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『はだかのにおい』

東京での息の詰まるような日常と、心をすり減らす失恋。逃げるように辿り着いた冬の仙台で、三十二歳の沙織は、見知らぬ男と一夜を共にした。それは決して美しいだけの恋物語ではない。生々しい体温と匂い、剥き出しの欲望が交錯する密室での出来事。しかし、そのどうしようもなく動物的な行為こそが、凍りついていた彼女の細胞を叩き起こしていく。これは、傷ついた女性が冬の冷気と熱い湯の中で「私」を取り戻す、再生の朝の記録。

仙台の朝の空気は、刃物のように鋭く、そしてどこまでも透明だった。


朝の六時。


彼が泊まっている、駅前の無機質なビジネスホテルの自動ドアを抜けた瞬間、暴力的なまでの冷気が私の全身をビンタした。頬がひりつき、鼻の奥がツンと痛む。でも、それがたまらなく気持ちよかった。


「ああ、冷たい」


声に出すと、白い息が空に溶けていった。

コートのポケットに突っ込んだ右手で、冷え切ったスマホを握りしめる。昨夜、いろは横丁のバーで、アルコールの熱に浮かされるまま交換した彼のLINE。アイコンは、どこか南国の見知らぬビールのラベルだった。まだ一度もメッセージのやり取りをしていない、真っ白なトークルームを開く。

凍える指で、画面を叩いた。


『ありがとう、気をつけて』


たった十文字。


それだけ打って、送信ボタンを押す。既読はつかない。彼は八時にチェックアウトして、午前便の飛行機でベトナムへ帰る。だから私は、彼が寝返りを打った隙に、そっとベッドを抜け出してきたのだ。目を覚ました彼を前にしたら、気の利いたお別れなんて言えそうになかったし、うっかり「行かないで」なんていう安っぽい未練を吐いてしまいそうだったから。


下半身には、はっきりと、いや、生々しいほどの違和感が残っていた。股の奥が、ずんと重い。歩くたびに、自分の内側の柔らかな粘膜が擦れ合い、昨夜の彼の質量と温度を思い出させる。痛いような、くすぐったいような、なんとも言えない鈍い疼き。それは、私が「女」という肉体の塊であり、昨夜たしかに一匹の獣として交尾をしたのだという、確固たる証拠だった。


冷たい風に吹かれながら、私は自分の泊まっている「御宿 野乃仙台」へと歩を進めた。


街はまだ眠っている。カラスの鳴き声と、遠くを走るトラックの低いエンジン音だけが、薄暗い空に響いている。東京の、あの息の詰まるような雑踏とは全く違う、清々しい孤独。私は今、最高に一人だ。恋に破れ、北千住から逃げ出し、見知らぬ男と寝て、冬の仙台を歩いている。その事実が、どうしようもなく私を強烈に「生かし」ていた。細胞の隅々までが、ピカピカと明滅しているような感覚だった。


宿に戻ると、フロントのスタッフが「おかえりなさいませ」と、昨日と変わらぬ完璧な笑顔で迎えてくれた。


その笑顔の眩しさに、少しだけ胸がチクリとした。この人は知らない。目の前に立つ三十代の女が、ついさっきまでよそのホテルで男とどろどろに絡み合っていたなんて。


靴を脱ぎ、館内の畳を裸足で歩く。足の裏から伝わるイグサの感触が、昨日よりもずっと生々しく感じられた。私の身体の表面は、今、彼のものでコーティングされている。


部屋に戻るなり、私はタオルを掴んで最上階の大浴場へ向かった。


本当は、洗いたくなかった。


脱衣所で服を脱ぎ、鏡の前に立つ。三十二歳の、私の身体。胸のあたりには、うっすらと赤い痕が残っていた。首筋からは、微かに彼がつけていた柑橘系の香水と、汗と、そして明らかな「精液」の匂いがした。私の匂いと彼の匂いが混ざり合った、酷く動物的で、淫らな匂い。


この身体を、お湯で流してしまうのがもったいない。


東京でガチガチに鎧を着込んで「ちゃんとした大人」をやっていた私が、彼のおかげで、ただの血と肉と水分の集合体に戻れたのに。この匂いを石鹸で洗い流してしまったら、またあの、カサカサに乾燥した「相沢沙織」に戻ってしまうのではないかという恐怖があった。


それでも、私は浴室の扉を開けた。

湯気が立ち込める空間には、まだ誰もいなかった。掛け湯をして、ゆっくりと、本当にゆっくりと、露天風呂の湯船に身体を沈める。


「……あぁっ」


熱いお湯が、冷え切った皮膚を刺し、そしてじんわりと包み込む。股の奥の違和感が、お湯の温度と混ざり合って、また別の快感へと変わっていく。


目を閉じる。


湯気に巻かれながら、私の脳裏には、一時間前の、あのビジネスホテルの密室での出来事が、極彩色で蘇ってきた。


***

いろは横丁のバーを出た後、私たちは何も言わずに歩き、そのまま彼のホテルに入った。


狭い部屋。シングルベッドが部屋の半分を占領している、いかにも出張用の部屋。


ドアが閉まり、オートロックの冷たい金属音が響いた瞬間、私たちはもう、どちらからともなく激しく求め合っていた。


バーでの知的な会話も、三十代特有の諦観も、全部どうでもよかった。


彼は私のコートを剥ぎ取るように脱がせ、ベッドに押し倒した。シュッとしていた彼の姿はそこにはなく、ただ飢えた雄の顔があった。


「沙織ちゃん……沙織ちゃん」


彼は私の名前を何度も呼びながら、首筋に顔を埋めた。


彼は、舐めるのが大好きだった。


本当に、驚くほど執拗に、そして慈しむように、私の身体のありとあらゆる場所を舐め上げた。


「そんな、汚いから……」


私が恥じらって身体をよじると、彼は「汚くないよ、綺麗だ、全部綺麗だ」と呟きながら、私の言葉を塞ぐように唇を重ねた。彼の舌は、ウイスキーの苦味と、彼の内側の熱を帯びていて、私の口内を隅々まで味わい尽くそうとする。唾液が絡み合い、チュッ、チュル、という生々しい水音が静かな部屋に響いた。


キスだけじゃない。


彼は私の服を一枚ずつ剥ぎ取ると、まるで神聖な儀式でも行うかのように、私の鎖骨を、乳房を、お腹のカーブを、丁寧に、丁寧に舐めていった。彼の舌の感触は、ザラザラしていて、熱くて、そしてとてつもなく柔らかかった。


「あ……っ、ん……」


私の口から、自分でも聞いたことのないような甘い声が漏れる。


彼の顔が、私のお腹を滑り降り、そして、私の最も柔らかく、秘められた場所へと沈み込んだ。


「……っ! 待って、そこは……!」


ビクン、と身体が跳ねる。

でも、彼はやめなかった。両手で私の太ももをしっかりと掴み、ガバッと脚を開かせると、その熱い顔を私の股間に埋めたのだ。


「は……っ、あ、ああっ……!」


彼の舌が、私の蕾を捉える。ぞわぞわと鳥肌が立ち、頭の中が真っ白になった。


彼はただ機械的に刺激するのではなく、本当に私を「味わって」いた。ジュルッ、という露骨な音が響く。彼が息を吸い込み、私の蜜を啜る音が、鼓膜を直接震わせた。恥ずかしい。恥ずかしいのに、どうしようもなく気持ちいい。


東京で、私はずっと自分をすり減らしていた。「もっと頑張らなきゃ」「もっと愛されるように努力しなきゃ」。前の彼氏には、いつもどこか遠慮していた。でも、目の前の啓太は違う。私のコンプレックスも、三十代のたるみ始めた肉体も、心の傷も、全部まとめて舌で掬い取り、飲み込んでくれようとしていた。


彼の舌が、粘膜のひだを割り、奥へ奥へと探りを入れてくる。


「いい匂いだ……すごく濡れてる。沙織ちゃん、感じてる?」


顔を上げた彼の口元は、私の愛液でテカテカに光っていた。その顔を見た瞬間、私の中の「羞恥心」という最後のストッパーがパチンと弾け飛んだ。


「もっと……もっと舐めて……」


気がつけば、私は自分の指で髪を掻き毟りながら、腰を浮かせて彼に懇願していた。


彼は嬉しそうに低く笑い、再び顔を埋めた。

執拗な舌の動き。吸い上げられ、転がされ、私の身体はもう、私の意志とは無関係にビクンビクンと痙攣を始めていた。彼の唾液と私の体液が混ざり合い、股の間はどろどろのぬるま湯のようになっていた。


そして、彼が私の中に入ってきた時。


「あぁっ……!」


その圧倒的な質量と熱に、私は声にならない叫びを上げた。


痛い。でも、それ以上に、満たされていく感覚が恐ろしかった。空っぽだった私の中に、他人の命が、熱が、暴力的に注ぎ込まれていく。


「沙織ちゃん……力、抜いて……」


彼の汗が、私の胸に落ちる。


私たちは、狂ったように腰を絡め合った。シーツが擦れる音、ベッドが軋む音、荒い息遣い、粘膜と粘膜がぶつかり合う、ぐちゃ、ぐちゃ、という水音。それらすべてが、私という存在を強烈に肯定してくれていた。


「すごい……沙織ちゃん、中、すごく締まってる……」

「啓太、けいた……っ! ああっ、いく、私……!」


私は彼の背中に爪を立て、彼にしがみついた。果てる瞬間、目の前がチカチカと光り、私は自分がどこにいるのか、自分が誰なのかすら分からなくなった。ただ、熱い液体が私の中に放出される感覚だけが、鮮明に脳に刻み込まれた。

***


「……ふぅっ」


露天風呂の湯船の中で、私は大きく息を吐き出した。


顔が火照っているのは、お湯のせいだけじゃない。股の奥の疼きが、また少し強くなった気がした。


お湯の表面に、私から滲み出たわずかな油分や、何かが浮遊しているのが見えた。私は自分の身体を、手のひらでゆっくりと撫でた。もう、彼の匂いはしない。でも、私の内側には、確かに彼が残した熱の記憶が刻み込まれている。


湯船を出て、サウナ室へ向かう。


熱気。息苦しいほどの熱が、私を包み込む。

じわじわと、毛穴から汗が噴き出してくる。玉のような汗が、胸の谷間を伝い、お腹を流れ落ちる。


「全部、出ろ」


私は心の中で呟いた。


東京での惨めな失恋も、自己嫌悪も、どうしようもない孤独も。そして、昨夜の甘くて淫らな記憶も。全部、この汗と一緒に身体の外へ出してしまえ。


私は、昨夜の彼のように、自分自身を味わい尽くすように、汗を流し続けた。


十分後。


サウナを出て、掛水をしてから、水風呂に肩まで浸かった。


「ヒィッ……!」


心臓が止まるかと思うほどの冷たさ。

でも、その直後。


全身の血がどくどくと逆流し、視界が恐ろしいほどクリアになった。頭のてっぺんから足の先まで、命がビチビチと跳ね回っている感覚。


ととのう、なんて生易しい言葉じゃない。

これは、再生だ。


私は、完全に新しくなった。三十二歳。独身。彼氏なし。


でも、私の身体はこんなにも熱く、こんなにも敏感で、こんなにも「生きている」。


水風呂から上がり、外気浴の椅子に深く腰掛ける。


時刻は七時を回ったところだろうか。

空を見上げる。雲一つない、冬の青空が広がっていた。


今頃、彼はあの狭いベッドで目を覚ましている頃だろう。


隣に私がいないことに気づき、枕元で低く震えたスマホを手に取るはずだ。画面に表示された『ありがとう、気をつけて』という私からのLINEの通知を見て、彼は寝ぼけ眼をこすりながら、少しだけ笑うのかもしれない。そして、八時のチェックアウトに向けて、慌ただしくスーツケースに荷物を詰め込むのだ。

彼が仙台空港から空へ飛び立つのは、まだもう少し先だ。


同じ空の下、違う場所で、私たちはそれぞれの現実に戻っていく。


彼がベトナムで誰と生きていこうと、昨夜、彼が私の身体を狂おしいほどに舐め、肯定してくれた事実は変わらない。私はその事実だけをエネルギーにして、またあのクソみたいな、でも愛おしい東京へ帰るのだ。


私は両腕で自分の身体を抱きしめた。


私の皮膚は、最高にいい匂いがした。誰の匂いでもない、新しく生まれ変わった、私自身の匂いが。

痛みや虚無感を抱えながらも、他者の圧倒的な熱に触れることで、人は再び自分の輪郭を確かめることができる。沙織にとって彼との一夜は、堕ちるためではなく、再び立ち上がるための儀式だったのでしょう。朝の鋭い空気、サウナの熱、そして水風呂の鮮烈な刺激が、彼女の心と身体についた古い殻を綺麗に洗い流してくれました。誰のものでもない、自分だけの新しい匂いを纏って東京へ帰る彼女の足取りは、きっと力強く、軽やかなはずです。

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