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34


―――※―――




――時は流れて


10月、一週。


北海道、某市某病院にて。



『………さあ、今年の凱旋門はひと味も二味も違います!




ディープインパクト、オルフェーヴル、エルコンドルパサー………数々の名馬たちが果敢に挑戦し、そして、何度も苦汁をなめてきたこの舞台。


未だ欧州以外の調教馬が勝利したことはありません。アジア地域においては、最高着順は二着………オルフェーヴル、ナカヤマフェスタ、エルコンドルパサーの三頭です。



あと一歩、もうあと一完歩のところまで迫りながら、その一歩、その一歩が足りなかった日本馬たち。



今日は、そんな過去の名馬たちの、いえ、日本競馬の歴史を背負って、




史上最強の呼び声高い、あの三冠馬がこの舞台に挑みます!!



初夏の日本、三強に湧いた宝塚記念を、


ザラスシュトラ、ミツアキインパクトを完封して望みます!



ライバルたちも遠く海の向こうから声援を送っているに違いありません!



無敗での凱旋門賞制覇なるでしょうか!?



4ゲート三番、我らが日本の世界標準時!




ワールドクロックスっ!



イギリスbookmakerの単勝オッズは4・3倍、堂々の二番人気………』






………一時間200円、と書かれた集金箱の横、


ブラウン管テレビにチューナーを繋いだだけの『なんちゃって地デジ』テレビが、


興奮で完全にボルテージの上がりきったと思われる実況の声を、小さく響かせていた。





「相変わらず喧しいなぁ………青島は。」




しわがれ声と共に、ため息が聞こえる。







………町医者だかなんだか解らないくらいに小さく、未だに木造の気配もちらほら残る古ぼけたこの病院の一室で、


消灯時間をこれでもかというくらいに無視して、


夜の12時にもなろうかという時間なのに競馬観戦をしている老人がいる。



シワは濃く、頭を丸め、アゴヒゲを薄く伸ばし、浴衣をだらりと羽織って


ベッドあぐらをかくその老人は、




テレビに映し出される黒鹿毛のその『ワールドクロックス』と呼ばれていた馬の姿を見て、


少し顔をしかめた。




「ちょっと細ないか?これ………」




その老人は、どうもその馬の腹辺りの線がいつもより一回り細いのが気になるらしい。

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その馬が準備運動………返し馬をしている間中、ずっと「う~ん……。」などと唸っていた。




「数字にも出とるし、明らかに宝塚ん時より細いよなぁ………


なんかそれだけに走りも硬いような気ぃするし……」





別に特段誰かと話しているわけでもないし、誰かが部屋に居るわけでもない。




が、それでも独り言のようにこうやって他人の馬にぶつぶつ呟いてしまうのは、


それだけワールドクロックスへの期待が大きく、



凱旋門賞という大舞台に、やはり日本馬に勝ってほしいと願っているからだろう。



この老人、中々どうして素直になれないのである。





『………さあ、堂々たる返し馬で王者、ワールドクロックスがスタート位置へ向かいますが………



その後ろ。その後ろからワールドクロックスの背中を見るようにして返し馬を行ってておりますのが今回のこのレース、


一番人気のイギリス二冠馬クスィーです。



前々走キングジョージ(G1)、そして前走ダービーステークス(英ダービー・G1)を連勝してこの舞台へ。


なんと初戦がG1イギリス2000ギニー、キャリアは未だ3戦、4戦目での凱旋門賞への挑戦となります。


恐らくワールドクロックス最大の敵はこの馬になるでしょう。



そして忘れてはならないのがこちらの馬、前走フォア賞ではワールドクロックスの二着に食い下がりました、四歳馬ルパンザサード………』




ロンシャン独特の長く深い芝の上、



鹿毛の美しい馬体が、太陽の光を一杯に浴びて、まるで宝石のように光る。



アイルランド馬ルパンザサードの紹介に実況が移ってなお、カメラの注目は



クスィーと呼ばれていた、小柄なイギリスの二冠馬にあった。



張り上がって薄く輝く皮膚、引き締まったトモ、程よく乗った気合い………



多少三歳馬らしい若さを見せてはいるものの、その他にサラブレッドとして見た目に特に欠点はなく。




「まぁ………ええ馬にゃ違いないわな、これは………」



剃りあげて髪の無くなった頭を撫で回しながら、苦い顔で老人はそう呻いた。



―――素直に認めていいものなのだろうか?




恐らくこの馬は今から日本の悲願成就の壁となるであろう馬…………


無傷の10連勝の三冠馬を押さえての一番人気、


この『世界の』評価がそれを如実に語っている。





「こいつに勝てりゃあ、間違いなくワールドクロックスのレースやねんけどなぁ………」




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そう呟き、手元にあった水の入ったコップに手をかけた刹那。




コンコン、と戸を拳で軽く叩く音と共に、



入り口の方、スライド式の戸がゆっくりと横に開いた。



大柄なシルエットが、老人の目に映る。





「こんな真夜中にどなたさん…………」



ふう、とため息をついた老人は、


『どうせ見回りに来た看護師さんやろ』などと思いながら開いた戸の方を見やり、そしてそれを開けた人物の姿を見た。




しかし、そこに立っていたのは白衣のナースではなく。



安いんだか高いんだか見た目にはよくわからないスーツに身を包んだ、60近くにはなるだろうと思われる小太りの男性だった。


手には花束と革鞄を抱えている。






「ワールドクロックスの相手はクスィーだけ……か。


やっぱり芝ちゃんもそう思うか?」




小太りの男性は、薄い笑みを浮かべながら、未だクスィーを撮し続けるテレビの方を見て言った。



芝ちゃんと呼ばれた剃髪の老人―――芝山雄一は、


そこにいる人間の、その声とその姿に目を丸くした。




「ほう、こりゃあ珍しい!


古川の旦那やないですか!


何でまたこんな時間に?」




どっこいしょ……と立ち上がって挨拶をしようとする芝山を、


『古川の旦那』と呼ばれた小太りの男性―――元ラージ社長の古川耕平は、


「ああ、そのまま座っといて。」と、手で制しつつ、こう言った。




「なんや知らん、急に顔見たなってな。



要はただ一緒に酒呑みたなっただけやねんけどな。ハハ。



………今日は凱旋門賞やし、ひょっとしたらこの時間でも起きてんちゃうかな~思て寄ってみたんやけど。


案の定部屋の電気ついてるから、ああ、起きてんねや思て。



しゃーけどまあ、今もう12時過ぎとるやろ?さすがにもう入れてもらわれへんやろな~と思いながらダメ元で受付で頼んでみたんや。


したら、『ああ、芝山さんの…………どうぞ通ってください』とか言うて普通に通してくれるやんか。




………何かあったん?」




特段何を疑う様子もなく、純粋に疑問を持っただけ、という感じの古川。



その問いに芝山は、ほんの一瞬顔をしかめたがすぐに笑顔になり、



「いや、まあ………その話はあとにしましょ。


もうすぐ凱旋門賞始まりますよってに。」




と、テレビを指差して言った。



ようやく、ルパンザサード他の馬達の紹介が始まるところだった。





「今年勝たれへんかったら当分チャンスはないでしょ。」




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「まあ、せやろな。」



足元に置かれていた丸椅子に、ゆっくりと腰掛ける古川。




「たぶんこんな完璧な馬は、当分出えへんやろ。


追い込んだ時の末脚は言うまでもないけど、



見たか?宝塚記念。


あのザラスシュトラに逃げ勝ったんやで?こいつ………」



テレビの中、輪乗りを始めたワールドクロックスと佐武幸二郎を顎でしゃくって古川が言う。



「…………。」



「ほんでしかも、その完封した相手のザラスシュトラは、新潟記念、札幌記念と2連勝や。


………札幌記念は二年前のジャパンカップ馬ストライクノワールに五馬身差圧勝やったそうな。


あの短い直線で、あの鬼脚相手に五馬身差完勝やで。



そんな逃げ馬にや。追い込み一貫してきた馬が逃げ勝つなんて、普通の馬じゃでけへん芸当やわ。


まさしく日本最強馬……」




「まあ、たしかにそうですわな。


どない見てもこいつは歴代の名馬にひけを取りません。



能力はもちろん、パフォーマンスも人気も全部引っくるめてね。」



怪物と呼ばれるだけのことはある馬、というのは恐らく日本中の誰もが認める事実だろう。


デビュー以来負けなしの10連勝。無敗の三冠。三歳での有馬、JC制覇。宝塚記念レコード決着。


そのタイトルの一つ一つがもはや『伝説』であり、ディープやオルフェの話が語り継がれてきたように、この馬も語り継がれるべき存在になるのだと思う。




その『伝説』の中に、《日本馬初の凱旋門賞制覇》というタイトルがつくのかつかないのか。



………それだけのことと言われればそれだけのことだし、


重要なことと言われれば重要、日本の悲願である。





「やってもらわんと困りますわ。



いつまでも欧州の連中に《アジアの競馬は二流競馬》なんて言われてりゃあ我慢なりませんから。」




コップに注いだ日本盛をクイッと飲み干し、息をついた芝山。




「それがトシローの、未来にも繋がりますからね。」




テレビの上に置かれた、一頭と二人の写った写真。



それを愛おしそうに見つめた芝山は、「元気かな、あいつら」と小声でボソリと呟いた。




手紙は来るし、たまに本人たちが見舞いにも来るのだが、


それでもやはり、心配は心配だった。




育成ノウハウのまだ足りない勘助が、頼るものがない今、本当に大丈夫なのだろうか…………




何もできない身ながら、いつもそんなことを考えてしまうのだった。





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『………さあ、出走時刻です!


一番ゲートから枠入りが始まります……スナイパーオブフォーチュンが納まりまして、各馬続々とゲート入りしていきます。



三番ゲートには今、英国二冠馬クスィーが納まりました。非常に落ち着いた様子、とても三歳馬には思えませんが………



そしてこれも何かの因果でしょうか、そのとなり四番ゲートに我らがワールドクロックスが収まります。


スピードシンボリ以来、脈々と続いてきた凱旋門賞挑戦、その屈辱の歴史に終止符を打つことができますかどうか!





………最後大外1五番ゲートに、《数奇な人生》の異名を持ちます香港のスーパーヒーロー、香港ヴァーズ(G1)勝ち馬ベンジャミンバトンが収まりまして、



さあ、態勢完了!』






………欧州競馬には、ファンファーレが存在しない。



いつの間にか始まり、いつの間にか直線を向いている。


そんな競馬が、向こうの競馬で。




『世界中のホースマンのプライドと夢を乗せて、



凱旋門賞!




………今スタートっ!』




深く蒼い芝の上を、15頭の馬達がなんの前触れもなく緑のゲートから弾け出ていった。




『ポーンと飛び出しましたのはルパンザサード、絶好のスタートを切ったようであります!



その他も特に出遅れはありません。さて、何が行きますか………


ルパンザサード、そのまま行くようです、リードが二馬身三馬身と開きます。』



スタート直後、半馬身はやく前に飛び出していた鹿毛のその馬は、多少自棄になった感じで前へと追っつけていった。



「普通に競馬をやって、あのジャパニーズとクスィーに勝てるものか……」



後ろをチラリと振り返ったルパンザサードの騎手のその様子に台詞をつけるとしたらたぶんこんな感じなのだろう。


ただ、奇策を用いたところで結果が変わるかどうかは甚だ怪しいところだが。




「………前行った馬はアカンやろ。」


テレビの前、古川が呟く。


「そもそもそんな器でもないのに、そうやってダメ元で突っ走るのが一番の愚策や。


……あの宝塚を見てない証拠や。」





あの宝塚。



ワールドクロックスが絶対的逃げ馬ザラスシュトラを完封したあのレース。



完璧な逃げでさえ彼の追撃を抑えることができなかったのに、付け焼き刃の生半可な逃げが、


彼とそれと同格のクスィーを沈めることがいかに難しいか。



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「もし、ワシがこいつの馬主やったらこんな作戦は絶対に認めへんな。」




顔をしかめ、顎に手をやる古川。


―――ま、セオリー通りやろうが、どのみちあの二頭に勝つなんてのは相当厳しい話やろうけど。と、彼は話をくくる。



『………馬群はスタートから400を通過したところ、先頭は押して押してルパンザサード、リードを3、4馬身とっていきます。


そして大きく差が空いて二番手追走はスナイパーオブフォーチュン、そのあと三番手以降が一団になって香港のベンジャミンバトンやニュージーランドのファフナといった有力馬ががこの位置、馬混みに揺れている、


最後方ポツンと二頭、一番人気クスィーと二番人気ワールドクロックスです。



アジアと欧州を代表する追い込み馬二頭が不気味に後方に控えております………』




なるほど前がどれだけ飛ばそうが控えようが、そんなものはいつでもとらえるといった感じに


堂々と後方に構える王者二頭。



その様子はさながら、刀を研ぎ澄ます鍛治師のような感じにも見える。




「そりゃあ、『馬主』古川としての発言と取ってええんでっしゃろか?」



多少含みを持った感じで芝山が聞く。



「…………どういう意味?」



「古川の旦那、ラージ乗っ取られたあと相当へこんでらしたと聞いてます。


まるで、生気が抜けたみたいやったと秀馬くんが。


『もう馬なんぞ顔も見たくない』なんておっしゃった時期もあったらしいやないですか。



ワシ、もう古川の旦那が競馬やめてまうんか思て、バルクのことやらトシローのことやらどうすんねやろ、なんて考えてもうて。」



勝手で申し訳ない、と頭を掻く芝山。


勿論古川のことも心配だが、それ以上に心配なのは勘助や秋華、ひいては山本牧場の将来………


長らく親代わりとして生きてきた芝山だから、彼らのことを第一に気にかけてしまうのは当たり前の事ではあるが………







「馬は、もうやめようと思うてる。」




ある種もう腹は決まった、といった感じの、穏やかな表情で古川。




驚愕の色を含んで芝山の目が見開かれる。




「旦那………!



しかし………!」




―――それでは坊っちゃんらが!と続くはずだった芝山の言葉を手で遮った古川は、


ふふ、と微かに笑って、話をこう続けた。


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「言葉が足りんかったな。


『トシロー』で最後にしようと思てる。


………1億もの購買契約を結んどいて、今さらそれを反故にするなんてそんなことはせえへん。




ただ………蘇武輪に騙されてラージ乗っ取られたあの時………あの時に、


馬主としての………いや、ホースマンとしての古川は死んだと思てる。



自分が生産者や馬主としてG1を取りたいと、心から思うのが難しくなった時期があってな。


たぶん、芝ちゃんが聞いた俺が呆けてた時期ってのはその頃や。



なにくそ、諦めやんともう一回再起しよう!取り返したろう!………なんて心意気がもう産まれてけえへんかった。




たぶん、ホースマンとしてはとっくに限界迎えとったんやわ。




それがここまで粘れたんは、ラージへの責任感と夢でなんとか持ってきてたからやと思う。



せやけど、そのラージが消え失せてしもた。俺の手からな。



あれで、俺の馬への情熱も、完全に冷めてしもた…………



だから、もう馬には手を出さん。情熱の失せた馬作りは機械仕事と一緒や。


出来たものに魂が籠らん、愛を感じられへん。




生まれてくる馬が不幸になるだけや、だからもう馬には手を出さん。







………ただ。


ただ一頭だけ。






まだ見たいと思える馬がおるから。







そいつの馬主であった誇りだけ最後に頂こうかと思てな。





大丈夫、トシローは最後までしっかり面倒見るから……………」




古川はテレビの上、笑顔の秋華と勘助に囲まれたトシローの写真を見、口元に微笑を浮かべ顔を伏せた。



そこに写る黒鹿毛の『最後の夢』は、その凛とした馬体を古川の目に焼き付けさせたらしい。





「……………旦那。」





今の芝山には、感謝よりも安堵の方が強いかもしれない。


古川が苦しんでいる状況なのに、あまりにも利己的だと思う人もいるかもしれないが、



彼は、秋華と勘助の『親』なのである。


病床にある身、何もできない身にあっては、その後見人になるであろう人のその確証は、何よりも嬉しいものなのだ。




そして、それが仕方がないということを、古川も承知している。







『さあ、坂を登り坂を下ります15頭。


前半の千メートル通過は59秒7、少し早い流れになっております。



先頭は依然としてルパンザサード、リードは少し詰まって三馬身ほどになったか、その後ろ………』


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「それ聞いて安心しましたわ…………」



微笑を浮かべ、冷蔵庫から二本取り出したワンカップ大関のうちの一本を古川に薦めながら芝山。



「安心…………?」



「ええ、そないです。」




酒を受け取った古川に目線を会わせて、今度は満面の笑みで返した芝山。





が、その笑みの裏に、彼自身にとって今もっとも辛い事実が隠れていようとは誰が気づくものだろうか。




「ワシはもうあの子らのことは見てやれんので。」




嫌に穏やかな芝山の声に、古川は悪寒を覚えた。




「…………何で?」




「それがですね………」



カポッ、と芝山の手の中で間抜けた音をたて、詮の開いた、ワンカップ大関。


そしてそれをグイッと煽った芝山は、


ふう、と息を吐くと、少し顔を赤くしてこう言った。





「ちょっと前……



検査でガンが見つかりました。



病院嫌いが祟ったんですわ。長いことほったらかしで全身転移したみたいで。



…………末期ですわ。もう助かりまへん。



医者の言うには、持って1ヶ月だそうです。」








アホでしょ?と無理に陽気に笑う芝山が痛々しい。








「―――――」







末期ガン。




予後1ヶ月。





衝撃的なワードがちぎれては飛び、ちぎれては消える。




だが。






なぜか、古川は驚かなかった。


いや、驚けなかった。





ここに来たときから、何となくそんな気がしていた。



こんな時間に病室に入れたときに。



嫌に身の回りが整理されていることに。



ナースの面持ちが神妙だったことに。



嫌にたくさん酒を飲んでいるらしいことに。





呆れるほどに、その表情が穏やかであることに………







それはまるで、自分が病気ではないかのように。




何かすべてを覚悟したかのように。




どこか自分が来るのを待っていたかのように………






だから古川は










――そうか。



芝ちゃんはもう死んでしまうのか。








そんな感想しか持てない自分が少し恐ろしかった。










「…………そうか。」




「へえ。」




「死ぬんか。」




「しゃーないですわ。もう。



ただでさえ白血病でしんどかったのに、その上ガンですから。




ええ加減しんどいんでね………」





剃髪された――いや、髪の毛のなくなった頭をゆっくりとさする芝山。



どこまでも澄んだその赤ら顔は、


古川の口から出ようとした『気遣い』を、肺に封じ込めた。





もう、これは芝山の世界でしか処理できない話なのだろう。


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生きたい、というワードが出てこない。



この間は泣いてまで生存を願っていた芝山が、もう、自分は死んでしまったかのようにさっぱりしている。



どうしてこんなに清々しくいれるのか。



―――どうにもならない運命を前に、覚悟を決めた。


という程度の想像しか古川にはできない。



実際そんな気はどこかにはあるはず。




だが、本当のところ。その決意か覚悟の大きな柱になる部分は何かどこか違う。



もう崩れそうにはないその『覚悟』という家の大黒柱が、古川には見えなかった。



温い夜風に吹かれながら、ベッドにあぐらをかいて共に酒を手にして、


凱旋門賞を見ているこの状況。





わかっていることはただひとつ。






慰めや励ましは、



その家を揺るがす地震でしかない。




そして、その地震は時に、この世への未練という津波を起こす。




………壊してなるものか。



たぶん、芝ちゃんが身を切るような思いで建てた覚悟だ。



絶対に自分の偽善で潰してしまうようなことがあってはならない。




そう、この時点ではもう、『励まし』は、ただの自己満足―――



そして、唯一それを許されるのは、


『家族』


勘助や秋華だけなのだろうから。





『………残りあと千メートル標識を通過、ロンシャン名物フォルスストレート(偽りの直線)を目前にしまして、


先頭のルパンザサードはちょっと後退加減か、そのリードは半馬身ほどになっているが、それを交わして上がっていこうというのがスナイパーオブフォーチュン、そして三番手の位置にはイギリスのオルフェーヴル産駒オーサカハチマングーがピッタリと追走、



その後ろは一団、激しい位置争いがありまして、



そしてシンガリから三頭目にベンジャミンバトン数奇なる人生、


最後方不気味にまだ二頭が控えております!


ワールドクロックスとクスィー!』






―――今自分にできることを古川は考えた。





が、黙っている以外に特に為すこともなく。



そもそも今さらひょっこり現れて何かをしてやろうなどと、それこそ愚行ではないかと思い始めた。



古川は芝山に、数々の恩義がある。


そして古川自身、その受け取った恩義は素直に認めているし、返したいとも思ってはいる。



だから、本当のところ、何かしてやらないと気が済まない。



少しでも返しておきたい。


もらった恩を形見にするようなことだけはしたくないのだ。


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かといって、特別変わったことをしてしまったのでは、たぶん、変に気を使わせたのと芝山は思って、


何となく後味の悪いまま別れを迎えてしまうだろう。




それでは本末転倒だ。





安らかに送る手伝いができればいいのに。




やり方一つで間違った方向に転がってしまう。




死期を迎えた人間に対する接し方ほど難しいものはない――――




60過ぎになって、今彼は初めてそう感じた。






本当は、なにもしないのが一番いい。


日常を続けてやるのが一番いい。



だが、それをわかってはいても、他人としては何かをしてあげたくてたまらなくなる。



自分の中に、その死に行く人との関係があったことを胸に刻み付けるがごとく。




自分の感情という暴れ馬と、


理性という騎手が、




折り合いがつかず、ゴールまでを突っ走ろうとしている。





―――何もするな。なにもしてやらなくていい。



それが本人のためだ。





頭ではわかっていても、衝動が治まるところを知らず吹き出してくる。





返せない恩を抱えたままでいいのかと、脳が心に指令を送るのがわかる。






震える手で握った未開封のワンカップ大関が



瓶の中でさざ波を立てている。



「…………。」



気づかれまい、あるいは感付かれまいと古川は、栓に手をかけそれをおもいっきり引っ張りふたを開け、



それを豪快に煽った。



喉が波打ち、腹が焼けるように熱くなる。





はじめその様を目を丸くしてみていた芝山も次第笑顔になり、




「相変わらず見事な呑みっぷりで。」




と、笑った。





「芝ちゃん…………」






その屈託のない芝山の笑顔に、古川も自然と笑みがこぼれる。





「ハハハ………」



「ふふ………」





酒を挟んで笑い合う二人。




若い頃と何ら変わりない、日常の生み出す、当たり前の世界の、当たり前の一ページ。




酒を呑んで、酒で笑う。




酒を挟んで、酒に酔う。





いつ何時も変わらなかった、彼らオヤジの友情の形。






そして、その笑顔が、






接し方に悩める古川の精神に




とうとう折り合いをつけた。








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――――ああ、やっぱり日常なんだな。









死に行く人の求めるもの。







当たり前の世界。









回りに勘助がいて、秋華がいて、トシローがいて、バルクがいて、シューカアゲインがいて、たまに秀馬や桜花が遊びに来て、俺と酒を煽って、みんなで一緒に飯食って、仕事して、寝て起きて……………




今、一番必要なのはこれだ。




芝山が死ぬべき場所は、ここではない。





山本牧場だ。










『帰る』











口に出してはいないが、








芝ちゃんもそれを望んでいるのだろう。









少しでも長くの日常を。

















秋華や勘助との、当たり前の幸せを。












世界にただ一人の芝山雄一として、










守り続けてきた『息子』と『娘』、





そして、『自分の世界』を。











『………さあ、フォルスストレートを通過して最後の直線、ここからが長いロンシャン競馬場!



先頭のルパンザサードはずるずると後退、変わって上がってきたのはスナイパーオブフォーチュン、スナイパーオブフォーチュンが先頭か、


しかしその横オーサカハチマングーも食い下がる、父の無念、父の惜敗ここで果たしますかどうかオーサカハチマングー!



しかし先頭はスナイパーオブフォーチュン、スナイパーオブフォーチュン、そのリード一馬身と広げた!


いい脚で追い込んできたのはベンジャミンバトン、つれてオーサカハチマングーもエンジンがかかったか、


前のスナイパーオブフォーチュンをとらえる勢い!




主役不在のまま残り300、ここから根性勝負っ!






ここで抜け出したのは―――』



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『―――大外回って、来たーっ!主役の二頭!



クスィーとワールドクロックスだ!』



液晶の向こう、内の方で粘る三頭を全く相手にしない感じで、


『超絶』という言葉が似つかわしい末脚で、二頭が突っ込んでくる。



クスィーとワールドクロックス。



まるで、他の馬が止まっているかのように、コースの真ん中で、二頭のマッチレースが繰り広げられていた。




『ワールドクロックス!クスィー!ワールドクロックス!クスィー!



どちらも!どちらも譲らない!


黒鹿毛の馬体と栗毛の馬体が火花を散らして競り合っている!



ここで一歩クスィーが前に出たか、いや!しかしそれをワールドクロックスが再び交わす!しかしクスィーも全くハナを譲る気はない!


二頭が、二頭だけの競馬になったっ!』




「モンジューとエルコンドルパサー………。」




芝山が呟く。





「えっ?」





物思いに耽っていた古川は、我に帰ったように聞き返した。




「これはモンジューとエルコンドルパサーの時の凱旋門賞ですわ。



2頭とも譲らん末脚と二の脚でゴール前まで競り合って………



地元紙に『王者が二頭いた』ゆうて形容されたあのレース!」




「あ……………」





さっきまでの暗い話題も吹っ飛ぶかと思われるほどに興奮しきった芝山。



生来の競馬好き……恐らく命果てるまで続くのだろう。




今、芝山は日本馬ワールドクロックスを応援しているのでは、ない。




純粋にこの熱闘を、クスィーとワールドクロックスとの死闘を、リアルタイムで見ていられることを心から楽しんでいるのだ。



それを、凱旋門賞日本馬最先着エルコンドルパサーの、


日本が、世界が震えたモンジューのあの激闘に重ね合わせるほどに。





『残り200ーっ!


まだ決まらない!まだ譲らない!


ワールドクロックスとクスィー!




今年のロンシャンは、パリは燃えております!



譲らない、譲れない戦い!


英国二冠の、競馬発祥の地の意地にかけて負けられないクスィー!


スピードシンボリ以来の、日本の悲願を叶えるためにワールドクロックス!



離せない、離されない!



全く譲らない、譲らないまま、残り100っ!』


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―――競馬は人生の比喩。




名伯楽、野平調教師が遺した言葉である。



競馬に生き、馬と生き、競馬を心から愛した者が、この世を去り行く際に遺したこの言葉。




今、古川は目の前の芝山を見て、


ふとそれを思い出した。




芝山雄一ほど、この言葉の似合う人間も、そう多くは居まい。



偶然の連続で先々代山本牧場の場長に拾われ、その生涯のほとんどを北海道―――馬産に費やしてきた。


まさに馬に一生を捧げたといってもいい。



そんな人間が。



死期が近づき、残り一ヶ月と言われても


最後の最後まで競馬を楽しもうとしている。




まだ馬との生活を欲している。



どこまでもホースマンとして死のうとしている………





『―――クスィーか!


ワールドクロックスか!



全く横一線!


馬体を併せて、馬体を併せて、


豪腕、佐武幸二郎が追う!


クェスの風車鞭が飛ぶ!





もう言葉はいらないか!


もう言葉はいらないか!



先頭はワールドクロックスとクスィー両者譲らない!


ワールドクロックスかクスィーか、


世界標準時か閃光のハサウェイかーーーっ!



今二頭同時にゴールイン!




これは微妙!これは微妙!


八馬身遅れた三着にはどうやらベンジャミンバトンだが、



一着争いはワールドクロックスとクスィーの一騎討ち!



日本の意地と英国のプライドが火花を散らしたゴール前!



果たしてどちらが勝ったのか!



今年の凱旋門賞は、写真判定に持ち越されます!




勝ったのはクスィーかワールドクロックスか!』




「「………………。」」



言葉を失った芝山と古川。



二人とも、そのレースの凄まじさに、口が動かなかった。




―――どっちが勝った?



彼らの心の声が聞こえるなら、間違いなくそんな言葉が何度も繰り返されることだろう。




見た目にも壮絶な戦いだった。


スタート直後から、お互いをずっと牽制しあった、いわば最初から最後まで二頭のマッチレース。


どちらも最後までハナを譲ることなくゴールへ駆け込んだ。



どちらも強い。文句なく。



何から何を換算しても、その実力は互角、としか言い様の無いもので。





ただ。


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『今着順掲示板に順位が………あっ!点きました!




一着は三番のクスィー!



三歳馬クスィーが一着!



ワールドクロックスは二着!



斤量差が最後は勝負を決したか!!



凱旋門賞を、ハナ差で制したのは、三番のクスィーです!』




―――実力が互角なら、競馬の勝ち負けは時の運………



斤量が少し重たかったとか、外を回ったとか、馬場が荒れていたとか、向かい風だったとか、



そんな些細なことで勝負は決してしまうのである。








「あかんか…………」



ガックリと項垂れた芝山。


そのレースに興奮し、その最中には特に勝敗など気にしなかった彼ではあるが、



レースが終われば日本の1ホースマンに戻る。



大きな期待を寄せていた、日本馬初の凱旋門賞勝利は、再びゴール前で過去の惜敗と共に夢と消えた。



『またも二着!世界標準時に初めて泥がつきました!


この天馬をもってしても!


日本競馬史上最強馬をもってしてもなし得ない凱旋門賞制覇!





やはり、ロンシャンには魔物が住み着いています………!



勝ったのはイギリス二冠馬クスィー!


無敗での凱旋門賞制覇を見事成し遂げました…………』






こんなとき、傍観者の喪失感というものは甚だしいものがある。



ディープの時がそう。オルフェの時がそう。




いずれも史上最強といわれた名馬で、この馬が勝てなければ当分は………と言われた。



だが、そんな名馬たちでもなかなかどうして勝てないのが凱旋門賞という舞台………




『最強』が破れる。




誰もが勝利を信じてやまないものが。




先程は喪失感と表現したが、ここまで来るとこれは『絶望感』と表現するのが相応しいかもしれない。




もうどうやってもダメなんじゃないか―――




そんな意識が身体中に広がっていくような、



そんな感覚。





………大袈裟な表現と思われるかもしれないが、


現実に2012年の凱旋門賞はそのようだったのだ。


思い出したくないので多くは語らないが。







「どうやったら勝てんねやろな………これ。」




酒くさいため息をひとつついた古川は、ウイニングランをするクスィーを映したテレビを眺めながら呟いた。


彼自身、馬主としてワールドクロックスにコテンパンにやられた経験があって、そしてその実力をみとめる人間の一人である。


あのワールドクロックスが負けるなら―――



芝山同様、そんなことを考えていた。


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「ロンシャンには魔物がおります。


よそ者を殺す魔物が――」



芝の質、自然をそのまま用いたコース形態、水の質、ひいては海外挑戦のキャリア、輸送での疲労、



そして何より、欧州のホースマン達の『凱旋門賞』の勝利を守り続けたプライド。



それらが積み重なって巨大な壁になり、


高く積み重なった結果、


やがてそれは勝利を確信させたものまでを殺すモンスターになる。




このモンスターに勝ちきれず、これまで日本馬は幾度となく苦汁をなめてきたのだ。



マンハッタンカフェやメイショウサムソン、二年目のナカヤマフェスタ………



そして、今このとき、ワールドクロックスも。




「冥土の土産を握り損ねた。」




芝山は静かにそう呟く。


――生きている間に一度でいいから見ておきたかった。


日本馬が悲願をなす瞬間を。



おそらく今彼はそんなことを考えている。


初めて凱旋門賞に挑んだスピードシンボリ、それ以前に海外に挑んだ数々の名馬たち………




ハクチカラの時代から競馬を見守ってきた彼にとって、香港カップ勝ち馬フジヤマケンザン以前の海外遠征の歴史は屈辱の歴史であった。


アジアの蛮族の猿真似競馬と罵られること長く、馬自体がサラブレッドと呼べるかどうかもわからないとまで言われた歴史である。




そんな日本の競馬が。



近年になってようやく世界に認められるようになった。



絶えず新しい血統を取り込み、またその裏で昔ながらの血統を守り、このちっぽけな島国の中で世界を相手にできる独自路線を作り上げてきたのだ。



そして、そのレールの一部には間違いなく、


芝山雄一という人間も含まれている。



去った人間も、残った人間も


馬に関わるすべての人間の犠牲のもとに作り上げられてきたレールの上。



その上を駆け抜けていく日本の馬達の、その活躍の最終的な目標―――


世界最高峰、凱旋門賞制覇。




「見てみたかったなぁ。一度でええ。



ここを一番に駆け抜ける、日本の血ちゅうもんを………」





日本の悲願は、彼にとっても悲願だったのだ。



肩を落とす芝山に、古川は何も言えなかった。




もう、芝山にそのチャンスはない。


これが正真正銘ラストチャンスだった。


芝山雄一が生者としてその勝利を見ることができる最後の―――。



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ただ、ふと古川は思った。










生きているうちにはこれが最後でも、


芝山という人間の存在が、馬と共に凱旋門賞を駆け抜けるのはひょっとしたら可能ではないかと。



もし、芝山が育ててきた馬達の子孫が、例えそれがどれだけ薄い血になろうとも、いつかそこを駆ける可能性もあるのではないか。



競馬はブラッドスポーツ。



血と血のパッチワークの先に名馬が生まれ、その先にまた名馬が生まれる。



そして、そんなパッチワークの中にいつか――どんな形にでも、彼の息のかかった馬の名が刻まれるかもしれない。




それに、例えそれが不可能だったとしても、芝山がこの世で日本で馬を強くしようとした努力が失われるわけではない。



もっと言えば、そのノウハウを継ぐ、まだ若く先の長い勘助や秀馬のもとにそんな馬が生まれたのなら、



それは芝山が積み重ねてきたものが僅かでも力になったのだとは


考えられないだろうか?




そこに日本の馬を愛し勝たせたかった、芝山という人間が存在した……いや、存在するという風には考えられないだろうか?



使い古された表現かもしれないが、




天国からいつか出てくるかもしれないその馬の活躍を見守ることが、できるのではないだろうか?




「…………。



なあ、芝ちゃん。」






苦虫を噛んだような顔をしてクスィーのウイニングランを見る芝山に、古川は言った。




「はい?」




こちらを振り向く芝山。


……今日はその顔に刻まれたシワが、やけに薄く見える。




「…………。」




古川は一度大きく息を吸い込むと、その空気を鼻から全て吐き出し、肩を落ち着けてからこう言った。







「ほんまに死んでまうんやな?」





「……残念ながら。」







頷く芝山。




不思議とその顔に苦しみは感じられない。









「じゃあ…………



帰らへん?山本牧場に。」








「…………。」









………二人の間に、暫し沈黙が流れる。








芝山は少し息を飲んだ風を見せ、その後何か言おうとした。



が、



それを遮るがごとく間髪をいれずに古川が口を開く。



「―――こんなん不謹慎かもしれんけど、




芝ちゃんには、山本牧場におって、最後までホースマンとして………山本牧場の場員として果ててもらいたいねん。」



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「ホースマンとして?」




少し眉を潜めて問うた芝山。


それに対して古川は小さく頷き話を続けた。




「これまで芝ちゃんの日常は、馬との生活やったやろ?


馬を産ませて、育てて、送り出して、また産ませて育てて………


そんな生活が日常やった訳や。



違うかな?」




「……違いありません。


確かにそうです。」




「せやろ。


俺はそれを最後まで貫き通してもらいたいねん。



馬と生きて、馬に尽くした人間としてな。



………確かに芝ちゃんの肉体はもうあと一ヶ月しか持たんかもわからん。


けど、芝ちゃんが馬のために生涯を尽くした事実はなんも変わらん。



今でさえ、今こんときでさえ芝ちゃんは競馬に熱を燃やしとる。



せやったら、最後まで自分の好きなことに命燃やし尽くしたらええやん。



最後までトシローやバルクの世話して、最後まで馬に囲まれて、最後に牧草の上でコロッと死んでしもたら。



変な言い方やけど、そういう死に方が似合うんとちゃうかな?




………いっつも芝ちゃん言うてたやんか。



『俺はここに骨を埋めるんや』って。



こんな話ばっかり悪いけど、すごい芝ちゃんらしい信念やと俺は思うてたで。いや、それは今も変わらず思てる。


先々代のじぃさんに拾われてこのかた、兼続の補佐をずっとやって来て、勘助ちゃんの親代わりもやって、秋ちゃん助けて、



もっと言えば、スクイズから繋がる牝馬系統を守って、ラグフェアーもしっかりと無事で牧場に戻して、その結果生まれてきたトシローを目一杯可愛がって育てて、



山本牧場のために働いて来たやんか。



紛れもなくあの牧場の支柱をやって来たわけやんか。」



「……………。」




「貫徹せえへんか?



山本牧場の牧場員として。



……口にはだしてへんけど、たぶん勘助ちゃんや秋ちゃんもホンマはそれを望んでると思うし


何より芝ちゃんが一番帰りたいと思てるはずや。




病院で死ぬのをじっと待つより、最後まで馬のそばにおる芝ちゃんの方が、俺は『らしい』と思う。


生きてる間に教えられる限りのこと勘助ちゃんに教え込んで、


勘助ちゃんの知識になってこの世におったらええやん。



ベタな話やけど、魂は残り続けるちゅうヤツや。



勘助ちゃんの中で、秋ちゃんの中で、


芝山雄一ちゅう人間は生き続けるんや。」



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「坊っちゃんの中で、ですか。」




少し居心地悪そうに芝山は笑う。


人の中に生きるという言葉が、年老いた彼には少しむず痒かったのかもしれない。



が、古川は、それでも構わないから芝山を牧場へ帰してやりたいと思う。




それは、もちろん本人のためであるし、勘助や秋華のためでもあるし、



意地でも恩を返したい自分のためでもある。




「帰ろう。山本牧場に。



もちろん出来る限りのサポートはするし、医者も用意させる。


勘助ちゃんに負担は掛けん。



帰ったら、命尽きるまで好きなことやりとおしたらええ。



そうしたら最後…………勘助ちゃん達に囲まれて死んだらええ。



日常のまま、日常に囲まれたまんま、あの世に行ったらええやん。



な?



せやから――――」




……そこまで古川が言ったとき、芝山は何を思ったかベッドから降り、窓際の木製のタンスに手をかけ、


それから引き出しの中から紙を一枚取り出した。




「背中押された気分……ですわ。」




その紙を古川に差し出した芝山は、ふふと笑うともう一口酒を煽った。




「……………?」




古川は、手渡された紙に目を移す。


それは、何かの書類のようで。


一番上にかかれた太い文字が、古川の目に焼き付く。




「退院許可書…………。」




自然に出た古川の呟きに、芝山は頷く。




「余命宣告の次の日にはもろうてたんですが……。




………結局坊っちゃんや嬢ちゃんに自分が死ぬことを言えんでね。



急に帰ったらなんぞ感づかれるかもわからんでしょ?



で、結局ずるずると悩み続けて今日まで………」





―――根性なしでね………と苦笑いした芝山。


が、笑いと表現するにはそれはあまりにも重々しく。



「芝ちゃん………。」




「―――わかりました。


帰りましょ、山本牧場に。


明日までに身支度は済ませときます。


先生にもワシから伝えときますわ。



せやから、車だけ用意してもらえまっか?




坊っちゃんらに連絡したら絶対反対されますよって、知らんうちにこっそり帰りたいんですわ。」




「………わかった。



明日の昼に迎えに来るわ。」




笑顔を作り、古川は答えた。



その時彼の見た芝山の様子は、



確かに重苦しいところを残している風ではあったが、


同時に帰宅を喜ぶ風も見えるには見えた。


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―――帰るも帰るで苦痛か……



死期とはなんと不自由な物かと古川は思う。



帰りたいのは山々でも、これから生きてゆくものたちに迷惑をかけるぐらいなら帰らない方がいい―――



そんな思いが、今まで彼が帰ることを拒ませていたのだろう。




そんな彼の意思を次の言葉が如実に表していた。





「それと………坊っちゃんらにはワシが死ぬことは黙っといてください。」




―――最後まで勘助たちを気遣わせることなく。



一緒に居るならあくまで対等な生活を。



続けるならば、なんの気なく過ごしてきた日常を。




そんな意思を含んだその言葉に。




「わかった。約束するわ。」




古川はしっかりと頷き。







そして芝山は笑顔になった。














芝山という人間の、時計の静止を目前にして。







命の歯車が、最後の一回転を目指し、再び動き始めた瞬間であった。













『G13勝目、イギリス馬クスィー!


この強さ、この早さ、


ワールドクロックスを抑え、間違いなく世界最強!』















――凱旋門賞も終わり。



舞台は再び国内へと移る。





―――少し時を戻し、



盛岡競馬場、



マイルチャンピオンシップ南部杯(Jpn1)。




『さあ、最後の直線南部杯!



ここで先頭に立ったミツアキインパクトっ!


ミツアキインパクトが止まらない!止まらない!


リードを三馬身、四馬身と広げて行く!



二番手コスモスルーオフを、あっという間に置き去りにした!



ダンシングヤードも必死に追うが、



もうこれは止まるはずもないかミツアキインパクト!


ここでは格が違うのか!』




………それは、


誰の目にも逃げに見えた。



スタート直後から先頭へ立ち、一度として先頭を譲ることなく直線へ。




猛追してくるコスモスルーオフをあっさりと突き放してゴールへと駆けるその姿は、



まさに力に任せた逃げという感じで。



『さらに伸びるミツアキインパクト!


ミツアキインパクト!留まるところを知らぬかその脚!



待ってろ中央の猛者たちよ!


待ってろワールドクロックスよ!



俺はまだ枯れていないっ!



ミツアキインパクト完勝ゴールイン!



鞍上紀村ガッツポーズ!



盛岡の空に衝撃走る!



笠松のインパクトはまだ健在!



再びターフに風が吹く日が待ち遠しくあります!



勝ったのはミツアキインパクト!』







…………圧倒的な勝利。


圧倒的な持続性。


圧倒的なスピード。





すべてを引っくるめて言えることは、



圧倒的な逃げきり勝ち。




最終着差五馬身という数字がそれを如実に表している。



何より、最初から最後まで先頭を譲らなかったのだ。




『この馬の持ち味はこの自在性!


高松宮記念は先行!かしわ記念は逃げ!宝塚記念は追い込み!そして、そしてこの南部杯は他馬を一度も寄せ付けぬ完璧な逃げ!』




そう、誰もが彼は逃げていると思った。



いや、確かに現実には逃げていたのだ。



スタートから先頭に立ち、そのままゴールまで突っ走る。



このレースを見たものなら、誰もが彼の走りを逃げだと表現するだろう。



だが。







―――レース後のインタビュー。




鞍上の紀村だけは、一人違う認識でこの走りを振り返っていた。








「あれは、逃げてたんじゃない。



追っていたんです。




遥か前を行く、ワールドクロックスって化物を。」










秋の蹄音は、もうすぐそこまで近づいていた。







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