第26話 書簡
サリアは、
堰を切ったように泣き崩れた。
「……っ、う……うぁ……」
肩が震える。
呼吸が乱れる。
声にならない嗚咽が、
城の静けさに滲んでいく。
三年間。
奴隷として生きてきたと思っていた。
壊れたふりをして、
壊れたまま扱われて、
それでも生き延びてきたと思っていた。
――違った。
母の魔法が、
ずっと守っていた。
誰にも気づかれず。
誰にも奪われず。
サリアが折れないように。
死なないように。
「……お母様……」
震える声。
「……ずっと……
ずっと……!」
愛情が、
形としてそこにあった事実が、
逆に苦しくて、
温かくて、
息が詰まる。
ラルヴィクは、
それを見ていられなかった。
いつものように
言葉で片付けられない。
気づけば、
サリアの背後に立ち――
そっと腕を回していた。
後ろから、
強くはない。
だが確かに逃がさない抱擁。
サリアの身体が
一瞬だけ跳ねる。
それでも、
次の瞬間には
その腕に縋るように
力を抜いた。
ラルヴィクは、
低い声で言う。
「……三年間」
短い言葉が、
重く落ちる。
「お前は、
誰にも捨てられてない」
サリアは、
泣きながら首を振る。
「でも……でも……
私、何も……」
ラルヴィクは、
抱く腕に少しだけ力を込めた。
「……あいつは、
そういう女だった」
声が僅かに掠れる。
「守ると決めたら、
最後まで守る」
沈黙。
サリアの嗚咽だけが続く。
ラルヴィクは、
その泣き声の中で
ぽつりと零した。
「……勝手に背負わせやがって」
怒りのようで、
悔しさのようで、
そして――
どこか救われたような声だった。
ラルヴィクは、
サリアの耳元で
静かに続ける。
「……でも、いい」
「お前は、
俺が守る」
ラルヴィクは、
しばらく書簡を見つめていた。
赤い封蝋。
獅子の刻印。
――考えるまでもない。
だが、
考えずにはいられなかった。
「……開くか」
決心は、
静かだった。
封蝋に指を触れた瞬間、
書簡が淡く光る。
空中に、
魔法陣が展開された。
「……誓約書、か」
しかも、
ただの契約ではない。
破れば、
確実に何かが起きる。
魔力の流れが、
それを示していた。
書簡の内容が、
文字として浮かび上がる。
《誓約事項》
バルディラマスの身柄を
引き渡さない場合、
以下を履行すること。
――万能の魔道士の排除。
「……は?」
思わず、
声が漏れた。
ラルヴィクは、
額に手を当てる。
「……なんだ、
それは」
万能の魔道士。
王宮魔道士の象徴。
制度そのもの。
王の切り札。
そして――
現役最強。
「ディラマス家にとって、
敵なのは分かる」
「だが……」
ラルヴィクは、
ゆっくりと息を吐いた。
「なぜ、
俺にやらせる?」
頭の中で、
理由を並べていく。
――左遷されたから?
――王宮から切り捨てられたと
思っている?
――万能の魔道士を
妬んでいると
見ている?
「……どれも、
浅いな」
ラルヴィクは、
苦々しく呟いた。
「俺が
動かない理由を、
何一つ理解していない」
書簡は、
淡々とそこにあった。
脅迫ではない。
命令でもない。
――踏み絵だ。
王国に刃を向けるか。
サリアを差し出すか。
あるいは――
第三の選択肢を
示せるか。
ラルヴィクは、
ゆっくりと書簡を畳んだ。
「……クリスティア」
小さく、
名を呼ぶ。
「ずいぶん、
面倒な舞台を
残してくれたな」
だが、
その口元には
僅かな笑みが浮かんでいた。
――この誓約書。
本気で実行できると
思っているなら、
相手は相当だ。
だが同時に、
ラルヴィクは確信していた。
「……俺を、
甘く見すぎだ」
静寂は、
まだ選んでいない。
沈黙が、
城の一室を支配していた。
机の上の書簡は、
何も語らない。
だが、
その存在だけで
空気を重くしている。
サリアは、
視線を落としたまま、
小さく息を整えた。
「……ご主人さま」
呼びかける声は、
控えめだった。
「その書簡……
ディラマス家のやり方です」
ラルヴィクが、
顔を上げる。
「やり方?」
サリアは、
ゆっくりと頷いた。
「ディラマス家は、
昔から直接は殺しません」
「少なくとも……
表向きは」
言葉を選びながら、
続ける。
「敵対した家」
「邪魔になった人間」
「排除したい存在」
「そういう相手に、
必ず“選択”を与えます」
ラルヴィクは、
黙って聞いていた。
「忠誠を示せば助かる」
「黙っていれば生きられる」
「でも……
どの選択をしても、
結果は同じです」
サリアの指が、
膝の上で
きゅっと握られる。
「地位を奪われ」
「信用を失い」
「周囲から切り離される」
「気づいた時には、
もう何も残っていない」
ラルヴィクは、
低く呟いた。
「……生きているのに、
終わっている、か」
「はい」
サリアは、
はっきりと答えた。
「“排除”という言葉は、
ディラマス家にとって」
「殺すよりも、
ずっと便利な言葉です」
ラルヴィクは、
書簡に視線を落とす。
「万能の魔道士を排除せよ……」
「これは、
“殺せ”ではありません」
サリアは、
そう断じた。
「王宮魔道士として
居られなくすればいい」
「味方を失わせて、
立場を壊して、
自分から去るように仕向ける」
声が、
わずかに硬くなる。
「ディラマス家は、
そうやって
多くの人を
消してきました」
ラルヴィクは、
しばらく黙り込み、
やがて、
静かに言った。
「……なるほど」
「俺に、
魔道士同士で
潰し合えと」
「はい」
サリアは、
一瞬だけ目を伏せ、
「ご主人さまが
左遷されている事も」
「王宮から
距離を置いている事も」
「全部、
計算の内だと思います」
ラルヴィクは、
苦笑する。
「随分と、
都合のいい役回りだな」
サリアは、
少しだけ
悔しそうに唇を噛んだ。
「……母も」
「きっと、
同じやり方で
追い詰められたのだと
思います」
その言葉に、
ラルヴィクの表情が
一瞬だけ歪む。
「……そうか」
低い声。
「だから、
俺に来た」
サリアは、
ゆっくりと頷いた。
「ディラマス家は、
ご主人さまが
どう動くかを
見ています」
ラルヴィクは、
深く息を吐いた。
「……まったく」
だが、
その目に
迷いはなかった。
これは命令ではない。
交渉でもない。
ディラマス家の流儀による、
宣戦布告だ。
沈黙が、
部屋に落ちたまま続いていた。
ラルヴィクは、
椅子に深く腰掛け、
天井を見上げる。
「相手を殺さず、
責任も負わず、
自分の手も汚さずに潰す」
「それがディラマス」
サリアは、
何も言わずに聞いている。
「正直に言えば」
ラルヴィクは、
視線を落とす。
「やり方としては、
間違ってはいない」
「魔道士同士は疑い合う」
「血は流れにくい」
一つずつ、
淡々と挙げる。
「……だからこそ」
ラルヴィクは、
一拍置いて続けた。
「俺は、
それを選ばない」
サリアが、
小さく息を吸う。
「理由は、
簡単だ」
ラルヴィクは、
書簡を見ずに言った。
「万能の魔道士――
ヴィケルとは、
仲が良い」
ラルヴィクは、
小さく笑った。
「同い年でな」
「話も合うし、
魔法の理屈も通じる」
「戦場での判断も、
優秀だ」
事実として、
淡々と語る。
「だから――
余計に、
分かっている」
声の調子が、
少しだけ変わる。
「俺とヴィケルは、
同じものを
見ていない」
サリアは、
黙って続きを待った。
「ヴィケルは、
“勝つために戦う”」
「王国を守るために」
「成果を出すために」
「評価を積み上げるために」
「それ自体は、
間違いじゃない」
ラルヴィクは、
静かに言う。
「だが俺は――
“壊さないために動かない”」
サリアの指が、
わずかに震える。
「戦場に出れば、
確実に勝てる場面は
何度もあった」
「それでも、
俺は出なかった」
拳を、
ゆっくりと開く。
「勝てば、
次はもっと
大きな戦場が来る」
「それは、
誰かを守るための
戦争じゃない」
ラルヴィクは、
はっきりと言った。
「ヴィケルは、
俺が“臆病”だと
思っているだろう」
「あるいは――
戦場を嫌う
変わり者だと」
自嘲気味に、
笑う。
「だが、
俺は知っている」
「ヴィケルは、
俺が動かない理由を
本当には
理解していない」
サリアが、
そっと尋ねる。
「……それでも、
仲が良いのですか?」
ラルヴィクは、
少し考え、
「だからこそ、
仲が良い」
そう答えた。
「互いに、
違うやり方で
王国を見ている」
「同じ場所に立って、
別の景色を
見ているだけだ」
書簡に、
視線を落とす。
「……ディラマス家は」
「俺が、
その“違い”を
利用して」
「ヴィケルを
切り捨てると
思っている」
ラルヴィクは、
静かに首を振る。
「それは、
無い」
「潰し合いを
始めた瞬間に、
王国は終わる」
そして、
はっきりと言う。
「俺は、
ヴィケルを
失脚させるために
動かない」
「だが――」
視線が、
鋭くなる。
「この流儀を
拒絶するためなら、
動く」
ラルヴィクは、
ふっと息を吐いた。
「……もう一つ、
理由がある」
サリアが、
顔を上げる。
ラルヴィクは、
少しだけ視線を逸らしながら言った。
「ディラマス家の流儀は、
人を追い詰める」
「選ばせるふりをして、
逃げ道を全部塞ぐ」
「クリスティアも――
そうやって
追い詰められた」
サリアの胸が、
ぎゅっと締めつけられる。
「……母は」
ラルヴィクは、
言葉を続けた。
「戦ったわけでもない」
「王国を裏切ったわけでもない」
「ただ、
自分のやり方を
曲げなかっただけだ」
拳が、
ゆっくりと握られる。
「それで――
死ぬことになった」
沈黙。
「だからな」
ラルヴィクは、
サリアをまっすぐ見た。
「同じ運命を、
お前には辿らせない」
サリアの喉が、
小さく鳴る。
「ディラマス家の
盤面の上で」
「クリスティアと同じ役を、
お前に演じさせる気は
最初から無い」
はっきりとした口調。
「だから俺は、
この書簡に
従わない」
「万能の魔道士を
失脚させることも」
「王国を揺らすこともない」
ラルヴィクは、
静かに言い切る。
「二度も、
同じやり方で
人を壊させる気はない」
サリアの目から、
涙が一筋こぼれた。
「……ご主人さま」
ラルヴィクは、
視線を逸らしたまま続ける。
「ディラマス家は、
俺が動くと思っている」
「だが――
俺は踊らない」
「この静寂は、
あいつらのための
ものじゃない」
書簡の上に、
影が落ちる。
「これは、
俺の拒絶だ」




