31
今の秋華の様子を見れば、同じ状況なら誰だって自分のせいだと思うだろう。
彼女に罪はないが、
これ以上秀馬に自責させるわけにもいかない。
「俺の見解ですが、秀馬さん。」
「……………む。」
「奈落が改心したとは思えませんね。」
―――きっぱりと言いはった。楽観的な憶測で、秋華を危険に晒すわけにはいかない。
老人に―――芝山に障子を蹴落とすような奴を、どうして信用することが出来ようか。
「………同感だ。」
グラサンを外し、胸ポケットに差し込んだ秀馬。
同意を含んだ蒼い瞳がこちらを見据える。
「――あの程度で参るような奴なら、もうすでにまともな人間になっているはずだ。
………大学の頃、桜花に叱咤されたときにな。
普通、好いた女に諌められれば少しは自らを省みるものだが。
しかし、奴は未だ、桜花の心が自分に靡かなかった事を俺のせいにしている。
反省を知らん奴に改心などあるはずもない。」
「………そう思いますよ。
芝さんの事にしても秋華の事にしても、奴は自分が悪いとは思っちゃいない。
自分のしたこと、投げかけた言動に悪気を感じていない。
たぶん、自分に危害を加えようとした事実を、一方的に悪だと思ってんでしょう。
あいつは多分、そういう奴だ。
自分に都合悪いことは、すぐに忘れられる人間、
いや、自分以外の悪しか悪として見られない人間というか。
駄々をこねる幼児みたいな………。
そんな奴が改心する様を、想像できますか?」
気に入れば正義、気に入らなければ悪。自分に都合の悪い事象や言動、行動は問答無用で悪。それでいて、自分の悪は断じて認めない。
まるで、相当にたちの悪いお山の大将がそのまま大人になったようなもの………。
勘助の奈落への分析は、おおよそそんな風だった。
「概ね、俺もそのような意見だ……な。
どうやら俺と勘助くんは、共通の危機意識を持てているらしい。」
「………そうですね。」
「では、奈落が近々こちらを……
いや、斎藤さんを襲うかもしれないということについても?」
背中に回った秋華の腕からの圧迫が、一瞬間強まった。
伝わってくる鼓動も早くなる。
心なしか、カーディガンは湿り始めているような気がする。
秋華の不安は痛いほどわかる、だがしかし――
「……俺らのことを忘れてくれたわけではなかったということですね。
奴は………来るかもしれない、と思います。」
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「来る………か。
懸命な判断だ。
推測は……負の方向にするのがいい。できるだけ慎重に、かつネガティブにな。」
腕組み、肩落とす秀馬。
「正直なところ、俺は奴が今すぐに事を起こすとは考えていない。
奴自身はバカだがその後ろ………蘇武輪辺りは恐らくこうして我々が警戒を強めようとすることぐらい、とうに予測がついているはずだ。
野球に例えよう。ストレートが来るのを待っているバッターに対して、ど真ん中のストレートを投げるピッチャーなどいない。
この場合は我々がバッターで奈落がピッチャーということだが………
本当に連中が何かしらの計画を練っているとするなら………ストレートに対応する準備を進めるであろう我々に対して、間を持つなり変化球を投げるなりなにか対策を取るはずだ。
しかし、この場合は………『奈落が弱味に漬け込み攻めてくる』以外の球種があるとは考えにくい。とすれば、勘助くん。この勝負の行方………君がどれだけ隙無くストレートを待ち続けられるか、ということになる。しびれを切らした方が負けだ。
いつまで警戒を続けられるかが、斎藤さんを守りきれるかどうかのデッドラインになる。」
「………はい。」
「常に最悪のパターンを想定することだ。そして、それに対し、抵抗しうる術を用意しておくこと。
用心に過ぎることはないんだ。
今我々は、奈落がどんな手を使ってくるかとか、どのタイミングで仕掛けてくるかとか、何もわからない真っ暗闇の中で、
ただひとつ奴が行動し始めたという事実だけを握っている。
逆に言えばそれしかないというのは、見えない敵と戦うことと同じ………。
状況は芳しくない、が、それでも守らなければならないものは守らなければならん。
奈落はバカだが……それ故に何をしでかすかわからず、そこがまた怖いところだ。
時に、勘助くん。これからは、今まで以上の覚悟が必要かもしれん。
………今日は、それを伝えに来たというわけだ。
大方、勘助くんは奈落を過小に見たりするようなことはなかったから安心したよ。
何度も言うが、あいつはあれで怖い人間だ………知っているとは思うが。
今ある事実と憶測………今はどちらも大切にした方がいい。」
―――事実と憶測。
今年の4月まで、過剰なまでの警戒をしていた勘助だったが、
その時もまた、確かに同じように大半が憶測だったように思う。
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どこで攻撃の手を繰り出すかわからない奈落に対して、ところ構わず身構えていたあの頃を思い出す。
「………耐性というか、経験はあるつもりでいますよ。
俺自身は奴等に抗えるような力はありませんけど、
秋華を守る、というよりは逃がすとか隠す……てなことに自信はあります。
自分の身の安泰なんてどうだっていいんです。
………命一つ捨てられますよ、今の俺は。
こいつのためなら………」
ぎゅっ、と背中のセーターが握り込まれた。
胸に埋められた秋華の顔が、さらに深く沈みこむ。
――守ってやらないと。
生まれて初めて落ち着いた生活ができているんだ。
奈落ごときに秋華のその幸せ、奪わせてなるものか。
心の中の自分がそう呟き、それに反応した手が、更に秋華を強く引き寄せる。
やんわりとした、仄かな心地よい香りが鼻をくすぐる。
「覚悟としては十分だ。」
相も変わらず険しい顔つきで、グラサンをかけ直した秀馬。
「が……二の次でも構わないから、自分の無事のことも少しは頭の中に留めておくことだな。」
椅子を引きゆらっと立ち上がった彼は、いまだグラグラと煮え立つ鍋のカセットコンロのスイッチを『切』にし、自らの食器と桜花のそれを重ねながら言った。
「君が無事でなくては、
その後斎藤さんはどうする。」
踵と、その言葉一つを置き、二つの重なったお椀と箸を手に、台所へ向かう。
「そう……ですよ……。」
「?」
不意に胸元を声が響く。
空気ばかりの勘助の肺を揺らした、彼女の呻きにも聞こえる小さな声は、
彼の鼓膜を揺らすには十分だった。
「勘助さん……そんな……言わないで………」
まるで外人が話すような片言の日本語だったが、
それ故に彼女の持つ不安もよく伝わってきた。
いや、不安というよりは、自分を心配してくれているのだと思う。
勘助は、その秋華の思いやりのくすぐったさに少し笑い。
「大丈夫。覚悟までだって。」
そういって、もう一度その小さな頭を撫でてやった。
――大丈夫。奈落に好き勝手はやらせない。
秋華を守り抜くというよりは、この生活を守ってやること。
それをしかと頭にとどめておきたい………
「じゃあ……私…が…ほんとに危なくなったら?」
「そりゃもちろん、刺し違えてでも奪い返す。」
「………バカ。」
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―――※――――
「本当にいいのか?」
二階、個人部屋がズラリと並ぶ廊下で、二つの部屋のキーを受け取った秀馬は、心底申し訳なさそうに言った。
「鍋まで馳走になったのに、
その上泊めてもらって……」
「いいんですよ、部屋は余りまくってるわけだし。
それに秀馬さん、酒飲んだでしょ?」
「う………。」
「飲酒運転で死なれたりしたら奈落どころじゃないですからね。
ま、ゆっくりしていってください。」
「……甘えるしかなさそうだな。
本当にすまない……。」
肩に乗せた桜花をもう一度担ぎ直した秀馬。
じゃ、と手を軽く上げてそのままの足で奥の部屋へと向かう。
が、その途中彼はふと振り返り、グラサン越しにもわかるほど眉を潜めて聞いた。
「君らの部屋は?」
「ここです。」
階段を上がってすぐの部屋のドアを指差す勘助。
傍らの秋華は口に手を当てて笑っている。
秀馬は、グラサンを少しずり落としてしまった。
「二人で………ひと部屋?」
「いえ、そうじゃないです。
もとはお互い別々の部屋だったんですが、
この間の秋華の誕生日のとき、俺が壁を崩して一つの部屋にしたんですよ、ここ。」
二つのドアを指の先に示す勘助。
「――いいでしょ?」
「…………。
呆れたな…………」
「秋華にも言われました、それ。」
ポンポン、と秋華の頭を撫で叩いた勘助。
秋華がにっこりと笑顔を返す。
「……………。」
見せつけられたようなほろ苦さに苦笑した秀馬は、
その体をまた奥へと向けて、
「……仲がいいんだな。」
と呟くと、部屋のドアに消えていった。
一番奥の空いた窓から、若干冷えた、ゆるりとした風が吹き込み、勘助たちを撫でていった。
「仲がいいだって。」
「………否定はしないな。」
二人は顔を見合わせ、笑った。
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―――翌日の昼下がり。
太陽が上りきり、やや強めの日差しが肌を突き刺す時頃。
「これは……大問題だな。
………勘助くん。」
放牧地に柵を立てただけの調教トラックに
勘助、秋華と共に訪れていた古川秀馬は、
目の前を駆け抜けていったトシローを呆然と見送った。
勘助に言わせれば、『いつものアレ』であるが、
初見の秀馬には衝撃的なものだったのだろう。
「びゅばーっ、ひゅばーっ……」
バッテバテになりながらも、まだ前へ、その前へとなんとか脚を進めていく彼は、
しかして大きく息を切らして今にもぶっ倒れそうな程の様相を見せていた。
(これではまるでさっきとは別の馬だ………)
…………。
「トシローが止まらない。」
話は、朝食時に勘助に持ちかけられたこの相談に始まる。
当初秀馬はその言葉の持つ意味合いがわからず、
一体なんのことかと状況を何度も問うているうちに、
「見ればわかる」
と、勘助が言い出したので、「百聞は一見にしかず」という結論のもと、トシローの調教を見学しに行くことにしたのだった。
………場道を通り、一周800メートルの調教場へ向かうまでのトシローの様子は、
それはもう見事なまでに堂々たるもので、問題視すべき事は何一つ無かった。
歩様も、トモの張りも、脚の運びの軽やかさも何ら問題なく、
古馬のそれにも劣らない落ち着きもある。
故に悪さやイタズラ等も皆目みられない。
むしろ引き役である秋華にじゃれにいくような人懐っこさまで見せていた。
―――さすがは社長………親父が見初めただけの馬ではある。
そんな印象を抱いた秀馬は、
凛とした『青年』を連想させるその一歳馬に対してほのかな憧れすら抱いた。
――一度でいいからこんな馬のオーナーになってみたい、と。
………しかし、そんな秀馬の、羨望すら含んだトシローに対する眼差しは
柴名が騎乗し、いざ調教が始まり彼が『問題のアレ』を発動すると共に
一気に落胆のものへと色を変えた。
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―――スタートから柴名の制止を無視して爆走し、測ったように残り200メートルで力尽きてそのままドタドタと雪崩れるようにゴールするトシロー。
一体さっきまでのあの落ち着きはなんだったのかと思うほどに、彼の走りは極端に言えば『頭の悪い馬』の物だった。
「一体なぜこんなバカ馬に育った!?」と彼は思わず紛糾したが、
しかしそれは勘助に言わせれば『頭がよすぎる』のだという。
最初は勘助の親バカかと秀馬は思っていたが、その意味の説明を受け、その後トシローの様子を見ていると、
なるほどそれは本当に嘘ではないらしい。
彼は、『馬』としての役目に、異様なまでに忠実であるという。
全力で走りきって見せることが本来の馬の役目であるということを、ほとんど信念のように心の中に焼き付けて走っているようなのだ。
見た目、ただ暴れているだけに見える柴名への抵抗も、どうやら子供のようにただ嫌がってしているのではなく、確かに自分の意思を持った行動のように思える。
それが証拠に、彼はあくまでも「柴名を落とそう」とはしていなかった。
むしろ、「何で俺の邪魔をするんだ?」という疑問を、投げ掛ける手段としてその行動を起こしているようにも見えてくる。
「…………。」
だがそれはそれで逆にタチが悪い。
彼自身はもはや、なぜ自分が起こられているのかわからない、グレる一歩手前間で来ているに違いない。
馬にしては、自分の信念が強すぎるのだ。勘助の言う「頭がいい」とはつまり、そういう事なのだろう。
そしてそれらが仮に全て真実ならば、
あまりよくない意味で、化け物のような馬であると秀馬は思った。
残念ながら競走馬は、本来人間に従順であるべきなのだ………
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―――※―――
「……で?
俺に何を相談したいと?」
目の前を過ぎ去り、グダグダになりながらも未だ前進の意欲を見せ、もう一度1コーナーに向かうトシローを愕然と見送りながら、
秀馬は勘助に聞いた。
「いや、何かあいつを押さえるアイデアとか。」
同じくトシローを見ながら勘助。
「何か、って…………」
これまで幾千の競走馬を見てきた秀馬だったが、こんな性質の馬を見たのははじめてだった。
馬にありながら強固とした意思を持ち、それを貫徹せんとする信念まで持ち合わせている。
………ただの気性難の馬に対しての矯正のノウハウならあるが、こんな場合ではなんとも…………
「………一度レースを見せてみるとか。」
―――ひょっとしたら、これだけ頭のいい馬なら、レースを見れば自分がどう走るべきかを理解できるかもしれない。
我ながら天晴れな考えであると彼は思ったが………
「やりました、それ。」
……興奮しただけでしたよ、と勘助。
「………」
―――それなら無理にでもスピードを緩めさせて………
「ハードルを置いて――」
「それもやりました。」
「コースを狭く―――」
「それも。」
「ハミに突起を――」
「同じく。」
「……………。
……………
肉―――」
「―――食獣の写真を貼りまくるだなんて…………言いませんよね?」
「………どうしろと?」
「いや、だからそれを聞いてるわけで。」
「……………。」
何度も繰り返すようだが、こんなタイプの馬を秀馬は初めて見た。強い信念を持った、『頭のいい馬』というのを。
……秀馬はカウンセラーではないから。
強固すぎる意思を持つ馬の、その意識を変えることなどできるはずもない。
何せ全てが初めての経験。
自分の無能ぶりをさらけ出すようで何だが、正直言って、それ以上の策は思い付かなかった。
「すまん……勘助くん。
力になれそうもない。」
全く策無し…と、何もないことをジェスチャーする両手を広げ、首を左右に振った秀馬。
「俺には普通の馬に対しての知識しか………
言い訳がましくて恥ずかしい限りだが。」
――下手な理屈を並べても、彼のためにはならないだろうし。
「やっぱりそうですよね………」
柵に寄りかかったまま、勘助はため息と共に肩をがくりと落とした。
「しかし、それでもどうにかしないことには。
能力は抜群なのに、このままじゃ引き受けてくれる厩舎がないですよ。
全く………」
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「…………。」
確かにそう。これほどまでに能力の優れているこの馬でも、人間の言うことを聞けないでは競馬にならない。競走馬にしてやることができない。
今のような状況のトシローを、一体どの調教師が欲しがるだろうか………。
快晴の北海道を、一点のみの黒雲が日差しを鈍らせる。
重い重い沈黙が、秀馬たちを少しずつ包んで行く。
帰還した柴名も、全くお手上げといった様子で、それがさらに場の空気を重たくした。
牧場には、トシローの荒々しい息づかいと、それを引く秋華の、彼をいさめる声だけが響いていた。
「………。
あの。」
………暫しの間の静寂を、場の空気なりに破ったのは秋華だった。
秀馬、勘助、柴名が顔を上げる。
秋華から発せられたその視線は、どうも秀馬に向けられているようで、彼もそれに気づき、
「どうかしましたか、秋華さん。」
と、聞き返した。
「あの………えと………。
桜花さんは今日はどちらに………」
「ああ、あいつですか。
………あいつなら恐らく二日酔いでぶっ倒れてまだ寝てますよ。
昨日は結局ビールを缶五本開けましたから。」
―――一同驚愕。
「五本!?うちにそんなにビールありましたっけ!?」
勘助が驚嘆と疑惑の声を上げる。
「ああ、あいつ……あれから部屋に帰ってもう一回飲み始めたんだ。差し入れのために持ってきたやつを……」
「そんな………!
あれから……また飲んだの?」
呆れた、と秋華。
「お姉さま」だった頃の彼女の『メッキ』は、音をたてて剥がれ始めているようだ。
「まあ、無類の酒好きですからね、あいつは。
多い日には朝昼番で一升瓶を飲み干したこともあります。
それでいて滅多に悪酔いしないから驚きなんですが………」
「でも昨日はベロベロに………」
「ビールだけには弱くてね。
まあ本人は、それを楽しんでいるらしいが………」
秀馬の言葉に、一同、昨日の彼女を思い出す。
ヘラヘラしながら気でも触れたかと思うほどの勘助や秀馬へのからみ。
いつもは「あはは!」と活発に笑う彼女が、昨日は「うへへ」と深夜帰りのサラリーマンのような笑い方をしていたこと。
いつもにも増してテンションが高かった気もするし………
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「あの、こんなことを言うのもアレですが。」
少し控えめに勘助。
「?」
「アホですね。
桜花さん。」
「……言ってやってくれ、本当に。」
毎日顔を会わせて生活している身にもなってみろ………と秀馬。
「仕事がなければ知らない間に冷蔵庫の前でへたっていることも少なくないし、仕事を任せても、常にベルトの間にウイスキーを破産でやがる。
秘書という仕事をなんだと思っているのかは知らんが、他人のところにいればもう即クビだろうな。」
苦笑した秀馬の顔には小じわが見える。
その苦労によって刻み込まれた線であろうか。
秀馬がそこでため息をつくと、再び沈黙が流れる。
ただ一人、柴名だけが後ろに手を回してニヤついてはいたが。
「………あの。」
再び秋華。
「何でしょう?」
「じゃあ何でクビにしないんですか?」
「…………はっ?」
「いや、あの………そこまで苦労なさるなら、他の役職につけるなり何なりしたらいいんじゃないかな………と思ったんですけど。」
「………え?」
思わぬ質問に一気に挙動不審に陥った秀馬。
その顔色は、まるで色を塗る前の真っ白いキャンバスのよう。
「いや、それは………
だから、
あの、
いや、
……えっ?」
秋華の指摘は、正に急降下ピンポイント爆撃だった。
………事の成り行き上、彼は桜花をホームステイさせている訳だが、しかしてわざわざ彼女を秘書でいさせる必要は、確かにない。
彼から目の届く、彼の自宅に桜花が住んでいるのであれば、特には役職を指定する必要性は『無い』のだ。
「なぜ……………なのか。
………解らん。」
でも……秘書は桜花でないと困るような気が………。
しかし。その理由が見えてこない………
秀馬のキャンバスには、青い文字で大きく『?』が描かれる。
最初はポケットに手を突っ込んで髪の毛を書き上げる程度の悩み方だったのが、次第に両手を使って頭を抱えるようになり、
終いにはそこに座り込んでなお悩んでいた。
「…………。」
「ったく………
古川の若社長も素直じゃないですね。」
はは………と声を出して笑ったのは、先程から笑みを溢れさせる柴名。
本当は大笑いしたい………と言っているかのような口角の痙攣が、彼の気分を的確にデッサンしている。
どうやら彼のパレットには赤色が満載されているようだ。
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「若社長も男でしょうよ?
それならあんな美人が横にいて嬉しいのは当たり前………」
「いいいいやいや!
そ、そんなやましいことでは決して―――」
ちょっと待ってくれ!と立ち上がり、柴名を仰ぐ秀馬。
それに続く勘助、秋華も同様に。
―――するとそこには。
「あたしはそんなにやましい存在かよ。」
上下ジャージ姿に乗馬靴の桜花が、ヘルメットと鞭を持って立っていた。
「お、桜花っ!?」
クエスションマークすら塗りつぶすような深い青が、秀馬のキャンバスを塗りつぶす。
「ハーイ!若社長!元気かな?いや、元気よねー、あんなアクションして悩む体力と気力があるんだもんね!?
……あんたは後よ。」
秀馬を一瞥した桜花は、次に勘助たちの方を向いて。
「ったく。無茶苦茶言ってくれるよね、勘助っちも秋ちゃんも。ね?アホだのクビだの何だのと………」
ひきつった笑顔でビュッ、と鞭を降り下ろした桜花。
(あわわわわ………)
勘助が二、三歩後ずさる。そしてその後ろに「わわ、ごめんなさい!」と秋華が身を隠す。
三者三様の青絵の具の中、ただ一人柴名だけが爆笑していた。
「桜花さんは僕がこっちに帰ってきたときから、僕の後ろに隠れてましたから。
全部聞かれてますよ。逃げ場はありません。」
「それを知ってて………あんた鬼か!?」
涙目で勘助が叫ぶ。
「いいえ、
ただの元騎手です。」
心底楽しそ~に柴名。
(ああああああ!)
これは洒落にならない。勘助は頭の血が全部足に落ちていくような感覚に襲われた。
よりによって怒らせたら一番めんどくさいやつに………
それは秀馬も秋華も、全くもって同じ意見で。
「………。」
鞭をビュンビュン振り回しながらひきつった笑顔で徐々に近づいてくる桜花に、後ずさることしかできなかった。
「…………ったく。」
しかし、桜花はその途中足を止め。
肩を落とし、トボトボと放牧地の柵に繋がれているトシローの方に歩み寄って、その鼻面を撫でてこう言った。
「まあーね。確かにあたしは酒飲みだし?アホだし?やたらとテンション高くて鬱陶しがられるし?よくミスるし?何か若社長と歩いてるだけで『何あのブス』みたいな目で見られるし?……存在意義ないかもね。
でしょ?若社長。そう言いたいっしょ?」
「いや、違…………」
「違わないの。もし違ってもそういうことにしといて。」
「…………?」
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「要はさ、あたしの存在意義を見せつけてやればいいわけでしょうよ。ね?若社長。あたしがいて役立つことをあなたに証明してやりゃああたしはクビにされなくて済む訳でしょーが。そうでしょ?」
「いや、誰もクビにするとは…………」
しかし、秀馬のフォローは桜花の耳には入っていかない。
「―――やってやるわよ、やってやりますよ。今若社長達が困り果てて手も足もでない事を、このあたし、スーパー秘書の斎藤桜花様が解決してやろうじゃないのよ。そんで社長を助けるあたしの秘書としての役目存分に果たしてやろうじゃない!文句なしに桜花一番ちゅーところを示してやるからね!だからあんたら、その目を確り開いて見てなさいよ!」
指差し身ぶり手振りで自分の意思を誇大し、一通り言い切った彼女は、手にしていたメットをかぶり、鞭を腰の辺りのベルトに差し込み、傍らのトシローの拘束を解くと、
鞍に手を遣り、あぶみに足をかけてそれに一気に跨がった。
(あっ………!)
これはヤバい。
今のトシローは普通じゃない。
元騎手の柴名でもたまに落ちそうになるのに、一般人の、しかも女性が乗ったら
どうなるか。
………落馬されたら洒落にならん。
「「桜花さん、危ない!」」
秋華と勘助が声を揃えて叫んだときには
しかして、もう事は始まっていた。
「せいっ!」
桜花がトシローの腹に喝を入れる。
「ぶひゅひゅひゅひゅ!」
トシローの目に火が宿り。
当然のごとく、大爆発。
トシローの持つ、そのロケットのような爆発的な推進力でもって、彼女の体は風にあおられた稲穂のように後ろに仰け反る。
「…………!?」
驚愕の色を示す桜花の表情が一瞬だけ見てとれた。
((ああ、落ちるっ……))
勘助は言葉にならない言葉を叫び、秋華は顔を手で覆った。が、次のひとコマには………
「いいいいい加速だあああああああああトーシーローっち!」
ひゃっほう!と叫んだ桜花は、いとも簡単にその体勢を立て直し、
綺麗なモンキースタイルの騎乗で、トシローと共に駆け出した。
「気ー持ーちーいーいーっ!」
コーナーを回りきり、向こう正面をいつも通り全力で駆けて行くトシロー。
その上に跨がる桜花の騎乗スタイルは、教科書に載せても遜色が無いほどに、理想的なものだった。
別に無理にトシローを押さえるわけでもなく、馬なり(手綱を緩めて気ままに走らせる)のまま彼に身を任せてトラックを走り抜ける。
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まるでサーフィンでも楽しむかのように乗る桜花。
「マジか………」
―――何であんなに綺麗なフォームで……いや、それより何であんなに楽そうにトシローに乗ってられるんだ?
気持ちよさげに彼を乗り回す桜花を眺めながら、勘助は唖然としていた。
柴名が来る前、ずっと調教をつけていた勘助だから、
トシローに乗っている難しさは人一倍知っている。
勘助のように並のバランスや筋力しか持たない人間では、彼の馬上では耐えることもやっとなのだが。
今目の前を駆け抜けていくトシローの上の彼女には、微塵も無理を感じることがない。
完全にトシローに身を任せ、なおかつ自らも相手に合わせて、
鼻唄でも聴こえてきそうなライドの軽やかさである。
「……。」
言葉を失う勘助。
この頃には、唖然というよりはむしろ、呆然という言葉の方がしっくり来たかもしれない。
―――目の前でトシローを乗りこなしているあいつは、一体何者なのか。いや、本当にただの『桜花』でいいのか――――
「………乗馬検定一級。」
ずい、と傍らに押し出てきた秀馬が勘助に言った。
「は…………?」
「JRAベイビージョッキーズカップ優勝、全日本ジュニア障害馬術大会、馬場馬術大会、総合馬術大会全て決勝進出うち障害馬術は総合優勝、全日本女子学生馬術競技会総合馬術部門三連覇。その他地方の競技会の優勝経験数知れず。
オリンピックの代表入りも時間の問題と言われた……」
「ちょちょちょ!ま、待ってくださいよ!
一体何すかソレ!?」
―――乗馬検定一級!?日本に数えるほどしかいないと聞くが……
「全部桜花の経歴だよ。
忘れていたわけではないが、あいつは馬乗りに関してはプロだ。
あの社来ファームからオファーが来たこともある。
………いや、その手の誘いなんて星の数ほどあったかな。」
懐かしげに、誇らしげに秀馬は語る。
「俺がいなくなった後、あいつはうちの大学の馬術部の主将やっててね。
斎藤桜花の名前を知らない学連の理事は、たぶんこの世にいないだろうな。
同期の人間には『羅神』とか『現代版巴御前』とか言われて恐れられていたが。」
奈落の一件さえなければ五輪も、な。
そんなことを呟いて、最後秀馬はふふと笑い、
「よく考えれば………今さら存在意義なんて大した問題じゃないんだよ。」
そう言って前にあった柵にもたれ掛かって、少しばかり身を乗り出した。
「………桜花さんが。」
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「僕も『巴御前』の噂は聞いたことありましたね。」
ヘルメットを外し、手袋をポケットの中に突っ込んだ柴名が口を挟む。
「何でも7歳で乗馬検定二級だとか。
天才美少女現る!って、調教師連中が騒いでいたもんですよ。
騎手課程を受験するって噂もありましたからね。ソレも重なって。
その後はあまり話も聞かなくなりましたが………あれは桜花さんでしたか。」
道理で、と柴名。
元JRA騎手の目から見ても、恐らくは騎手のそれに劣らないほどに写るのだろう。
気ままに走らせている分は確かに体力は使わないが、
それを差し引いても見事、
これがあの『巴御前』かと感じるには十分だった。
「………なぜ、やめたんです?
そんなところまで登り詰めていて……。」
桜花に助け船を出すようなつもりで、勘助は秀馬に聞いてみた。
………大方予想はついているのだ。
あの桜花が、それほどまでに極めたらしい乗馬を捨ててまでなりたかったモノ……
将来約束された栄華を捨ててまで手に入れたかった未来のカタチとは………
「さあ、な。俺も競技を続けることは勧めたんだが。
どうしてもラージで就職したいと言って聞かなくて。
まあ、それほどまでに馬が好きだということなのだろう。」
――馬主秘書としてこれほどの適性はないな。と、自らの言葉にうなずいた秀馬に、勘助は笑うことしかできなかった。
(スーパー鈍感か、この人………)
勘助の後ろに立つ柴名の、
「しんどいな……桜花さんも。」
という言葉は、彼の耳には届かなかったようで。
「酒飲み」転じて「巴御前」の桜花の屈託のない笑い声は、悲哀の相を含んだ叫び声にも聞こえた。
久々に柴名の制止から解放されたトシローが、
いつも通りにトラックを全力で駆けていた。
少し汗ばむ陽気の、
秋の昼下がりのことである。
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―――※―――
―――結論から言うと、斎藤桜花はタダ者ではなかった。
かつて『巴御前』と恐れられ、馬術競技のありとあらゆるタイトルをかっさらったらしい彼女は、まだその色褪せず、「馬のプロ」としての輝きを保ち続けていたようで。
このあとの問題解決の糸口を、この短時間で手繰り寄せるという荒業を、成し遂げるに至った。
合計四週を終え、ようやく止まったトシローを引きながら、勘助たちの待つホームストレッチに意気揚々と帰還した彼女の、
第一声はこうだった。
「ね、勘助っち!
一度競争………いや、レースさせてみようよ!トシローっちさ!」
「………レース?」
驚く勘助。
―――併せ馬とかではなく………レース?
なぜこのタイミングで……。
「その心は?桜花さん。」
いつも通り微笑みを含んで、柴名が聞く。
桜花はそれに、「なんとなくわかっちゃったんですよね、私。」と返事し、一度咳払いをしたあと。
自らの仮説を語り始めた。
「トシローっちは頭がいいってのは前から聞いてたんだよね。何だっけ、全力で走ることを自分の信念にしてるってアレとか、馬の本能に純粋なんだとか。
でもさ、ソレがあると競馬に邪魔………てか、競馬にならないわけじゃんか?
だったらさ。競馬を教えてやりゃあいいんだよ。」
「競馬を……教える?」
「そ、競馬を教えるの。」
指先でムチをクルッと回した桜花は、それを握り直して上下にビュンビュン振った。
「全力で走ったら『馬』としての能力では勝てるけど『競馬』としては負けるってことを、しっかり教えてやるんだよ、トシローっちに。
今のってて気づいたんだけどさ、この子は全力で走ることを他の馬への勝利だと勘違いしてる節があるんだよね。これが『馬』として勝つって意味。
でもそれじゃあ『競馬』には勝てない。だって全力で走り続けたらバテるんだもん、当たり前のことだよね。
本来だったらさ、それを知ってる人間が、馬を抑えてやる役目を果たすんだけど。ソレできないんでしょ?トシローっち頭よすぎて。
だったら、そんな頭のいいトシローっちにさ。教えてやろうってのよ。『競馬』に勝つ方法……我慢ってのを。」
「………どうやって。」
「負けさせんのよ。トシローっちを。
レースで。」
桜花はトシローの首をポンポンと叩きながら、笑った。
「前半好きなようにさせて―――ね。」
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「わざと……負けさせる?」
勘助が問う。
「そ、わざと負けさせるの。
ほら、勘助っち達もやってたんでしょ?レース見せて競馬を理解させようとしたりとか。」
「ええまあ。」
「でも効果は出なかった。
まあ当然ちゃあ当然よね、いくらトシローっちが頭よくても、そりゃ馬が液晶の中に映る競馬を見て、ソレを理解するだなんて、まあ、おとぎ話のレベルだね。あ、いや、別に勘助っち達を責めてる訳じゃないよ?何も手がなかったことも解ってるつもりだから。」
「お、おとぎ話って……」
少し頬を膨らませた秋華。
「まー、まー、そう怒らないで秋ちゃん!話はこれから。
実際のところさ、治って無いわけじゃんか、その癖は。ん?クセ?ちょっと意味違うな。………まあ、いっか。そういうアレよ、うん。
で、さあ。そのクセ………『馬』としての勝利を求める信念はどこから来るんだ?ってのが問題なわけ。
それさえなけりゃあトシローっちもまともな競走馬なんだから。
答えは、自信。たぶんね。
トシローっち、他の馬と競ったことがない上に、自分がそこそこの能力のある馬だってのが解ってるみたいだから、その自信が更なる信念と過信に変わっちゃんてんのよ。残念なことに、ね。
『全力で走れば負けない。』そんな意識が信念になって現れてんの。」
顔半分を隠す、桜花の前髪が風に渋かれて横になびく。
彼女自身もこの仮説に自信を持っている―――。そう告げるかのような強い瞳だった。
「さあて、ここで秋ちゃんに問題!
仮に、勘助っちが自信過剰で、『俺は秋華より料理が上手いんだ!』なんて言い出したとしようよ。
正味、腹立つっしょ?」
何ですかその例えは、と身を乗り出した勘助を制止する目的も含んで、秋華は「そりゃあ……」と前に出た。
そこへすかさずトシローが「ひゅーん。」と鼻面を寄せる。くすぐったがる秋華。
しかしそんなことは気にもせず、桜花は話を続けた。
「だよねだよね?あたしももしそんなこと秀………若社長に言われたら、たぶんギタギタのケチョンケチョンにしちゃうから。わら。
でも、秋ちゃんならたぶん、その勘助っちの天狗の鼻折ってやりたいと思うよね?」
「いっ、いえ、私はそんな………」
「思うよね!!??」
「ひっ………!あっ、の…………
…………思います。」
「よろしい。」
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無理矢理に肯定させ、ご満悦の桜花。
「だーっしょ?マジ腹立つもんねそういう奴。
じゃあさ、そんなとき秋ちゃんはさ、殴る蹴る殺す以外の行動でどうやってその天狗の鼻を折ってやる?
わかるっしょ?あたしと違っておしとやかな秋ちゃんなら………」
「え?
あ、あの………えと………」
困り果てた表情で、秋華は勘助を伺ったが、
残念ながら、勘助もどうしたものかは解らなかったので、助け船は出なかった。
そんな風なので、彼女はしぶしぶ自分ならどうするかを考えた。
「私なら………
勘助さんに勝てるくらいの料理をつくって……
認めてもらう………かな?」
そう言って秋華が顔を上げたのと、桜花が「ビンゴ!」と言って指を指したのとは、ほぼ同時だった。
「それそれそれよ、あたしが求めてた回答は!
秋ちゃんやっぱり可愛く柔らかい言い方だけど、要は『勘違いを認めさせてお口チャックさせる』って事じゃん?そうっしょ?」
「えっ?いや、違っ――」
「――あたしがレースやろうって言った理由は、まさにそれな訳よ!」
やや興奮ぎみに桜花。秋華にはなにも言わせなかった。
テンションを上げるのは勝手だが、やたらとムチを振り回すのだけやめてもらえないだろうか……
勘助はそんなことを思った。
……しかしそんな願いは通じるはずもない。桜花は耳をチャックしているのだ。
「トシローっちと他の馬を、そうだね、ここ2周……1600メートルでレースさせんのよ。さっきも言ったように、前半はトシローっちの好きなように走らせるの。そしたら、トシローっちってあんな風な走りしかできないから『レース』になったら絶対に勝てない訳じゃんか?例えどんな馬が相手でも。したら最後、勝った方の馬を誉めちぎってやるの。トシローっちの目の前でね。イルカの調教の要領よ。
それで思い知らせてやるの。
全力で走るだけじゃ『競馬』には勝てないんだ、ってこと。
どう?この作戦。カンペキっしょ!?いや、聞くまでもないね、やるしかない!うん!あーもう自分の脳ミソにキスしたい!なんでこんな完璧な作戦をををををををををを!」
言い切った桜花は膝に手をつき、肩を揺らして、「ぜーはー」言いながら息を整えた。
時折「どや!?」と顔を上げたりしながら。
一同は、彼女の案はもっともだと思いながらも、どこか釈然としない思いだった。
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(あんなこと言っちゃった……勘助さんに嫌われる……)
顔を手で覆っている秋華。
(俺をダメ人間の例に使いやがって………)
拳に力のこもる勘助。
(何か僕が無能みたいですね………)
拗ねても笑顔の柴名。
乾いた風に乗って、枯れ葉がカサカサと音を立てる。
「………あり?」
ようやく場の空気の異常さに気づき始めた桜花であったが、
「ちょー何よ何よ!あたしのナイスすぐる提案に言葉を失ってんの?
いやー、照れるなーっ!」
原因が自分にあるとは思えなかったようで。
カラカラと笑う彼女の姿は、場の雰囲気をさらに悪化させた。
が、それはともかくも、全員共通の意見として、『桜花の進言』は見事なものであった。
コロンブスの卵、とはよく言ったもので。
この進言、考えてみれば実に単純明快なことであるが、しかしそれをはじめて思い付くというのはやはり、
『抑えず乗ってみた』乗馬好き………いや、乗馬のプロである彼女だから成せるものであり、伝え方はともかくも彼女は救世主なのだった。
―――本来の目的はトシローの矯正。彼女の話は癪にさわったが、しかし的を射たものであることは間違いない。
勘助は「なるほど。」と呟いてみせて、それから口を開いた。
「確かにしっかりした根拠もあるし、トシローの欠点もしっかり捉えている。
……試してみない手はないですね。」
―――ダメで元々……なんて言葉で括れるほど説得力のない話じゃない。
地に足ついた、しっかりとした提案だと勘助は思っていた。
「だっしょ!?さーすが勘助っち、話が早い!」
手を打ってガッツポーズの桜花。彼女はその流れのまま柴名を見て。
「ね、ね、じゃあさ、柴名さん的にはどう!?」
「………僕も賛成です。
元騎手としては悔しいが、僕の考えより遥かにスジが通っている。
これをやらない手はないでしょう。」
悔しがっていて(?)も笑顔の柴名。
ただ、勘助は、その声に一点の曇りがあるのを危機逃さなかった。
「ただですね、桜花さん。
それを実行するにはこの牧場には一つ大きな問題があるんです。」
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「へぇっ?何それ。」
何言っちゃってんの?と桜花。
「一周800のトラックもあって、騎手もいて、道具もしっかり揃ってる。スタッフもあたし含めて粒ぞろい。
これで何が足りないっての?」
あんたホントに騎手?とでも言いたげな上から目線で桜花。
しかし、それでも柴名は笑顔で。
「もっと根本的なことですよ、桜花さん。
………うちにはトシロー以外に走れる馬がいません。」
「…………?
…………。
…………。
…………。
…………は?」
真っ白に成り行く頭をなんとか働かせて、桜花は山本牧場の今の所属馬を思い出していた。
トシロー……本馬。
ラグフェアー……ラージの分場で繁殖生活。
コスモバルク……骨折経験あり。の上にもうだいぶ歳。
スクイズ………天国。
シューカアゲイン……キャプテントゥーレを受胎。
………以上。
「………マジでいないの?馬。」
「ええ。」
「…………。
コスモバルク走れたりしない?」
「骨折しますよ?」
「………シューカアゲインは?」
「秋華さんを泣かせる覚悟があるならどうぞ。」
「………スクイズ――」
「――骨は走れません。」
「マジかよえ。」
さっきまで自らの発言の完璧さ(自称)に興奮して鮮やかな赤色だった桜花の顔色は、一気にマイク・タイソンもびっくりの土気色に変わった。
「もう一回聞くけどさ、ホントに馬―――」
「いません。」
常に笑顔の柴名。
自らのメンツが、音をたてて崩れていくのを感じた桜花は、
しばらく口をパクパクさせてのち。
どこからそんな発想が飛び出したのか、とんでもないことを言い出した。
「だ、だったら!
あたしが走ってやる!」
「………………はぁ?」
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「あたしがトシローっちと走るってんのよ!」
「それは無理です。不可能です。絶望的です。
いくらなんでも勝てませんよ。
トシローに自信をつけるだけです。」
「いーや!高校時代400メートル一分台のこのあたしの俊足をもってすれば―――」
「馬は1000メートルを一分切って走るんですよ!?
あなた時速60キロで走れますか!?」
「人類に不可能はない!」
「ボルトでも不可能です!
もちろんパウエルもタイソン・ゲイも、
『世界の盗塁王』福本豊も!
人間の走るスピードなんて所詮40キロが限界なんです!」
「じゃあどうすんのよ!?」
「だからそれを今考えて―――」
―――どうにもならない問題を目前にして、柴名と桜花の口論はその後も続いたが、全くの水掛け論で、何ら進展はなかった。
秋華はそれにオロオロするだけで何もできず、
秀馬も柴名の手前、何も言えず。
相手にされないトシローは、もの寂しそうに地面を引っ掻いたりしていた。
そんな中、勘助は―――
「人間が走る?」
何か引っ掛かっていた。
どうあがいても馬がいないのは明らかで、今さらそんなことをどうにかできるとは考えていない。
ただ、何故か、
『人間とトシローが走る』
というそれこそおとぎ話のような事が、可能であるような気がしてならなかったのだ。
しかし、先程も柴名が述べた通り、馬はおよそ時速60キロ。そして、『人類最速の男』ボルトが40キロほど。
しかもそれは百メートルの記録のことで、
それとほぼ全く同じペースで3200メートルを余裕で駆けることができる馬に、
人間が叶うはずもない。
速さを極めたもの達でさえ、
到底叶わない存在の馬に対して、自分たち普通の人間がましてや勝負になるなど、微塵も考えていないのだが………
(知り合いに………いたかな?
馬に叶う人間………)
居るわけがない。いるはずもない。
だが、彼の頭には今、
その『人間世界』に存在するはずのない者が、消えたり浮かんだり―――
「だったら!?何!?
馬の代わりが他にいるって言うの?柴名さんは!」
ヒートアップして顔を真っ赤にする桜花。
しかし、常に笑顔の柴名。
「思い付きませんね。でもあなたが走るぐらいなら、牛や鹿を走らせた方がよっぽどましですよ!」
―――ん?
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「鹿が馬に叶うはずが――」
―――鹿…………?
鹿っ!?
突如浮かんだある存在。
記憶を包んだ氷が音もなく溶けて行く。
勘助の脳には、もはやあの白髪しか思い浮かばない。
あの人………いや、あの方ならあるいは………!
―――いつかの会話が記憶によみがえる。
『トシローとやら。
また併せ馬でも興じようではないか―――』
「――待ったぁああああっ!」
桜花の言葉を最後まで聞くことなく、
勘助は二人の喧騒に飛び込んで行った。
今にも飛び付こうかと拳を振り上げていた桜花と、それを身構える柴名、両者が弾けるように後ろに飛び退く。
「な、何!?いきなり……」
「どうしました?勘助くん………」
突然の出来事で、二人ともだいぶ面食らったようだが、勘助はそんなことは気にも止めない。
「――――います。
併せ馬の相手が………!
しかも最高級……いや、神格級のとんでもないのが!」
―――あるいはどんなサラブレッドよりも適役かもしれない。
北海道にいる限り体力に制限なく、スピードに限界なく、自らの意思で走ることによって思い通り以上の調教ができる。ついでに騎乗の必要もない。
罰当たり、と言われればそうかもしれない。
が、今の山本牧場にいるだろうか?
トシローの相手としてこれ以上にふさわしい相手が………
「秀馬さん………申し訳ありませんが、
もう一日ここに泊まっていただけませんか?」
いきなり話を振られて、ちょっと面食らう秀馬。
「あ、ああ……別に構わんが。
しかし……なぜ?」
「今から知床にいきます。」
「「「知床!?」」」
3人が声を揃えて聞き返す。
「は、早まらないで!勘助さんっ!」
と、抱きついてきたのは秋華。
「いや、あのな、秋華。
自殺なんかしないから。
そうじゃなくて。
その併せ馬の相手は知床にいるはずなんだ。たぶん。」
「いるはずって……
………てか、馬だよね?
当然………」
桜花が困惑した様子で聞いてきた。
勘助はしばらく押し黙り、苦笑して曰く、
「馬じゃありません。」
「は?」
「まあ、ちょっと待っててください。
後で凄いのつれてきますから………
あ、それと秋華。今日の晩飯は焼きそばで頼む。」
「えっ、あ、はい………」
「よし。じゃあ、行ってくるから。」
「ど、どこに?」
「だから、知床だって。」
そういい残し、勘助は、
怪人を見るような目でこちらを見つめる四人をそのままにして、
駐車場の軽トラへと急いだ。
うまく会えるかどうかは甚だ怪しいが、あそこにいけばひょっとすれば………
そんな希望を胸に、鍵を差し込みエンジンをかけた勘助は、東に向けて車を走らせた。
太陽は頭の上、昼真っ盛りの県道を、軽トラが全速力で駆け抜ける。




