第14話「湖のほとり」
レイ・ルヒが案内された部屋の窓からは、その日はまるで雲海の上にいるかのような錯覚を抱かせる
ただし、芦ノ湖周辺に住む人間にとっては案外日常的な、全体に厚く密度の濃い霧が湖面全体を覆いつくす、不思議な光景が見えた。
レイ・ルヒは日本の女性とほとんど見分けがつかない東洋的な顔つきをした20代後半の肌の白い上品な娘、と言った感じであったが、目の彫が少しだけ日本人よりも深い印象を与えていた。
「あの下に湖があるの?ああ船のマストのようなものが見えるわねえ・・・」
「よくある光景です。絵葉書にもなっていますよ。後で差し上げましょう」
村井洋介は、レイ・ルヒが座る窓際の対面椅子の片側に腰掛けて、湯飲みにお茶を注いだ。
「ありがとう・・・」
村井洋介は浅田一樹の姉が見合いした男であった。風采の上がらぬ、しかし、五木貿易という一流会社の社員であり、一樹の予想通り、田中利一の縁続きでもあった。
「エハガキというのは・・・絵ですか??」
レイ・ルヒが聞いた。
「いいえ、お写真が写る、手紙用の紙でございます」
「ありがとう・・・」
レイ・ルヒはいつも満面の笑みで「ありがとう・・・」というのであった。その様子は、どこから見てもお人形のような、お姫様ごっこのお姫様のような、つまり、関係筋から聞かされている人物像とはどうしても折り合わない、人懐こさがあった。
「お食事はどうなさいます?お部屋に運ばせますか?レストランは危険ですので・・・・」
「お部屋にお願いします」
「なにか特別にお召し上がりになりたい、そのような食べ物はございますか?」
「ご飯はありますか?パンよりご飯がいいです。」
「かしこまりました。今日はお魚料理がメインだそうです。もちろん軽くサーロインの半身なども
ご用意されているようです」
「ありがとう・・・・・アナタはどうなさるのですか?」
「私はお部屋の前でお食事中お待ちします」
「それはいけません。私と同じものを、テーブルで食べましょう。一人では食事などするものではないのです。私の国ではそれ、動物と同じです」
レイ・ルヒは真面目な顔で村井洋介に訴えた。洋介は少しの間考えたが、それほど大きな予定変更ではないので、
「わかりました、ご一緒させていただきます。光栄です」
と、笑顔で答えた。
「ありがとう・・・」
その表情は、今までの
「ありがとう・・・」
とは違った、安堵感、そして喜びにあふれていた。
洋介は風采は上がらずとも、決して不埒であったり、狡猾なところはなく、善良、従順、そして何より思いやりの塊のような人間であった。
一樹の姉良子も、村井のそうした部分にひかれて、半ば結婚の意志を固めつつあった。
食事が済むと洋介は部屋を辞した。すぐ隣に部屋を取り、レイ・ルヒの警護に当たるよう指示されていた。
武術の盛んな大学を卒業していた洋介は、一人や二人の男であれば、たとえ相手がどんなに屈強で
あっても、数秒で投げ飛ばす自信があり、警視省の道場にも講師として出向いていた。
洋介が自分の部屋に入り、上着を脱ぎかけると、ドアがノックされた。
洋介は上着を身にまとい直し、ドア越しに、
「どちら様?」
と、低い声でたずねた。
「ありがとう・・・今日は、お食事・・・ありがとう」
その声はレイ・ルヒであった。
洋介はドアを開けると、素早くレイ・ルヒを中に招き入れた。危険であった。
いくら日本語が堪能な才女とはいえ、その言葉遣いは明らかに日本人とは違った印象を与える。周りには一般の観光客も多いが、その中に何者が潜んでいるかわからない。
10人ほどのダミーを空港で各方面に散らして、安全を確保はしている。しかし、偶然有名ホテルに、その末端の家来でもいたとしたら、命の保障はないかもしれない。
「よろしいですか。私の言うことをお聞きください。お一人でお部屋からは出てはいけません。出る場合はフロントに電話をかけ、私につないでもらってくだされば、すぐに参上いたします。また、私が直接ドアをノックすることもありませんので、そのようなときにはドアにも近づかないでください。約束してください」
洋介は少々厳しく言った。
「ありがとう・・・」
レイ・ルヒはそう言うと部屋に戻ろうとした。洋介は慌ててその前に進み出て両人差し指で×の字を作り、自分が前を歩きレイ・ルヒを彼女の部屋の中に無事送り届けた。
そして、再び自分の部屋に戻ると、電話が鳴った。
「お連れ様からお電話です」
フロントの男性に続き
「ありがとう・・・湖は近くまで行けば見える?私は見たいのです」
レイ・ルヒのか細い声がに聞こえてきた。
「湖のほとりに行きたいのですね。わかりました。ひとつ約束してください」
「約束します・・・」
「お連れしている間は、お話をしないでください。日本人でないことがわかってしまいますから」
「ありがとう・・・話しません。湖に行きたい・・・」
洋介は、レイ・ルヒの言葉の中に、自分には計り知れない物悲しい心を垣間見た気がした。
芦ノ湖のほとりに着くと、レイ・ルヒは、そこからはるか遠くの見えない対岸に手を合わせて、なぜか1本のろうそくと線香を取り出し両方に火をつけ、今度はしゃがんでそれらを砂の上に立て、もう一度手を合わせた。
その大きな目からは涙がぽろぽろと、とめどなく流れて地面に落ちた。




