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37


―――※―――



「トシローは、



道営所属にしようと思う。」








―――山本牧場、和室。




正座をし、少しあらたまった古川は、


居間に胡座をかく勘助、その膝の上の秋華、


居間に通じる厩舎の入口から顔を出した柴名とトシロー、


リビングのソファに腰かける秀馬と桜花、




そして、病床に伏せる芝山に向かって、



まるでそれが定まっていた運命であるかのように言った。




一同が息を呑んだように驚愕の色を見せる。



「道営………ホッカイドウ競馬所属ということですか?


JRAではなく………」



微かに唇を痙攣させた勘助は、実の詰まっていないドングリのようにからっぽになった頭を何とか働かせ、聞いた。



話を理解しているのかどうか、トシローもその真っ黒な顔を心配げに覗かせている。









―――芝山が『体調の良化』を理由に退院し、再びこの山本牧場での生活を始めてから早くも一週間が過ぎ。


トシローの『掛かり癖』も見事克服し、それに伴って更なる能力の上積みも見込めるようになるなど、


まさに順風満帆といった感じだった山本牧場。




来るべきトシローの入厩(競走馬が牧場を離れてトレーニングセンター、又は調教師に預けられること)に向けて着々と準備が進められていく中の、



『馬主』古川耕平の訪問は、なにか重大な決定であることはほぼ間違いなく。




………そしてそれは案の定、トシローの入厩先の決定という重大発表だった。






「そう。ホッカイドウ競馬。


トシローの親父、コスモバルクの所属していた競馬組合と同じな。



具体的にいくと厩舎は四十嵐(しがらし)厩舎にしようと思う。



………コスモバルクの元主戦騎手やった人の厩舎や。」




「ちょ、待ってくださいよ!


何でホッカイドウ競馬なんです!?



トシローぐらいの馬ならJRAに入れても余裕でオープン勝ち上がるくらいの力はあるでしょうに!」



『当然』勘助は、異議の声を上げる。



―――なぜ、当然か?




これについては、少しおさらいする必要があるかもしれない。



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―――全国規模で行われている中央競馬組合と、その他の地方競馬の各組合(通称・公営競馬)とでは、すべてにおいて、今現在、残念ながら天地ほどの隔たりがある。



馬主の観点としてその違いを見ていくのならば、第一に上がるのは『地方競馬は賞金が異様に安い』ということ、言い換えるのならば『中央競馬の方が圧倒的に賞金が安い』ということである。


これは前にさんざん書いたのでとりあえず流す事にする。



それでだ。


賞金が安いといったいどんな不利が働くのか。



簡単なことである。



強い馬が集まらず、全体として競馬のレベルが低くなるのだ。



………仮にあなたがディープインパクトの馬主だったとして。


重賞を勝っても300万しかもらえない競馬場と、未勝利戦を勝つだけで500万ももらえる競馬場となら、どちらの競馬場に預けたいだろうか?




当然、未勝利戦を勝つだけで500万ももらえる競馬場だろう。



理由はごく簡単。そっちの方が賞金が高いのである。


だから大多数の馬主は、有力な馬を大概はJRAの厩舎に預ける。




すると、地方にはいい馬が回って来ず、


結局その競馬場自体のレベルが下がり、それにともない、そこに所属する競走馬の回りからの評価も共倒れのように下がってしまうのである。



どれだけ走ろうが、どれだけ勝とうが評価は低いまま。




わざわざ預けたいだろうか?


そんなところに馬を………









そしてもうひとつ。これはトシローの問題。




誰もあえて口にはしていないものの、トシローはG1を目指してゆくべき馬である。



………G1競争の多くは、中央競馬の競馬場で行われる。



中央所属馬であれば、出走時には競馬場に程近いトレーニングセンター(栗東・美浦など)で、それなりの期間をこなしてから直接競馬場へ輸送し出走させることができる。



が、地方馬の場合はそうはいかない。



そもそも調教自体を自分の所属する競馬場で行わなければならないため、レースの数日前から長距離の輸送を強いられることになる。


どちらが有利でどちらが不利かは言うまでもない。




だいたい、その調教する施設にしても、JRAのそれと地方競馬のそれでは、月とスッポンと表現していい位に差がある。



………例えるなら、地方のそれは家での筋トレで中央のそれはスポーツジムといった所だろうか。


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地方はダートしか調教馬場がない(道営のみ坂路あり)のに対して、


中央のトレセンには、簡単に数えるだけでも、芝、ウッドチップ、ダート、坂路、タペタ、プール、森林馬道など…………



これはもう、人の能力が云々の話以前の問題で、




他の数々の面を考慮しても、はっきり言ってトシローにとって、道営に所属することは




メリットよりもデメリットが先行してしまう、かなり効率の悪い行動なのである。







「目標が中央のG1なら、古川さん。



やっぱりトシローはJRAの調教師に預けるべきじゃ………」




勘助は、当たり前の感覚でもって古川に進言した。



―――能力があるのは一目見ればわかる。


重賞クラスの器であることは疑う余地もない。



そんな馬を、わざわざ地方競馬に所属させなくても…………



恐らく、柴名や秋華、桜花は勘助と同じように考えたに違いない。



無理もないことだ。




勘助を含めた彼らは、


この古川の持つ、『トシローの血統』に対する頑固なまでのこだわりを、知るはずもないのだから。





「………いやまあ、普通やったらそうするんやけどな。



………俺にとって、こいつは普通やない。



俺の中でトシローっていう馬は、能力やらなんやらの話を差し置いて、


コスモバルクの子、ちゅうんが一番印象強いんや。」




「バルクの………子。」




兼続や勘助にとって、コスモバルクは恩人である。


生活費、学費、共に彼に依存していた時期は、間違いなく存在した。



当時の事情はやはりよく知らない勘助ではあったが、



古川の中の、この馬に対する気持ちの特殊性は、何となく理解できるような気がした。




………何かに気付きかけた様子の勘助に、


古川は深くうなずいて見せる。




「そう。


あの、『道営のエース』コスモバルクの唯一残した子なんや。




G1を勝つだけの能力を持っときながら、JRAに転厩(移籍すること)せんと道営所属のまま中央のクラシックを目指したあのコスモバルクの。



地方競馬に初の海外G1をもたらした、あのコスモバルクの。」




―――コスモバルク。



今でも根強く地方のファン、特に道営のファンに愛される雑草の名馬。



日高唯一の海外G1馬。



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「………これは、俺のわがままやねん。




………もう一回、馬主として、バルクで見た夢を見てみたい。



地方所属の馬が、中央のクラシックを勝つ様を、この目で見てみたい。

確かな感触を、馬主としてこの手で感じてみたいんや。」




………コスモバルクの時に、相当やるせない思いがあったのだろう、と勘助は、


熱弁する古川を見て思った。



『道営にこだわることでコスモバルクの可能性を潰した馬主』



そう何度古川が罵られていたか知れない、と、以前勘助は芝山から聞いていた。


『素直にJRAの調教師に預けていれば』


『道営の再興なんて偽善の気を起こしていなければ』



―――ひとつくらいはG1を勝てたのに。



そういった手紙や電話が、何通届いたかわからない。




古川本人は、当然、自分の体裁のためにコスモバルクを道営に送り込んだつもりはない。



鎖国状態のJRAに、出し渋りの地方競馬に、



新風を吹き込むためにやったことだったのだ。




目立つような血統ではなく、あまり注目もされなかったコスモバルクの才を勘助の父兼続と共に見抜き、


競走馬として所有しようと考えたのは紛れもなく古川であるし、



最終的に活躍の場を中央、海外へと広げることに成功したのも他ならぬ古川なのである。



すべては馬のことを考えてやった結果のことで、



自分のカッコつけのために馬を利用した試しなど一度もない。




当時の古川はその批判的なファンの意見を聞いて、どれ程落胆したことだろう?






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「中山に、東京に、京都に、俺は大事な忘れモンしてきた。


ひとつひとつ、置き忘れてきたんや。



………バルクを道営に入れたことは、ひょっとしたら記者やらファンらの言う通りアイツの可能性を殺したかもわからん。



しゃあけど、今でも俺は、バルクは道営に来たからこそ普通とは違う『強さ』を手に入れられたんやと思ってるんや。



もしJRAに入れてたら、他の良血馬の影に埋もれて花開かんまま引退してたかもわからん。



バルクがああまで活躍できたんは、あそこ……道営に根付いとる雑草魂に、バルクのよさが上手いこと混ざりあったからやと思うてるんや。



何がなんでも馬を強くせなあかんちゅう気迫みたいなもんに、アイツの走りが押し上げられたからアイツは強くなれたんやと今でも思てる。」




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凄まじいまでの競馬に対するハングリー精神…。



それが、ホッカイドウ競馬という場所の産み出す力。



そしてそれが、コスモバルクという名馬を生んだのだ。



古川の言ったことは、大体そんな意味だった。




古川の言葉が、火の粉をあげているように勘助には感じる。



それは、それだけ強い意思を抱き続けて、馬に関わってきたという証し。



コスモバルクという馬に、人一倍の愛と、人一倍の後悔を残してきたのだろう。




………そして、それは彼にも痛いほどわかるのだが。





「お話はわかりますが……


それでも………トシローの将来を考えたら。


本気でG1を狙うんなら、やっぱりJRAに………」




ロマンと現実はイコールにはなり得ない。




山本牧場の経営状態は、トシローの購買契約の一億円で少しは持ち直したものの、依然として厳しい状態が続いている。



相変わらず繁殖牝馬はシューカアゲインしかいないし、頼みのラグフェアーも今は買い戻す余裕がない。


来年生まれてくるだろうシューカアゲインの子だって、ちゃんと売れるという確証はない。



………今確実なことは、トシローは活躍する可能性を十二分に持っているということ。



中央で勝ち上がるくらいの力はすでに持っていて、ひょっとしたら重賞のひとつ二つは勝ってくれるかもしれないということ。



この牧場の生産馬の評価を、あげてくれるかもしれないということ。




山本牧場にとってトシローは、言うなれば最後の希望なのである。




……今、仮にもその牧場長たる勘助だから、そう簡単に譲るわけにもいかないのだ。




「馬主にこんな風に意見するのは間違っているかもしれません。ですが。



やっぱり僕としては……」





―――JRAで走ってもらいたいです。



そんな言葉が口から出そうになったちょうどその時。







「待ちぃな…坊っちゃん……」



蚊の鳴くような小さな、そしてか細い声が、勘助の言葉を遮る。




真っ白な布団で象られた病床から、


急に芝山が起き上がり、何かを言おうとした様子だったので、



勘助は、喉まで出かかっていたその言葉を飲み込んだ。



ゴホゴホ……と咳き込みながらも、


よろよろと自力で起き上がる芝山を、すかさず秋華が介抱する。



まるで枯れ木の枝のように細ってしまった体は、それが立っていること自体が不思議なもので。



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………少しバランスを崩しただけで全てが崩れてゆくような弱々しい体を、


一人で支えられるような土台が出来るようになるまでに相当時間がかかった。



咳に息を切らしながらも、芝山はゆっくりながら声を絞り出す。



その枯れ果てたガサガサの声は、掠れに掠れて聞き分けるのも辛いようなものだった。










「…………メジロアサマの話を知ってるか?」





「メジロアサマ?」





………少し知識のある人なら、この名を聞けばすぐにピンと来るだろう。




メジロアサマ。



主な勝ち鞍、天皇賞。




その当時としてはかなりの良血馬で、その後のメジロ牧場全盛期の立役者となった馬ではあるが…………





「あのメジロマックイーンのひいじいさんにあたる馬や。



メジロアサマは種牡馬一年目、種付けを始めたころ、全くといっていいほど相手の牝馬が受胎せえへんかった。100頭近く付けてただの1頭もや。



あの馬は、子種の数が異様に少なかったんや。



それは、二年目も三年目も変わらんかった。



100頭つけようが200頭つけようが、ただの1頭も受胎せえへん。


しまいに回りの生産者から『種無しスイカ』ちゅうてバカにされる始末………



実際、種牡馬としては廃用になってもしゃーないレベルの受胎率の低さでな。






しゃあけど、この馬のオーナーやったメジロ牧場の場長さんがな。



『アサマは種無しスイカなんかやない。今に素晴らしい子を出してくれるから見とけ』ちゅうて、


毎年毎年10頭づつ手持ちの牝馬に種付けし続けたんや。



そらあ、赤字も赤字やで。


単純計算で子馬10頭ぶんの利益を損してるわけやから。


でも、このオーナーは、アサマのことが大好きやったんや。


天皇賞勝たしてくれたアサマに恩返しや、


こんな血のええアサマのことやから、きっとええ馬が出る


てな風に回りの冷やかしを振り払って種付けを続けて。




すると、何年目かにひょんなことで1頭受胎しよった。



一年後、生まれてきたんは端正な芦毛の牡馬。




『メジロティターン』ちゅうて名付けられたこの馬が、また天皇賞を勝った。


種無しスイカの種からどえらい名馬が生まれた訳や。」















『血統のプロ』芝山の舌は、留まるところを見せそうにもない。




勘助は、自分が芝山の話に次第引き込まれていっているのを感じずにはいられなかった。





《※種付けに関しては、Wikipediaを参照することをお勧めします。》


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「そのオーナーさんのアサマに対する信念が、天に通じたんかもわからん。



さらにそのメジロティターンからはメジロマックイーンが生まれ。



メジロマックイーンは重賞を勝ちまくって、しかも天皇賞勝って父子天皇賞三代制覇っちゅう前人未到の大記録を成し遂げた。



そしてそのマックイーンの孫の代に、日本を代表する三冠馬オルフェーヴルや、芦毛の怪物ゴールドシップが生まれて。




アサマから続くメジロの血統は、今間違いなく日本の競馬のひとつの軸になっとる。



ステイヤー資質に欠かせへん要素として、間違いなく日本の競馬に君臨してるんや。



これが何を意味するんか?



………それもこれも全部、アサマへのオーナーさんの信念から始まったっちゅうことや。」




「信念。」




「………メジロアサマを受胎させるまでは、相当な赤字があったはずや。


実際そのオーナーさんも、『俺はアサマと心中する』なんてことを呟いてたこともあるそうや。



そこまで覚悟決めてまで、ほんまに命がけで、


オーナーはアサマを信じた。




………そんで、その結果の天皇賞親子三代制覇や。



20年間にも及ぶメジロ帝国の黄金時代っちゅうおまけ付きのな。」



「…………。」


「熱意、希望、夢、情熱。



もちろんそんだけじゃあ破産してまうだけやけどな。



時にして競走馬っちゅうんは、人知を越えて人間の思いに応えることがある。



けなげな動物やからな、馬は。



持ってる以上のもんが、極限の状態で発揮されることだってある………



アサマの例やったら、種が無いっちゅう極限状態。


それでもあの馬は、最後にはメジロティターンっちゅう奇跡を残していった。



あれは、オーナーの根気がアサマに通じたから生まれた『奇跡』やと思うんやな、ワシは。




………これをトシローのことに当てはめてみたらどうや。



このまま古川の旦那の夢を押しきって中央に入れたところで、


それではトシローはただの強い馬や。



それ以上にもそれ以下にもならへん。



いくつ重賞取ろうが、G1取ろうが、それは実力だけのそこまでの馬や。


どうにも人間からの愛がいっぱいにまでは足りない、賞金稼ぎの馬。



………それでもこいつは、ワシらのために身ぃ磨り減らして走ってくれんねやろ。」




芝山の視線は、畳に顔をすり付けて遊ぶ、トシローの方に向いていた。



その眼差しには、どこか寂しさが混じっているように勘助には思えて。


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「逆に、道営に入れることで、いろんな人にいろんな意味で期待されて、普通に走るよりもっといろんな人に愛される―――コスモバルクみたいな―――そんな競走馬にもしもなれたら、



こいつは、自分っちゅう枠を越えた力を出せるような馬になると思う。



期待を力に変えてしまえる器やと思う。




………なんてったってな。



地方の期待を一身に背負って中央を駆け回ったコスモバルクと、



先代の悲願を見事に成就させた、ラグフェアーの、



この世に一頭しかおらん、奇跡の血統の子なんやから。





他のどこのどんな馬よりも、







いろんな人に愛されるべき馬なんやから。」






言い終えた芝山の笑顔は、少し沈みかかった陽の柔らかさに包まれて、



優しく、優しく見えた。





それは、トシローに対しての視線にも同じことが言えて。





『愛される馬』という言葉の意味は、今この場でトシローと芝山の織り成す空間が、


どんな動画よりも、画像よりも、文章よりも、









そのありようを示しているようであった。






何か言わなくては………と思う勘助だったが、思うように言葉がまとまらず、口が動かない。





「愛されるべき……か。」





そんな無言の勘助の代わりに古川が呟く。





古川には経験がある。



コスモバルクという経験が。





オグリキャップやハイセイコー。


アイドルホースと呼ばれ、競馬の一時代を築いた彼らは、元々地方競馬所属だった。



日本人は、特に、逆境を克服した者たちへの歓声を惜しまない。




民族的に、サクセスストーリーが好きなのだろう。



中央の馬が絶対王者として君臨したあの時代に、泥臭く貪欲に、果敢にクラシックに挑んだコスモバルクは、ディープインパクトという国民的名馬が登場するまでは、正に競馬界の野武士の偶像―――ヒーローに違いなかった。




その当時のファン達の、バルクに対する暑苦しいまでの声援―――古川としてはそれをもう一度体験したく、



同時に彼は、トシローに対してはそれを味わってもらいたいのだろう。




そしてそれが、時に実力を超越した能力を発揮することも、彼は知っているのだ。





勘助だって、古川の気持ちを全否定したい訳じゃないし、状況が状況なら恐らく二つ返事で了承していた。



それに今だって、心のどこかでは


道営に入れてやることがトシローにとって一番ベストなのではないかと思っている。


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だが。



ベターかベストか。



ローリスクかハイリスクか。





中央に入れれば、トシローは間違いなく活躍できる。


設備の整ったトレーニングセンターと、呆れるほどに充実したノウハウがあそこにはある。



そこで、今持っている能力に少し上積みができれば。



重賞のひとつや二つは楽にとれてしまうのだろう。






だが………古川の想いはそれでは満ち足りない。





最後の最後に手に入れた、


恐らく今までで最も思い入れが強く、その上に実力もある馬。



彼はトシローに対して、再び地方のヒーローとして走る『コスモバルク』の姿をもとめている。



父親によく似た黒鹿毛の、このトシローに。







もし、本当に馬に対しての人間の思いが、馬を強くすることがあるのだとすれば、



間違いなく道営に入れてやるのがベストだ。



疑う余地はない。




中央に情熱がないなんてこれっぽっちも思っちゃいないが、




この子はコスモバルクの子なのである。



あの、『道営のエース』の忘れ形見なのである。






地方に入れてやることで人々がどのように反応するかは想像にも及ばない。




1+1が2であることぐらい簡単に理解できる。









将来をどう見る。


トシローの未来をどう見る。









堅実な馬に育てるのか。







粗が見えても爆発力のある野武士に育て上げるのか。




勘助の頭のなかには、今、




二人の勘助がいる。











………言葉がほしい。







優柔不断な自分に、決断を迫る、大人の声が。









その言葉ひとつで、自分はどちらにだって転がる気がする。







どっちにしたって、自分には最終的な決定権はない。





最終的に決めるのは馬主の古川さん。









けど、間違いなくトシローは自分たちが育ててきた馬で。









これまで散々将来を案じてきたのも、また自分たちなのだ。









トシローがここを出るとき………大人になるとき、









心からの声援で送り出してやりたい。




自分の思いに妥協だけはしたくない……………








もう、どちらでも構わないから。









俺を納得させてくれないか。







あなたの言葉が、今聞きたい。








「……………芝さん。」













唸ったような彼の呼びかけに。






芝山は、ゆっくりと微笑んだ。


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その微笑みは、まるでその問いが来ることを予知していたかのように。



用意されたのではないかと思うほどに彼の持つ感情にピッタリと収まって。



そして芝山は、静かに口を開いた。




「坊っちゃん………









坊っちゃんの言うてることは正しい。



確かにうちの経営状態を考えたら、トシローは中央に入れるべきや。間違いない。



多分、百人おったら99人がそない言うやろ。



あれだけ目に見えて優秀な馬で、しかも人も羨むほど順調に育ってるんや………


本来やったら中央に入れてしかるべき………



賞金形態の高い中央でよーけ稼いでもらうのが普通の感覚やったら一番エエわな。




………けど。




けどなぁ、坊っちゃん。」












勘助はその「けどなぁ、」がヤケに気になった。



この「けどなぁ、」の奥にある言葉が、何かとてつもない宝物が封じ込められている箱の鍵のような気がして。



芝山の言葉を後に思い返すときの、カセットテープの再生ボタンになるような気がして。








そして、その感覚は、何も勘助に限ったことではなく。







…………この時芝山が、


首降り人形のようになった頭をぐらぐらと揺らして咳き込みながらも、


しかし目線を絶やすことなく勘助を見続けて言った「けどなぁ、」に続く言葉を、




この場にいた全員は、一生忘れることがなかったという。













「利益のために





ロマンや夢を殺したら









競馬はただのギャンブルやで。」














「………………!」









「古川の旦那が、トシローで夢を見たい言うてる。



道営で夢見たい言うてる。



なんとも味のある話やんか。」




苦しそうに、それは苦しそうに笑顔を作り出す芝山。




―――トシローをただのギャンブルの歯車の一部にしてしまうつもりか。



古川の思いを捨ててまで堅実な勝利がほしいのか。




勘助には、芝山の言葉が二重にも三重にも重なって聞こえた気がした。




金儲けのために馬券を買えば、競馬はギャンブルになる。



そんな目的しか持たぬ購入者からすれば、馬は競馬というギャンブルの一部である他に無くなる。




金が走っているだけになる。




そんな貧しい心の競馬に、



トシローを放り込むつもりなのかと。



トシローを歯車にしてしまうつもりなのかと。




これは芝山の言葉ではなく



むしろ勘助の自責だった。


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馬が『競走馬』であるためには、関わる人間のホースマンとしての自覚が必要なのだと。




結局馬を生かすも殺すも、



競走馬にするのも歯車にしてしまうのも、





全部、人間次第なのだと。








馬に敬意を持てるか。




馬と対等の立場であり続けられるか。




高慢にならぬか。




馬にとっての最終的なベストを選択できるのか。








すべては人間次第。







そう、勘助自身や馬主古川、そして調教師のやりようや気持ち次第なのだ。







競馬とギャンブル。







決してイコールではないこの二つの言葉。








勘助は自分に問うてみた。









お前は、競馬がしたいのか?





ギャンブルがしたいのか?











…………そんなことは言うまでもない。









俺がやりたいのは競馬。





血と汗の織り成すブラッドスポーツ。










人間が自らと持ち馬のためにあらゆる努力をし、


その人間の思いに応え馬が強くなる、











そんな、スポーツとしての競馬。










ならばどうするべきなんだ。






………なんのことはない。





古川さんの思いを挫かなければいい。






確固たる意思を持ってトシローを買ってくれた人の意思を、邪険にしなければいい。









どこか利益を見てしまっていた、牧場を維持することだけに固執していたこの頭を




切り離してしまえばいい。







…………簡単なことだ。







トシローを歯車にしなければいい。



















トシローを、道営に預ける。










父コスモバルクの意思を継いで






『道営所属馬』として、栄冠を勝ち取りにいく。






母ラグフェアーの無念を刻み込んで、









グレードレースに挑んで行く。















それを認めてやればいい。













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そして、それはたぶん………誰にでも出来そうなことで、しかし俺じゃなけりゃ意味のないことなのだろう。





勘助は心のなかで呟く。








育ての親として、二年もの間長きにわたり面倒を見てきた



自分でなければ。








トシローとラグフェアーの子、というある種の奇跡を産み出した張本人である、





勘助でなければ。







「………四十嵐さんは。」




しばらくぶりに顔をあげた勘助。



窓からは暮れに向かおうとする陽の光が差し込んで、ゆらゆらと揺れるその光が床の上になんとも幻想的なステンドグラスを作り上げていた。



むしろ、陽を浴びていた勘助は、その一部になっていたのかもしれない。





「信用に足る人物ですか、古川さん。」





「それは保証するわ。」




古川は大きく頷く。





「絶対に?」






「『相馬眼の古川』の名に懸けて。」








そうか。



…………ならば、もはや悩むこともあるまい。







「………わかりました。



トシローは道営に預けましょう。



道営所属馬として、デビューします。」




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「勘助ちゃん………!」




ほんのりと顔が緩んだ古川。



そこにあったのは、安堵か、それとも達成感か。




どちらにしても、今の古川は、ここが家の中でなければ跳び跳ねてでも喜んでいたのではないかと思うほどに。




恐ろしいまでの道営への思い入れが見てとれて、



だがそれは、トシローにとって悪いものだとは勘助には思えなかった。










………しばらく余韻に浸って物思いに更ける様子だった古川は、




そののち、何かを思い出したような素振りを見せて、




「ちょっと待ってくれ」




と言うと、



膝元においてあった鞄から慌ただしく何枚かの書類を探り出して


それを勘助の前に差し出した。




「?」




―――これは?



そう勘助が聞き返す前に、古川は胸ポケットから万年筆を取り出して、


それを書類を拾い上げた勘助に差し出した。




「勘助ちゃんには、トシローの馬主としての権利を、30パーセント所有してもらう。」




その満足そうな笑顔に、さらに光が差したよう。




「え?」





これには正直驚いた。




30パーセントの馬主権というと、


もし仮にトシローが1億円のG1に勝ったとすれば、そのうちの約三千万円が勘助の手取りとして配当されるというものである。




通常の場合、例え生産馬がどれだけ勝とうが、生産者に下りる金は僅かな僅かなものである。



30パーセントという数字は、


オーナーブリーダー(自分で馬を作り、自分で所有する人のこと)でもない勘助が、生産馬の勝利で手に入れられる賞金としては破格のものだった。




「本気ですか?」




「せや。



兼続との契約は今も続いてるからな。」





兼続との契約―――30パーセントの所有権を、勘助の養育費として、彼の父兼続に100円で買い取らせたあの契約。




「勘助ちゃんが一つこだわりを捨てて、俺の意見を尊重してくれた。



じゃあこっちも何かを捨てにゃあ………」




相変わらず万年筆を差し出したままの古川。




「…………。」




無言でそれを受けとる勘助。



しかし彼は、どこか附に落ちなかった。



彼はあくまで、『経営状態を見て』中央入りを推していたのである。


賞金だけでなく、その付加としての評判や風評に期待して言っていたのである。



だから当然、彼としては『莫大な金』を期待して言ったわけではない。




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ここで自分がサインをするのは、金の換算ばかりしていたように思われるようで嫌だった。



何となく、自分が金の亡者のように思えてしまうのが、どうしても心地悪かった。



それに、自分が馬主としてトシローに関わっていく様も、全く想像がつかず………






「………秋華。」




ふとした思い付きから、彼は秋華をそばに呼んだ。




「………なんでしょう。」



神妙な面持ちで、彼女は勘助の横に座る。




すると勘助は、その書類と万年筆を、なんの迷いもなく秋華に差し出して。




「秋華にやる。」








「………………





…………………





…………ふえっ!?」




一気に秋華の顔から表情が消え、肌の色は真っ白になった。




一同が驚愕の視線を勘助に送る。



………向こうでワインを吹き出した桜花は、ただただ汚い。





「いいですよね?古川さん。」




ごく平然と勘助。



その表情には本当に一点の曇りもない。




「だだだだだダメですって勘助さんんん!



そ、そ、そんな、馬、主だなん、てっ!」




大きく取り乱した秋華。手をバタつかせ、口をパクパクさせているが、あまりの衝撃に声も出ない様子。



その様があまりにも滑稽だったので、勘助は少し吹き出しそうになったが、




それをなんとかこらえて古川の方に向きなおして。







「俺はもうコスモバルクにさんざん世話になってきました。



これ以上他力本願で生きていってしまうと、なんか俺、努力を怠ってしまいそうで。



金は必要ですけど、必要以上に欲しがることもありません。



ですから、この権利は、俺が一番信用のおける奴に譲ります。



いいですよね?」




再度、同意を求めた勘助。



傍らで、秋華の動きが止まった。



なんか、物凄く赤くなっている様子であるが、そんなことは今は気にしていられ………………………………………………………………ない。うん。ないのだ。そう。






古川はしばらく腕を組んだまま硬直していたが、



そののち、ふふんと鼻をならし、




「否定する権利も譲渡しよか。


まあ、ハナからそんなもんないけども。





全く、勘助ちゃんらしい。」




と、笑った。





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「OK、30パーセントは秋ちゃんに譲渡する。



共同馬主として。



それでエエな?勘助ちゃん。」




「はい。ありがとうございます。」




―――無無無理ですって!と囁いてきた秋華は、とりあえず無視した。



「ほら、サイン。」



万年筆を無理矢理握らせ、床に紙を置く勘助。




「ほら、ここに。」





「う…………。



し、知りませんよぅ………」




渋々………というか、ほとんど嫌々といった感じに筆を紙に滑らす秋華。



今はじめて気づいたが、相当に綺麗な字だった。




「………よし。」




これでトシローの馬主権は秋華のものに。



筆記体で『Akina Saito』と書かれたその契約用紙を、古川に手渡す勘助。




その時、『四十嵐厩舎』という文言が少し目に入って、ふと勘助はあることを思い出した。






「トシローの入厩はいつですか?」




―――入厩。



そう、この牧場をトシローが去ってゆくその時である。


競走馬になるために。




場の空気は一気に重たくなった。




「………12月の頭や。」




心底いいづらそうに古川。




「先方にトシローの写真を見せたら、すぐにでもと言うてきた。



他には任せん、自分で乗って調教する言うて。



まあ、元騎手やから。」




―――あいつも、と付け足した古川。



苦笑いした柴名に、少し目配せする。





「12月………。」




秋華が呟く。




言うまでもないが、彼女はトシローのことが大好きなのだ。



姉弟が別れるときのような感覚なのだろうかと勘助は勝手に想像する。



かくいう勘助も、内心かなり寂しいのだが。





そんな思いが、顔に出ただろうか。


ならばその顔は、情けないものだったに違いない。




「………経験すべき別れや、


坊っちゃん、嬢ちゃん。」



布団に寝転んだままの芝山は言葉少なに、かつ戒めるかのようにそう呟いた。



「これから………何百と別れを経験せなあかんやろう………馬だけに限らんと、人間も…………



けど………その度に気に病んでたら……人間つぶれてまうからな。



慣れえよ、坊っちゃんも、嬢ちゃんも。」






「「……………。」」




二人ともが何も言えなくなった。





まさにその通り。




こんなところで気に揉んでいては、前に進めないのだ。




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「芝ちゃんのいう通りやで。



な。勘助ちゃんも秋ちゃんも。


競走馬が入厩するっちゅうんは、めでたいことやねんから。


笑顔で送り出したらなあかん。絶対に。




それに………あと2ヶ月弱あるんやから。



最後の最後まで、これでもかゆうくらい可愛がってあげなさい。





それが、あんたらの心の中でケジメになるはずやから。」





トントン、と書類を床で揃えて、鞄の中へしまう古川。



何千頭という馬を見送ってきた者の言葉には、説得力があった。




一度送り出したら、その大半は帰っては来ない………そんな虚しさと別れを、そう割りきってきたのだろう。




「………そうですね。」




同意を示して、勘助は頷く。







残り2ヶ月………



家族のように暮らしてきたトシローは、もうすぐここから居なくなる。




競走馬として調教を受けるために、門別競馬場へと旅立つ。







ようやくここまで来れたという安堵にも似た感覚と、



もういなくなってしまうのかという寂しさが、




彼の心の中でなんとなく押し合いをしている感じだった。





「…………。」







―――いや、祝福しよう。




やっと第一歩を踏み出せるのだ。






………二つの異なる感情のせめぎ合う、妙に安定したバランスの上に



そんな理性を載せて、固定を図る。





経験すべき別れ―――芝山はそう言っていた。






たぶん、トシローなら笑顔で見送れる。


………いや、トシローだからこそ笑顔で見送れる。





ラグフェアーの時、芝さんや親父がそうしたように。








「なあ、秋華。」




沈痛な面持ちの彼女に、


勘助はその額に手を当て、それから頭を撫でて言った。






「………笑おっか。」








―――そんな顔じゃ、送り出してやれないでしょ。









その言葉に。






「そう……ですよね。



でも……………



……………っく」




「………秋華?」






「ん、あれ?




おかしいなぁ、なんか目が………」








何故か、彼女は泣き出してしまった。










それも、無理に笑おうとしての笑い泣き。






「あは……………どうしよう。


止まんないや…………」








いかにも秋華らしい涙だったと思う。









………たぶん、その日が来ても、やっぱりこんな感じで泣くんだろうなぁと勘助は思う。










網戸を通してほどよく冷たい風の吹き込む、



秋の夕方のことである。


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―――※―――




詳しい話も終わり、書類の始末も完了して、ついでに晩飯も終えた一同は、



秋華、勘助、芝山を山本牧場へ残し、帰宅の途につこうとしていた。



先に、秀馬と桜花の車(今日に限りヴィッツ)が牧場を発ち、それを見送った勘助たちは一度家の中に戻る。



中では、今度は古川が帰宅の用意を始めていた。



手には何枚か、書類が握られている。




………そんな折。




勘助は、ふと芝山の様子を伺う。




少し前、なんの前触れもなく突然帰ってきた芝山。








帰ってきてからこっち、彼の体は見た目にも病人としか思えない、げっそりとしているものになりゆき。


時折吐血し、苦しみ、起きている時間より寝ている時間の方が長くなっていたりもした。




本人は、


「病院より家の方が回復が早いと先生に言われた」


なんてことを言っていたが、




素人目にもどうしてもそうは見えなかった。








今だってそう。


ついさっきまで起きてそこそこ元気にしゃべっていたのに、



今は白い布団の中、体を丸めるようにして、もう既に眠りについていた。









それも、息をしているのかしていないのかわからなくなるくらいに深い眠り。












「古川さん………ちょっといいですか?」



席を立ちかけた古川を、勘助は呼び止める。




「何や?まだなんか?」




振り返る古川。






「はい。芝さんのことで。」







―――勘助は、漠然とある結論に辿り着いていた。








古川の目が、明らかに動揺し、泳ぐ。





「………外、出よか。」





「はい。」













………予想通りと言うか。












秋華には話すことができない話になりそうな感じがした。






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北海道の夜空は美しい。



回りには光を発するものの一つもなく、少ないときには車一台すら通らないこの牧場地。




黒いキャンバスに、白い絵の具を散らし描いた様な満点の星空の下、




古川と勘助は、いつものように牧柵に寄りかかって、



それを見上げていた。



静寂が夜空の美しさを醸しているのか、



それとも夜空が静寂に手を貸しているのか。




………どっちにしても、その二つの現象のマッチングは、



寂しさと憂いを含んだ今の勘助の感情が、そのまま筆を手にして描いた情景のようで。










「………芝さん、長くないでしょ?」







北極星を見つめ、吸い込まれそうな闇に思いを馳せる。







―――なんの前触れもなく突然に帰ってきた芝山。



病状良化による一時帰宅………なんて言っていたが、



日を追うごとに弱々しくなり、そして生気が感じられなくなってゆく彼の姿を見て、



一体どうやってそれを信用しろと言うのだろう………?










「古川さん。」





「………病院の先生は………いつ死んでもおかしない言うてる。



末期や。どのみち治療法はない。」





コートの襟口に顔を伏せ、古川は言う。








末期ガン―――いつ死んでも。



勘助には古川の発する一言一言が、まるで幻聴のように耳に響いてくるように感じられて。





「本当に死んでしまうんですか」





「残念やけど、生きられん。」





ポケットに手を突っ込んで、勘助と同じに空を仰ぐ。


古川は、とてもじゃないが勘助の顔を見ることはできなかった。



どんな悲痛な表情をしているのかは―――想像に難くない。




なにせ


育ての父が、死期を真近に迫らせているのだから………





「けど……な、勘助ちゃん。芝ちゃんは――」






「………わかってます。




芝さんは―――もう十分すぎるほど生きました。



余命半年と言われてからもう一年近く経ちます……



相変わらずの、頑張りすぎです………」









震える声で勘助。




ふふ………と笑おうとしているものの、息が途切れ途切れでしゃくりにしか聞こえない。



歯ぁ食い縛って涙こらえてるんだろうな―――




古川には、やっぱりその顔を拝むことはできない。




見ないように、見ないようにと



代わりに、満天の星の、一つ一つを目でゆっくりと追う。



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しかし、耳は精悍と勘助の言葉を待ち続けていて。



静寂の中に、聞こえてくるものもまた、他にはなく。




「………以前、芝さんは秋華に言いました。


秋華が転がり込んできた嵐の、次の日の事でしたが。



『俺はここに骨を埋めるんや』と。




それを叶えてあげるってのが―――どうやら最後の親孝行になりそうです。



辛いですけど………しっかり看取ることにしますよ。


もうどこへもやりません。



俺が………俺が送らないことには………」








勘助の、消えゆるまでに掠れた声が、闇に霧散して消える。


だが声の弱々しさとは裏腹に、その言葉は芝山に対する思いそのものが含まれているようで。



ある程度覚悟はしていたのだろう。


こうなることを、心のどこかでは解っていたのだろう。




気丈を振る舞い、聞き分けのよい大人を演じる彼の姿は、しかし今は痛々しい。




「…………その覚悟で見送ってやることやな。」



励ましも、慰めも、今の勘助にかける言葉としては相応しくない。



他人からの言葉なんて、今はその覚悟を鈍らせる邪魔なものでしか、ない。




だから。





「俺にはそれしか言えんわ。」






―――芝山の言葉を借りるとすれば、これも『経験すべき別れ』の一つ。



これから人は―――自分も含めて―――どんどん先立ち、その骨を墓石に納めることになる。




今や一人の経営者である勘助は、


そんな不幸が起きる度に気を沈ませるわけにはいかない、そう思う。



これは、経営者であった自分の経験でもある。




22歳までに二人の父――芝山と兼続を失うことになるであろう彼には、あえて語る必要もないことなのかも知れないが………







…………その言葉に彼が頷いたかどうかは、天のみを仰ぐ古川にはわからない。



だが、彼の次の言葉を聞いたとき、


否定的でないことははっきりとわかった。











「何なんでしょうね。


人の生き死にって………」





―――こうも自分を何度も苦しませる生死って。



芝さんに無念を残してしまう生死って。




古川にはそういう言葉に聞こえた。







残念ながら、それは誰にもわからない。





人間世界において、絶対的なものの一つ。





何十年と死について考えた宗教の始祖たちだって、



結局は『天国と地獄』という架空の存在を作り出すことによってしか、その現象を説明することができなかったのだから。





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