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『ゆとり第一世代の私たちは、今夜だけ幻にキスをする』

東京の喧騒と失恋の痛みから逃げ出した、冬の仙台。32歳、ただ息をするためだけに訪れた見知らぬ街の路地裏で、忘れていた「あの頃」の音楽と一夜限りの熱に出会う。これは、どうしようもなく泥臭くて愛おしい、大人になりきれない私たちの逃避行の記録だ。

北千住の駅前は、いつだって人が多すぎる。

ペデストリアンデッキの上を行き交う無数の靴音、ルミネの眩しいネオン、飲み屋街から漂う焼き鳥の匂いと、行き場のない若者たちの奇声。それらすべてが、失恋したばかりの32歳の私の鼓膜と網膜を、暴力的なまでに殴りつけていた。だから私は、逃げるように常磐線に乗り、上野から東北新幹線に飛び乗ったのだ。


行き先は仙台。理由は特にない。ただ、東京の空気を肺に入れると、どうしようもなく涙が溢れそうになるから、少しだけ冷たくて、でも人の体温が感じられる街に逃げ込みたかった。


御宿 野乃仙台。


広瀬通から少し入ったところにあるこの宿を選んだのは、正解だった。館内がすべて畳敷きなのだ。靴を脱ぎ、裸足で畳を踏みしめる。足の裏から伝わるイグサの感触が、ガチガチに強張っていた私の心帯を、少しだけ緩めてくれた。部屋に荷物を放り投げ、ベッドにダイブする。ああ、私は今、仙台にいる。誰にも知られず、誰の期待にも応えなくていい、ただの「私」という肉体の塊として、ここに存在している。


夕方、街へ出た。


仙台の街は、整然としていて美しい。定禅寺通のケヤキ並木は、冬の気配を帯びた風に揺れて、サワサワと優しい音を立てていた。国分町のネオンが点灯し始める。私はただ、美味しいものを食べて、お酒を飲んで、呼吸をしたかった。


一番町四丁目商店街を抜け、アーケードの喧騒から少し外れた場所にある牛タン焼きの老舗に入った。分厚い牛タンにかぶりつき、南蛮みそで舌をピリピリと痺れさせながら、冷えた生ビールを胃の腑に流し込む。


「うまい」


声に出して言ってみた。誰も聞いていない。肉の脂とビールの苦味が混ざり合い、私の細胞ひとつひとつに染み渡っていく。生きてる。私はちゃんと、呼吸をして、カロリーを摂取して、生きている。彼がいなくなっても、私の胃袋はこうして食べ物を欲しているのだ。その事実が、滑稽で、少しだけ悲しくて、でもとてつもなく愛おしかった。


夜も更けてきた。22時を回った頃、私はあてもなく街を歩き続けていた。サンモール一番町から、ふいっと細い路地に吸い込まれる。「いろは横丁」。昭和の空気がそのまま真空パックされたような、細く薄暗い路地に、小さな飲み屋がひしめき合っている。トタン屋根、赤提灯、スナックの看板。北千住の飲み屋街にも似ているけれど、どこか品があって、懐が深い。


その路地の中ほどを歩いていたときだった。

小さなバーの重厚な木のドアの向こうから、ドッドッドッというベース音に重なって、あの曲が漏れ聞こえてきたのだ。


サカナクションの『アルクアラウンド』。

あるいは、チャットモンチーの『シャングリラ』だったかもしれない。


とにかく、それは間違いなく2010年代の、私たちが大学生だった頃、カラオケで狂ったように歌い、深夜のコンビニで有線から流れてきては心を揺さぶられた、あの時代の邦楽だった。


足が止まる。胸の奥が、ぎゅっと鷲掴みにされた。


懐かしい。あの頃に戻りたい。何も知らず、ただ未来が無限に広がっていると信じて疑わなかった、無敵だったあの頃に。


気がつけば、私はそのバーのドアを押し開けていた。


カラン、と鈍いベルが鳴る。カウンターに7席ほどの、細長い店内。照明は暗く、壁にはアナログレコードがびっしりと並んでいる。初老のマスターが、グラスを磨きながら「いらっしゃい」と低く穏やかな声で言った。


「ジントニックを」


私はカウンターの端に座り、注文した。

店内には先客が一人だけいた。私から3つ空けた席に座る男性。


特別目を引くようなイケメンではない。でも、背筋がすっと伸びていて、着ているネイビーのニットのサイズ感が絶妙で、どこか「シュッとした」佇まいだった。手元には、琥珀色の液体が入ったロックグラス。


店内に流れる2010年代のプレイリスト。アジアン・カンフー・ジェネレーション、RADWIMPS、BUMP OF CHICKEN。音楽の魔法は恐ろしい。アルコールが回るにつれて、私の頭のネジは少しずつ緩んでいった。


「いい時代でしたよね、この辺の音楽」


ふいに、声が出た。自分でも驚いた。普段の私なら、見知らぬ男性に自分から話しかけるなんて絶対にしない。でも、ここは仙台で、私は失恋したばかりで、音楽がどうしようもなく私の背中を押していた。


男性は少し驚いたようにこちらを向き、それからふっと目尻を下げて笑った。


「本当に。イントロを聴くだけで、大学時代の安アパートの匂いまで思い出しますよ」

声は低くて、落ち着いていた。

「同世代ですか? 私、32歳なんですけど」

「奇遇ですね。僕も32です。平成生まれの、ゆとり第一世代」


そこから、堰を切ったように話が弾んだ。

彼も一人で飲みに来ていた。生まれも育ちも仙台で、地元の誰もが知る大手の上場企業(おそらく電力会社か、大きなメーカーだろう)に勤めているという。


「今は、ベトナムのホーチミンに駐在してるんです。今回は一時帰国で。明日にはもう、向こうに戻らなきゃいけないんですけどね」

「ホーチミン! すごい。全然違う世界ですね」

「毎日バイクの波に揉まれてますよ。フォーばかり食べてるし。だから、こうやって仙台の冷たい空気を吸って、昔の音楽を聴いてると、自分がどこにいるのか分からなくなる瞬間があるんです」


独身だと言った。彼もまた、異国でのプレッシャーや、32歳という年齢特有の「このままでいいのか」という焦燥感と戦っているようだった。


私たちは、音楽の話をした。就職氷河期の少し後、SNSが爆発的に普及し始めたあの頃の、ヒリヒリとした空気の話をした。


時計の針が、23:00を指した。


マスターが、BGMのボリュームを少しだけ下げた。


おとなの時間が始まる合図のように、店内の空気が、ふっと密度を増した。


彼との距離は、いつの間にかグラス一つ分になっていた。


彼の首筋から、微かに柑橘系の香水と、ウイスキーの匂いが漂ってくる。いい人そうだ。落ち着いていて、私のとりとめのない話を、うんうんと頷きながら聞いてくれる

(頑張りすぎるな、焦るな)


私は心の中で、自分自身に強く言い聞かせた。


東京で恋に破れ、ボロボロになって逃げてきた私。ここで目の前の優しそうな男にすがりつくのは、あまりにも安直で、惨めじゃないか。32歳の女が、一夜の慰めを求めてどうする。しっかりしろ。私は一人で立って、一人で息をするためにここに来たんだ。


でも。


「東京から一人で来たって言ってましたけど」


彼が、私の目を真っ直ぐに見て言った。


「何か、あったんですか?」


その、あまりにもストレートで、でも無遠慮ではない問いかけに、私の心の防波堤は音を立てて崩れ落ちた。


「……捨てられたんです。盛大に」


私は笑ってごまかそうとした。でも、声は震えていた。


彼は何も言わず、ただ私の目を見つめ返していた。可哀想に、という同情の目でもなく、下心に満ちた目でもなく、ただ「あなたはそこにいるんですね」と存在を肯定するような、深く静かな瞳だった。


心臓が、ドクン、ドクンと嫌なほど大きな音を立てて脈打ち始めた。


血が沸騰するような、細胞が蠢くような、この生々しい熱。


理性が「やめろ」と叫ぶ。でも、身体が、本能が、彼に触れたいと激しく訴えかけていた。誰でもいいわけじゃない。今、この瞬間、この音楽の中で、私と同じ時代を生き抜いてきた「彼」の体温が欲しい。


マスターは背を向け、レコードラックの整理をしている。


カウンターの隅。薄暗い影の中。


どちらからともなく、顔が近づいた。


息が触れる。


次の瞬間、私たちの唇は重なっていた。


軽く触れるだけの、挨拶のようなキスではなかった。お互いの孤独と、焦燥と、夜の熱を確かめ合うような、熱くて濃厚なキスだった。


彼の唇は少し荒れていて、ウイスキーの味がした。私の口の中にはジントニックのライムの苦味があった。


マスターにバレないように、声を出さず、でも息が詰まるほど深く、お互いを貪り合った。カウンターの下で、彼の手が私の膝にそっと触れる。その手のひらの熱さが、ジーンズ越しに私の芯まで焦がしていくようだった。


息継ぎのために、わずかに唇を離す。

彼の目が、至近距離で私を見ていた。黒目がちで、少し濡れている。


「……明日、帰っちゃうんでしょ?」


掠れた声で私が言うと、彼は困ったように笑い、私の髪をそっと撫でた。


「だから、今夜だけは。このままで」


ああ、どうしようもない。人生はなんてどうしようもなくて、泥臭くて、そしてこんなにも美しいんだろう。


32歳の私。北千住から逃げてきた私。

仙台の夜の奥底で、見知らぬ男と息を潜めてキスをしている私。


私はもう一度目を閉じ、彼の手を強く握り返した。


いろは横丁の小さなバーの片隅で、2010年代の音楽は、私たちの体温を溶かすように、ただ優しく、そして容赦なく鳴り続けていた。

グラスの氷がカランと鳴る。明日には違う朝が待っていても、今はただ互いの熱から離れられない。ウイスキーとライムの匂い。カウンターの下で強く絡まる指先。この薄暗いバーの片隅だけが、不器用な32歳の私たちを赦してくれる、たった一つの避難所だった。

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