『空っぽの胃袋が、生きろと鳴った』
失恋の傷を癒すのは、綺麗な言葉ではなく圧倒的な「肉体」の感覚なのかもしれません。本作『血と胃袋』は、仙台へ逃避行した三十代の女性が、肌の記憶と食欲という人間の根源的な営みを通して、自分の輪郭を取り戻していく一夜明けの物語です。泥臭くも力強い「生」のエネルギーを、彼女の足音とともにお届けします。
御宿 野乃仙台の朝食会場は、朝の光に満ちていた。
私は自分の胃袋が、信じられないほど空っぽになっているのを感じていた。木製のトレイを持ち、小鉢を次々と乗せていく。いくらのかけ放題、笹かまぼこ、焼き鮭、そして炊きたての白いご飯。普段の私なら絶対にこんな量は食べない。でも、今の私は、食べたかった。猛烈に。
ご飯の上に、ルビーのように光るいくらを山盛りに乗せる。口に運ぶと、プチプチとはじけて、濃厚な海の味が粘膜に広がった。咀嚼する。飲み込む。胃が熱くなる。
(生きている)
ただ、それだけだった。昨夜、私はあのビジネスホテルで、自分の内側にあるどろどろとした感情を、啓太という見知らぬ男の肉体に向かって全部吐き出した。そして、彼から別の熱を受け取った。その激しいエネルギーの交換が、私を空っぽにし、同時にものすごい飢餓感をもたらしていた。
『血と胃袋』
午前十一時。
『御宿 野乃仙台』のフロントでボストンバッグを預け、私は再び仙台の街へと飛び出した。
「いってらっしゃいませ」
ホテルスタッフの完璧な笑顔に見送られ、自動ドアを抜ける。
太陽は高い位置にあるのに、風は容赦なく私の頬を叩いた。でも、嫌じゃない。むしろ、その刃物のような冷たさが、私という輪郭をくっきりと縁取ってくれるようで、心地よかった。
ホテルを出て、広瀬通の横断歩道を渡り、東二番丁通へと出る。
目指すは「電力ビル前」のバス停だ。
歩道の脇には、冬枯れしたイチョウの木が等間隔に並んでいる。コートのポケットに両手を突っ込み、アスファルトを踏みしめる。歩くたびに、股の奥にある小さな違和感が鈍く主張する。あそこが擦り切れている。私の肉体が、三十代のただの広告代理店の女の肉体ではなく、昨夜確かに激しく交尾をした「雌」の肉体であることを、その小さな痛みが絶えず教えてくれる。
でも、不思議と感傷はなかった。彼の顔はもう、薄ぼんやりとした輪郭しか思い出せない。代わりに私の中にあるのは、「番った」という圧倒的に生物的な事実だけだった。彼は彼の生命を燃やし、私は私の生命を燃やした。今はただ、自分の足の重みと、じんわりと内側から湧き上がる熱だけが、強烈にリアルだった。
電力ビル前のバス停には、数人の人が並んでいた。
厚手のダウンを着たおばあさん、スマホを見つめる高校生。私は彼らの後ろに並び、白い息を吐きながらバスを待った。
やがて、大きな車体を揺らして市営バスが滑り込んできた。プシュー、とドアが開く。
ステップに足を乗せ、ぐっと太ももに力を入れる。車内は暖房が効きすぎていて、人の熱気と、ホコリと、古いモケットシートの匂いが混ざり合った、独特のむせ返るような空気が充満していた。
私は最後尾の座席に腰を下ろした。
バスが走り出す。ガタガタという振動が、座席から私の尻へ、そして背骨へと直接伝わってくる。
窓の外を、仙台の街が流れていく。
アーケードの入り口、デパートの看板、スーツ姿の男たち。それらがすべて、私とは無関係な、ガラス一枚隔てた向こう側の景色として通り過ぎていく。私はただ、この揺りかごのような振動に身を任せ、自分が一つの「肉の塊」として運ばれていくのを感じていた。
「次は、東照宮一丁目、東照宮一丁目です」
アナウンスが響き、私は降車ボタンを押した。
バスを降りると、そこはもう駅前の喧騒から離れた、静かで生活の匂いがする住宅街だった。
冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み、歩き出す。
五分ほど歩くと、突然視界が開け、巨大な石鳥居がそびえ立っているのが見えた。
仙台東照宮。
鳥居をくぐり、長く急な石段を見上げる。
一段、また一段と踏みしめる。太ももの筋肉がギュッと収縮し、血液がドクドクと送り出されるのを感じる。息が上がる。肺に冷たい空気が流れ込み、白い息となって吐き出される。
ふくらはぎがパンパンに張る。
登り切った先には、荘厳な社殿がどっしりと座っていた。
周囲を囲む木々は冬枯れしているけれど、その太い幹に触れると、地中深くから水を吸い上げる微かな振動が伝わってくるようだった。
死んでいない。ただ、春に向けてエネルギーを内側に溜め込んでいるだけなのだ。
私も同じだ。
お賽銭箱に硬貨を投げ入れ、手を合わせる。
神様にお願いすることなんて、何一つなかった。恋愛成就も、心願成就もいらない。ただ「私は、生きています」と、それだけを腹の底から宣言した。
その時だった。
きゅるるるるっ。
私のお腹が、周囲の静寂を切り裂くような、とんでもなく大きな音を立てて鳴ったのだ。
「……っ!」
恥ずかしさよりも先に、おかしさが込み上げてきた。神前で、こんなどん欲な音を鳴らすなんて。でも、これが私だ。失恋して傷ついて、男と寝て、神様に挨拶をして、そして腹を空かせる。なんて滑稽で、なんて愛おしい「いきもの」なんだろう。
私は東照宮を後にし、スマホの地図を頼りに歩き出した。
冷たい風の中を十分ほど歩き続けると、大通り沿いにひっそりと佇むお店が見えてきた。
『海味家』。
控えめな看板。中に入ると、コの字型のカウンター席と、壁には所狭しと魚拓が飾られていた。海の男の匂いがする、無骨で温かい空間。
「いらっしゃい!」
店主の元気な声が響く。私はカウンターに座り、「海味家らーめん」と、「ミニカレー」を頼んだ。ネットで調べた時、この店はラーメン屋なのにカレーが絶品だと書いてあったのだ。今の私は、どっちも猛烈に欲していた。
やがて、目の前に湯気を立てるどんぶりが置かれた
。
「いただきます」
まずはスープを一口。
「あ……っ」
カニ、ホタテ、あさり、削り節。海の生き物たちの強烈な旨味が、波のように押し寄せてくる。そして、どんぶりを覆い尽くすほどの、めかぶと岩海苔。
麺をすする。手もみの自家製太麺が、ちゅるるっ、と喉の奥へと滑り込んでいく。めかぶの粘り気が麺に絡みつき、磯の香りが鼻腔を突き抜ける。
うまい。たまらなく、うまい。
私は無心でどんぶりに向かった。海の命を、私という胃袋に流し込んでいく。ズルズル、と音を立ててすする。行儀なんてどうでもいい。
そして、カレー。
スプーンですくって口に入れると、今度は強烈なスパイスの香りと辛さが爆発した。
「辛っ……でも、うまっ」
濃厚で、ドロドロしていて、スパイシー。ラーメンの海の旨味と、カレーの大地の辛さが、私の体内で激しくぶつかり合う。
額から、じわっと汗が滲み出た。
鼻の頭にも汗の粒が光る。
食べる。咀嚼する。飲み込む。汗を拭う。
私は、全身の毛穴を開いて、この圧倒的な「食」のエネルギーを吸収していた。細胞の隅々までが歓喜の声を上げている。
「ごちそうさまでした!」
スープの一滴まで飲み干し、どんぶりを空にした私は、店主に明るく声をかけた。腹の底から、底知れぬ力が漲っていた。
午後一時過ぎ。
私はバスで仙台駅へと戻り、『御宿 野乃仙台』でボストンバッグを受け取る。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
フロントの女性の言葉に、私は「はい、必ず」と力強く頷いた。
東北新幹線・はやぶさ。
緑色の車体に乗り込み、シートに深く腰を沈める。
窓の外を、仙台の街が飛ぶように過ぎ去っていく。
東京へ帰る。
彼氏にフラれて、逃げるように乗った下りの新幹線。あの時の私は、中身が空っぽの、ただの抜け殻だった。
でも今は違う。
私の胃袋には、海味家のラーメンとカレーがぎっしりと詰まっている。
下半身には、誰かと肌を重ねた確かな痛みが残っている。
足の裏には、東照宮の石段を踏みしめた時の重力が記憶されている。
私は、満ち足りていた。
やがて、車内アナウンスが上野駅への到着を告げた。
新幹線を降り、常磐線に乗り換える。
夕暮れ時の車内。疲れた顔でスマホを見つめる人々。東京の、重くて乾いた空気。
北千住駅。
改札を抜けると、いつもの暴力的なまでの雑踏が私を待っていた。
ルミネの眩しいネオン。飲み屋街から漂う焼き鳥の煙。行き交う無数の靴音。
私はペデストリアンデッキの真ん中に立ち、大きく息を吸い込んだ。
排気ガスと油の匂いが、肺の奥まで入り込む。
「……帰ってきた」
声に出して呟く。
彼氏がいない北千住。明日からまた、広告代理店の進行管理としてすり減る北千住。
でも、もう怖くない。
私は、ボストンバッグの持ち手をギュッと握り直した。
私という肉体は、こんなにも熱く、図太く、生きている。どんなに傷ついても、何度でも腹を空かせて、メシを食って、息をして、前に進んでいくのだ。
私は歩き出した。
行き交う人々をかき分け、アスファルトを力強く蹴り上げる。
私の中から発せられる熱気が、東京の冷たい冬の空気を、ほんの少しだけ押し除けたような気がした。
いかがでしたか。悲しみで心が空っぽになっても、お腹は空き、体は明日へ向かう。そんな生き物としての図太さこそが、私たちが日々を生き抜く最大の武器なのだと思います。北千住の雑踏へ戻った彼女のように、傷ついても何度でも腹を空かせて、またそれぞれの現実を歩いていきましょう。まずは、美味しいものを食べて!




