに、そんなんじゃ…………」
いい人だなんて思われたくなかった。
頭のどこかで彼らを見捨てる自分が心底嫌いだ。
「……はあ」
少しの間黙りこくった彼女が一つ、ため息をついた。また呆れられただろうか?
見捨てられるのは自分の方だったかもしれない。
それならそれで、別に……
ばちん。
「うぶッ」
顔を挟まれた。
彼女の両手が自分の頬に叩き付けられている。
音から察してそれなりの勢いがあった。ちょっと痛い。
顔をつき合わせて、目があって、彼女はすうと息を吸った。そして。
「いいか?私は死にたくない。このままここに居ると崩落に巻き込まれて間違いなく死ぬ。だからそれより先に海に飛び降りる。かといって目の前のマトモな人間を置いていくほど落ちぶれちゃいない。よってあんたも連れていく。難しいことも何も考えなくていい、考えても意味はない。私は、あんたと、こっから、飛び降りる。分かったな」
怒涛のマシンガントーク。
一息に全てを話しきって彼女は自分の顔から手を放した。
耳を右から左へ通りすぎていく言葉の奔流で考えていたことが押し流されてしまった。
何考えてたっけ?何をどう言ってた?
脳に引っ掛かった最後の方の文章を読み込みなおす。
確か、飛び降りるんだと。
「じゃ、行くよ」
「え」
ガシリと再度掴まれた腕はほどけない。
二人の体が斜めに傾いて、そうしたら。
「ッウワ――――!!!」
落ちる。落ちる。腕を掴む彼女の手に縋りつく。
口閉じた方がいいのかなとか考えている間にも海面はすぐそこまで近づいてくる。
どぼん。
気の抜けた着水音には見合わぬ衝撃を頭に感じて、全身を包む冷たさとともに意識はプツリと途切れた。




