43
「ほぉ?ワシらのやったことを『監禁』言うんかい。
おもろいこと言うやん。
そんな主張、世界中のどんな裁判官に訴えても認めてもらわれへんやろ。
ワシも坊っちゃんも、嬢ちゃんをこの家に閉じ込めようとしたことなんぞ一辺もあらへんし、
だいいち、嬢ちゃんは自分からここに逃げ込んできたんやで?
これを『誘拐』『監禁』って言う奴なんか、この日本中探しても、どうにも日本語を理解でけへんようなアホが一人二人ぐらいおるかおらんかやろ。
せいぜい、その二人一人が陪審員になることでも祈ることやな。
まあ、所詮口から出任せの言い訳にしろ、
法律の話をすんねやったらもうちょっと日本語の勉強をしてから来い。な?
何やったら電子辞書貸したんで?」
「ぐっ…………!」
「しかしまあ、そこまで娘思いの―――殴って気絶させてでも連れて帰りたいいうぐらいの娘思いの康本様の事やし、
当然願ってるのは嬢ちゃんの幸せやろ?そうなんやろ?」
芝山の嘲笑は更に加速する。
歯を縛り、黙るしかなくなった康本は、
その老人が自分に対して詰めよってきている状況に、さっきとはまた違った恐怖を感じた。
もはやここまで来ればそれは嫌味でなく尋問。
本来、康本らが――芸能界裏の世界に生きる者たちが得意とするはずの誘導尋問を、
今は彼らが受けるはめになっている。
それも………自分達がやったこともないほど、『完全に』一方的なそれを。
つまり―――これまで自分のやってきたことを自らが体験するはめになったのである。
それによって初めて知る、『自分の行動への恐怖』。あるいは、『感じさせてきた絶望』。
康本の額から流れる汗は、もはや滝のようと表現しても、何も差し支えなかった。
「そうだ、としたら、一体何――――」
「まあ、嬢ちゃんの態度見とったらわかる思うけど、
嬢ちゃんは坊っちゃんの事が恐らく好きや。
坊っちゃんも嬢ちゃんの事が好きや。こっちは間違いない。
いつもおんなじ部屋で寝よるし、普段だって常とは言わんけど一緒におるし、出掛ける時だってまあよほど事情がない限りは一緒や。
な?二人で一つで立派に生活しとる。
ここに転がり込んできてから、同じ生活基盤の上で、互いに切磋琢磨してやっとる。」
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「だから何だ!?」
「こういうのを世の中は、同棲と呼ぶ。
もうあいつらは立派に夫婦やっとるで?
アレで幸せにやっとるから嬢ちゃんだってここにずっと残ってるんや。
きっちり二人好き同士でおるから成立するんやで、ああいうのは。
………さて、ここでクイズを一つ。
娘のためを思う親父が、こういう時に娘のためにしてやるべき行動は?
1、黙って見守る
2、認めてやる
3、相手が相応しい奴か確認してやる。
さあ、どれや?」
「……………」
「ん?何?ここに『殴り倒す』って選択肢つけてほしいとか?
まさかそんなアホなこと言わんよなぁ、優しい娘思いの康本様は。
親父として、やるべき事をやってるだけの康本様やからなぁ。
さあ、1、2、3。どれや?決まったら答えろよ。」
「……………!」
「どれやねんて。」
「………お、俺が秋華に、相応しく、無いと、判断した!
だから、連れ戻しに―――」
「3、か。
つまり康本様は、嬢ちゃんらの同棲関係を認めた上で、
坊っちゃんを調べあげて、嬢ちゃんの相手として相応しく無いから、
切り離すために連れ戻しにきたと、
つまりこう主張するわけやな?」
「そ、そうだ!
調査したところ山本勘助には夫として秋華―――」
「じゃあ、オドレのその連れ去ろうとする行動は、
日本における人権を完全に無視しとるな。」
「は?人権だ?」
「日本国憲法第24条。
婚姻は両性の合意にのみおいて成立される。
これ知っとるか?」
「!?」
「結婚―――つまり婚姻関係にあるのについて、親の同意は基本的には要らん、
その上、婚姻関係にある者に親が介入するんもまた認められん。
ついでに、嬢ちゃんが坊っちゃんと親に断りもなくここにおることに、なんも問題は無いと、
つまりこういうこっちゃ。」
「は………?」
「つまりさっきオドレは社会のルールにのっとってるとかほざいてたけど、
そのオドレの信じる社会のルールの一番てっぺんにある憲法、っちゅうもんで、
お前の今の行動は完全に否定されとる。
婚姻関係にある者を無理やり親の力で引きはなそうとすんのは………憲法に違反した行動そのものや。
ついでに言うたら、オドレが拉致監禁と表現したワシらの行動は、なんの問題もない。
嬢ちゃんと坊っちゃんがこの屋根の下ひとつに住んどる限りはな。
つまり、事実上の婚姻関係にある以上は。」
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津波のように襲いかかる問い詰めに、更に迫り来る芝山自体のプレッシャーも重なって、
もはや康本の心臓は蚤と化していた。
目の前の老人からは、
浴衣からはだけた部分から、芝山のその浮き出たあばら骨―――骨に皮がくっついたような弱々しい体がのぞく。
一語一句をいい終える度に少しずつ詰め寄ってくるゆえに、その病に蝕まれた体の詳細はその都度一秒一秒明らかになってゆく。
点滴の針でできたと思われる青いアザのようなものは、そこを中心に細胞が死に始めているのか、斑点のようにあちらこちらに移動している。
心なしか、肌もアルピノであるかのように生白い。
―――さっきから何度も感じたことだが、これは人間の体じゃない。
いや、というより、こんな体で生命維持が可能なはずがない。
こいつは……この老人は……一体………
「信じられへんねやったら、こんなとこでいちびってやんと、出るとこ出た方がええと思うで。
裁判所っちゅうもんがあってやな。
今の日本ではそこが社会のルールのてっぺんや。知ってたか?
オドレがあくまで自分が正しい言い張るんやったら、
こんなわけわからん連れ去り方せんと、きっちり出るとこ出て法に従ってカタつけたらどやねん。あ?
それとも何か?
娘思いのロリコン康本様には、何か裁判所で責められたりしたら困るような、後ろめたいことでも過去にあんのか?」
「ぐぅ………」
「まあ、言うてみりゃあここでオドレのやったこと自体が犯罪のオンパレードやからなぁ。
その事ネチネチ責められるのを覚悟の上で、
更に殆ど勝つ見込みもないのも知ってながら戦うって覚悟があればの話やけど?
俺に言わせりゃざまあ見ろって所やな!ハッハ!
………今のワシは機嫌がいい。
親切にもお前らの罪状を解りやすいようにいちいち一個づつ言うてったるわ。
不法侵入やろ?婦女暴行やろ?それから家屋損傷やろ?恐喝やろ?
ああ、それから嬢ちゃんに衣類を与えたんはワシらやから、下手したら窃盗も加わるかな―――」
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―――おい、どないすんねん?この犯罪群。
これでもお前は正当か?
と、芝山がここまで言い切り嘲け笑った時に、
……………おそらく康本は精神的に限界を迎えた。
人間の精神というのは恐ろしいほどに簡単に崩れる。それも突然に。
『芝山の問い詰めによるストレス』というダイナマイトを心の壁に突き刺されて、
発破の時を今か今かと待っている状態だった彼の精神状態は、
『反論ができなくなった』という状況がその起爆スイッチを押すことによって爆発し、
その結果、
いとも容易く、あまりにも呆気なく崩壊した。
つまり、
一種の洗脳、とも言うべき芝山のそれに、
どうにもしようがなく、屈するしかなかったということ、
――早い話がキレたのである。
「うるさい黙れぇええぇえっ!!」
とうとう怒りのやり場を無くしたらしい康本は―――
突如として、先ほど芝山によってドアに突き刺されたバールを勢いよく引き抜くと
そのバールの纏っていたガラスの破片が、自分の肌を切り刻んでいくのも気にせずにそれを両手で握り大きく振りかぶって、
『黙然』を手にして自分をにらみ続ける芝山に、
飛びかかった。
康本の脳は暴走の末、
目の前の老人を殺すという行為を選択したのだった。
鉄の棒で、頭をかち割って。
その憎しみだけで、相手を打ち砕こうと――――
「利いた風な口をきく――――」
『な』のタイミングで、
その殺傷には十分すぎる質量を持った棒は、
確かに芝山の頭を目掛けて降り下ろされた。
当たれば即死―――その場にいた黒スーツ達は、
『仮に康本がここで奴を殺したら俺たちは後からどうなる?』という、ごく自然な問いを頭のなかで抹殺し、
悪魔のように自分達を追い詰める芝山雄一という人間の死だけを祈った。
砕け、砕けろ、砕けてくれ。
そして二度と起きてくるな。
二度とその口を開くな―――
と。
………だが。
正確無比に振り下ろされたそのバールは、
しかし、芝山に当たることも、触れることも、
かすることすらついぞ無かった。
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キィン、と軽い音が鳴ったかと思うと、
降り下ろされたそのバールは、真っ二つに折られ(と表現するにはあまりにも切り口が鋭かったが)、
折れた上半分はグルグルと回転し宙を舞い、
落下と共にその速度を増すと、
ドスッ、という鈍い音を立てると共に、
最後フローリングに突き刺った。
下半分だけになったバールを振り下ろした康本は―――顔から血の気が引いていた。
顔を上げた先に―――黙然の抜き身を掲げた芝山が、殆ど仁王立ちという様相で立ち尽くしていたからである。
「王手詰み………」
そう言って口を歪めた芝山を見た康本は、
芝山が、その手の中にある日本刀で、バールの上半分を折り飛ばしたのだということを理解した。
と、同時に、その事実に絶望した。
バールというものは、本当に鉄の塊のようなもので、
たかが日本刀に弾かれた程度で折れて良いほどヤワなものではない―――ましてや片手で受け止められたそれである。
あり得ない―――そう呟くのは、これで何度目になるかわからない。
あの刀も、芝山同様に『あり得ない』物だった。
しかし、これほどの『あり得ない』が重なると―――それは転じて事実となってしまう。
『あり得ない』がこの老人には常識――つまり、この一連の『あり得ない』はやはり事実。
『敵うはずもない』
康本は、自分の脳が導きだしたそんな結論に、
絶望したのだ。
そして。
そんな絶望もまた、現実に変わる。
ざぁ、と冷たい風が吹いた。
芝山の着物が小さく渋かれ、足元の部分がさあっと揺れる。
「仕上げに、殺人未遂ときた。」
―――途端、
芝山の持つ雰囲気が一気に変貌する。
もはや物理的に干渉し始めた彼のまとうオーラが、
空気振動で伝わって彼ら6人に伝わり、
彼の怒りが臨界点を越えたことを知らせる。
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―――もはや語ることも無し。
最後通達として、風と表現するべき何かを強烈に吹き付けさせた芝山は、
「ひ…………!」と頭を抱えた康本の顔面を、
これでもかというぐらいに強烈に蹴っ飛ばし、
そして、「がっ……!」と呻いたそれ気にすることなく、
むしろ踏み台にすると、一気に黒スーツ四人の抱えあげる秋華のもとへと加速した。
まるで足元になにもないかのような軽いステップ。
おおよそ先程まで滝のように血を吐いていた老人のそれとは思えない、熟年のアスリートのように軽やかに、かつ豪快に四人に一気に迫り、
そして―――
「その汚い手ぇを離せ!」
鬼神のごとき彼に対する恐怖で、全く動けず声もでないその四人の、
肩やら腹やら足やらを、まるで剣道熟練者のような太刀捌きで、
次々に峯で打ち据える。
黒スーツ達には、対抗しうる手もない。
何が起こったかもわからないまま、激しい痛覚と共に崩れ落ちる他ない。
ほぼ一瞬の出来事で、しかしその効果は絶大すぎて。
四人目の肩の骨を砕いたところで、
次の一幕には、もはやまともに動くことの出来る者は、康本を含めて誰一人としていなかった。
もう一人いたドアを開ける役目の黒スーツは無傷であったが、
抵抗など不可能と知るや否や、身を守るためまるでアルマジロのように丸くなってしまっていた。
「それで済んだんやから………感謝してもらわんとなぁ。」
うめき転げる黒スーツの一人を蹴っ飛ばし、道を拓いた芝山は、
まるでそこになにもないかのように彼らの体を踏みしめ、
気絶したまま地面に横たわっている秋華のもとへ行き、
そして、自らの血で濡れた掌を浴衣で拭いたあと、
しゃがみこんで彼女の頬に手を触れた。
「災難やったな、嬢ちゃん………
しゃーけど絶対、こんなアホどもには渡さんからなぁ………」
娘を、と出かかった言葉を奥歯で噛み潰し、
それから横たわる秋華を、
刀を持った方とは逆の左手でゆっくりと抱え上げると、それを自らの肩に担ぎ上げた。
―――良かった、息があってホンマに………
そんな安心をほんの一瞬胸にした彼は、
それから一人だけ無事に残った、ドア開け役の黒スーツに『黙然』の鋒を突き付け、こう言い放った。
「死にたくなかったらこのボケどもを連れてさっさと去ね。
今のワシはなにするかわからんぞ。」
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脅された黒スーツの一人は、目の前の惨状をその目にして、
頷く他になく。
そして同時に、秋華を抱えたままゆっくりとした足取りで奥へと帰って行くその老人の背中も、
ただただ無言で見送る他に無かったのである。
―――それから10分も経つ頃には、
もはや六人の姿は全くその場に見えず。
そこに残るのは僅かに、折れたバールの上半分と下半分、
黒スーツ達の流した少量の血、
これでもかと言うほどに散乱した靴やサンダルの類い、
『黙然』の鞘、康本が落としていったらしい契約書の類い、
割られたガラスの破片、
そして、辺り一面にぶちまけられた、
ドス黒い大量の芝山の血であった。
その場に落ちていた血の量をざっと換算してみる。
輸血ボトルが3、4本ではまあ足りないだろう。
起き上がった時既に吐血していた事もある。
康本の感じた通り………本来なら彼の体は、
生命維持などもっての他の体だった。
―――自らの最後の役目を終えたこの老人は、
慣れ親しんだこの牧場で、
その最期に望もうとしていた。
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11
―――*―――
「秋華っ!!」
もはや原型をとどめない軽トラを駐車場にドリフト気味に滑り込ませ、
弾けるように車外に出た勘助は、
『山本牧場』の表札の掛かる玄関の戸を、力一杯引き開けた。
………牧場主の帰還―――康本たちが去っておよそ30分ほど経っていた。
彼は、大雨の国道を、とにかく一秒でも早く帰ることだけを考え、ハンドルを切り続けた。
途中バンパーの一部が飛び、再度ミラーが両方とももげ、ヘッドライトが片方付かなくなるなど、正に瀕死状態に陥った中での激走。
並みの運転なら二時間以上は掛かるであろうその道のりを、彼と彼の瀕死の軽トラは約一時間半で突き抜けた。
―――秋華は無事か。
彼の心中を占拠していたのは、正にその事ただ一つ。
レクサへの心配を柴名に預けて、
彼は、ただ秋華のために、いつ事故で死ぬかもしれないような運転で―――まさに決死の覚悟で帰ってきたのだった。
自分が死ぬも八卦、死なぬも八卦、
どのみち自分が辿り着けねば彼女は連れ去られてしまうのだから、と。
そんなだから、当然というか、
彼は帰還するなり真っ先に家の中へと向かおうとした。
他の選択肢など、とうの昔に雨中のアスファルトに捨ててきた身である。
ここに居てくれ、頼む!まだ連れ去られていてくれるな―――
そんな祈るような気持ちでそのドアを前述のように荒々しく開けた彼は、
次の瞬間に目を襲った強烈な赤の光景に、
言葉を失った。
「血……………!?」
血の海だったのである。
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硝子は破られ、靴の類いは散々にまで散乱し、何か鉄の棒のようなものがフローリングに突き刺さって、
そしてそれを覆うようにぶちまけられた血、血、血…………
勘助は、目を覆いたくなるその光景からなる
突き上げるような恐怖に半狂乱になって叫んだ。
台詞にしようとしても文字に表すことの出来ない、
悲鳴、とも、怒号、とも取れない、
およそ人間の声と思うのも難しいほどに錯乱した叫び。
その光景が、既に事が起きてしまった後だということを、
あまりにも端的に勘助に示したからである。
こんな状況でどうやって彼女が無事でいられようか――――
気絶しそうなほどの大きなショックと、掌をすり抜けていった『安泰』の二文字に、再び彼は叫んだ。
強制的に覚悟させられた彼女の『喪失』、あるいは『死』。
もうこうなったら俺の前から消えることなどどうでもいい。
とにかくどんな形でもいいから命だけはあってくれ!
勘助の脳内に残ったわずかばかりの『冷静』が、そんなことを呟く。
しかし、目の前の血の塊が、勘助の脳内の―――その言葉ばかりも全く全て否定に変えてしまう。
―――無事と語るに足る要素がこの玄関の一体どこに存在するか。
見るからに暴力の痕跡が溢れるこの光景の、
どこに彼女の無事を信じさせる要素が存在すると言うのか。
失態だとか連れていけば良かっただとか、そんな後悔が今は何千億倍の悲哀と自己嫌悪になって襲いかかる。
取り返しのつかないことを――――
その一念が………彼に膝を折らせる。
ジーンズに生温い血の感触。
ついた掌に、体液独特の粘っこい感触。
―――これが遺された唯一の彼女を存在示すものだとすれば、
あるいは、彼女の身に起きたことを証明する物の一つだとすれば…………
「ぃゃ、康本ぉかああぁ…………!こんっなことを…………やらかしやがったのは…………!」
ぎゅうっ、と手に付着した血液を握りしめ、その拳を地面に叩きつけた勘助。
自身の拳からも血が流れ、地面の血に比べまだ鮮やかな赤の血が、
古い血を押し退け、徐々にその勢力を押し広げていく。
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流れ出る自分の血を見、そしてそれが『秋華のもの』と思われる血と混ざっていく様を見た勘助の脳は、
人間感情の自然に従って、ある一つの方向性を導きだそうとしていた。
「奴にこの手による復讐を」である。
この血の海を見て―――そしてこの場に秋華がいないのを見て―――少なくとも全くの無事であることはないだろう、というのはわかる。
どのような形でかは想像もつかないが、この血の量からしてとんでもないことが行われたらしい事実はわかる。
血だまりには鉄の棒が血まみれで落ちているし、ガラスは相当暴力的に突き破られている。
再度繰り返すが、無事を確認できる要素はこれっぽっちも存在せず、
むしろ何かしらの暴力行為があったのだろうという事実の方がはっきりしてくるという有り様である。
『目には目を。』そんな言葉で抑えきれないような憎しみが心臓から溢れて身体中に広がって行く、怒りに手や足がガタガタと音を立て始める。
「ゃあ、ったのは、康本か、なら、俺は殺す、奴を」
おおよそ勘助の口からは作者も聞きたくない言葉だ。
彼を形成する人格が、優しさを持ち味とし、それを人分けに与えることを本分としてきた彼が、
一時の感情という事でなく、恐らくは永久に残り続けるであろう形で
殺したくなるほどに人を憎むことをするようになるなどと、
一体この世の誰が想像できただろうか?
そんな彼の変貌ぶりを記すこの筆も、辛く、痛い。
握りしめた拳からにじり出る、さっき付着したそれと混合した血液がその丸まった指を伝って、
彼が四つん這いに崩れ落ちた朱色の絨毯に一滴づつゆっくりと落ちて行く。
―――ああ、これが憎悪というヤツか………
自分の今の感情をそう分析した勘助は、
その死人のように虚ろになった目を上にあげ、徐にフラりと立ち上がった。
―――奴等はどうしても俺に殺されたいらしい。
掌の血を眺めた勘助は、復讐、それに伴う康本の殺害を決意した。
今すぐにでも行ってやろう、秋華の安否に関わらず、奴の命をこの世から抹殺してやろう、と。
…………憎悪を知った彼の行動は、まるで彼以外の何者かが彼を操っているかのように。
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ふらつく足で、血にまみれた靴下のままで、
足元に転がる無数の靴を蹴飛ばした彼は、ダラリと手を横にもたげて、まるでゾンビのような形で廊下に上がった。
フローリングに足が乗るといつも通りにドタリと鈍い音がする。
いちいちこんなところはいつも通りなのに。
今日も普通に帰ってきて、秋華の出迎えと共にこの音を聞くはずだったのに。
今は自分の家の見慣れた光景にすら、憎悪を覚える。
この家にただ住んでいただけだ、普通にやっていただけだ、なのに、なのになぜこんな仕打ちを、しかも俺たちが受けなければならないんだ?
といったふうに、である。
………床に上がってすぐ、彼は廊下のフローリングに突き刺さる鉄の棒を目撃することになる。
それをバールであると知覚するのに、さほどの時間はかからない。
どうして突き刺さっているのかは………皆目見当が付かないが、
多分、これで彼女を脅すか何かしたのだろう、と、勘助は推測をした。
大の大人がよってたかって、こんな凶器にもなり得るものを振り回して女の子を脅し………あるいは暴力を振るったのか。
とんでもねぇことしやがる…………
三度康本への憎悪が彼の冷静を襲い、
そしてそれは、今にもはち切れようとしているその膨大な康本に対する殺意を増幅させる。
憎しみが連鎖すると、それは重なりあい次の憎しみを産み出す―――勘助は今まさにその事を知り、
そしてそれを上等とすら思っていたのである。
―――奴は、殺す。
突き刺さったバールを乱暴に引き抜き、それを玄関に放り投げた勘助。
鉄が地面に何度もぶつかり乾いた衝撃音を発したが、
勘助はそんなことを気にも止めなかった。
「…………………」
何も考えることなく、ただ憎しみだけを胸に、その廊下を進んで居間へと向かう。
その間も延々と、点々と続く流血らしい血のあと。
―――いったい、どんなことをされたらこんな血が………
康本の残虐性、それを目に彼は奇妙にも薄ら笑いを浮かべた。
当然何かが可笑しかったというわけではない。
ましてや、機嫌がいいことなどまずあり得ない。
彼は―――復讐のために、その狂気を吸収した、と、
ここではそう表現しておく。
今の彼は、一歩間違えれば人外にでもなれるというほどに、
自分という人間を見失いかけていた。
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しかし……幸いに、というか、
その廊下を一歩一歩進んで行く毎に増えていく、水溜まりのごとき血の量を見て、
勘助はそれを不審に思った。
まだ疑問を持てる脳があったことは、今の彼の状況からはほとんど奇跡に近い。
勘助本来の慎重な人格の片鱗が顔を覗かせていたのかもしれない。
ともかく、
あの康本どもは家の中まで上がり込んだのか?という疑問から、
彼はひとときの冷静を取り戻した。
居間へと向かう障子の前で、その血痕が途切れているのもまた疑問のひとつ。
さすがにその事実を分析にかけれるほどに落ち着いていたわけではなく、
勘助はその不審の短絡的な手段による究明のため、その足を速めた。
繰り返すが、全ての冷静を取り戻したわけではない。
この時点でこの血が『秋華のもの』でないことに気づいていないことが、それを如実に物語っている。
が、それでも『彼の片鱗』がその疑問に対して解明の意思を持ったことは―――
つまり、その問題の障子の前に足早に立ち、
それからそれをゆっくりと開けて居間の様子を伺ったことは――――
最終的な結論として、
彼に、間違いなく生まれてこのかた一番のものであろう安堵と、平静さをを与えることになる。
開いた先の、襖の向こうに胡座をかいて鎮座していたその人物は――――
「お帰り、坊っちゃん。」
骨格標本のような体をこちらに向けて、不動のままその顎髭だけを笑みに変えて。
「し…………芝………さ……………?」
見間違うはずもない。
どれだけその顔を黒ずませようと、目を虚ろにさせていようと、
家を出ていった時とその姿が豹変していようと、
22年もの間、家族同然に過ごし、兼続が死んでからは彼の父親だった人物の姿である。
芝山雄一その人の姿である。
色々な感情と言葉がいっぺんに喉に押し寄せ、つっかえる。
口ばかりがパクパクと勝手に動き、
しかし肝心の言葉はなかなかどうして出にくく。。
―――いったいどうやって……?
その一念から、彼の口から漏れだした言葉はこうだった。
「いつ………起きたんです」
彼の心に巣食っていた、康本への憎悪………彼に冷静さを失わせていた要因の類いは、
その勢力範囲を急速に失っていった。
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殺意もブッ飛ぶほどの、信じがたい出来事が起きたのである。
もう、起き上がることは無いだろう、と宣告されていたあの芝山が、
実際のところ、二週間に渡ってただの一度も目を覚まさなかったあの芝山が、
今、虚ろながらしっかりと目を開き、自分の力でしっかりそこに座り、
そして何故かその手に刀を持ち、
こちらに微笑みかけているのである。
勘助は、はたから見て、
何か幻でも見たか、あるいは幻想でも抱いたかと思われる表情で、
やはりここでもぶちまかれている血の海の上を、
足が血だらけになっていることも全く気にかけることなく、
座した芝山のもとへと歩みを進めた。
「どうやって………その体で…………」
「気合いと根性やな。」
そう笑って呟いた芝山。
口元から、少量の血が飛ぶ。
切れかけた蛍光灯がチカチカと点灯し、
それによって生まれる明暗のコントラストが彼の影を歪める。
よく見るとその着衣は、
どうしたらこんな色になるのかと思うほど、強烈に赤に染まっていた。
その後も足を止めることなく、しかしゆっくりとその足を進めた勘助が
彼の目と鼻の先にまで、近づいた頃。
自分の真っ赤に染まった手のひらを見、
足裏にぬめっとした体液の存在を感じ、
そして、そのまま芝山のその口から流れ出る少量の血を見て。
そして勘助は、ようやくある事実に気づく。
「これは…………
芝さんの吐いた血…………?」
掌の赤を、芝山に見せてみる。
時が経ち、乾いて黒くなってはいるが、
それが血液だとわからない人間はまずそう多くない。
不安げな、しかし何かに希望を持ったらしい顔をこちらに向け続ける勘助に、
芝山はその質問の真を見抜き、
そしてそれを承知した上でこう返答した。
「嬢ちゃんは無事や。
………気を失うてはおるこど、命に別状はない。」
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途端、勘助は、足元から体全体にかけて、一気にその力が抜けていくのを感じた。
―――無事……無事とは………
正直、彼は今、無事という状況がどういったものか理解できる状態にはなかった。
多量の血と、あまりにも暴力的なその光景が、
彼の正常な知識の出所を押さえ込んでいたのである。
―――あの状況で無事なんて状態が………?
芝山は勘助の質問の真を見抜くことができたが、
勘助は、『これはあなたの血か』との問いに対する回答、『秋華は無事だ』の真を、
つまり、彼がここに至るまで散々見てきた血が、芝山のものであるということに、未だ気づけていなかった。
………人間として当然の判断を、するに至るに足る能力に、著しく欠如していたとも言える。
とにかく、玄関の一件からなる一種の急激なパニック状態から未だに抜け出せていないというのが、彼をそんな風な状態に陥れていることは間違いなかった。
無事=彼女は安全を確保されている、
という等式を成り立たせることができない今現在の状況。
無事という言葉の意味を、深層意識の中では理解できているが、山本勘助という人間として理解できていないという一種のギャップに惑い、
彼はその場にへたり込んだのだった。
「ぶ、無事……無事って、いったい………」
その目を泳がせ、定まらぬ視線をあちらこちらに飛ばす勘助。
その動揺は誰の目にも明らかであろうもので。
当の勘助からしてみれば、三分前まで手元をすり抜けていったと思っていた感覚が、急に手元にのし掛かって帰って来た感じ。
惑って当然といえば当然で。
そして、芝山も、先程の彼の『血はあなたのものか』との問いかけから、その事は承知しているようだった。
「無事、というか、連れ去られることはなかった。
腹殴られて気絶はしたみたいやけど。
あの玄関にぶちまけられた血は全部ワシのもんで違いない。
あそこに嬢ちゃんの血は一滴たりとも混じってない。」
そういうと芝山は、自分の着ている浴衣の襟元を引っ張り、あり得ないほど血濡れしたその布地を勘助に見せつけるようにした。
自分が吐いた血だと、言いたいのだろう。
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一瞬頭の中が空白になった。
―――無事………本当の本当に秋華は無事で…………
にわかには信じがたく、その可能性にも疑いをかけてしまいそうなその言葉。
状況も相成って、彼の中のその言葉に対する信頼度は、総じてあまり高くない。というよりは、そうにしかなり得ない。
が、あの血が芝山のものであるとわかった以上は、
あり得ない話ではない、とも思えてくる。
信じていいのかと、希望を持ててくる。
もちろん秋華が無事ならば―――勘助にとってこれほどに最良の出来事はない。
「あれ、は―――秋華の血、じゃない?」
小さな、消え入りそうな声で、そっと呟いた勘助。
「ワシのや。ワシが吐き散らした。」
口から血を漏らしながら答える芝山。
勘助は、芝山こそ危ない状態にあることを今はまだ気にすることができない。
「本当に秋華は、無事?」
「無事や。」
「連れ去られても、いない?」
「この家におる。」
芝山の言葉は確信めいていて、なおかつ彼の目は嘘偽りの無いもので。
「――――――」
勘助は、
失っていた平静を取り戻すと共に、
今度こそどっしりと確実にその手にのし掛かってきた手応えに、
じわじわと重さを増して、形をつくってゆくその手応えに
ようやく秋華の無事と安泰を確信することができた。
「秋華は今どこに!!?」
身体中に熱く駆け巡るものあり、そしてそれは勘助を弾け立たせる。
会いたい―――この目で無事を確認したい―――会って謝りたい―――思いっきり抱き締めたい―――彼女を直に感じたい―――
矢継ぎ早に次々と生まれてくる彼女への感情、願望に、
彼は自分が自分であることを忘れそうなほどその心を高ぶらせていた。
山本勘助という人間が、今生きている理由のひとつであると再確認した斎藤秋華の存在…………
今は、とにかくその事を伝えたい。
目を離した自分が悪かったと、
そしてもう絶対にこの手から離してしまうようなことはしないと、
その頭一杯に抱えた感情で、彼女を抱き締めたいと思ったのだ。
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「今、どこに?秋華は―――」
「今は、隣の部屋のワシの布団に寝かせてある。
気ぃは失っとるけど、息はしっかりしてるし、脈も――――」
「―――――」
芝山の言葉を最後まで聞くことなく、和室へ向かおうと勘助は無我夢中のままその足を襖に向かって走らせようとした。
愛しい―――死ぬ思いで帰って来た理由は全て秋華のため。
その顔をもう一度見れると信じて―――
「秋華――――」
が、襖を開けようと手をかけたところで、
思わぬ邪魔が入った。
「行くな!」
フリーになっていた勘助の左の手首を、
枝のようにしわくちゃで細い指と掌が、ぐわしと掴んだ。
完全に襖方向へ向かっていた彼の体は、
その左手を拘束する何かによって進行方向への運動エネルギーを失い、
伸びきった腕に走った痛覚と共に急停止し、
その体は、ぐんと波を打った。
「――――え!?」
動揺と共に勘助の足が止まる。
勘助の手首を掴んだしわくちゃの指の持ち主は、険しい顔でこちらに視線を送っている。
―――なぜ止められなきゃならない?
そんな意思を込めて、自分を制止した腕の持ち主に視線を返す勘助。
「なぜ止めるんです?!」
勘助は憤慨する。
理由は今さら語るまでもない。
だが、芝山はやはりその手を離さない。
「今は………起こしたらアカン。」
「なぜです!?」
「………今起こしたら、嬢ちゃんは…………
とんでもなく辛い目にあわんといかん様なる。」
芝山の声は、重い。
「辛い目って………」
「……坊っちゃんは、目にすることになる。
このあと必ず起こる、ある出来事を。
そんでそれは………嬢ちゃんに見せるには厳しすぎる。」
「………」
ふっ、と芝山がその手を緩めた。
勘助を拘束していたものはなくなり、彼はいつでもその襖の向こうに行ける状態に。
………だが、勘助はその場を動けなかった。
物理的な拘束は無くとも、
芝山の、身を貫くようなその眼差しが、その体を動かさなかったのである。
「立ってたら話ができん。
座ってくれ、坊っちゃん。」
「…………芝さん。」
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その時になって、ようやく勘助は気づいた。
―――芝山の顔色が異様に悪い。
寝たきりで痩せこけていた体が、
今はまるで骨に皮がくっついているだけの、骨格標本のよう。
「……………。」
浴衣に付いた血の染みといい、この家の玄関から廊下、そしてこの部屋にかけてぶちまけられていた血といい、
あれが全部芝山の物なんだとしたら…………
「芝さん………?
あれだけの血……一人で吐いた?」
「………吐いた。」
芝山は、うろたえるでも何かを弁明するわけでもなく、
それが事実であるから肯定するのだと、そういった風に不動のままそこに座る。
これが勘助の胸中をざわつかせたのは言うまでもない。
普通の感覚が戻りつつある彼は、
普通の人間があの血を見て真っ先に思うこと―――あれだけの血を吐いて体が持つのか?ということを、
今ようやく疑問として持つに至っていた。
「それで……大丈夫―――」
「ワシは、じき死ぬ。」
「いや、死ぬとかそういうんじゃなくて、あれだけ血を吐いたら血の量が………………………って、
えっ?」
突如襲ってきたその衝撃的なワードは、
勘助の心臓を大きく跳ね上がらせた。
さっきとはまた別な物が、手元をすり抜けて逃げ出そうとする。
立ったままの足が、さっきと同じようにふらつく。
勘助にとって、予想だにしない、
そして信じられない言葉が、彼の口から飛び出した。
「芝さん。今、何て?」
「ワシはじきに死ぬ。
………正確にはあと30分。
30分ほどたったら、ワシはもう二度と息をすることはない。起き上がることもまずない。完全に死ぬ。
坊っちゃんの目の前で、倒れてそのまま―――」
「ちょ、ちょっと待った!」
堪らなくなって、勘助は話途中の芝山を手で制した。
起き上がらない?息をしない?死ぬ?30分?
一体この人はなんのことを話しているのやら――――
「………何の、話です?それは………」
半分顔をひきつった笑いにした勘助は、冗談めいた口調でそう言った。
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―――冗談なんだろ?
冗談として笑ってくれるんだろう?
そういった期待を込めてのその言葉、口調、表情であったことはまず間違いない。
秋華と言う人間を失わずにすむと思った矢先、
それとはまた別の大事な人が掌から去っていく感覚。
それを全力で拒否したかったのにも違いない。
しかし、それで『その通り冗談だ』と期待通りの返事を返す現実など―――どこに存在するだろうか?
「いや、ワシは、現実に死ぬんや。
これは定まった運命や。
誰にも変えられん。」
穏やかに、しかし、強く自我をもって話す芝山。
―――変わらぬ現実、もう覚悟はできている。
そう、芝山の瞳は勘助に告げる。
勘助は、全身の血が一辺に抜けていくような悪寒に襲われた。
―――あり得ない、どうして、そんな、バカな………!
勘助はそう憤慨する。
―――今人が一人助かったばかりなのに、
なぜそれとはまた別の人間が俺から去っていく?理不尽じゃないか、こんなのは。
しかも、あと30分だ?芝さんが?何故だ、こんな、幕切れは、無しだろう?あっちゃならないだろう?
まだ、話足りないことが、学び終わってないことが、やり残した事が、たくさん…………
顔面蒼白の勘助。
死を目前にした人間を、芝山を前に、彼はどう感情を持てばいいのかを忘れてしまいそうになっていた。
「死ぬ………ですって?
あと30分で?芝さんが?」
「………………。」
無言でうなずく芝山。
勘助から、ひきつった笑いすらも消える。
―――どう信じろと言うんだ?
どう平静でいろというんだ?
次々生まれてくる『肉親』への死への疑問で、もはや彼の頭はパンク寸前だった。
「おかしいでしょ、それ………?
………ダメですよ、そんなの。俺は認めませんよ。
せっかく秋華が助かって、
なんだか知らないけど康本が去っていて、
僕も柴名さんも豪雨の中無事で…………
ある程度のハッピーエンドになる準備は出来てるはずでしょう?
なんだって芝さんが?芝さんがここで死ななきゃなんないんです?
最悪のバッドエンドじゃないですか、違いますか?
こんなところで、エンディングを曲げないでくださいよ………俺の………」
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懇願だった。
どこかでそれが抗えない事実であることぐらいは、彼にだってわかっている。
だが、迂闊にも自分が秋華を置いて出てしまった事、
その事によって彼は一人たりとも犠牲になる人間が出て欲しくなかった。
当然と言えば当然のこと。
事に対象の人間が芝山であればなおのことである。
ハッピーエンドを望む、つまり全員の無事を望むのは、生きとし生ける人間すべてに潜んでいる性なのだから。
だが…………どれだけ願おうが、言葉をぶつけようが、
何をしようがどうにもならないこともある。
老人は、その運命を神に告げられた者。
「嬢ちゃんを助けたのは、ワシや。」
その言葉に。
勘助の目は驚愕に見開かれる。
「…………え」
「………坊っちゃんにとってのハッピーエンドが、どういう物かは知らん。
大方、全員が無事やとかそんなんやと思うねんけど………世の中そう上手くはできてない。
事が起こってしまった以上、誰かはバッドエンドを迎えなあかん。坊っちゃん視点でな。
全員が無事で………なんてのはお伽噺や。残念なことにな。」
「だ、だからって!」
「ワシが死ぬ、言うんは坊っちゃんにとってハッピーエンドではない。
それは何も間違ってない。
実際これから死にゆくワシかて、『死んでほしくない』って言われたら、嬉しい。
ワシがこの世でやって来たこと、無駄でなかったんやと確信できるから、な。
けど、ワシにとっては………ワシ自身が死ぬゆう事実は………
大きく見れば、ワシにとってハッピーエンドなんやで。
坊っちゃん。」
うすら笑みを浮かべ、優しい眼差しを勘助に向ける芝山。
勘助は、再び自分の足下がふらつくのを感じた。
―――自分が死ぬのがハッピーエンド?
一体どういうことなんだ?
何を考えて、どういう思考でそんなことを―――
困惑し、その動揺を全く隠せない勘助。ゆら、と何度もその肩を揺らしてバランスを崩す。
そんな彼の様子に芝山は、ふぅ……とため息をひとつ、
再び勘助の手首をぐわしとつかんで、
それを強引に下に引っ張る事で、彼を座らせた。
不意に引っ張られた勘助は、為す術なくそのままそこに膝を折ることしかできず、畳を足の甲が叩く音と共に彼はそこに崩れた。
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何を―――?と言い返す気力すら、今の彼にはない。
座らされたというのを理解しているから、言い返すこともない。
勘助の着座を確認した芝山は、その手に持った刀―――土地神の『黙然』を、鞘に納めた状態で前へとつき出してみせた。
勘助の表情が、一瞬で青ざめる。
………知床の一件以来彼に見えてしまうようになったものがある。
少なくとも人間の世界に存在してはならないエネルギー体、つまり霊のようなもの。
レクサしかり土地神しかりであるが、
この刀から、それと同じようなもの……霊的なものが感じられてしまったのだった。
「これ………は……?」
「坊っちゃんも知ってると思うけど、
知床の土地神さんがワシにくれた。」
―――やっぱり。
さすがに何もかもを見通せるわけではない勘助だが、
知り合いにそんな存在はただ一人しか居らず、
故に、その線を疑るのは当然のことで。
「芝さん、
土地神様と知り合いだったのか………?」
「その話は後から土地神に聞いてくれ。
ワシからはなんとも言えん。」
苦笑いした芝山。
その事実を隠したい……というよりは、
本当に口出しができないといった感じ。
そして、長年の勘から、
勘助もそれが解ってしまったから、それ以上を詮索することはできず。
しばらくのち、芝山は再び話を始めた。
「土地神曰く、その刀はワシに力を与えてくれるらしい。
実際、その刀に願を掛けたお陰でワシは寝たきりの状態から起き上がることが出来て、
そんでそれを振り回すことで康本どもを追い払うこともできた。
早い話が、嬢ちゃんを救うことができたんや。
詳しい内容を話してる暇はないけど、とにかく自分が自分でないと思えるほど圧倒的に康本どもを打ちのめすことができた。
………とてもやないけど、客観的に見てあんなんは競馬に人生を60年分も費やしてきた人間ができた技やない。
ワシは、念じただけや。あいつらをぶちのめしたいと。
そしたら体が勝手に動いたんや。
それも、まるで武術のプロかっちゅうくらい機敏にな。」
「……………。」




