『ホーチミンからのLINEが、私を常夏の恋に連れ去った』
凍てつくような冬の空気と、癒えない失恋の痛み。
北の街から逃げるように戻ってきた冷え切った六畳一間で、もう何も起こらないはずだった「私」の日常は、たった一通のLINEで鮮やかに反転します。
これは、仕事にすり減り、恋に傷ついた32歳の女性が、南国のむせ返るような熱気と、ある男の匂いに突き動かされ、再び立ち上がるまでの「心の爆発」を切り取った物語です。
理性や駆け引きを置き去りにして、身体の奥底から理不尽なほどの生命力が湧き上がってくる——そんな、どうしようもなく生々しくて暴力的な歓喜の瞬間を、どうか一緒に味わってみてください。
北千住のアパートの、薄暗い鉄のドア。
鍵穴にキーを差し込み、ガチャリと回す。その無機質な金属音が、私を決定的に「日常」へと引き戻した。
ドアを開けると、三日分の密閉された空気が、ぬぼっと顔にまとわりついてきた。生活の匂い、排水溝のわずかな湿り気、そして、いなくなった彼氏の幻影がまだほんの少しだけこびりついている、埃の匂い。
「ただいま」
誰に言うでもなく呟き、私は土間にボストンバッグをどさりと落とした。
仙台の冷たくて透明な空気は、もうここにはない。あるのは、暖房の切れた六畳一間の、容赦ない東京の冬の現実だけだった。コートを脱ごうとした、その時だ。
ポケットの中で、スマホが震えた。
ブーッ、と、短く、しかしはっきりとした振動。
画面を見る。LINEの通知。アイコンは、見知らぬ南国のビールのラベル。
『啓太』
心臓が、ドクン、と一つ、とてつもなく大きな音を立てて跳ねた。
画面をタップする指が、かすかに震えている。
『無事、東京に着きましたか? こっちは相変わらずの常夏で、今、汗だくでフォーをすすってます。もしよかったら、今度こっちに遊びに来ませんか?』
その短いテキストの羅列から、むせ返るような熱気と、パクチーの青臭い匂いが、鼓膜を突き破って脳髄に直接流れ込んできたような気がした。
三十度を超えるホーチミン。
バイクの排気ガス。じっとりとした湿度。
私の足元には北千住の冷たいフローリングがあるのに、私の肉体は一瞬にして、赤道に近いその強烈な太陽の下へと引きずり出されていた。
嬉しい。
その感情は、頭で理解するよりも先に、胃袋の奥から熱い塊となってせり上がってきた。
ときめき、なんていう、可愛らしい言葉じゃ足りない。もっとこう、動物的な、血が沸騰するような歓喜だった。三十代の、仕事にすり減り、男に捨てられ、傷だらけになった雌の身体が、「まだ私を欲してくれる雄がいる」「私を呼ぶ声がある」という事実に、歓喜の雄叫びを上げているのだ。
昨夜、仙台の狭いベッドで私を舐め尽くした彼の舌の感触が、ホーチミンのねっとりとした空気の想像と混ざり合い、股の奥がきゅうんと熱く収縮した。
私はコートを着たまま、床にへたり込み、スマホを両手で握りしめた。
海外なんて、大学の卒業旅行で韓国のソウルに行ったきりだ。あの時は二月の極寒で、凍えながら明洞で屋台のトッポギをハフハフと食べた。キムチと、冷たい風の記憶しかない。
熱帯の国なんて、未知の領域だ。
でも、だからこそ、血が騒いだ。
『無事に北千住の自宅に着きました! ホーチミン、すごく行きたいです。絶対に行きます』
考えるより先に、指が画面を叩いていた。駆け引きなんてクソ食らえだ。行きたい。あの熱い場所で、もう一度彼に会いたい。彼の匂いを嗅ぎたい。
すぐに既読がつき、返信が跳ねてきた。
『本当!? 嬉しいな。いつ頃がいいですか?』
『啓太くんの都合のつく日であれば、いつでもいいよ!』
『じゃあ、思い切って来月はどう? 3月。こっちは乾季で一番過ごしやすい時期だから』
『3月! 行きます。チケット取ります』
なんて軽快なんだろう。
ポンポンと、まるで卓球のラリーのように言葉が弾む。五年間付き合った元彼とは、週末のデートの予定を立てるのすら、お互いの顔色を窺って重苦しい空気が漂っていたのに。
今の私と啓太の間には、仙台の夜で共有した「体液」という最強のパスポートがある。言葉なんて、ただの確認作業にすぎなかった。
三月。一ヶ月後。
スマホの画面を閉じると、さっきまで薄暗くて寒々しかった六畳一間が、急に全く違った景色に見え始めた。
この部屋はもう、失恋を嘆くための墓場じゃない。熱帯への渡航を準備するための、ベースキャンプだ。
私はボストンバッグを放り出したまま、スマホで『ホーチミン 観光』『ホーチミン 三月 気温』と狂ったように検索を始めた。
画面いっぱいに広がる、極彩色の世界。
黄色い壁の郵便局、教会の赤レンガ、山積みにされた南国のフルーツ、そして、川の濁流のように道路を埋め尽くす無数のバイク、バイク、バイク。
三月の平均気温、三十四度。
「あつい……」
思わず声が出た。
想像しただけで、脇の下からじわりと汗が滲むような気がした。
私は立ち上がり、クローゼットを勢いよく開けた。
そこには、分厚いウールのコートや、黒やグレーのニットばかりが、冬の重たい空気を吸い込んでぶら下がっている。
私はそれらを両手でかき分け、クローゼットの一番奥、衣装ケースの底を漁った。
あった。
何年も前に買ったきり、着る機会のなかった、目の覚めるようなターコイズブルーのサマードレス。薄いコットン生地。肩紐だけの、背中が大きく開いたデザイン。
それを引っ張り出し、冬の服の上に当ててみる。
鏡を見る。
そこには、まだ冬の顔をした三十二歳の女が、不釣り合いな夏服を抱きしめて立っている。でも、その瞳の奥には、確かな火が灯っていた。
一ヶ月後、私はこれを着て、彼の前に立つ。
大量の汗をかいて、フォーのスープを飲み干して、冷たいサイゴンビールを喉に流し込む。そして、あのねっとりとした熱帯の夜風の中で、また彼と抱き合うのだ。
外からは、北千住の飲み屋街から漂う焼き鳥の匂いが、換気扇を通して微かに流れ込んできている。
でも、私の鼻腔を満たしているのは、もう日本の冬の匂いじゃなかった。
ナンプラーの塩気。熟れすぎたマンゴーの甘い腐臭。そして、啓太の首筋の匂い。
私の中で、何かが完全に切り替わった音がした。
私はスマホを手に取り、航空会社のアプリを開いた。
羽田発、タンソンニャット国際空港行き。
北千住の、暖房の効いていない冷え切った部屋のど真ん中で。
私の、血湧き肉躍る「ホーチミンへの逃避行」の準備が、今、猛烈な熱を帯びて始まったのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この物語では、容赦ない日本の冬の「冷たさ」と、まだ見ぬホーチミンの「熱気」という極端なコントラスト、そして、頭で考えるよりも先に本能が目覚めてしまう大人の恋の始まりを描きました。
重苦しい過去の恋愛から抜け出し、ただ「あの熱気の中に飛び込みたい」「彼の匂いを嗅ぎたい」と渇望してターコイズブルーのドレスを引っ張り出す主人公の姿に、少しでも胸を熱くしていただけたなら、これほど嬉しいことはありません。
彼女が無事に熱帯の空気を胸いっぱいに吸い込み、冷たいサイゴンビールで喉を潤すその瞬間を、どうか一緒に想像していただければ幸いです。




