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「体にしてもそう。
あれだけ動いても全く痛みを伴わへんし、どんだけ血ぃ吐いても体は何も変調をきたせへん。
今は自分という人間が、人間でないような気がするほどや。
ひょっとしたらもう心臓も動いてないかも………
人智を越えた刀や、これは。
土地神が持ってるだけあって―――な。
人間が持つには過ぎたるもんなんかもしれへん。
せやから、それ故に―――その対価に、
この刀はワシの残りの寿命を喰いよった。」
「喰………!?」
「………いや、正確にはワシが『喰わせた』。
残り一日やと告げられた余命を差し出す代わりに、嬢ちゃんの事を助けさせてくれと、そない願を掛けた。
この刀を使ったら、もう二度は起き上がられへんのを承知の上で。
だから、くれぐれも土地神は恨んだらアカン。
全部ワシが望んだことや。
自分が死ぬことがハッピーエンドやと言うたんはこれが真。
ワシにとっての幸せは、ワシの死と引き換えに嬢ちゃんが助かって坊っちゃんともう一回会えるようになること。
最後の役目として、ワシが嬢ちゃんらの幸せを守りきること………
これに尽きるんや。
事ここに至って、もうbestは望むべきやないんや。坊っちゃん。
世の中はbadとbetterで出来上がってる。その事を理解できやなアカン。
ワシは、死ぬのが確定してる。
じゃあ、この状況で何がbetterか。見誤うなよ。
この状況では………嬢ちゃんさえ無事やったらそれがbetterなんや。割りきるんや、そうせんとアカンで、坊っちゃん。
自分にとってこの先必要なものはどっちや?
この老い先短い老いぼれの命か?
それとも己が一生守ると誓った女の将来か?
どやねん?」
黒く深く回りを彫りこまれたそのドスのように黒光りする眼が、
極限までの本意をその視線に変えて勘助にぶつける。
その視線の直撃を、その目に受けた勘助は、
その言葉に嘘偽り、あるいは一点の迷いすらがないと悟りざるを得なかった。
―――芝さんは、本気だ。
本気で俺らのために死のうとしている。
自分の生き死にの事はどうでもいいから、とにかく俺らに幸せになってほしいと、
本気でそう思っている。
そしてそれ故にその死を、もはやなんとも思っていない。
恐怖も、迷いも、無念も、何も―――――
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―――死によって得る最高の死に場所とでも言うのか。
口元の穏やかな笑みでもってその視線に更なるリアルを付け加えた芝山に、
勘助は押し黙り、そして言われるがまま理解に勤める他なかった。
芝山の望む最後とは、自分達のために命を散らすこと―――
それを理解しようとしてしまったその時点で勘助はもう、
死んでほしくないと言える立場にはなかった。
もはや自らの死を、死とも思わぬ人間に、
自分達を助けて死ぬといった人間に、
これ以降も生き続ける生者がどんな言葉をかけられると言うのか。
助けられる立場の人間が、何を意見できるのか。
「…………
………あき………な……の……
……幸……せ。」
もはやそう告げるしかない。
言葉が切れていたからといって……泣いたわけではない。
本意に反した『理解』を口にしたため、その舌がうまく回らなかった。というところ。
………本意に反した、というのは、秋華の幸せが大切じゃないというわけではなく、
勘助がもともと抱いていた『全員無事で』という本意に反した、という事である。
彼の動脈、静脈を、音をたてて激しく流れる善意の血が、全身から悲鳴をあげて叫ぶのだ。
「芝山の死で以て幸せを手にいれるなど………!」
と。
しかし、当の本人にとってはそれが理想の死に様であると。
そして、もはや抗えぬ運命なのだと言われてしまうと、どうしてそれを否定することができようか。
どうして、芝山の意思を否定して、恥をかかせることができようか。
脳と心臓が激しく摩擦を起こす。
理想と現実のギャップが、音をたてて擦れ合う。
それによって胸に生まれた熱は、予期せず涙となって眼から溢れ出す。
―――繰り返すが、彼はもちろん秋華が大事でない訳ではない。
だが………その20年あまりの自分の人生をずっと見守って来てくれた、父とも言える存在の人間の死を、
結果的に自分の事情のために認める事になることに、身を切るような想いであるというのは、
理解してやってほしい。
「秋………華が……大事………」
その言葉の一つ一つは、大粒の涙と共に口から漏れ出して行く………
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芝山は………その勘助の葛藤を悟りながらも、
その言葉を聞いて、満足そうに微笑む。
「この世は理不尽と理想がフィフティ・フィフティや。
理想通りに行くこともありゃあ、思い通りに行かんこともある。
………今回はたまたま思い通りに行かんかった。
仕方ないことや。
むしろ、うまいこといかんかった対象がこの老いぼれの老い先短い命でよかったやないか。
仮に、嬢ちゃん連れ去られとってみ?
坊っちゃんは泣くに泣けんし、ワシは死んでも死にきれんやないか。
な?
それを思たらこの結末も十分ハッピーエンドや。
嬢ちゃんの身代わりになれたこと………ワシは心の底から幸せに思う。
ワシに課せられたモンが最後にこれやったことを誇りにも思う。
先々代に拾われた命を、坊っちゃんの未来のために使えること………恩返しできることをありがたく思う。
だから、悲しむだけ悲しんだら………ワシの事は仏壇にでも追いやって、
気にせんと嬢ちゃんを幸せにせぇ。
ワシの望むことは……ただこの一点に尽きる。」
………言い切った後、ごほっ、という咳とともにまた少量の血を吐いた芝山。
血が乾き、赤黒くなっていたその浴衣が再び鮮血で紅に染まる。
状況から見て肺から上ってきた血であることはほぼ間違いない。
本来なら息をするのも苦しいはずだが、それでも芝山の表情は晴れやかであった。
本当にもう何の痛みも苦しみも感じないのだろうか。それほどまでに死期が近づいているというのか。
あるいは、そんな苦しみを感じていてなお、それを打ち消すほどの満足を得れているということなのだろうか。
どちらにせよ………見ているのが辛くて仕方がない。
この自責………振り払うことなどできるのだろうか、この先。
血を吐いてさえいなければ病床の頃より元気そうに見えるその芝山の座した姿を見、
安らかに見送るつもりだった5時間前のことを思い出した勘助。
この間鳴りを潜めていた、週かを一人にしたことへの自責が再び彼を押し潰そうとする。
「けど………芝さん………俺は………俺が………」
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浮かばない言葉をなんとか口にしよう手するが、もはやかけるべき言葉自体が存在していなかった。
うわ言のように何度も一人称を呟き続ける。
自分の非力に絶望する手をつく、崩れる………
嗚咽を漏らす勘助に、芝山は
「たかが、老人一人のことに………と苦笑し、その頭をポンポンと叩く。
――――優しい子に育ってくれた。
兼続からのバトンはしっかり繋ぐことができた。
と、そのようなことを思いながら。
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―――*―――
………それからほんの少しのち、
足がフローリングをかけるドンドンという音と共に、
包帯をグルグル巻きにしたレクサを抱えた柴名が青ざめた顔で居間へと駆け込んできた。
やはり足は芝山の吐いた血によって赤く染まっている。
「勘助くん、これは一体………」
と幻でも見たかのような表情で言った柴名、そしてその手の中で『あ……黙然……』と小さく呟いたレクサ。
この全く状況を知らない二人は、しかしてすぐにその状況を悟るに至った。
柴名は、その大量の血の先に座する血まみれの芝山、そして膝折り手つき、絶望の様相を見せる勘助の姿から。
そしてレクサは、目の前にいる老人が『黙然』に力を借りて辛うじて息を長らえている『死人』であることを感じとり、
そしてその刀の所有者が土地神であることを知るがゆえに、
彼がここを訪れたことを知り、
それによって、恐らくは秋華も無事なのだろうということまでを悟った。
「芝山さん………」
足元の血が一歩一歩のあとに跳ねて、ジーパンの裾にかかるが、柴名はそんなことを気にもとめない。
その反応は、勘助が芝山の間も無くの死を知った勘助のものと、
ほとんど同じだった。
どう接していいのかわからないといった感じにフラフラと歩み寄ってくる柴名を、芝山はその血で濡れた手で制し、
それから黙然を杖にしてゆっくり立ち上がった。
その間、幾度も血を吐いてはいたが、さすがにその量はもう少ない。
何度かふらつきながらも自力で立ち上がった芝山。
項垂れる勘助、呆然と立ち尽くす柴名、
そして片目眼帯包帯のレクサとその視線の先を移し、
その場にいた全員の姿を確認すると、
ほ、と一息、
それからその重い口を開いた。
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「役者は揃ったな。
ホンマはここに秀馬くんや桜花さんもおって欲しかった所やが…………まあ、それはしゃあない。
―――これから、ワシの遺言を伝えたいと思う。
………とは言うてもワシには財産も土地も何もないから、モノとして残せるものは、いく片かの骨だけやろう。
せやから、せめても言葉だけでも置いていこうと思う。
………ちょっと付き合うてくれ。」
全員が押し黙る。
無言の了解。
それを見、満足そうに微笑んだ芝山は
「よろしい。
じゃあついてきて。」
と言うと、そのいまだにふらつく足を、
しかし気にすることなく黙然を杖にして厩舎に向けて進めた。
立ち上がった勘助と、レクサを抱えた柴名は互いに顔を見合わせた。
―――何故、厩舎?
最初何かの間違いかとも思った。
柴名に至っては未だに困惑の色を消せない。
朦朧として場所を間違えているのでは………
だが、それにしては芝山の向かう足取りに迷いがないので、勘違いというわけではなさそう。
それゆえその行動が理解できず、立ち尽くしていた柴名と勘助。
すると、柴名の腕に抱かれていた眼帯のレクサがその腕からひょいと飛び降り、
その手に巻かれた包帯の端をひら、と翻しながら、
柴名と勘助の手を引いた。
「行かないと……」
――え、と二人が返事をする間もなく、
レクサはさらに強い力で二人を引いた。
「ちょ……」
「レクサ…………」
その眼帯に引かれるがまま、勘助たち二人は戸惑いを見せながらもそれに続く。
居間から繋がるその通路の段差を下り、スリッパをはいて行く。
血みどろの浴衣を翻し、馬房をどんどん奥へと歩いていく芝山の、その枝のように細い背中を追いながら。
一行は、シューカアゲイン、コスモバルクの馬房を通りすぎ、さらに奥の方へ。
先頭をいく芝山のその足取りにはやはり迷いの欠片もない。
ただひたすら、その足取りに惑いなく何かひとつのものを求めて、
手元の黙然を床にコツコツ鳴らしながら進んで行く。
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コスモバルクの馬房を過ぎ、もともとスクイズが入っていた馬房を通りすぎ、
最後ラグフェアーが帰ってきたときのために置いてある馬房を過ぎるとその先はただカラの馬房が続く。
ともかく全くといっていいほど何もない、ラグフェアーより奥の馬房。
ただひとつ………その果てにある、一番奥の馬房を除いては。
芝山は、ラグフェアーの馬房の前をスルーし、とうとうカラの馬房の続くそのエリアに進んでいった。
その時になって、ようやく二人とも芝山の目的とするものがわかった気がした。。
―――最後までホースマンでありたい。
それが死期を目前にした彼の口癖だったのを、ちょうどその時思いだし、
そしてそれならばその一番奥の馬房にいるヤツのところに行きたいのではないのだろうかと思ったのだ。
―――案の定、芝山は、
その馬房を迷いなく縦に突っ切ると、
一番奥の風通しのいいその馬房の手前で足を止めた。
お目当てとされたらしい『ヤツ』は、その首をゆっくりと馬房から出してくる。
芝山は、その『ヤツ』の頬に手を触れた。
それによって『ヤツ』はようやく芝山に気づく。
『ヤツ』………もとい、その漆黒の若馬は、
自分に触れているその手が芝山の物であることに気づくと、
心底嬉しそうに、また、どこか懐かしそうに嘶き、
そしてその端正な顔をすりよらせて甘えていた。
…………よく考えれば、三週間ぶりの対面であったのだ。
芝山もそれに応えて鼻を撫で下ろす。
ただ一言、
「いつもながら元気やのぅ……」
と呟きながら。
芝山が元気な時分は当たり前だった光景………だがその様はもう遠い昔のように思えたし、
今勘助がにしているそれはその昔の記憶とは違い、
どこか名残惜しそうで、そしてとても寂しげで。
「…………」
―――レクサに手を引かれていなければ、辛くて見ていられなくて、その時点でUターンしていたかもしれない、
と、後に勘助は語る。
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最後だと知っている芝山のそれを見るのも辛かったし、
最後と知らずに存分に甘えるトシローの姿を見るのもまた、別種の辛さがあった。
―――俺のせいだ、全部。
そうトシローに土下座して詫びたい気持ちにさえなったという。
勘助ほどではないにしろ、柴名にもそういった自責の念は少なからずあった。
………ともかくもそんな一幕の後には、勘助たちも芝山の横にまでは来ていた。
立ち止まり、条件反射的に辺りを見渡しても、いつも通りの厩舎に違いはない。
古く煤けた天井、世辞にもキレイとは言いがたい馬房、常々買い換えたいと言っていた世話用具…………
そして、そこにちゃんとトシローがいて。
なんならシューカアゲインやバルクも背中の向こうでこっちの様子を伺ったりしていて。
そんな中でただひとつ、いつもと異なる点をあげるとすれば、いつもは休息室に置かれてある20インチの液晶テレビが、
トシローの馬房の前の椅子の上に置かれていたこと。
ブルーレイが一体になっている高性能なヤツ。
今は電源を切られておとなしく沈黙しているが…………
「………トシローは逸材や。」
指をトシローに舐めさせていた芝山から、突如始まった芝山の遺言。
なんの前触れもなく、しかしごく自然に。
弾けるように一同が―――ほとんど芝山に関係のないレクサでさえも―――顔をあげるなか、
トシローは誉められたのがわかるのか、耳をピンと立てて誇らしそうにしていた。
芝山はそれを見てふ、と微笑む。
「能力は言うまでもない。
見たままや。
………スピード、スタミナ、パワー、どれをとっても一級品。
坂を平地のように上れば、
並走する車より早く駆けるし、
それでおって一日中放牧地を駆け回る。血が出るまで走り続ける。
前は折り合いのことで苦しんでたけど、それもこいつ自身が理解してしまえば何にも問題にせえへん。
そういう……人智を越えたような賢さもある。
おそらく、並みの馬じゃ相手にならんやろう。
親バカかもしれんが、ワシはこいつを十年に一度の逸材やとすら思てる。
その時代時代に一頭ずつおる怪物………セントライト、シンザン、タケシバオー、トウショウボーイ……
そんな歴史に語られるような名馬に、ワシはこいつの名前が並ぶことになると、
本気でそう思てる。」
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ゆっくりと話す芝山の一言一句が、
勘助たちの頭の中に競馬場を作り上げる。
脈々と継がれてきた名馬の系譜が、
手に取るように、
実感として、映像として頭に浮かび来る。
―――タラレバを嫌い、『競馬に絶対はない』を教訓に生きてきた芝山雄一………。
そんな彼の口から出た『絶対宣言』は恐ろしいほど衝撃的で、
それでいて現実と区別がつかないほど具体的な想像を彼らの頭に描かせた。
成長したトシローが、七千余頭を蹴散らし、その世代の頂点に立つさまを。
彼らの描いた競馬場が、トシローの走りにうねる様を。
………正直、口に出さないだけで勘助も柴名も、もっと言えばここにいるレクサでさえも、
トシローに関しては大方、芝山と同様の認識を持っていた。
こいつは、世代の頂点に立てる馬だ。
そして、努力しだいでは、
日本で一番強い馬にもなり得る馬だ、と。
ただそれは、貧乏牧場ゆえの希望的観測も混じっていなかった訳ではないし、
言ってしまえば走らないという競馬界独特のタブーもよく聞かされていたので、
あえて口にはしてこなかった。
端的に言えば、競馬界のどこかに存在する『走らないフラグ』を立てることを恐れたのだ。
それがどこに確実にモノとして存在する訳でもない不確かなものでも、
彼にとっては少なくとも良いことではないのは確か。
その根拠のない自信に自分たち世話役が甘えることで、彼の可能性を潰すようなことになってしまうとも限らない。
また、大きな期待を持ちすぎて、失敗したときに彼に失望してしまうようなことがあるとも限らない。
タブーには、形はなくてもそれなりの理由があることを知っているからこそ、
今日の日に至るまで、そしてこれからも永劫口にしないつもりでいたのだが。
しかし芝山はそれをさらりと言ってのけた。
死を目前に控えた者だからこそやれることなのかもしれない。
その手に重くのし掛かってくる『未来への実感』は、まさに芝山のその言葉が作り上げたもの。
これからも生き続けていく者がそれを口にすればそれはただの慢心だが、
この先の光景を見れないものが言うその言葉は、
期して、この先を生きる者へのプレッシャーになり得る。
生前聞かされた『絶対宣言』は、
逆に、その後を生きるものたちの慢心への抑制装置になる。
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「こいつが走らんかった時……それは、間違いなく人間のせいやろう。」
こんなことを芝山が次に言ったときに、
勘助は芝山がその言葉を『遺言』だと言ったことの意味が何となく理解できた。
「…………。」
―――つまり、発破をかけようとしているのだ。
トシローという馬が走り続けている限りつきまとう死人からの言葉のプレッシャーと、
それに対して、言い訳する対象がこの世にいないことによる退路の寸断によって。
間違っても慢心に辿り着かぬように、
自分たちがトシローにとっての害にならぬように。
「人間のせい……ですか。」
………勘助は、遺言が既に始まっているのだということを理解した。
これから死んでいくという芝さん………残したい言葉というのは、
自分たちへの戒めだということなのだろう。
彼が、言葉という存在になって、ここに残り続けるための手段なのだろう。
―――そうや。
と芝山が断言したことで、それは、ほぼ確信に変わった。
その迷いを知らぬ口調には、傍らの柴名も少しばかり息を飲んだらしい。
「もとある以上の能力を引き出すことができるのは人間だけや。
そこに馬のもとの能力が加わって初めて競馬………
しかしトシローにはそのもとの能力というのはずば抜けたものがある。
それ故に、こいつが駄馬になるようなことがあるんやったらそれは間違いなく人間が悪い。
坊っちゃん、嬢ちゃん、柴名さん、古川の旦那、
ほんで死人であるワシ……
この場合、ワシには坊っちゃんらにトシローを任せたことが責任になる。
つまり、死人が戦犯になるかならんかも……坊っちゃん次第やということやが。
ともかく携わる人間全部が悪い。
………馬は悪くない。
それが言えるほどの馬やということや。」
「………。」
「別に、今の坊っちゃんらの育成方針に不安があるからこんなことを言うてるわけやない。
坊っちゃんらのこれまでの努力を否定してるわけでもない。
あくまで、未来の話や。
ワシが生きることのでけへん未来の。
ワシが見ることのでけへん競走馬としてのトシローの。」
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トシローの舌に舐め回されていた手を彼から離し、
そして、そのままそれをぎゅっと握りこんだ芝山。
見つめる拳の中には、一種の無念が―――握りつぶされているような気がした。
「………ワシには、まだ元気な頃に抱いた夢がある。
トシローという馬の存在によって幻想から確かな物に変わった、
馬産に関わってから50年間抱き続けてきた夢が。
…………ワシは、この牧場の馬がG1を勝つ様が、どうしても見たかった。
10歳の時分から延々と働き、守り続けてきたこの牧場の、
結晶とも言えるこのトシローという馬が、
はち切れんばかりに人の詰めかけるG1競争の舞台で、
颯爽と先頭でゴール板を駆け抜ける姿を。
大歓声に迎えられて、緑の絨毯、あるいは黄金の砂の上を、
誇りいっぱいにウイニングランをする姿を。
いろんな人に勝者と称えられて、誇らしげにその優勝レイを翻す姿を………」
芝山はそれを言いきると、その握り拳をふわりとほどいた。
―――或いは、握られていたのは夢そのものだったか。
歯を食い縛り目を閉じ天井を仰ぐ芝山に、勘助はそんなことを思う。
―――どうやっても抗えぬ『死』に、その夢を押し潰されてしまう前に、
自分で握って小さくまとめて、そしてその一部でもこのあとを生きていく者に伝えたい。
長きにわたり持ち続けてきた夢を、
誰かの意思の一部として叶えたい。
そんな芝山の意思が、開いた彼の手のひらの上に見えたような気がして―――
「しゃーけど残念なことに、その姿を見るんは――どうも無理そうや。
ワシの寿命はもうタイムオーバーみたいやからな。ここで。
この目で現役やっとるトシローを見ることも無ければ、
ウイニングコールを大観衆と一緒に叫ぶこともない。
ワシは………50年間待ち続けた物をようやく手に入れて………成就する寸前でそれを手放してしもた。
もう今更喚こうが何しようが手元にそれが帰ってくることはない。
ワシは死ぬ。その事実ばっかりが決まりきった運命………」
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「芝さん………」
やはり勘助の胸は自責に疼く。
―――これは自分のせいじゃない。
芝さんの病気は3ヶ月前にはもう末期だった。
……そう割りきるのが今の勘助にとってはベストだろう。
それはなにも違わぬ事実であることだし、本来は今の時点でそう思っているべきものなのかもしれない。
だが―――彼にはやめられなかった。
奈落への警戒を怠った事への自分への責任の追求を。
――自らの浅はかな行動が、芝山から夢を奪ったのだ。そう時分を責め立てることを。
兼続と共に芝山が、英雄の誕生を心待にしていたという事実を………知るがゆえに。
胸の内でそんなことを考えていれば、
少なからずその意識は顔に表れるもの。
その根の優しさ故の………悲痛な面持ちである。
………当然芝山は、勘助を責めるためにそんなことを言ったわけではない。
勘助に自責を求めたわけでも更々ない。
だから彼は、勘助のそんな表情に気がつくと、
ちょい不味いなぁ……と苦い顔をして、
それからすぐ勘助のその心の負担を軽減するためのフォローにうつった。
「………せやけど。
話はこっからでな。
幸いなことにというか………ワシには、ワシの意思を継いでくれる息子がおる。」
「……………。」
「そんで、それを支える人間もいっぱいおる。
頼めば必ずワシの夢を継いでくれる人間がおる。
だからこそ、自分が思うほどその事実にショックを受けてない芝山雄一という人間がが今ここに居るわけでな。坊っちゃん。
そう……思うよりワシは死を悲観してないんや。不思議なことに。
ワシは、坊っちゃんに忌みごとを言いたいわけでも、
無用のプレッシャーをかけたいわけでもない。
これからを生きて、トシローの将来を築いていく坊っちゃんらに、
その背中を押せるようなプレッシャー………ワシの夢を、ワシの言葉を、
遺言として残したいだけなんや。
………わかってくれ。
そんで、自分を責めるのもやめてくれ。
ワシが見たいのは、坊っちゃんの追い詰められた姿やなく…………
トシローの未来への確信なんや。」
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―――その晴れがましさは、本当に自分の死を悲観していないのか、
それとも自分を安心させようとしてくれているのか。
どちらにせよ勘助には、その曇りのない表情が痛々しいものにしか感じられなくて。
それゆえもう何か話そうにも口にできることがなくて。
もはや口も開かず俯いて、直立不動のまま黙りこくる勘助達に、芝山はまた少し表情を緩めてため息をつき。
それから、これまたゆっくりとテレビのおいてある椅子の前にしゃがみこむと、
黙然を持つ手とは逆の手でそこに置いてあるレコーダーのリモコンを拾い上げ、
なにも言わずテレビの電源を入れた。
長いこと沈黙を保ってきたテレビは、芝山がそのリモコンを操ると共に、
その無表情な真っ黒の顔面にとある映像を写し出した。
「…………!」
それを見た勘助は、
なにも言えない代わり、勘助達はそこに映るものに息を飲む。
「ワシは、これが、見たい。」
呟く、芝山。
停止マークを右上方に宿し、
とある『静止画』を写し出すテレビ画面。
―――斜陽のなか、どこまでも広がる緑の芝生の絨毯。
そのちょうど中央に映る小さな灰色の点は、
『1』を掲げる青色の布と、枝のように華奢な人間を背に重い大地を蹴り飛ばし、
その画面にはまだ写らぬ馬蹄型の板を目指して爆進する白銀のサラブレッド。
残りの距離を示す『4』の赤い標識―――ハロン棒の前を、
ただ一頭駆け抜けていく聖なる烈火。
その背に長い棒状の物を大きく振り上げ、その気迫を叫ぶ泥まみれの騎兵を乗せて。
すぐそこに迫った栄光を掴みにかからんとする執念の塊。
―――これが見たい。いや、見たかった。
………坊っちゃんらもそうやろう?
リモコンを手にした芝山が、視線に載せてそんなことを伝えてくる。
うねるようなスタンドの人の波が、無数の黒い点点が、
その目の前で行われているものがどれ程重要な意味を持っているのかを、視覚に訴えて示してくれる。
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―――これが、グレードワン………G1競争だ。
そう、一枚の絵であるその静止画は勘助たちの心に響きかける。
無駄の無い筋肉の塊……血の淘汰の結晶、四本足の芸術品が競走馬として目指す、最高の栄誉。
そしてそれは、人間にとっても栄光であり、
ホースマンである限りは一度は見てみたい『光景』であり。
そして、頂点を極める器として、トシローの目指すべき場所。
勘助たちがこれから彼を導いてやるべき場所。
熱気、歓声、怒号、拍手、その場を作り上げるありとあらゆるその一枚の『絵』は
芝山がリモコンの再生ボタンを押すと共に、
爆発的な声援を伴って、
動画に変わった。
残り400メートルを示すハロン棒が画面の左―――後方に流れ去り、
『絵』の中心に鎮座していたその灰色の芸術品は、
その馬体を弾けさせるようにして、全身をうねらせ業火のように駆けていく。
その後方からは鹿毛や栗毛の馬たちが塊になって津波のようにその先頭を走る芦毛に襲いかかる。
その光景を作り上げる、前後十数頭のサラブレッドたちが目指すは
大欅を回った東京の500メートルの直線、その先の大歓声と天皇楯――――
『ザラスシュトラようやくここでムチが入る!
残るは300とあと少々、先頭ザラスシュトラまだリードを六馬身ほどとっているぞ!
後続勢はどうか!大きく離れた内から二番手追走はホワイトスカイだが、その外ソングオブチェインの脚色もいい!
そして、ようやく追い込んできたフロンティアエンド、
三番手四番手の位置に接近してくるが―――』
―――200のハロン棒を手応え十分の白銀の馬体が駆けて、過ぎて。
「坊っちゃん。」
「………はい」
「これを、見せてほしい。
夢やろう。これが。正に………」
「これを―――――」
『ザラスシュトラはまだ伸びる!
春天で見せた衝撃は、ここ府中でも炸裂する!
止まらないザラスシュトラ、リードを六馬身のまま残り150ッ!
ホワイトスカイ以下は置き去りにされた!これはもう勝負ありといった感じ!
先頭ザラスシュトラ!
先頭ザラスシュトラ!
鞍上川口大きく手が動いて、
三強の一角が再びこの舞台へ舞い戻ってくる!』
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―――これを、という芝山の言葉の意味を、
理解できない者はここにはいない。
ザラスシュトラが今見ている世界を、
自分にも見せてほしい。
なぜなら今そこに、
芝山という人間がどうしても形にしたかったモノが見えているから。
トシローという馬に芝山が求めた、G1という夢の形が
このザラスシュトラというサラブレッドに関わる人間には見えているだろうから。
だからこれを、トシローという馬で再現できる日を見せてほしいと――――
『残り100!
ザラスシュトラこれはもう確勝だ!
そのリードは七馬身と開いた!
二番手集団はソングオブチェインとラピュタインザスカイの競り合いに、
ホワイトスカイやフロンティアエンドが粘ってこれますかどうか!
しかしそんな争いは遥か後方です!
先頭はザラスシュトラ!
その勝利はもう間違いない!
残り50!鞍上川口既に立ち上がりガッツポーズ!』
右拳を振り上げる騎手を背に、
緑のメンコのザラスシュトラは悠々と、残る30メートル少々のターフを駆けた。
―――後ろを走る馬達とは何か別なレースでもしているような………
恐ろしいことに、見るものの一部はそんな感覚まで得たのだという。
芝山が、
なみのG1でなく……この芦毛の怪物の圧勝に終わるのであろう、
今日の日の天皇賞を見せたがった由縁はここにある。
『芦毛のスーパーステイヤーが、
希代の逃亡者の足跡を今なぞってゆく!
オールドファン達よ見てくれ!東京2000を逃げきるとはこういうことだ!!
ザラスシュトラ、その七馬身の差を保ったまま一着でゴールイン!
天皇賞春秋制覇達成!
勝ったのは三強の一角ザラスシュトラ!
二着にはどうやらソングオブチェイン、三着ラピュタインザスカイに最後並んだのがフロンティアエンドか。
………1998年のあの日以来の空白を見事埋めて見せた!
大逃げの怪物が天皇賞秋を制する!
悪夢に消し去られた光景が、今現実のものになった!
おそらく、おそらく慰霊碑からサイレンススズカも祝福しているのではないでしょうか。
勝ったのは大逃げザラスシュトラです!
……三歳最強フロンティアエンドを完封して、
凱旋門二着のワールドクロックス、そして南部杯圧勝のミツアキインパクトに再び挑戦状を叩きつけます!
二枚の盾を背にいざ三強対決へ!』
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電工掲示板は、すぐに一着の欄に『1』の数字を点灯させた。
単勝3.3倍二番人気ザラスシュトラ、
支持に応えての圧勝劇。
天皇賞春に続くG1二勝目。
名実共に………現役最強の一角へ。
ゴール版を過ぎ行き、ちょうど1コーナー辺りをゆっくりと走る芦毛のそいつは、
二着以下に7馬身の差を付けるような激走のあとも、
おおよそ限界を駆け抜けたという風もなく、
見た目には少しケロッとした感じで、ホームストレッチへとウイニングランをしに帰ってくる。
鞍上の川口が何度もガッツポーズをし、喜びを爆発させるのと、
それは全く正反対の態度のようにも見え。
―――まだワールドクロックスに勝ってない。
あいつに勝ってこそ。
馬自身がそれを自負しているかのようにも見えて。
「あれが、G1勝つ馬や。」
リモコンの停止ボタンを押しつつ、芝山が呟く。
テレビが音声、画面ともに沈黙し、
それを注視していた勘助と柴名は自然と芝山の方を見る。
レクサは………いつのまにか居なかった。
「………フロンティアエンドとザラスシュトラの間には、圧倒的な能力差はない筈や。他はともかくな。
逃げ差しの脚質の違いはあっても、実力的にも実績的にも、
これと強調出来るような差は存在せえへん。
ましてやフロンティアエンドには明らかに適距離で、ザラスシュトラにはどちらかというと短い距離………
ホンマやったらその多少の有利不利が響いてもっと競り合ったはず………
せやけど、結果を見てしまえばザラスシュトラの圧勝。後続に七馬身差や。
最終的にフロンティアエンドには10馬身近くは差ぁついたやろ。
何がこの差の要因なんか?
もちろん本馬の能力は大前提においての話。
スタミナ一辺倒のヘビーステイヤーなんかと思ってたら、きっちり東京の2000を逃げ切るだけのスピードもあった。
それがすごいのは百も承知。
………ワシがあえて言いたいのはそんなザラスシュトラを作り上げた回りの人間のことや。」
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そこで一旦話を切った芝山。
トシローがその場の三人を不思議そうに眺めるなか、
彼は厩舎の入り口に掛けられた時計を確認した。
―――午後6時ジャスト。
ち、と芝山が舌を鳴らした。
―――もう時間がない。そんな焦りからくる苛立ちなのだろうと思う。
その後口調を早めた芝山の姿からも、その推測はまず間違ってはいない。
「ザラスシュトラという馬が実力以上を発揮できるように努めた、陣営の努力。
真の敵がどこにおって、どう勝てばいいかを教え込んだ陣営の。
どうにかこうにかやって人間がこいつを勝たせようと努力して、それで結果的にその努力がフロンティアエンド陣営より勝ってた。
現に、春先には2200で大負けしてるのを、2000で勝てるように成長させたんは、それは間違いなく陣営の人間の努力なんやから。
隠されてた絶対的な能力を、見事引き出して見せたんや。
……ほんで、騎手の馬に対する理解度も、川口の方が勝ってた。
川口はザラスシュトラの脚が直線まで残る事を『確信』し、
フロンティアエンドの鞍上セミヨンは、彼の末脚を『過信』した。
ここに大きく差が出来てる。
だから、ザラスシュトラは勝った。
フロンティアエンドより強いザラスシュトラを作り上げたんは、
そこでの人の差やねんやと思う。
人と馬は7対3………その3のデカさがこれ以上明らかになるレースもなかなかない。」
「…………。」
「馬は、よくも悪くも人間が作る。
生まれてきたときの能力だけでは勝てん。
まして、適当にやってるだけでは育つもんも育たん。
結論から言うとな。
トシローを生かすも殺すも坊っちゃんら次第やっちゅうこと。
大切やから、ホンマに大事なことやから、
耳にタコできるほど言うたる。
馬は人次第で変わる。
能力のない馬やったらどうにもならんこともあるやろう。
せやけどな。トシローは素質の塊なんや。
下手に育てさえせえへんかったら重賞の2つ3つは余裕でとりよるやろうし、
上手く育てりゃG1もとる。
ワシの夢も叶うやろう。
せやけど、せやけどや。
最期のワシの遺言は………
『トシローは歴史的名馬に育て上げられる。』
や。
G1で満足をしてたらアカンねや。」
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「G1一回だけ勝つ馬ならそこそこおるかもわからん。
けど、そいつらは後の世に語られるほど大きな存在感は得られてない。
そういえばアイツはG1馬やったなぁと、そんなありがたくもなんともない評価を貰うだけ。
………トシローはそんな小さいことで終わってまうような中サイズの器とちがうやろ。
G1一勝でようやったって褒められるような、
そんな浅い器と違うやろ!」
「芝さん…………!」
芝山の言葉が熱を持った。
もう、止まることはない。
絶えず押し寄せる波のように、その一言一句は勘助の心を打ちつける。
「こいつは歴史に名を残す名馬になる大器や。
道営からはばたいて北海道から旋風を巻き起こして、
ひとつの時代を造り上げれる馬や!
ザラスシュトラを見てみい。
ワールドクロックスと同じ時代におってG1二勝もしてて、
三強と呼ばれる馬らの中の一頭として君臨してて、
どない考えても後の世に名を残すべき歴史の名馬やろ!?
トシローもそうあるべき馬なんや!
歴史的名馬になるだけの素質のある馬なんや!
父親のコスモバルクのように野武士として地方から中央に殴り込みに行って、
それでおって大祖父のトウショウボーイみたいに天馬として競馬場を飛翔する、
スーパーホースとして輝けるだけの馬や!
能力は十分、素質も十分。
じゃああとはなんや!?坊っちゃん!
ワシの夢が正夢になるのに必要なもんは一体なんや!?
坊っちゃんらあの努力なんや!
ワシの関与でけへん世界での、
坊っちゃんらあの努力なんや…………!!」
涙と血渋きが、ひらりと何度も翻る浴衣の袖口を飛び越して勘助の顔にかかる。
熱く、痛く。
心に響くその滴。
遺言―――本当の本当に遺言。
死を意識せざるを得ない状況で、
炎のように熱い芝山が帰ってきていた。
クールな芝山は次第その姿を消して行く。
言い換えれば黙然の力が弱まってきている。
リミットが近い。
芝山は―――残る時間を精一杯生きるために、
勘助たちになにかを残すために叫んでいる、それが脈打つごとに実感を持つ…………!
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が。
ヒートアップの代償は突然に訪れる。
―――いいか!?人を見誤るな!努力をさらに続けろ!それが坊っちゃんに一番必要なこと!
最善の道を、『歴史的名馬』への最善の道を―――
「ベストを尽くせ。」
それを、彼の口が言うことは無かった。
言葉の代わりに飛び出したものは………口一杯の血。
彼自身経験したことの無いほど大量の、
さっきとは比べ物にならないほどの。
まるでバケツをひっくり返したように吐き出されたそれは―――もはやボタリボタリと鈍い音をたてて床を黒い赤に染め上げた。
黙然を手に膝から崩れ落ちる芝山。
口一杯に血を含んでいるためか、うめき声すらもはや上がらない。
「ッ………芝さん!」
急いで勘助は介抱しようと駆け寄る、が、芝山はそれを手で制した。
「…………ゴポッ………グフゥッ………」
「芝さん……!」
もはやその体に血は残っていないのかもしれない。
生命維持にはもはや限界量なそれをとうに通り越した芝山。
黙然の気配も次第消え行き、傍目に体の何処にも力が入っているようには見えない。
膝をつき、黙然を杖にして辛うじて座れている状態。
吐血は………止まりはした。
が、それの示す意味合いは………
「柴名さん!救急車!救急車呼んで!」
なぜそうした方がいいと思ったかはわからないが………勘助はそんなことを叫んだ。
どうにもならないことは百も承知で、それを芝山自身も知っていたから遺言を遺したのだというのも理解していたのだが。
彼はともかく………救急車を!と柴名に言った。
だが、柴名の方がこの時は………冷静というか、判断が確りしていた。
直立不動のまま、芝山にその視線を投げ掛けて……語り始めた。
「………救急車は意味がありませんよ……勘助くん。」
「柴名さん………しかし!」
―――しかし………何なのだろう?勘助がその先を口に出来なくなったのと同時に……
柴名はその先を語り始める。
「―――芝山さん。
あなたの遺言はしかと受けとりました。
トシローが現役のうちは、僕もここにいることにしましょう。
厩舎に入ってしまえば何もすることはないかもしれません。
ですが………あなたの遺言通りにトシローが『歴史的名馬』になるまでは………
あなたの代わりの目となって………トシローを見守り続けましょう。」
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芝山が、虚ろな目で顔をあげる。
血の出なくなったその口は………真っ赤に染まっていて見た目よりはるかにグロテスクで。
「心………強い……なぁ…………
あり………がとう……柴名…………」
息も絶え絶えに芝山が言う。
その顔はもはや生者の持つべきそれにはない。
何せ死者であるべき体が黙然によって無理やり生を得ているのだ。
………筆舌にし難い物。表現のしようも見当たらない。
だが、それでも芝山は笑顔を作る。
『伝わったなぁ』と、その喜びを表現する。
「……………」
―――俺も、言わないと、ダメか。
芝山の死という未来に耐えて、この先の話をしなければならないのか。
ともすれば…………
柴名と芝山の視線の先はもはや勘助。
ひゅー、ひゅー、と芝山は息をする度喉をならす。
ああ、いかほど苦しいのだろう、
今倒れてしまった方がどんなに楽なんだろうと、
勘助の心にそんなことが浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
言わなきゃならない言葉はわかっているし、その言葉のもつ意味合いもしっかり理解できている。
『俺はトシローを全力で見守ってゆく』
その言葉ひとつで事足りる。
芝山は楽になれる。
それは―――わかっているのだけれど。
そうしていく覚悟も心積もりも、しっかりと出来上がっているのだけれど。
どうしても、芝山という人間の命が消えていくという悲しさに―――打ち勝てない。
一度口を開いたら、「死なないでくれ」って叫んで、かえって心配させたまま死なしてしまいそうで。




