39
―――1―――
僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
――――道程
高村光太郎
長らく勘助の『父』であった
芝山雄一は………
とうとう眠り続けるようになり………古川の訪問があったあの日以来、
一度も目覚めることはなかった。
苦しむでもなく、病状を痛がるでもない。
あまりにも安らかすぎるその深い眠りに。
山本勘助も―――斎藤秋華も―――
彼の、このままの死を、覚悟していた。
枯れ葉ちらつく秋の日は、
秋の盾の近きに、
府中の欅の萌えることである…………………
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―――2―――
その日のその時間も、
…………特別、変わった様子もない昼下がりだった。
いつも通りにトシローを調教して、
いつも通りに放牧に放り出して、
いつも通りに従業員三人で昼飯を食う。
山本牧場のメンバー………
勘助や秋華、柴名、そして起きることこそないものの芝山。
彼らにとってこの日もいつもと同じ、普通の一日になる筈だった。
東京開催の、天皇賞秋の発走を楽しみに待つ、日常の中の一日に―――――
『………さあ、この三時間後!
東京11レースは天皇賞・秋です!
三歳王者、ダービー馬フロンティアエンドと、
芦毛不出生の怪物、ザラスシュトラとの一騎討ちに注目が集まります!
フロンティアエンドは京都新聞杯からダービー制覇を含む無傷の三連勝でこの舞台へ、いまだ東京では敗けがありません。
対するザラスシュトラは宝塚記念こそ逃したものの、その後夏の新潟記念、札幌記念を制し、サマー2000シリーズ王者として両盾制覇を目指します。
そしてその他も、一昨年の天皇賞春を勝ちましたソングオブウインド産駒ソングオブチェイン、
今年の天皇賞春は競争中止も、その後のエプソムカップを三馬身ちぎって快勝したカザハネなどが台頭するこのレース……………』
有料放送ターフチャンネルのアナウンサーは、
来るべき、大物二頭の対決に、既に興奮しきっているようだった。
山本牧場、居間。
少し遅めの昼食、ちゃぶ台を囲んで秋華の作ったチキンライスを頬張る従業員三人は、
液晶テレビに映る天皇賞秋の、展望予想番組を見ていた。
「絶対王者」ワールドクロックスや、「笠松の風」ミツアキインパクトといった、
いわゆる『三強』の内の2頭が出走を見送り、メンバー的に手薄になるだろうと予想されていたこの天皇賞だったが、
新興勢力―――三歳王者フロンティアエンドが菊花賞を回避しこちらへ向かったことで、
俄然難しい、読めないレースになった
というのが世の定評だった。
「………異次元の末脚と、爆逃の戦いですか………。
また面白いことに。」
片手にスプーン、片手に新聞の柴名は珍しく笑みなき真剣な顔で言った。
騎手時代は法律により馬券に手をつけられなかった柴名だったが、
その騎手を引退した今、彼は新しい競馬の楽しみ方として、馬券予想をするようになっていた。
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「フロンティアエンドが、グリグリの一番人気ですね。
単勝2・1倍。どこのどの記者も本命はこっちです。
対するザラスシュトラは単勝3・5倍の二番人気………
まあ、さすがと言えばさすがですが、今年の春天(天皇賞・春)を勝った馬としては不本意な形でしょうね。」
バサリ、と新聞を畳んだ柴名は、それを机の上に少し乱雑に置く。
ちなみにその新聞の一面には
『超抜リハ!ザラスシュトラ両盾制覇へ!』
と、スポーツ紙らしい大々的な字で書かれている。
そして、それを見た秋華は、その新聞を拾い上げて曰く。
「ところで………柴名さんの本命はどっちなんですか?
私はもちろんザラスシュトラを応援しますけど……」
―――折角騎手の人がいるんだし、話聞いてみたいなぁ……
そんな彼女の純粋な興味心に。
「難しいですね。正直悩みます。」
柴名は少し頭を掻いた。
「………普通に考えれば東京無敗のフロンティアエンドなんですよ。2400のダービーも、1800の毎日王冠もなんの問題もなく勝ってますし、距離的な不安は皆無ですから。
ただ―――それに対抗しうるほどにザラスシュトラが成長したというのもまた事実な訳で。
宝塚記念のとき、あの馬にとっては適距離とは言えない2200で、
一度はワールドクロックスに交わされながらもそのあとしぶとく伸びてきていました。
前の彼にはそれがなかった。
要は、ザラスシュトラが以前のままの彼なら間違いなく本命はフロンティアエンドにしていました。
ですが、まあ……ハッキリ言って、今の彼には魅力ありますよ。
東京の直線が長く、フロンティアエンドに有利だと言うのを考慮しても、軽視はできないなぁと言うのが僕の感想です。」
―――結局曖昧ですみませんね………と苦笑する柴名。
レース展開を読むのとは違い、馬券を買うときの予想というのは一ヶ所に定まりにくいモノではある。
「じゃあ………騎手の目線からして乗りやすいのはどっちでしょうか?」
さらに重ねて秋華。
………端から見る勘助が思うに、彼女は、
柴名が『ザラスシュトラ有利』と言うまでは聞き続けるのではないかと思うが………
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「それはフロンティアエンドですね。」
キッパリと柴名。
悲しいかな、彼は嘘をつけない性であり。
そして、秋華の顔色の変化にも気付けない。
「ザラスシュトラのように大逃げに片寄る馬というのは扱いが難しい。
ツインターボがいい例です。
勝つときこそ圧倒的に勝ちますが、負けるときは大負けすることが多い。
ザラスシュトラの場合はあの京都記念ですか。
大逃げもやたらめったら飛ばしているように見えて、かなり考えなきゃなりませんから。
まあ、そんなこんなで………好位につけてレースを運べるフロンティアエンドの方が乗りやすいは乗りやすいですね。」
―――まさにバッサリ。
さすが元騎手、馬の話になると歯に衣を被せる事がない
だが、それゆえに秋華の機嫌は―――
「………。」
「ど、どうしました?秋華さん……」
「なんか見るのが嫌になってきました……」
うつ向く秋華。
「………えっ?」
柴名は秋華がザラスシュトラが好きだというのを忘れていた。
―――そういえばたまにザラスシュトラの人形の姿を見るが。
あれも彼女の物だったと思い出したのもついこの時で。
「あっ!いや、しかし、どちらが強いかというのはまた別の問題で!
僕が説明したのはあくまでツインターボの例で、彼は惨敗と圧勝のギャップが人気……」
「惨敗…………」
「いやっ、その、それはともかく!
僕は乗ったことがあるわけではないから実際のところがどうかはわからない所はありますよ!
だから、希望をもって下さい!ね!?」
必死にフォローの柴名。
極めて大袈裟に事を話す柴名に彼女は。
「………じゃあ、柴名さんは何から買うんですか?」
「―――それはフロンティアエンドから総流し………
は、止めときますよ。はい。
最強の逃げ馬ザラスシュトラから買うつもりです。当然。
そりゃあもう、はい。」
半ば秋華の視線に脅されたような形で柴名は言う。
しかし、秋華の持つ、柴名の買ってきた新聞には、
しっかりとフロンティアエンドに本命印が。
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「………この二重丸は―――」
「―――それは呪いのマークです。来ないように暗示をかけたんです。
怨念と呪縛を込めてみました。」
全身から汗が吹き出しそうな柴名。
秋華のような普段滅多に怪訝な顔を見せない、
もっと言えば怒った所を見たことがない人間が、怒った様と言うのは中々に恐ろしいものなのだろう。
苦しいながらも巧みな言い逃れでのらりくらりと詰問をかわす。
「ザラスシュトラの所に印がないのは………?」
「記者が一杯丸つけてくれてるのに、いちいち僕が印打つ必要も無いかなぁ、とか思いましてね。
最強のザラスシュトラをインクで汚すことこそおこがましい――――」
………その後も、こんな感じで追及と誤魔化しとでいたちごっこを続ける50近くの元騎手と、22才の元アイドルを微笑ましく思いながら。
勘助は、ザラスシュトラの調教映像を肴に、匙を進めていた。
ここは今世界で一番平和かもな………と、そんなことを思いながら。
皿に残ったチキンライスの最後の一口を、名残惜しく口に運んだ勘助。
………コシヒカリとグラム88円の鶏ムネ肉のハーモニーは、
勘助の心に余裕をもたらす、魔法の食事になった。
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―――3―――
「お昼から出掛けるんですよね?
勘助さんたち。」
キッチンで食器の片付けをしながら秋華が言う。
近頃の秋華は専ら家事に専ずることが多く、ここに来た一年前に比べると、随分とエプロン姿が様になっていた。
勘助の視点から見て、家庭的になってくれたといったところだろうか?
今さらというべきかもしれないが、もう、ここを出ていく気など皆目ないらしい。
ま、本当に今さらだが………
「ああ、まあちょっと組合の方に用事があるんだ。
来月分の飼い葉のの注文とか、来年のシューカアゲインの配合相手のこととかな。」
マグカップのコーヒーを一口、息をついた勘助。
「………特にシューカアゲインのことだ。
来年生まれるキャプテントゥーレの子が丈夫に生まれてくれればそれに越したことはないが………
二年連続で同じ配合相手というのもどうかと思うんだな。
キャプテントゥーレみたいなサンデー系種牡馬が合かどうかは走ってみないとわからないし、
初子のデビューは早くても三年後だ。
それまでに他の種馬を試すのも悪くないと思って………
そこでだ。
来年はまた別の種牡馬をつけることを考えているわけ。
それなりに安くて、それなりに期待できる種牡馬をな。
候補で言えば………アジュディミツオーとかフリオーソとかのダート系種牡馬。
あの辺の中堅クラスの馬がいいと思うんだ。
で、今日はその見積もりのつもり。」
「結構大切な用事ですね………。
うーん、来年の事なんてまだだいぶ先だと思ってたなぁ………」
―――そうか、もうシューカちゃんも初仔が近いんだ。と、秋華。
どことなく、といった感じだが、彼女のその表情からはそれを待ちかねたような様子をしていて。
皿についた洗剤を洗い流した彼女に、勘助は聞いた。
「楽しみか?」
彼のそんな問いに。
彼女は満面の笑みをもって「もちろん!」と答えた。
………シューカアゲインの血統は決してよくない。
父系も一介の地方血統で、母系には六代前にアングロアラブのいる、いわゆるサラブレッド『系』血統。
純然たるサラブレッドとは言えない地味すぎる血統で。
したがって、正直な所、
来年生まれてくる仔には競走馬として大物になってくれだなんて過度の期待はしていないし、
逆に言えば一勝、二勝してくれれば御の字だと思っているのだが……
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「芦毛の女の子がいいです!
芦毛ちゃんすごくかわいいし
それに、女の子だったら、引退したあと繁殖のためにここに帰ってこれるじゃないですか。
そりゃあ、基礎牝馬にするにはちょっとっていうか、かなり貧弱な血統ですけど………
でも、競馬なんて何が起こるかわかりませんし!」
―――メジロマックイーンの血も、二代目で爆発したんですから。
と、秋華は笑顔でいう。
「うん、
その通りだと思う、俺も。」
相槌を打つ勘助。
………よく一年の間にここまでの知識をつけたものだ、
と彼は彼女にただただ感心する。
去年の東京大賞典の頃なんかは、馬が最終的に馬主に売られて牧場を去って行くことすら知らないレベルだったのだ。
むしろ、初めて見たレースがサイレンススズカの秋天だった事もあってか、競馬を嫌っている節すらあったのに。
……あの時のコスモスルーオフの劇的なG1勝利と、柴名の涙が彼女の中の競馬に対するイメージを一新したのだ。
そして………その柴名が今はこの牧場にいて。
彼女に新たな知識を与え続けているのだから、運命もまた不思議なものである。
「まあでも、
とにかく、とりあえずは怪我のない、丈夫な仔に育ってほしいです。
無事此名馬って言葉もありますから。」
ふふ、と微笑んだ秋華。
その手元の皿洗いにも、心なしかリズムが生まれる。
こういう時の秋華は………相当に機嫌がよく、
そして、勘助にとっては
………超絶に可愛い。
「………安産祈願のお守りでも買ってくるかな。」
その熱気すら伝わってきそうなまでの彼女のハリキリ様と、人の繋がりの不思議さに苦笑した勘助。
――いいですね!それ!
と笑顔で答えた彼女の頭を撫でた勘助は、
テーブルに置かれた自分のマグカップを流し台に出してその場を後にする。
………近頃、「もし秋華があの時ここに来てくれていなかったら………」とふと考えることが多く、その度にゾッとする勘助。
考えようによっては、あの時秋華がここに転がり込んでくることがなければ、彼は何の心の支えもなく、たった一人でトシローやバルクの世話をこなさなければならなかったかもしれないのだ。
基本勘助は心の強い人間ではなかったから、
もし本当にそんな状況になっていたとしたら………
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恐らくは牧場勤務は多忙を極め、
心の拠り所のないストレスも重なって
その後の自分の精神状態は目も当てられないほど崩壊していたに違いないだろう。
芝山も秋華もいない彼の生活の悲惨さは……想像に難くない。
それすなわち、トシローがしっかりとこうまで立派な競走馬に成長したのも、回り回って言えば秋華のお陰だということ。
育ての親である勘助を支えてくれたのは、他でもない彼女なのだから。
「…………。」
何度心に呟いたかわからない彼女への感謝を、今日も胸にしまい込む。
転がり込んで来たのが秋華で本当に良かった……と、そんなことを思いつつ。
居間とその隣の部屋の敷居である襖を開け、そちらへと歩みを進める。
………そこには今は誰もいないので、電気がひとつもついていない。
居間から差し込む光を頼りに、
足を踏みしめる度にギィ………と不安げな音をたてるフローリングを、勘助は奥へと歩いて行く。
………今歩いているのはいわゆる『元食堂』の部屋であるが、この牧場が造られて以来、唯一何の改築もなされていない部分で、
それゆえに老朽化が目立つ。
土壁は崩れ、床は軋み、何ヵ所か剥がれかかっている板もあるほど。
さすがに廃屋とまで言うには廃れてはいないが、しかし、あと10年も後にはどうなっているのかわからないと思う。
最近では床が抜ける心配までするようになってきた。
……普通の感覚ならすぐリフォーム、悪くても床の張り替えぐらいは今すぐにでもするべきだろう。
が、そんなボロボロの状態でも、
この部屋を改築しようという気は勘助には起こらない。
何故か。
一つは、
ここが過去、山本牧場が経済的に最も元気だった頃、一番賑わっていた場所だったということ。
勘助にはもうほど遠くて、一片の記憶が残る程度だが、
アルバムに残る写真を見ると、
そこは、かつての牧場員たちの憩いの場所であったらしい。
仕事を終えたオヤジたちが、風呂上がりのタオルを巻いたまま酒をあおったり。
はたまた将棋や囲碁で腕を競ったり。
皆で集まり年末年始を祝ったり。
そんな写真の数々が、勘助にとってはかつての山本牧場の『記録』であり。
そして、去っていった牧場員達の様子をうかがい知る唯一の手段でもあり。
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だから、
そんな写真の数々に常に写っているこの部屋は、
言うなれば、勘助にとっては一種の記念碑なのである。
いつか、またここが人で賑わうこともあるかもしれない………と、そんな淡い憧れにも似た希望の、在り所であるのだ。
……それともうひとつ。
そもそもこの部屋は、この家全体から見ても使用頻度が極端に低い。
今この家の住人は、病人の芝山も含めても三人。
その彼らの生活基盤は専ら居間に集中するため、
ハッキリ言って無駄に広い部屋というのは必要性がない。
一応この元食堂も、もとあった長テーブルなどは既に取り払い、人がくつろげるようにとソファーを置き、結構でかいテレビなんかも備え付けたりして、人が集まっても大丈夫なくらいにはしてあるが、
何せ彼らはこれを使わない。
例え休憩時間が来たとしても、
来客でもない限りはずっと、居間でゴロゴロしている。
………使う必要のない部屋を改築するほど、今の山本牧場に余裕はない。
今の彼らの生活基盤は、居間、二階の個人の部屋、
そして、眠ったままの芝山のいる、仏壇の間、和室……………
逆を言えばそれ以外は正味生活をする上で必要のない部屋だということで。
故にここ、食堂だけが何の改造もされず、建築当時のままの姿で残されているというわけだ。
そして勘助は今、そんな古ぼけた元食堂を通り抜け、
現在の生活基盤のもうひとつである………芝山の眠る和室に向かっている。
食堂とはふすまに隔てられた、この家としては一番奥の区画。
もとは、ここの牧場主であった勘助の父兼続が個人の部屋として使っていた場所であるが、
彼の死と共にそこは仏間になった。
この家としては非常に規格が新しく、仏間にする際畳も張り替えたので
二階にある勘助と秋華の部屋を差し置いて、この家で一番綺麗な部屋と言えるかもしれない。
「………まあ、仏さんは綺麗な所に奉る方がいいよね。」
誰ともない、日本人独特の根拠のない曖昧な、しかししっかりと根付いた美意識が、
彼らにここを仏間にさせ、
その結果として一番きれいに残ったその部屋に
病人である芝山は寝ているということだ。
「………芝さん」
ひょっとして返事が帰ってきたりしないだろうか………という淡い期待を込めて、勘助はふすまをノックする。
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木のドアにノックする時のような乾いた「コンコン」という音は返ってこない。
ドンドン、と和太鼓に準ずる節のある音を返してきたふすまの向こうから、
しかし芝山の声が返って来ることはない。
「……………。」
―――今日もダメか………。
何度ついたかわからない溜め息をひとつ。
ふすまを開け、暗い和室に入った勘助は、部屋の端にある部屋の電気のスイッチを入れる。
パッ、と明るくなった部屋の、
そのまん真ん中に敷かれた布団の中で、小さな寝息を立てながら
芝山雄一は眠っていた。
布団は整然として一点の乱れもなく、頭の位置は枕から全く移動しておらず、寝返りを打った様子はない。
布団からはみ出した腕には栄養材を点滴するための針が刺さっており、その管の先のパックからは、小刻みなリズムでピチャリ、ピチャリと液体の粒が落ちる音がする。
前に針が刺さっていたと思われる箇所には、青黒いアザができていたり。
―――いつ死んでもおかしくない。
そんな古川の言葉を、彼を見るたびに思い出してしまう。
「…………」
無言のまま、勘助は芝山の枕元にあぐらをかいた。
髪の毛の無くなった芝山の頭は、呼吸に合わせて小さなシワを作る。
「………もう本当にこのまま起きないつもりなのか?
芝さん………」
「……………」
当然返事はない。
ただ、寄せては反す小波のような寝息だけが、
微かに勘助の鼓膜を揺らす。
「…………」
勘助にはそれが、その問いへの肯定に聞こえてしまう。
少なくとも、否定には思えない。
この沈黙の睡眠に何か意味があるのだろうか。
徒に生命維持を続けているだけのこの状況に、なんの意味が。
医者によると、このあとおきることがある確率は、50%未満……半分以下。
希望を捨てたわけではないが、秋華共々『その時』が来る覚悟はしている。
………意識のあった頃、『死ぬなら放牧地で』と、何度か呟いていたのを聞いた。
働きつつ死にたい、最期までホースマンでありたいという意思の表れ。
だが、現実の芝山は今目の前。
どう見たって末期の病人で、そして布団に封じられたかのように微動だにしない。
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これが芝山の死に様であるとは信じたくない――どこからか自分の声がそんな風に語りかけてくる。
確かに『その時』の覚悟は出来た。だが、せめてならその『その時』は、芝山らしくあってもらいたいものなのだ。
芝さんの望んでいた死に様を―――というのは、勘助にとって最後の親孝行なのである。
ホースマンとして死にたいといった芝山。
『馬から落ちて死ぬなら本望だ』
………これを遺言にするようなことだけはしたくないのだ。
せめて1日……いや、一時間でもいい。
『その時』が訪れる前に一度でいいから目を覚ましてほしい。
俺を育て上げてくれたその厳つい顔を、
もう一度でいいから俺の目の前で綻ばせてほしい。
………動かぬ芝山の手を握り、
自分の思いが届かないかと念じながら、勘助は思う。
トシローの出立を2ヶ月後に控えて、
それまで芝山が生きていることはまずないだろうから、
せめてもう一度その目で旅立つ前の彼の姿を見てやってほしい………
彼の手の温もりが伝わるたびに、
願望は行き場を無くして頭を駆け巡る。
「疲れたのはわかるけど………さ。
ちょっとだけ起きてほしいなって思うんだ、俺………」
芝山の手を握る自分の手が、少し力を強くする。
掌ほど感情を素直に写すものもない。
会いたい、孝行したい、話したい………
そんな勘助の芝山への思いは、正にそんな彼の掌へと駆けて行く…………
そんな折り。
彼はふと、背後に優しい気配を感じた。
「―――大丈夫、起きてくれる。芝さんは。
絶対。」
ふわっ、と柔らかい雰囲気が勘助の背後を包み、
芝山の手を握る勘助の手を、さらに上から掌で包む。
―――秋華、
と勘助が、
自分に抱きついてきたその気配の主に声をかけるより早く、
彼女の顔は勘助のすぐ横、
彼の左の頬と彼女の右の頬が当たるほど近い位置にあった。
洗い物は終わりたてなのだろうか、少してが冷たく、湿っている。
「信じるって、大切なことです。
他力本願に神様に祈る訳じゃない。芝さんを信じるんです。
……死にたがっていた私を助けてくれたのも芝さん。
勘助さんと私の仲を取り持ってくれたのも芝さん。
勘助さんの父親の代わりをつとめてくれていたのも芝さん………でしょ?」
「…………。」
無言の肯定。
背後からの抱擁は、少し力を増したようで。
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「そんな芝さんが、
世話焼きの血を誰よりも持ってる芝さんが、
私達のことをこのままほったらかしにして死ぬわけがありません!うん!
それに、
勘助さんがそんな顔じゃ、いざ芝さんが起きてきたとき困るでしょ?
だから……今は。」
その言葉で一度話を切り、秋華は勘助の正面に躍り出た。
鼻と鼻が擦れるほど近い距離に、彼女の顔はあり。
「秋華。」
「やることやって、元気になりましょう。
勘助さんは昼からの用事、
私は家事!
このままここでへたっていたんじゃ、芝さんに叱られちゃいます。」
顔が近いせいか、吐息が妙にこそばったい。
鼻先三センチの彼女の顔は、少し寂しげな感じで。
それはそのはずである。勘助は、
今の自分と同じように彼女が、眠り続けて返事をしない芝さんに語りかけることをしていたのを知っている。
最近になって、少し仕事が忙しくなって、
自分の立ち位置を再確認できた彼女は
ようやくそれを割り切ることができたのである。
―――この間までは自分が秋華を励ましていたのに、こりゃあちょっと情けなかったかな……と軽く苦笑した彼は、
「わかった。秋華の言う通りにしよう。
………確かに寝てる芝さんに語りかけてもなんにも変わらないしな。ハハ……」
と、そう言うと、スッと立ち上がり。
天井からぶら下がる蛍光灯のスイッチのヒモを二度引っ張る。
再び辺りは暗くなり、オレンジ色の豆球が、唯一光源となる。
「この後は……そう、
さっき言ってた通り組合に行ってくるから。
柴名さんも一緒だ。
2、3時間ほど帰って来ないと思うけど―――」
「任せてください。
家のことも、家事のことも、芝さんのことも。
帰って来たら、一緒に天皇賞見ましょうね!」
笑顔の秋華に。
「そうだな。」
勘助も笑みを一つ残して、その部屋を食堂に向かって後にする。
そのあとをついてきた秋華は、勘助の腕に飛び付いて。
そんな無邪気な二人の居なくなった和室は、
再び静けさを取り戻した。
芝山の口元が、少し緩んでいたようにも見えた。
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4
――――――――
「随分古い牧場だな」
黒いワンボックスの助手席、中肉中背の体をシートに預ける康本は、
タバコをひとふかしして言った。
後部座席には、屈強そうな、いかにもその道の者とでも言いたげな男が数人座っている。
よくみれば、あの時社長室にいた黒スーツ秘書の男も一緒にいる。
「本当にこんなところに奴がいるのか?」
白く充満するタバコの煙に包まれた康本は、後部座席の連中に聞いた。
―――あんな都会暮らしをしていたアイツが、こんなド田舎で本当にやっていけるのか?
とでも言いたいのだろう。
例えどれだけ自分が秋華にたいして、
凄惨な、軟禁に近い生活を強いていたとしても、
彼は――康本は、あくまで都会暮らしをしていた、と言い張るのである。
「――間違いありませんよ。プロデューサー。
No.15はここにいます。
家族関係………というか同居人は三人。
ここの牧場主の山本勘助、
元JRA騎手の柴名大知、
そしてその道では『血統辞典』と呼ばれているベテラン従業員の芝山雄一………
あと、ごく希に古川秀馬という牧場主や、その秘書の―――」
「よく調べた。ご苦労。」
話を手で制した康本。
それ以上の情報に興味はないという感じ。
「………で?奴の恋愛相手というのは?」
「山本勘助ですね。
一年前の脱走事件のあと、何かの拍子でNo.15はこの牧場に逃げ込んだらしいんです。
これは近所のババアの情報ですが。
どうやらこの周辺でも指折りの仲むつまじさで、話を聞いたババア曰く、
『結婚していないのが不思議』だとか……」
「フフン。
ますます面白そうじゃないか。
引き離してやったときの反応が―――」
下品な康本の笑いに、同調するかのように後部座席の部下たちも笑い声を上げ。
牧場の側道の路肩に止められたその黒いワンボックスは
異様なまでの悪意に包まれ、
ウサギを待つ獣のような目付きで勘助たちの出立を待っていた。
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5
――――――――――
「じゃあ、出掛けるからな。
留守を頼む。」
玄関先で靴べらを使ってスニーカーを履いた勘助。
靴ヒモを結ぶのがまどろっこしいたちなのである。
「任せてください。
それより、シューカちゃんの相手のこと、よろしくお願いしますね。
こっちのことは、もし何かあったら連絡しますから。」
スマホを右手に、秋華は言う。
一応というか、山本牧場は、古川の計らいにより、
アル○ックとセ○ムのダブルセキュリティで、泥棒に対してベルリンの壁を築いている。
これらは全て、この秋華のスマホから危険信号が発されると、両会社の精鋭たちが飛んでくる仕組みになっており(これも古川の計らい)。
また、それが発動された際には、すぐに勘助のもとに両社から電話が入ることになっている。
まさにいたせり尽くせり。
外から見れば何てことはないボロ屋敷であるが、その内容はデジタルの結界を張っているに等しい物だった。
つまり秋華が何を言いたいのかと言うと、
これがあれば大丈夫!というようなことで。
「ん、わかった。」
勘助もそれ以上は何も言わない。
本当なら秋華ごと組合に連れていきたいところだが、
芝山に万が一のことがあった場合に、対処ができるのは介護の心得のある秋華しかいないのである。
仕事柄、柴名も同行しなければならないので、
結果的に寝たきりの芝山と秋華の二人を置いて出ることになる。
この事は正直心許ないが、しかし、そうも言っていられない事情もあり。
―――まあ、2、3時間位なら大丈夫だろう………と、心のなかで呟く。
「よっ………と。」
勘助は靴を履くと立ち上がり、仕事用のエナメルバッグを担ぎ上げ、
スライド式の古風なドアに手をかける。
勘助が再び秋華に呼び止められたのは、そんな折だった。
「あ、ちょっと待って」
「………?」
振り向く勘助。
その先の視線には、ほんのりと顔を赤らめてもじもじしている様子の秋華。
「んと……その。」
「どうした?」
―――つかなんでそんな表情してんだ?と苦笑した勘助の視界は
次の瞬間、彼の唇を包んだ柔らかい感覚と共に、
秋華一色に塗りつぶされて。
「むぐ………!」
「……………」
言葉も発することなく、目を閉じ、ひたすらに勘助に唇を押し当てる秋華。
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堪能しようだとか、そんなやましいことはひとつも考えていなかったが、
何故か勘助は、その形のまま動くことができなかった。
突然すぎて何が起こったのかよくわからなかったのと、
秋華に離れる気配が無かったのが原因と言えば直接的な原因かもしれない。
ゆっくりと彼女の顔が離れ、視界がもとの玄関の景色に戻ったのは、相当に時間が経ってからだった。
「……………。」
微笑を浮かべ、上目遣いで勘助を見つめる秋華。
「…………
えっ?」
……何で?
と、単純な疑問。
そんな勘助に、秋華は目線を伏せて。
「元気なかったから……」
「…………
えーと。」
―――ああ。
つまり………元気付けようとしてくれたわけね。
………この嫁は。
……………。
……………。
………あれ?
空でも飛んでんのかな俺。
なんかこう………体がふわふわと………
「…………秋華。」
「―――なるべく早く帰ってきてくださいね。
私も、一人は寂しいですから…………」
それだけを言うと、照れ隠しか恥ずかしいのか、顔を真っ赤にしてパタパタと居間の方へ小走りで駆けていった秋華。
「……………。」
――こりゃあ、どえらい活力剤をもらった物だと苦笑する。
殺風景な筈の玄関が
今の勘助には、まるで花畑のよう。
―――こんなものを貰っちゃあ………
ま、本気で頑張るしかない。
死ぬ気で仕事をこなして、
そして、早く帰ってくるっきゃ無い。
………姫が寂しがっているのだ。
「…………よし。」
とく、とく、とリズムを刻む心臓を撫で下ろし、
落ち着くために一度深呼吸をした勘助は、
再びそのスライド式の扉に手を掛け、
それを開くとエナメルバッグを肩に外に出た。
するとそこには、
既に柴名と軽トラがスタンバイしており。
「えらく遅かったですね、勘助君。
もう準備できてますよ。」
―――一体玄関で何を手間取ってたんですか?
と、しかし特段起こる風でもなくごく自然に訪ねる柴名に。
「いや、すみません。
ちょっと女神が……」
「………はあ?」
なに言ってんだ?という感じの柴名。
しかし、説明するのも恥ずかしいので勘助はそれ以上は語らず、軽トラの運転席に乗り込む。
釈然としない様子の柴名も、
それに続き渋々助手席に乗り込み発車完了。
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「じゃあ、行きますよ。」
自分のシートベルトを締めながら、勘助は助手席に座る柴名に言う。
彼は既にシートベルトを締め終えており、いつでもどうぞといった感じ。
勘助がアクセルを踏み込み、その白い軽トラはエンジン音を一声、そこそこキツい加速で山本牧場を飛び出した。
それは、公道の制限時速より明らかに速いもので、
まさに急加速というに等しく。
辺りの牧草地の風景は、一辺に緑の線に変わって車窓を流れて行く。
―――ははぁ、何かいいことでもあったんだな?
弾むような表情の勘助と、
それをそのままスピードに表したかのような軽トラの動きに、
男のカン、騎手のカンが働いたのか、そんなことを柴名は感づき。
「勘助君。」
「はい?」
「さては。
………秋華さんと何かあったんでしょう?
勘助君?」
にや、と含んだような笑みを勘助に向けた柴名。
「ぶっ………!」
とたん、
その柄にもなく、まるで大型バイクのエンジンを吹かしたときのような、ヴォン!という凄まじい音を鳴らした軽トラは
体が後ろに仰け反る程に激しく爆発的にスピードを増し。
速度を表すメーターのオレンジの針は、弾かれたように右に倒れる。
「だだだ誰がですか!?
な、何かって何すか!?」
あたふたとハンドルを右に左にフラフラとさせる勘助。
語るまでもなく、顔は湯ダコのように真っ赤になり。
―――分かりやすい子だなあ。
完全に動揺しちゃってるじゃないか。
そう、悪戯っぽく笑った柴名は、ハハハと声をあげてみせ。
「大体察しはついてますよ。
いやあ、若いっていいですねぇ。
何でもできて、
自分の思い通りに行動できて、
それでいて、女の子が可愛い。
そうでしょ?勘助君。」
「し、柴名さん!」
―――見てたんですか!?
と狼狽を隠せぬ勘助に、さらに柴名は笑う。
若い子をおちょくるのは、若い血が染み入るようで心地いいなぁ……と、そんなことを考えながら。
制限速度をゆうに越えるスピードでアスファルトを爆走するその軽トラは、
その恥ずかしさに早鐘を打つ勘助の心臓を、
そのまま体現しているかのように、どこまでも続く緑の丘陵を跳ねるようにして縫っていく。
掛け合い漫才のようなその軽いふざけあいは、
保たれていた僅かな平和の名残を示すようであった。
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※
――――
……この時点で、
秋華が勘助に与えたあの行動が結果として、
彼にとって、彼女にとって、
大きく裏目に出ることになるとは、
誰も想像しなかった。
……もし、この牧場を、あの問題が取り巻いていなければ、
これもただの日常の一ページに過ぎなかったのであろう。
彼ら彼女らが恋人同士である以上、
当然至極、とまで言い切っても差し支えの無い出来事である。
が。
この牧場はこの時、
いつ爆発してもおかしくない時限爆弾を抱えていたという事実を忘れてはならない。
特に、今日がリミット………爆発のその日であったことは、不運としか言いようがない。
――彼女のキスで、テンションが上がりきってしまった勘助は、
牧場を軽トラで出た際、ひとつ大きなミスを犯していた。
柴名のからかいのせいもあったかもしれないが、
我に帰ることなく牧場を出た彼は、
その道の路肩にて牙を研いでいる獣――明らかに異様な雰囲気を放ち、
どう誰が見てもこんなところに停まっていることに不自然さを感じざるを得ない、
怪しい成りの黒いワンボックスに
全く気づくことができなかった。
勘助と柴名がいなくなるその時を、
まだか、まだかと息を潜めて狙っていた、
その悪意の塊に。
―――――
「山本と柴名が………出たな?」
白い軽トラが猛スピードで牧場を後にしたのをしっかりと確認した康本は、
後部座席の部下に聞いた。
「ええ、間違いありません。」
部下は、含み笑いと共に答える。
―――また、絶望の涙が見られるな。
一度助けられた人間が、その絶望的な以前の生活に引き戻される恐怖から流す涙………
束の間の幸せを、取り上げられた悲しみから流す涙…………
もう少しでまた見られる。
あの時、福島七夕が見せたようなあの絶望が……
ああ。
想像するだけでゾクゾクする。
快感が走る。堪らなくなる。
……そんな意思を含んだ含み笑い。
「行きましょう。
刻限です、康本社長。」
―――制御が利かない。一秒でも速い方がいい。
……そんな、部下の興奮に震える声に。
康本は
にやあ、と口元を歪め。
「いいだろう。
一時間後に行動を開始する。
今すぐは危険だ、警戒されている可能性もある。
奴が完全に気を許した頃………それが狙い目だ。」
そう言った康本は、腕時計を舐めるような視線で確認する。
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現在時刻、午後2時45分。
天皇賞の発走まであと一時間ジャスト。
時限装置の針の音はもはや止まることを知らず、
一秒、また一秒と、デッドラインへ、その時をコツコツと進めてゆく。
康本の、その恐ろしいほど冷酷なその眼差しは、
ただ一点、斎藤秋華が残る目の前の山本牧場に向けられていた。
「必要なのは、強い恐怖と絶望だ。
二度と脱走などと考えぬように………な。」
―――狂気の男の、逆襲が近い。
天皇賞の発走は、
もうすぐそこに迫っていた。
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6
―――――――
『さあ、天皇賞の発走まであと10分を切りました。各馬、続々と馬場入り、返し馬を行っております!
では、人気の馬をご紹介しましょう。
1枠一番、絶好の枠を引き当てました。芦毛最後のスーパーステイヤー、ザラスシュトラ。
この府中の2000メートルも逃げ切って、メイショウサムソン以来となる天皇賞春・秋両制覇となるでしょうか!
鞍上はお馴染み川口優雅。
………あの馬を意識してのことでしょう。緑のメンコを装着しての登場です。
そしてその後ろ、三歳馬とは思えない落ち着きは、
漆黒のダービー馬フロンティアエンド。毎日王冠を勝っていざこの舞台へ………』
………テレビの上に置かれたデジタル式の時計は、
午後3時35分を示していた。
一通りの家事を終え、トシローと戯れた秋華は、その疲れなのかどうか、
珍しく元食堂の部屋で、ソファに横になってウトウトと微睡んでいた。
確かにそこに置かれたソファーはベッドとしても使える、いわゆるソファーベッドというやつで、うたた寝程度なら最適とも言える品ではあるのだが。
回りの雰囲気も相成ってか、寝心地はいいにも関わらず、ここの住人にはあまり人気がない。
ザラスシュトラ人形を抱え、テレビが見えるように横になる。
大型の液晶テレビが映し出す東京競馬場は、深緑のターフが眩しいほど輝いて見える。
―――これがあのときと同じ、天皇賞。
お父さんと見た、あのレース。
―――意味を知って見るのと、そうでないのとではこうも違うものなのね……
そう、うとうとしながら秋華は思う。
サイレンススズカの時は、本当に怖さしか感じなかった。
先頭で風を切るように走り、間違い無く勝つと思っていた馬が突然失速して、トラックに積まれて、運ばれて…………
子供心にも、あのあとあの馬が辿る運命が何となくわかって。
思えば、競馬に嫌なイメージを持ったのもあの時で。
………それでも今は、これから始まろうとしているレースを楽しみにできている自分がいる。
純然とザラスシュトラを応援して、やがて訪れるであろう結末を、楽しみにしている自分が。




