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………近頃は、事ある毎にセンチメンタルになるなぁと秋華は思う。
競馬を見るたびに勘助と出会った事への偶然性を思い、運命の不思議さに浸る。
トシローと遊ぶたびに、彼がこの先歩んでいくであろう、華やか克つ残酷な世界の事を考える。
そして、時たまこうして一人になった時には、
将来、自分はどうしているのだろう。
山本牧場の一員として、しっかり仕事をこなせているだろうか。
というより……
ちゃんと勘助と一緒になれているだろうか。
そもそも、結婚するのだろうか……?
などと、ぼんやりとした不安を感じながら過ごすことがある。
最近少し忙しくなったせいもあるし、たぶんストレスでも貯まっているんだろうなぁ………とは思いつつも、
そこはやはり秋華、勘助にはそれを感じさせぬように生活している。
忙しいのはありがたい事だし、
それによってただでさえ疲れている勘助に自分の事なんかで手を煩わせたくない………
そんな彼女の根の優しさは、
しかし先述したとおりに、彼女自身の負担になっていることもまた事実だった。
………本当の事を言えば、一人で天皇賞を見ようとしているこの状況だって、
寂しくてならないのだ。
「…………。」
『さあ、ファンファーレが高々に鳴り響きまして、
東京競馬場のボルテージは一気に最高潮へと向かいます!
馬蹄型のゴール板、その前に待ち受けるは500メートルの直線、
そして、
そのさらに向こうには盾の栄光!
三強の一角がその意地を守るか、
それとも漆黒のダービー馬が三強に挑戦状を叩きつけるのか、
はたまた脇役と言われたものたちの逆襲か!
今、奇数番から各馬ゲートに収まって行きます。
一番ゲート、注目のザラスシュトラはすんなりと収まります…………』
―――素人目にも気配抜群………
そんな印象を抱かせる、灰色のその馬体。
ゲート内でスタートの時を待つその怪物は、
静かに、静かに刃を研いでいるといった様子で。
「頑張って、ザラスシュトラ。」
自問に疼く胸を押さえ、噛み締めるように秋華は呟き。
『フロンティアエンドが、少しチャカつきながら三番ゲートへ………』
カメラが漆黒の馬体を映し、ちょうど実況がそうアナウンスしたその時、
事の起こりを示すように、
玄関で来客のチャイムは鳴った。
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※
――――――
ピンポーン、と、
お決まりの音色が廊下を駆ける。
「……………?」
こんな時間に来客?
と、秋華は思った。
滅多にない来客がこの時間にある、という事実が少し引っ掛かったのである。
ここは一端のド田舎、北海道でも有数の過疎地であり、
都会のように頻繁に人が訪れてくるようなことはまずない。
三日に一回でも来客があれば多い方だ。
現に、少し前に秀馬達がここを訪ねて以来、
来客らしい来客は、皆無といっていいほどない。
平常時でこんな感じなのに、
ましてや、もう夕方も近い四時前である。
仮に今からここに客が来たとしても、帰る頃にはとんでもない時間になる。
そんなだから、この時間からここに来る人は大概、先にこちらに連絡を入れて、宿泊を前提に訪ねてくるのだが。
からといって、勘助から誰かが来るという話も聞いていない。
連絡もなしに来る人なんて、桜花や秀馬、古川の社長以外には思い当たらないが、
ウチのこの小さな牧場でさえ忙しい時期に、あの大牧場の責任者たるあの二人が、用事もなしにフラッと遊びに来るとは考えにくい………
若干の疑念と不安を抱きつつも秋華は起き上がり、インターホンに繋がる受話器を取る。
「……はい、山本牧場です。」
極めて平然を装いつつ。
すると、ほぼ同時といったタイミングで、その返事は帰って来た。
「あっ、お忙しいところ申し訳ありません。
酒川急便の者ですが。
山本勘助様にお荷物をお届けに上がりました!」
一聞、爽やかな、若い男の声。
いかにも体育会系の話し言葉。
なんだ、宅配便か。
ホッと胸を撫で下ろし、「少々お待ちください」と答え、
受話器を置いた秋華。
ガチャン、と、通話の切れた音がする。
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勘助宛の荷物というのは、さして珍しい事もない。
種牡馬辞典や、資料などはいつもインターネットで手にいれるし、
もっと言えば馬具や生活必需品の一部も、その道の専門店から取り寄せることがある。
………今回も、たぶんその類いだろう。
印鑑と、もしも代引きだった時に必要な、適当な金額のお金を持った秋華は、急ぎ玄関へと向かう。
手元にあると邪魔なスマホや、ザラスシュトラの人形はソファーに置いて。
発走直前の天皇賞の実況が玄関からでも聞こえるように、テレビの音量を大きくして。
『さあ、続々とゲートイン完了していきます。
14番ゲートにソングオブチェインが収まって、
あとはディープスカイ産駒の筆頭、ホワイトスカイが収まりますと体制完了しますが、
少しホワイトスカイがゲート入りを嫌って………』
テレビから離れるにつれ、徐々にその音は小さくなって行く。
ちょっと聞きづらいなぁ………などと思いながらも、
宅配便を待たしてはいけないと、
その後すぐに整然と靴の並べられた玄関にたどり着いた秋華。
居間から聴こえてくる実況放送を気にしつつ、スリッパを履いて、
スライド式のドアに手をかけて。
『あっ、今ようやくホワイトスカイが収まりました!
絶対王者不在の京都競馬場、
再び王座への挑戦権を手にいれるのはどの馬か!
欅の先にある盾の栄光へ、
秋の天皇賞、
態勢完了―――!』
―――枯れ葉は舞い散り、爆発的な歓声は舞い上がり。
G1独特の雰囲気が液晶を伝わり。
わあっ、と沸いたテレビの中の歓声を気にしながら、
「―――どうも、ご苦労様です―――」
そう言って彼女が開いた、
そのドアの先にいたのは、
宅配業者などではなく。
『スタートしましたっ!』
「―――――!?」
そこにあった顔を見て
彼女は、恐怖のあまり言葉を失った。
「や…………やす………!?」
「久しぶりだね、秋華?」
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―――そのドアの先にいたのは、
紛れもなくあの康本、
そして、何度も見覚えた、あの悪魔のような配下の黒スーツ達の姿だった。
「は…………!」
忘れかけていた暗黒の過去が、
決壊した堤防から押し寄せる濁流のように、彼女の頭に到来する。
想像するに耐えない苦痛を伴って、彼女の脳にその記憶が蘇る。
目の前に在る、丸くシワの無いメガネ面が、すべての記憶を掘り起こす。
「あ…………あ……!」
意識が飛びそうになるほどのショックが、脳天を直下する。
記憶に書き増しされた衝撃が、体を揺さぶるように。
『ややばらついたスタートとなりました。
少し出遅れたのかフロンティアエンド、
ザラスシュトラは好スタート、流石の川口優雅です!』
そんな風に叫ぶ、実況の声も、
今は、その恐怖を煽るBGMでしかなく。
「迎えに来たよ。
さあ。
夢の時間は終わりだ。
現実に……芸能界に帰って来い。」
康本の顔が縦に歪み、その背後の部下たちはゲラゲラと下品に笑う。
一年ぶりに見たその男の顔は、前にも増して狂気に歪んでおり。
「い……いや………!!」
彼女は逃げようとした。
とにかく、
逃げなければならないと思った。
どこに逃げていいのかもわからない。
逃げ切れるかどうかなんてわからない。
でも、逃げなきゃ。
逃げなきゃ、終わる。
ようやく手にいれた
『日常』が。
勘助と手にいれた
『幸せ』が。
そして、同時に始まるだろう。
『絶望』が。
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「――――。」
だが、立てない。
足がすくんでどうも動かない。
体がカタカタと震えて、頭が真っ白になって、
膝が言うことを聞かなくて。
『さあ、難所と言われる東京2000mの、スタート直後の急コーナーです。
内枠有利といわれるこのレース、
一番ゲートを引き当てたザラスシュトラ川口優雅が大きく手綱をしごいて、前へ前へと押し上げていきます、
そして、そこからちょっと控える形になったのがソングオブチェイン、内でじっと我慢の様相か。
さらにそれに並びかけるようにしてサマーズウインド、
鞍上天ヶ瀬修一郎、ちょっと押さえきれない感じ、
そしてそこからほとんど差が無く大きな馬群、カザハネ辺りは中段のここを追走、
注目の三歳馬フロンティアエンドは後方待機!……』
そんなボルテージの上がりきった、やかましいまでの実況ですら、
やけに遠くに聞こえる。
心なしか、意識が遠い。
「いい子だ。抵抗しないでこっちに来なさい。
悪いことは言わないから……」
とうとう玄関に侵入し、さらに秋華に迫る康本。
縄やら木刀やらを持った黒スーツたちが、そのあとに続く。
「ち、違う!来ないで………!」
足
を引きずりながら、何とか後ろへ、後ろへ、と
後ずさる。
―――助けを呼ばなきゃ、
助けを―――
人間としての防衛本能が働いたのか、彼女は助けを求めることを思った。
「だ、誰…………か!」
―――真っ先に思い出したのは勘助の顔。
だが、
すぐに、さっき出掛けてここにはいないという事実を思い出す。
「――――」
だったら、と、例の通報機能付きの例のスマホをポケットに探すが。
(な、無い――――!)
ソファーの上に、ザラスシュトラ人形と共に置き忘れ。
「来ないで………!!」
言葉で制して、止まるはずもなく。
万事休す―――そんな言葉が頭を過ったとき、
斎藤秋華は、
康本が伸ばしたその青白い手によって、
一切の抵抗の手段を失った。
「誰も来ないから。
諦めろ。」
「ひ………!」
―――狂気に、冷徹さが加わっていた。
『さあ、二コーナー回ってこれからバックストレッチですが、
先頭はザラスシュトラ、後続に五馬身、六馬身と差をつけて、
爆炎の前の狼煙といった感じか!
早くも大逃げの様相を見せております!』
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8
――*――
同刻、知床。
『――さあ、二コーナー回ってこれからバックストレッチですが、
先頭はザラスシュトラ、後続に五馬身、六馬身と差をつけて、
爆炎の前の狼煙といった感じか!
早くも大逃げの様相を見せております!』
――レクサの持つ水晶玉からは、勘助の家に大音量で響く、その競馬実況が流れ、
そして同時に、
今現在山本牧場で起こっていることを―――玄関での康本の襲撃を、はっきりと写し出していた。
「これは………あぶない。」
その小さな顔を青ざめさせたレクサは、もう一度それを凝視した。
半ば、目に映るその光景が信じられなかったせいである。
しかし、どう見ても秋華は数人の男に囲まれ、引きずられ、無理矢理連れ去られそうになっており、
しかも、それに対して彼女はなんの抵抗もできておらず。
ビュウッ、と生ぬるい風が吹き抜け、レクサの髪をしぶき、彼女の不安を煽る。
―――さっき、勘助と柴名は一緒に出ていって。
今は、芝山と秋華しかいなくて。
………助けにいかなくちゃ。
彼女はそう思った。
何だかんだと理屈はない。
自分に親切にしてくれて、親しくしていてくれている人が危ない。
そして、今それに気づいているのは自分しかいない。
すなわち、助けることができるのは、
自分と、土地神しか――
「おじちゃん!秋華が―――」
――助けにいかないと危ない!
そう彼女は、後ろにいるはずの土地神に伝えようと叫び、そして振り向いた。
が。
「え…………」
そこに、土地神の姿はなく。
そして、彼の外出を示すように、彼らの居住区たる空間の入り口は、外界に向けて開いており。
「おじちゃん………」
レクサは、間の悪さを呪った。
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土地神が、なんの断りもなく外出することなどしょっちゅうなので、別に珍しいことでも何でもない。
だが………
「このタイミングでいなきゃ………どうするの!」
涙が込み上げてくる。こうしている今にも、秋華は、バタバタと雪崩れ込む黒スーツ達に引きずられ、連れ去られようとしていて、手遅れになろうとしている。
「――――」
土地神がいなければ、自分はただの女の子。
自分の薙刀としての能力も生かせなければ、
男五人を相手に追い返すだけの力も持ち合わせていない。
「――――!」
自分の非力さと、土地神の間の悪さに、半ば半狂乱になった彼女は、
しかし、自分が何をすべきかだけは見失わなかった。
秋華を助けなければならないという意思を、失わなかった。
自分にどうしようもなければ、助けを呼ぶしかない。
土地神以外の手で、何とか対処するしかない………!
ほとんど条件反射的に彼女は水晶玉を見る。
そしてそこには、彼女の求めるものを汲み取ったがごとく、
勘助と柴名の現在位置が示されており。
「へ………変化っ!」
水晶玉を向こうに放り投げ、薙刀に変化したレクサは、
半ば弾けるように、半ば飛び出すように、
その住まいとも言える空間を飛び出した。
少しでも遅れれば、本当に手遅れになってしまう。
とにかく、急げ!自分………!
今にも連れ去られようとしていた秋華の、無事を祈りながら
彼女はあらんかぎりの力で飛んだ。
まだ事を知らず、のんびりと国道を走る勘助たちの軽トラを目指して。
………強風が吹き、パラパラと雨が降りだし。
黒雲立ち込める空を切り裂いて、一本の薙刀が疾って行く。
………知床の天候は急に下り坂になっていった。
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*
――――――
レクサが去り、水晶玉のみが残された、住居の空間。
がらんどうになり、静寂の訪れたその空間には、
ただ、水晶玉が発する、山本牧場の争乱が放つ悲鳴や怒声が響き。
同時に、スクリーンの代わりのようになった空間の壁には、
映写機たる水晶玉の映し出す山本牧場の様子が転写されていた。
レクサによるコントロールを失ったその水晶玉のカメラアングルは、
まるで監視カメラのように、各部屋の現在の様子を順番に撮して行く。
誰もいない、居間。
トシローが駆け回る、放牧地。
暴力に溢れる、玄関。
バルクの嘶く、厩舎。
最後に、
芝山の眠り続ける、和室……………
そしてそこに、
いつもと違い、黒装束の和服に身を包んだ土地神の姿があったことを、
レクサは、知らなかった。
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作者より
――――
この先の展開は、土地神が色濃く絡みます。
つきましては、応援特典『からころむ・過去編(一般公開済み)』を読まれてからの方が、わかりやすいかもしれません←表現力に乏しいだけ(T_T)
読まなくても話はちゃんと繋がりますが、
作者としてはそっちの設定を念頭に置いてかいていますので、
是非読んでいただきたいと思ってます。
間に失礼しました。
引き続きリターンオブバルクをよろしくお願いいたしますm(__)m
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8
―――*―――
「目覚めよ、芝山」
威風凛々とした、涼やかな風が通り抜けるような。
そんな声に呼ばれた気がして、芝山は目を覚ました。
………いや、目を覚ましたという表現は、あるいは適当ではないかもしれない。
布団に収まった後の肉体は、そのままの形で全く動いていないし、生物学的には全くの睡眠状態で。
しかし、自分としての意識はハッキリしており、
思考をすることも、言語を理解することもできる。
眠ったままの自分の体を、見下ろすこともできる。
つまり、浮いている。
先程の、目を覚ましたという表現が相応しくないものであるとすれば、
幽体離脱、とでも言うべきだろう。
『意識のある何か』である自分は今、
『現実の自分』離れて目を覚ましていた。
―――幾日ぶりの目覚めなんやろうか………?
もう死んだんやと思った。
今、自分どないなってんねやろ。
何で、自分は意識があんねやろ?
この、自分の体から解脱した状態は………
………そんな自然な疑問が浮かんで消え、浮かんでは消える。
いったいどうしてこんなことが起こったのか?
若干透けとおった幽霊のような自分の体―――手を見、首をかしげた芝山。
浮いたままの状態で、周りを見渡してみる。
特段、以前と変わった様子はない。
上には電灯、右に線香が仄かに薫る仏壇、左に木製のちゃぶ台テーブル、そして、下には静かに寝息をたてる自分の体。
空いた襖の向こうには、相変わらず寂しげな元食堂、そしてその向こうの居間………
最後に起きていたときに見た光景と全く同じで、特に違和感はない。
あえて言うとするなら、人が誰もいないことくらいか。
自分が異常な状態であるのに、周囲に変化がないのを少し気持ち悪く感じた芝山。
―――いったい何なんや、これは。
超常現象、という言葉で片付けてはあまりに安っぽい。
何か、自分が人間を超越してしまったような、そんな感覚。
例えて言うなら、UFOを見たのではなく、UFOになったような感じ。
「…………。」
紙の抜け去った頭を少し掻いて、芝山は自分の体の上に胡座をかいた。
――何が何だかわからん。
そんな風に混乱する頭を、一度、整理するために。
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「現象には必ず理由がある」
何年か前のドラマの主人公の物理学者が、そんなことを言っていたが。
やはりこの世の中には説明のつかないこともある。
説明をつけようにも、今、浮いている状態の自分は、地球上に知られているありとあらゆる類いの物質に、恐らく当てはまる事はないだろうし、
脳がある本体と今ある自分が、どうやってリンクしているのかもわからない。
―――世の中は不思議に満ちている。
柄にもなくそんなことを思った芝山。
何故こんなことが起こるのか………
それはたぶん、説明をつける事ができない。
幽霊を『見た』時なら、ありもしないものを錯視しただとか、無理にでも説明の付け様はあるが。
今は自分が幽霊なのである。
「………ひょっとしたらワシは死ぬんか?」
誰もいない和室の、壁に向けて語りかけてみる。
―――天国か地獄に、旅立つ手前。
そう考えるのが、今は一番妥当な線だと芝山は思う。
本当にそんなところが存在するとは、以前彼は思っていなかった。
だが、今の自分の状況を考えると、
何でもあり得るかもしれないと思えてくる。
多少人間界の想像の範囲を越える程度の事なら、
起こっても何ら不思議はないとすら感じる。
だとすれば―――そろそろ迎えが来るのか。
最後に、秋華、勘助に顔を会わせる事もなく。
また、その姿を見ることすらなく。
旅立つことに………なるか。
「まあ、馬に負担を強いる罪な仕事をやって来た身やからな……
これぐらいのバチは当たってもしゃあないか………」
はは、と笑った芝山。
やはり、もうじき死ぬのだ、そうに違いない。
そうあらためて思った芝山は
ふぅ……とため息をひとつ、それから何気なく上の方を仰いだ。
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その折、ふと壁にかかった時計が目に入る。
時間にして、午後3時46分。
―――そうか、この時間なら勘助たちはトシローの調教に出ているに違いない。
せやから、今は向こうの部屋に誰の姿も見えへんねや。
………。
やはり、会えそうもない――
そんなことを思った芝山。
逃げ場を失った寂しさが、がらんどうの体を駆け抜けてゆく。
抗いようのない切なさが、胸を締め付ける。
「……………ふ。」
………だが彼は同時に、
勘助や秋華の顔を最期に見たいというその自らの意思とは逆に、
これでよかったのかもしれないとも思い始めていた。
今ここで音もなく、静かに生涯を閉じることができたなら、
自分の苦しみ悶える様を勘助たちに見せることもない。
安らかに逝ったのだと、そう思ってもらえる。
もっと言えば、
救急車を呼ばせたり、病院に連れていかせたり、治療費を払わせたりと、
彼らに負担を強いることもない。
一瞬のうち、
コロッと倒れ、コロッと死んだ。
それが自分の死に様で、
そしてそれによって少しでも彼らの苦痛と苦悩が除かれるのであれば、
これに過ぎたることはない。
…………ひょっとしたら、
バチが当たったというよりは神様の配慮なのかも知れない。
やや楽天主義であるようには思う。が、
そうなのだと思えば、自分も少しは世のためになることができていたのかもしれないと、救われたような気分にもなる。
先に逝った馬たちも、ひょっとしたら許してくれているのかもしれない………と。
そこまで思索して、芝山は
―――全く、自分という人間はどれほどまでに図々しい人間なのだろう。
そう、自分を諌めた。
自分が馬たちに許しを越えたような立場でないことぐらい解っているはずなのに。
死期に至ってまでまだ何かを求めようとする自分という人間は…………
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―――もうこれ以上何も考えまい。
芝山はそう心に呟いた。
死に際まで自らの愚かしさをさらけ出したくはない。
凛として、競馬というシステムの中に一生を捧げたホースマンとして、
静かに、そして穏やかにその時を待とう、そう決めたのだ。
一人の、人間の、安らかなる死を―――
「残念だが、そうもいかん」
「――――!?」
突如として、突風のようなものが、
凛として涼やかな青年らしい声と共に、背後から芝山の体を駆け抜けた。
ごおっ、と耳元で音をたて、まるでそこに何者も存在しないかのように彼の体を突き抜けて行く―――
「がっ………は……!」
外界からの一切を閉じられた部屋ゆえ、無論風ではない。
だが、感覚としてはほとんどそう表現するに差し支えなく。
それゆえ、圧倒的な圧力が背後から押し寄せ、
その体が前に渋き飛ばされそうになるほどで。
耐えるのがやっと……とは正にこの状況―――
「ぐ………!」
―――何事や!?一体!
突然の出来事に驚き、
とにかく体を低く伏せ、その「風のようなもの」をやり過ごす芝山。
目をつぶり体を丸め、周囲からの一切の情報―――ありとあらゆる感覚をシャットダウンし、
とにかく身の安泰を図る。
―――いや、今の自分には守るべき『身』なんて物はない。
身がないのに我が身に危険を感じる。
今の自分は人間ではないのに。
………ならば相手も人外か。
どうとう迎えが来た、とでもいうのか。
徐々に弱まっていくその『風のようなもの』の中、
ひたすら頭を伏せつつ芝山は考えた。
行く先は天国か地獄か、
いや、そんなことはどうでもよく、とにかく自分が死ぬことには違いない。
「もういい……!
ひと思いに連れてけや……!」
今さら訪れた死への若干の恐怖。
もう後悔はないから――早く連れていけ!
そんな意思を明確に示すがごとく、彼は噛み締めるように唸った。
どうせ連れていかれるのなら、少しでも早く……
………だが。
芝山という人間の意識はそのまま消えることなく、
やがて、背後のプレッシャーがふわりと緩み、『風』が完全に静止してもなお、
その場に在り続けていた。
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次にいるのは三途の川……そんな風に思っていた芝山は、
自分が生存しているこの状況にやや困惑しながら顔をあげた。
………やはり、先程の『風のようなもの』は、『風』そのものではないらしい。
あれほど厳しく吹き付けていたというのに、部屋には一点の乱れもない。
飛ばされているべき布団、倒れているべき箪笥、そして、飛来物によって穴の開くべき襖、障子………
もし芝山の感じた『風のようなもの』が物理的な要素を持った『風』であったならば
これらは全て、前記のような破壊を伴っていただろう。
だが、目の前の現実は
さっきまで見ていた整然とした光景と、なんら変わりがない。
それどころか、テーブルの上に置かれた空のスチール缶ですら、微動だにしていない。
「…………。
何やったんや………今のは………」
半ば、今起こった現実に唖然、呆然とした芝山。
未だ僅かに吹いているその『風ではないなにか』が、ひゅう………と耳元で音を立てる。
その音が次第弱まるごとに、芝山の混迷はどんどん深まっていった。
一体何が起こったのか………
そんな、
彼のどこまでも自然な問いは、
その『風』が完全にやむのと同時に、解明の糸口を得ることになる。
『久しいな。芝山雄一。』
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*
―――――
『久しいな。芝山雄一。』
………目覚めの時に聞いたのと同じ声―――おそらく、『風』の主のものである声が、
起き上がろうとした芝山に対して、静かに、またゆっくりと背後から語りかけた。
ヒュウッ、とカマイタチのような切れのある風が、
一瞬間、ほんの一瞬間、芝山の頬をかすめて過ぎ去った。
「…………!」
芝山は、その声に聞き覚えがあった。
その、人間のそれとは思えぬ邪心のなさ、
ありとあらゆる障害を通り抜けそうな透き通った声、
秋の風のような爽やかな雰囲気。
先程の「聞き覚えがあった」という言葉には、少し付け加えの必要があるかもしれない。
芝山は、その声の主を――背後にいるその存在を「知っていた」。
もう遠すぎて、遠すぎて、自分が何歳だったかも思い出せないほど昔の記憶。
幼い自分が、逃走に疲れはて、楽になろうと向かった、知床のあの記憶………
「知床の………死神?
あんたか………?」
振り返ることなく芝山は言った。
遠い昔の出来事、だが鮮明によみがえる知床の記憶………
彼はその中に、蝦夷錦に身を包んだ白髪の青年の姿を得ていた。
『ほう……覚えていたか。
60年ぶりといったところか。
互いに少し老けたかもしれんな。』
ふ……と口元を少し緩めた『死神』。
さあ………と今度は優しい風が吹き抜け。
そしてそれが、記憶の中、知床のあの場所で感じた『風』と一致したことで、
思わず芝山は後ろを振り向いた。
「あ、あんた、ホンマに……」
そう口では言ったが、実際のところ見違える筈もない。
日本人離れした長身、腰まで伸びた長い白髪、蒼く澄んだ瞳、少し細身とも言うべきシルエット。
着物を翻し、長い髪を大きく揺らす、その姿は間違いなく―――
『いかにも我は知床の死神である。』
そう言った声まで全く同じ。
聞く者の心の波を鎮めるような、低く透き通る声。
服装こそ、喪服のような黒い和装で、記憶にある蝦夷錦の姿とは違うが。
しかし芝山は確信する。
この人は、間違いなく、
あの時知床で自分を諭し、救ってくれた―――
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「あんたには感謝してもしきれん。
いつか礼が言いたかった。」
芝山は立ち上がり、これまでにしたことの無いような深いお辞儀をした。
自分のこの人生の、すべての始まりはこの神様―――そう言っても過言ではない。
先々代の牧場長……勘助の祖父に拾われたあの時、そもそも身を投げようとしていた自分を「自分と境遇が似ている」と、言って、諭してくれたのはこの神様。
自らを死神と名乗ったこの神様だった。
もしあれがなければ、そもそも今こうして生きていることもなければ、
古川耕平、山本兼続といった盟友、
勘助という息子、
秋華という娘に出会うこともなく、
また、競馬に生きることも、トシローに夢を見ることもなかっただろう。
充実していた今までの人生の、約九割は存在しないものになっていたはずだ。
恩人―――そう、恩人に違いないこの神様が。
あの日以来……60年ぶりに自分の前に姿を見せたのだ。
彼の心を端的に表現するならば………そう、感無量であった。
「お陰でワシの人生は……他人に比べて相当に充実してた。」
死のうなんて思うてた人間が、こんなに幸せな生涯全うできたんや。
もう思い残すことは何も無いし、あんたに連れていかれるんやったらワシは本望や。
………地獄なり天国なりふさわしい方に叩き込んでくれ。」
芝山は、この神様が自分を迎えに来たのだと思った。
自分を生かした者として、最後を看取りに来てくれたのだと。
彼の置かれている環境と、今起こっている現実を見れば、そう判断しても何ら不思議はない。
少し視点を変えてみればあまりにもファンタジックで、常人に理解できたものではない。
だが芝山の主観からすれば、
『死神』が自分の目の前に現れた今となってはもはや、何もかもが現実にあって然るべきものに思えてくる。
そして、「死神が自分を迎えに来た」と考えることは、
今現在の状況において、もっとも合理的な考えであった。
だから彼は、目の前の『死神』と名乗るそれに言ったのだ。
「あんたに連れていかれるなら本望である」、と。
………だがその言葉に対し、『死神』は大きく首を横に振った。
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『二つほど、貴様の勘違いを正しておく必要がある。』
………彼が一言を発する度、緩やかに『風』が吹く。
だが、その『風』は相変わらず、現実のものに対して、物理的な干渉を起こすことはない。
霊体であると思われる芝山のみが、それを感じていた。
「勘違い?」
『…………。
我は確かに貴様の死期を知ってはいる。
が、断じてあの世からの使いとして来たわけではない。』
「え………」
『そもそも我は、純然たる意味での《死神》ではない。
《死神》とは、死者の魂を狩る者のことを言うとそう聞き及んでいるが………我はその様なことをできる立場にはない。
我は、死を司る神であるから、《死神》と名乗るに足る存在ではある。が、貴様ら人間の考えているような《死神》とは違う。
我は、身投げ人のあとを追うものの記憶を消してやるだけの存在………ただの知床の土地神だ。
一介の土地神に過ぎぬ。』
「―――」
『故に、貴様をあの世へ送ること……叶わぬ。
というより、そもそもが貴様らの言う天国や地獄たるものが存在するのかどうかすら、解らぬ。
何も、知らぬのだ。』
「そう………なんか?」
『そうだ。そうなる。
では、そんな小さな存在である、無力な我が何故貴様の前に再び現れたのか………貴様はそれが今疑問であるはずだ。
それに答えよう。
先に言った通りだ。我は貴様をあの世へ送りに来たわけではない。
むしろ、その逆なのだ。
端的に言おう。
貴様は今、死するべきにあらず。』
「な………!?」
がらんどうの霊体であるはずの自分の体が、自分の心臓が、大きく脈を打った。
土地神の白髪がふわっと浮き上がり、何か気のようなものが纏われているのが、霊体である芝山にはよくわかる。
『貴様の命は、あと以て半日といった所だ。この事実は変わらぬ。理は曲げられぬ』
「半日………で、か。」
―――やはり死ぬのか。
少しばかり胸に亀裂が走る。
『………半日で、だ。
本来なら今この時など……大人しく死を待つべき時期であるが、な。
だが。
貴様にはやるべき事がある。
今、この瞬間に。
これは貴様の生まれてきた理由―――運命とも言うべきものだ。』
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「――――」
土地神の眼が蒼さを失い、赤く鈍く光りだす。
芝山に、彼の鼓動が伝わる。
―――怒っている?憤っている?
そんなことを芝山が感じた次の瞬間。
『時が惜しい』
そんな言葉と共に、芝山の脳内には、
赤く光った土地神の両眼から発せられた、
『あるイメージ』が鮮明に到来した。
その『あるイメージ』とは、
現在に至るまでの山本牧場の状況の物だった。
―――天皇賞を二時間前に控え、外出する柴名と勘助。
そしてそれを見送り、一人家に残る秋華。
それを虎視眈々と狙っていた康本とその従者たち。
気づかない勘助。
「こ………れは!」
『…………。』
見開いた芝山の目に、驚愕の色が見える。
―――襲撃される?
頭の中に鮮明に映る黒いワゴンが、
その中にいる人間たちの心の闇を示すかのように黒く迫り来る。
―――天皇賞の発走。
宅配便の来訪を装い、常套手段によって秋華を誘きだす康本一行、
まんまと引っ掛かる秋華、
そして、彼女を連れ去ろうとする黒スーツ達………
イメージは、ブツッ、と何かが途切れたような音と共に、そこで暗転した。
はあ、はあ、と息を荒げた芝山。
『芝山―――』
「―――これは現実か?未来か?過去か!?
嬢ちゃんは!?坊っちゃんは!?今どこに―――」
『今、だ。芝山。
今この瞬間に、秋華は連れ去られようとしている。』
「い、今やと!?
したら、今っちゅうたら、もうこの牧場を出てどっかに連れ去られてるっちゅうことか!?
坊っちゃんは!?柴名は!?
一体何をしてるんや!?」
『あせる気持ちは解るが、
少し落ち着け、芝山。』
「これが落ち着いてられるか!
坊っちゃんがおらんねやったらワシが!
秋華は今どこや!?え?死神っ!
ワシが助ける!
助け出したる!!
せやから、死神!はよワシを本体へ戻せ!!
あんたやったらできるやろ!?え!?」
『落ち着けといっている………!!』
ヒートアップしきった芝山に、土地神の口調も徐々に勢いを増し。
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しかし芝山の口はそれに留まらず、さらに上を行き。
「一刻を争うんや!連れ去られてからやったら遅い!
奴ら人でなしや、何するかわからん!
頼む、行かせてくれっ!!」
だが、土地神も怯まず。
『一度落ち着けと言っている!!』
「ええい、何でわかってくれやんのや!?
待て待て言うな、やかましい!
はよ戻せっ!
ワシを本体にはよ戻せ―――」
『時計を見ろっ!芝山あっ!』
ごおっ、と圧倒的な『風』が吹き荒れる。
誰も聞いたことがないほど荒ぶった声で芝山は一喝し、
その、あまりに強大すぎる雰囲気と凄みに
ほとんどパニック状態に陥っていた芝山も、これにはさすがに口をつぐんだ。
「はぁ……はぁ………。」
叫びに叫んだ反動―――息切れした芝山は、
小刻みに呼吸を整えながら、その額の汗をぬぐう。。
「がはっ……はぁ……。」
『時計を見ろ。芝山。』
同じ言葉を、しかし今度は落ち着き払った声で言った土地神。
芝山の背後、壁にかかった時計を、ゆっくりと指差す。
『見ろ』
「………。」
言われるがまま、背後を振り向き、指の先にある壁掛け時計を見上げる。
……時計自体に特別変わった点は見当たらない。
形が変わっていたり、針の形が曲がっていたり、そんな異変は見当たらない。
が、芝山は、その時計の、針の指す時間を見て、
我が目を疑わんがばかりに驚愕した。
「3時……46分……。」
―――時計が、全く動いていなかった。
長針はおろか、秒針の位置まで同じ。
3時46分32秒。
最後に時計を見たとき………目覚めた時と、全く同じ。
電池切れか?
そう、正常な頭は考えた。あのとき、たまたま電池が切れ、動かなくなったのでは?と。
「――――。」
反射条件的に、布団の上に座り込んだままの芝山は窓の外を見た。
―――回りの風景に異変はないか。
時間の経過を示すものがないか。
答えはノー。
時間の経過を示すものなど、どこをどう見ても存在しない。
なぜなら。
逆に、時間の停止を示すものがそこにあったから。
「鳥が…………」
空中に留まったまま、石像のように動かない。
羽をはためかせない、空を滑らない、鳴かない、飛ばない。
信じられない事に―――理解しがたいことに―――確かに、ここの時間は制止していたのだった。
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『時は止めてある。
我と貴様以外の、ありとあらゆるものは動かぬ。』
そんな土地神の言葉に、柴山は絶句する。
この神様は――本物なのだ。
本物の、神なのだ。
……別に、その存在を疑っていたわけではないが。
前に会ったときも、常人には理解しがたい空間現象を見せつけていたが。
―――しかし、時間を止めたとなると。
また話は違ったものになる。
自分が思っているより遥か数倍、とんでもない存在なのだ、
この神様は。
世界中にどんな神様が存在して、どのくらいの数のものがいるのかはわからない。
が、おそらく。
そのどれと比較しても見劣りしない、相当強大な存在なのではないか?
極東の、辺鄙な島国の、最果ての地の、ただの土地神であるのに―――
『止まっている、とはいえ………。
他人に干渉したり、物理的にものを動かしたりすることはできぬ。
ここは、貴様という人間のみが存在する世界………
簡単に言えば、今この環境は、貴様の精神に空間を作りそこに貴様と我のみがいる状態だ。
故に貴様は霊体で、我は物理的に干渉を及ぼさぬ。
そして貴様の精神内ゆえ……時が動かぬのだ。
この空間に他の人間が存在しないのもまた道理………』
彼の瞳は赤さを失い。
もとの深い蒼さにそれを戻す。
「ほんなら………今、嬢ちゃんはどこに………」
『現実世界では、今は玄関にいるだろう。
まだ連れ去られてはいない。
手遅れではない。
今、貴様がこの空間から脱し………目覚めることができたなら………
そう、奴を救えるのは貴様しかいないということだ。』
「―――。」
『貴様は、行くのだろう?芝山。
自らの命を散らすことになろうとも、想像を絶する苦痛を伴おうとも、
奴自身のため、そして貴様の息子のため、奴を救いに行くのだろう?』
哀しみを含んだ薄笑い。
芝山という人間の性に触れたゆえの悲しき笑いか、
それとも彼が逝くことを惜しんでの切なき笑いか。
しかし芝山は、そんなことを気にしている場合ではなかった。
自らの持つ、その鋼鉄のごとき定まった意思を、
粗き息づかいに載せて返す。
「…………。
当然や。
これ以上、嬢ちゃんは苦しむことはない。
地獄を見てきたあの子に、これ以上不幸せを強いることはない。
二度も………勘助も秋華も、苦しません。」




