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ーーーー
「確かな情報か?」
桜花に手渡された数枚の書類を手にした古川秀馬は、
そこにクリップで挟まれた一頭の雄花栗毛の一歳馬の写真を取り外し
それを眺めた。
………見たなりは普通の一歳馬で、さして特徴があるようには見えない。
馬体が美しいのと、きれいな流星(おでこからハナにかけて白いラインが入っている)以外に、特に注目できる点はないが………
「――この馬を奈落が買ったというのは。」
いつものグラサンをはずし、ポケットに収めながら秀馬が問うた。
「うーん……」と唸った桜花の姿は
いつものスーツとは違い、下が濃いめの色のジーパン、上は白いパーカーという成り。
その長い髪は後ろでポニーテールにまとめあげている。
「まあ八割、いや九割、てかもう十割がた、間違いないですねーーー。
だってあたしがあれだけ必死に駆け回って這いずり回って泥水飲んで生死の間をさまよった挙げ句やっと手に入れた貴重な情報―――」
「嘘をつけ嘘を。
この写真も書類も、全部週刊キャロットの切りぬきだろうが……………」
「なーんだ、気づいてたのか。
………そうですよ、週刊キャロットの切りぬきです、ただの。
昨日風呂上がりにヒマだったから若社長の部屋にでも遊びに行こうと思って部屋の鍵を盗みに社長室に行ったんです。そしたら机の上にキャロットが置いてるじゃないですか、しかも新刊。あたしその時なぜかふと『久しぶりに読んでみようかなー』なんて思っちゃったんですよ。で、パラパラーっと流す感じで読んでたら、それはそれは面白くなくて。何て言うか、今中央競馬はローカル開催で新潟と札幌しかやってないから有名どころの記事とか全くない訳じゃないですかぁ。うちの馬も出てないし。本当になんの面白味もない。そんな風だから『もう閉じようかな、若社長んとこに夜這いにいった方が面白そうだし。』なんて思ってたところに………」
「読者が誤解するから……やめろ。
俺は成り行き上、仕方なくお前をここに住まわせてるのであって、お前に手をつけようなんてことは一切―――」
「―――なんと『八島奈落』の四文字があたしの目に飛び込んできたんです!ええ、ずぇったいに見逃しませんよ、あの豚足白豚鬼畜の三十路の名前なんて!」
「話を聞け、話を…………。」
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秀馬は自分の頭を人差し指で押さえながら彼女を諌めたが、
マシンガントーク継続中の彼女の耳に届くはずもない。
「奈落ですよ?奈落!
あたし、『何だコレ!?』って思ってその記事を読んでみたんですよ。したら何と、
『ラージグループ新総裁の八島奈落氏、欧州ブリーズアップセール(馬セリ)にて、超良血一歳馬購入!何と落札価格は史上類を見ない五億円!
父は凱旋門賞馬シーザスターズ、
母はG1八勝の名牝トゥーサウザンドニンバス!』
なんて見出しがデカデカと!
あたしビックリしちゃって、その買われた馬についてもうちょっと詳しく調べてみたんですよ。
したら、この馬すっげぇ馬らしくて………」
「全部言ってくれなくてもいい。ある程度は俺にでもわかる。
………その馬の母親、トゥーサウザンドニンバスは、恐らくこの時代を代表する名牝だ。
……三歳時のイギリスオークスを勝利してから、この馬はどこら構わず世界を飛び回った。
フランスやアメリカはもちろん、香港やドバイも走って、結局G1を8勝………
その勝ち鞍には、BCターフや香港カップ、キングジョージといった世界最高峰のものが数多く含まれている。
日本のジャパンカップにも一度来ていたな。
結局五歳まで走って、獲得賞金の総額はテイエムオペラオーに迫る14億円ほど。最高レーティング値は134………紛れもなく世界最強牝馬だ。
その圧倒的なスピードから『ニンバス2000』というあだ名がついた。
かたや父シーザスターズは欧州サイアー(種牡馬成績第一位)をまだ一度も明け渡していない、超名血だ。
そんな両親から生まれてきたこの子などは、
言葉に表すのが適切かすら解らないような良血馬…………というわけだ。
そして、問題は―――」
「―――言うまでもなく、あの『三日前の大福が踏み潰されたような人間のゴミクズ』が、それを買ったという事実ですね。」
パーカーのポケットに手を突っ込んでため息をついた桜花。
「……記事の内容から、この馬はもう日本でデビューすることが決まってるんだそうです。えーと、デビューするのが来年のこの時期なんだそうで、要するにほら、秋ちゃんの所のトシロー君と同期なんですよね、ええ。
………ということはですよ、秀………若社長。
覚えてますか?若社長が奈落に『あの日』言った言葉………」
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「…………。
『馬で復讐して見せろ』というアレか………。」
椅子にもたれ掛かり、腕を組んでため息をひとつ。
キィ……と小気味よい音がする。
「そーです、それです、それなんですよ若社長!
あのゴミクズの底辺野郎、絶対にその為にこの馬買ったでしょ!?
自分が相馬眼ないから、もう走ることが確定フィーバー確率変動突発リーチみたいな馬を損覚悟で買ってきてさ。
あのとき言われたまんま、勘助っちや私達に復讐だ何だ言って。未だに勝手に被害妄想膨らませて。
それも全部、わざわざトシロー君の邪魔をするためだけに!
あーもうこうしていても腹立つわ、あの生ゴミ。いつまであたしら困らせたら気が済むんだか。腹立つ通り越してキモいよ、ホントに。
それに、どーせまだあたしのこと取り返すとかなんとか中二臭い事言ってキャッキャ笑ってんだろうな、あのプラスチック容器ゴミは。
ハッキリいっとくけどね、あたしにはもう心に決めた秀――――」
「―――しかしだな。
あいつには珍しく、これは法の内側での嫌がらせだ。
なにも法律違反はしてないし、むしろ向こうがこちらの土俵に乗ってきてくれたわけだ。
………らしくないな。
あいつの事だから、トシロー君を強奪するなんて事もしかねないと思って……無断であの家をアルソックに警戒させたりしていたんだが…………。
まともじゃない買い物とは言え、社会のルール内での行動…………
本当にらしくない。逆に不気味だ。
…………。」
手にした書類をポンと投げ置き、秀馬は立ち上がった。
彼の頭には今、一抹の不安が過っていた。
「時に………桜花。
覚えているか?
同じく『あの日』に奈落が去り際に残した言葉………」
「………秋ちゃんの秘密を知っているから覚えとけよ!とか何とか言ってた話ですか?
覚えてますけど………」
眉を潜める桜花。
「ふむ。
あの時のあの奈落の発言は、明らかに犯罪予告だった………。
斎藤さんの弱味を掴んでいるから、そこに漬け込んで何か行動を起こす……という趣旨の、な。
『あの日』の後は、勘助くんもかなり警戒して事態に備えていたようだったが………
この九月まで、一切何も起こっていない。
それどころか、奴はすべてのアクションを秘匿のうちに通して、行動が見えなかった。」
「いいじゃないですか。
何もしてこなかったんでしょ?」
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「そう………何もしてこなかった。
だがそんな奈落が、この季節になって奴がはじめて行動を起こしたこの事実は………どう見る?
………俺には準備段階を終えた奴が、とうとう行動を起こし始めたという風に思えてならない。
そしてそれは、斎藤さんの件に関しても言えることではないのかと、な。
俺としたことが………胸騒ぎがしてならん。」
「若社長……………。」
桜花は、不安そうな秀馬を、ここに来て以来初めてみたような気がした。
いつもは不安だろうが何だろうが、冷静にクールな態度を取り、その都度適切な処置を取ってきた。
桜花自身、そんな秀馬の側について働くというのは常なる安心を手に入れられることに他ならなかった。
………まあ、他の感情の存在は否まないが。
ともかくも、そんな秀馬が初めて不安を表に出している。
これは何かひとやま有りそうな気がする、と彼女も思い始めていた。
「じゃあ、どうします………?」
不安げに桜花が問う。
既に手はポケットから抜け落ち、宙ぶらりんの状態に。
「………………。
桜花、車を用意してくれないか。
俺が運転する。」
左手に持った馬の写真をスーツの胸ポケットに突っ込み、いつものグラサンを取りだしそれを掛けた秀馬。
「ど、どこいくんですか?」
「もちろん、山本牧場だ。
当事者が事情を知らんでどうする。」
当然だろう?とばかりに答えた秀馬の返事を聞くか聞かないかのタイミングで、桜花はこう言っていた。
「あたしもいきますよ!?絶対、マジで、本気で、天と地がひっくりがえっても!」
息を荒げて秀馬を制止した桜花。
秀馬は一瞬キョトンとしたのちフッと笑って、
「当然だ、ついてこい。」
そう言って、手元の書類を手渡し、また歩き始めた。
「は、はいぃぃぃぃ………!」
桜花は急いでそれに続いた。
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―――同日、山本牧場。
「くぬぅおおぉぉおぉっ!」
心身を疲労させ、つい飛び出した心よりの叫び声が、牧場を駆け回る。
「ま……だ……早い!
……落ち着けトシローっ!」
手綱を一杯にまで絞り上げ、全体重を後ろにかけながら、
元JRA騎手、柴名大地はトシローの馬上で、トシローと格闘していた。
時は九月。
『夕焼けこやけ、負われて見たのはいつの日か。』
………そろそろ秋風が訪れたかと思われるこの頃。
赤トンボが飛びしきり、日が落ちるのも大分早くなってきた。
四方が広大な放牧地である山本牧場には、空を遮るものが何もないため、
だるまのように大きな夕陽が良く見える。
――夕陽と馬。
昔の西部劇などでは、その絶妙なマッチングからエンドロールに良く用いられ、
最近ではタバコの宣伝にも使われる。
幻想的、とまで言うと少しオーバーかもしれないが、何せ絵になることに変わりはない。
黒や茶色の馬体と、橙がかった光の光線が絶妙に交わり、見事なグラデーションを作り上げる。
かのインディージョーンズシリーズの某作でも、ラストシーンに馬で夕闇の砂漠を駆けるジョーンズと他三人の姿が映し出されていた。(はず。)
名作の影に、馬あり夕日あり。
この奇跡の組み合わせが、人々を極限まで魅了するものであることは間違いない。拳。
今現在、午後七時を手前にして、北海道は(先程も記したが)見事な夕焼け。
そこを『力一杯』駆けて行く柴名とトシロー。
燃えるような朱に染められた芝生の上を跳び跳ねて行く彼らの姿もまた、
映画のワンシーンを見るように、幻想的なものであった。
…………トシローが大暴れしてさえいなければ。
「ぶははひゅひゅんん!」
大きく口を割って首を振り回し、必死に柴名からの停止を促す手綱絞りに抵抗しようとするトシロー。
「この!だから、緩めろって!
頼むから!」
鬼のような形相で、
なんとかトシローの速度を落とそうと奮闘する柴名。
「ぶっはーーーっ!」
誰が止まるかよ!とでも返事するかのように抵抗をやめないトシロー。
それどころか、柴名が全身全霊をかけて絞っている手綱を引っ張り返し、「きっちり追えよ」と体を前に傾けさせる。
「ぐぅぅう…………!」
柴名は体勢を建て直そうとまた後ろに体重をかけようとするが
もはや後の祭り。
どうあがいても体は後ろに倒れない。
柴名は疲労していた。
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「こい………つ……
化け………物………!」
ついに柴名は力尽きてしまい、手綱を緩めてしまった。
するとトシローは待ってましたとばかりにその巨大な推進力でもって牧場を爆走し始める。
………そして、止まらない。
どこまでも全力で走り続ける。
もう柴名は彼にしがみついているだけ。
まともに騎乗するだけの体力はトシローとの格闘で使い果たし、
トシロー自身は、手綱を絞られた怒りで我を忘れて止まることを忘れている。
もうこうなったら彼は、疲れ果てるまでは絶対に止まらない。
「今日もダメか………」
柵の向こう、一部始終を見守っていた勘助は、がっくりとうなだれた。
「勘助さん……………」
秋華はそれにそっと寄り添い、肩に手をやる。
彼ら彼女らは、ここ一ヶ月間、これと全く同じような行動を繰り返してきた。
当初、
『瞬発力も、パワーも、体格も、サラブレッドとして必要なものがすべて揃っている』
と、柴名に太鼓判を押されて、順調な滑り出しをしていたトシローだったが、
ある出来事をきっかけに、
事態は急変し、一気に暗雲が立ち込める。
それは一ヶ月前の事……………。
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………彼ら山本スタッフはトシローの今後について話し合っていた。
その日の議題は、これからの育成計画。
これまでトシローは、人を乗せてのトレーニングでは、四百メートルの坂路コースを用いてきた。
主に、トモ(後脚の尻辺り)の筋肉の増大を目標にし、その付属として、人を乗せることに慣れさせるという趣旨のもとである。
……トシローはこのトレーニングをこなすにあたって、前章でも記した通り、
凄まじいまでの能力を見せつけた。
軽く前進を促しただけで抜群の加速を見せ、そのまま坂をものともせずかけ上がり、最後まできっちり延びてゆく。
『軽く前進を促しただけ』で、だ。
正味このトレーニングを始めた頃には、彼は既に目標を完逐していたとさえ言える。
そして、そのトレーニングを1ヶ月消費したこの日、
「この距離で走るトレーニングにはもはや意味はない。
もうちょっと長い距離を走らせてみようか。」
と、柴名が言い出したので、この会議が開かれたのだった。
そして、そこで事件は起こる。
事の発端は、会議中、秋華のある素朴な発言だった。
「なんか、トシちゃんって……
………止まるか全力で走るかしか無いところが……可愛いですよね。」
―――柴名と勘助は、それを聞いて一気に顔を青くした。
これまでのトシローのトレーニング内容を思い返してみて、
『ひょっとしたらトシローは「抑えて走る」という事が出来ないのではないか』
……そんな懸念が、頭に浮かんだからである。
これまでの彼の走りを思い返してみると、
確かに脚は飛び抜けて良いものを持っていることはまず間違いない。
現時点では恐らく、他の馬を超越していることは間違いないだろう。
しかし、そんな彼の走りをよくよく振り返ってみると、
秋華の言う通り、止まっているか、全力で走るか、バテて疲れてドタドタと走るか、この三種しか思いあたらなかったのである。
………トシローは、賢い。
そして、生真面目である。
それゆえに、彼は恐らく『馬は走ることが仕事である』と理解していて、
その結論として『走るときは常に全力で走らなければならない』という答えを導きだしているのだろう。
だからこれまで、柴名が少し腹に喝を入れただけで、すぐに全力失踪に移行したりしたのだ。
一見すると、真面目に走る姿に好感は持てるが、
………しかしてこの事実は、必ずしも良いものとは限らない。
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例えば42キロのフルマラソンがあったとしよう。
そこにボルトが出場していて、
スタートの銃声が鳴り響いた瞬間彼がクラウチングスタートから猛然とダッシュして、100メートルを九秒代で走りきって先頭に立ったとして、
彼はそのあとそのまま先頭でゴールできるだろうか?
まずそんな馬鹿げた挑戦を彼がすることはないだろうから結果はわからない、が。
ほぼ百パーセント負けるだろう。
理由は説明するまでもない。もしわからない人がいるのであれば、今すぐ家を飛び出して、400メートルでもダッシュしてみるといい。
そのまま42キロ走ることの無謀さを知ることができるだろう。
……そしてこれは、当然馬であるトシローにも言えることである。
仮にトシローが、2000メートルのレースで、
これまで通りの走り……スタート直後から400メートルを全力でぶっ放つ走りで先頭に立ったとしよう。
恐らく、残り800を通過する頃には、目も当てられないようなことになっているはずだ。
基本的に競馬というのは、
有酸素運動と無酸素運動の組み合わせで成り立っている。
有酸素運動、つまり比較的ゆっくりと走る期間(目安、残り400メートル)に体力をため続け、
直線の無酸素運動、つまり猛ダッシュに備える。
逃げであろうが差しであろうが、基本的にこのセオリーが変わることはない。
かのザラスシュトラだって、無謀に飛ばしまくってリードを取っているように見えても、レースの中盤は有酸素運動で走り、直線で迫ってくる差し馬たちの備えている。
……そんな中、トシローのように、体力が0になるまで無酸素運動を続けて走りきる馬がいたらどうなるだろうか。
……ただの自滅である。
無酸素運動が継続できる距離は個体差あれども400~600ぐらいなもの。
最短でも千メートルはある競馬のレースで、そんな運動が貫徹できるかどうかは、考えるまでもないだろう。
つまり、有酸素運動をどこかで挟むことができなければ、どれ程能力のある馬でもレースでその能力を発揮するのは難しいということだ。
『まさかとは思うが……』
共通の疑念を胸に、柴名と勘助は、翌日、
使わなくなった放牧地に柵を立てただけの一周800メートル程度のトラックを作り、
そこをレースさながら、『前半抑えて』直線スパートという作戦で走らせてみることにした。
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が……………
早くも彼らの懸念は的中することになる。
―――スタート直後。
「どわわわわわっ!?
こ、こいつ止まらないですよぉぉぉお、勘助君ーーー!」
「うわっ…………」
……『いつも通り』抜群の加速力でスタートから飛ばしまくるトシロー。
柴名が手綱を引こうが、後ろに体重をかけようが、怒鳴り散らそうが、一向にその走りを緩める気配はなく。
おおかた勘助たちが予想していた通り600メートルまでを大爆走したトシローは、残り200メートルを待たずして力尽きた。
最初はそんな馬鹿なと思っていた柴名と勘助だったが、三本、四本と本数を重ね、三日、四日と日にちを重ねる毎に、
それは確信に変わっていった。
『トシローはゆっくり走れない。』
馬鹿なのではない。
賢すぎて、真面目過ぎるのだ。
………だが。
『こ れ は ヤ バ い』
勘助達にしてみれば、この課題をクリアしてやらなければ彼を競走馬にしてやることすらままならないので、
素直に感心しているわけにもいかない。
後に、
『衝撃の初トラック事件』
と呼ばれることになるこの出来事から現在まで、
彼らはありとあらゆる策を講じて彼にゆっくり走ることを覚えさせようとした。
まず、柴名の発案で、直線に入るまでのコースを、馬一頭分しか無いくらいに狭くするという作戦。
しかしこれは、あまりにもトシローが器用すぎて、普通に通り抜けてしまったのでいまいち意味を為さなかった。
次に、勘助の発案で、ハードルを設置してみることに
。
が…………。
ハードルを蹴散らして爆進する彼の姿は、潔さすら感じられ。
最後に秋華の発案で、肉食獣の写真を直線までに貼りまくるという作戦。
ここまで来れば、トシローだけでなく、柴名や勘助まで言葉を失った。
………効果の出るはずもなく。
その後も、
レース映像をテレビで見せてみる、語りかける、ハミに小さなゴムの突起を付けてみる、わざと馬場に水を撒いて重くしてみるなどの努力が続けられたが、
結局は何の効果も現れず。
結果として何の進歩もないまま万策つき、
結局のところ、『力任せに抑えてみせるしかない』という結論の現在に至る。
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――――話を現在に戻す。
調教を終え、疲れはて、ボロボロになった柴名に肩を貸しながら、
勘助は枯葉舞い散る放牧地を、厩舎兼自宅へと向かって歩いた。
後続に、何度もため息をつく秋華と、彼女に引かれて意気揚々と帰還するトシローを従えて。
時々柴名の頭に赤とんぼが止まり、
勘助が払い除けると、それはパタパタと四枚の羽をはためかせて、きれいな直線運動を描く。
まるで何か糸のようなものに御されるがごとくに。
「―――赤とんぼ……
負われて見たのはいつの日か………はは。」
そう呟く柴名の姿は、もはや『痛々しい』という言葉なしには表現できない。
「……………。」
勘助も秋華も何も語ろうとはせず、
ただトシローだけが、黄金色の無脊椎動物とじゃれあいながら、楽しそうに鳴き声を響かせていた。
「気楽なもんだな、お前は………」
柴名の重きに必死に耐えつつも、勘助はトシローに向かって呟いた。
「ひゅうん!」
小刻みに、また嬉しそうにぴょんぴょん跳ねるトシロー。
「バカ、誉めとらん!」
精一杯怒って見せたつもりが…………。
「ひゅひゅひゅ!」
勘助に、首を擦り付け、甘えるトシロー。
「…………ったく。」
こっちはお前のせいで疲れてるんだぞ………と言ってしかりつけてやりたいのはやまやまだが、そうはいかない。
実際、彼は何も悪いことはしていないのである。
何度も繰り返すように、賢すぎて真面目すぎるだけ。
もっと言えば、馬本来の闘争本能に忠実すぎるだけなのである。
これらは彼自身、よかれと思ってやっていることだろうから、
ここでその意思を挫いてしまうと、彼の武器のひとつである素直さを潰してしまうことになりかねない。
馬も人も、理不尽に怒られるとグレてしまうものだ。
………困ったものである。
「……………。」
相変わらずトンボに興味津々のトシローを秋華が、
「ダメだって、ほら、前見て歩いて………」
と声をかけながら引っ張る。
よくもまあそこまでただ赤いだけのトンボに興味がわくものだと思う。
その好奇心が、少しでもこちらの教えたい事に向いてくれれば助かるのだが。
………そんなことも考えつつ。
一行は、斜陽に燃え盛る芝生の急坂を上つつ、トシローを馬房に戻すために厩舎へと向かった。
足取りは、総じて重い。
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ちょうど坂を上りきり、厩舎へ続く馬道を左に曲がったところ。
ふいに、タイヤが砂利を踏み独特な音が背後で聞こえ、
高級車とおぼしきエンジン音と共に、聞き覚えのある活発でボーイッシュな声が飛んできた。
「勘助っちー!秋ちゃんー!」
ドルン、と排ガスを吹き出した車が、完全に停止する。
「やほーい!
絶世の美人秘書ただいま参上!
みんな元気!?」
窓から顔を出して呼んでいる………と思われる若い女の声。
(あー、来たか。)
……最近顔を見せないと思っていたら。
「うわー、どしたの勘助っちに柴名さんに、愛しの秋ちゃん!見るからにズタボロじゃん、何ここなんかあったの天変地異?地震?雷?火事?親父?(笑)的な。
つかその割りにトシロー君元気そうだし、これどゆこと?まさかまたケンカ~?懲りないねあんたたち。あのね、真面目に言ってもあんたたち聞く耳持たないだろうからちょっと変わった脅し方するけど、夫婦喧嘩によるストレスを溜め込み続けた場合によるガンの発生率は、普通の人より80%も高くなるんだよ?早死にしたくないっしょ?まだあんたらどーせなにもしてないっしょ?ははは!
心残り満点のまま死んで化けで出ても、あ、うちの家には出てこないで――」
「――よく車の中からそれだけしゃべれますね、桜花さん。」
勘助は、振り返らず立ち止まり、「しかもそのデータ適当でしょ。」と、溜め息混じりに言った。
この短期間にあれだけのマシンガントーク、もはや彼女以外に該当するデーターはない。
隣の秋華は「お、桜花さん、からかわないで……」と顔を真っ赤にして綱を握り締めている。
「あはっ!秋ちゃんはやっぱりまだ?ふはは!
いやー、相変わらず奥手だね、勘助っちは。あたしが男だったら瞬殺で手ぇつけるけどね。わら。
てか、久々の対面なんだからなんかこうもっと『あー、お久しぶりです!』とあってもいいもんじゃんか?ほらほら、昔の人のなんたらさんも言ってるでしょ?親しき仲にもなんとやらって。あたしさ、いちおー勘助っちより年上なんだし、多少の礼儀ってか優しさってか、あって然るべきじゃない?てか普通はさ―――って!?ぐっ!むぐっ!
ちょ、秀……若社………なにす………ぐむむむむ!」
背後で何が起こったのか、桜花の気配は急速に失われ。
代わって今度は大人な感じの爽やかな声が、冷えた風と共に流れてきた。
「ウチのバカ秘書が………
大変失礼した。」
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―――秀馬さん、と勘助が振り返った頃には、
助手席の窓から顔を出した秀馬が、「むぐぐ……!」と呻きながら抵抗する桜花を押さえ込んでいる構図が出来上がっていた。
どうも秀馬は、運転席から体を伸ばしているらしい。
桜花が抵抗していることもあいなって、中々に体勢は苦しそうである。
「少し………話したいことが………あって来た。
時間あるかな?」
「時間………ですか。」
……話したいこともあったし、相談したいこともあったので、正味すぐにOKの返事を返してもよかったのだが。
さっき時計を確認したときの時刻は午後六時半。恐らく今は七時前と言ったところだろうか。
勘助達はこれから、トシローの身の回りの世話を一通りして、飼い葉をつけて、
それから自分達の夕飯の支度を共同で開始する手はずになっている。
これらがすべて終わって、食卓につくのは恐らく9時頃になるだろう。
時間を取れるとすれば、そのタイミングしかない。
こちらはそれでも別に構わないのだが、『大丈夫、時間はあります。』と回答するにはいささか遅くなりすぎると思うが………。
「……たぶん、9時頃までは厳しいっすね。
トシローやバルクの世話とか、
あ、シューカアゲインの様子も見てやんないとならないんで………
今すぐは厳しいです。
あと、夕飯時になっちまいますし、
今日のメニューは材料の安いちゃんこ鍋の予定ですけど、それでもよければ………」
「ちゃんこ鍋………?」
「はい、ちゃんこ鍋……」
「それは好都合だ。」
珍しく顔を緩めて、ニヤリと口許を歪めた秀馬。
「好都合?」と勘助が聞き返すか返さないかのタイミングで窓から首を引っ込めた彼は、運転席で何やらゴソゴソした後、再び顔を出した。
その右手に、『JA函館』のロゴの入った紙袋を掲げながら。
「なんすか?それ。」
「手土産………というか。
…………本タラバのカニすきセット。
鍋に入れても美味しい。」
「ああ、カニか………
……………
…………
……って
カニぃ!!!??」
カニ?カニというと、あのカニか?
「ああ、カニだよ。
………食うかい?」
――もはや一も二も、是も否もなかった。
「よくぞいらっしゃいました!!」
カニなど、何年ぶりだろうか…………
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―――※―――
――白菜、白ネギ、キャベツ、しいたけ、マロニー、ニラ、豚カタ小間切れ(㌘98円)、冷凍つくね、キムチ(トップバリュ)。
これらを全て鍋にぶちこんで、キッコーマンの出汁醤油(一本250円、特売)で煮詰めたもの。
今日は、このやたらと安い材料で作られる通称『山本ちゃんこ』が、食卓に上る筈だった。
……魚は高い。買えない。
明日の生活を考えれば。
バブルが弾け、貧窮する山本牧場の家計から、
海幸の宝庫北海道に住んでいながら、勘助は魚介鍋を滅多として作ったことがなかった。
……たまに入るとしても、鮭のアラや賞味期限ギリギリの特売品程度のもの。
中々、量もあり、値段も安い魚を見つけてくるというのは至難の技である。
せいぜい見つかるのは一杯105円のスルメイカぐらいなものか。
しかしまあそれでも、たまに魚介が鍋にはいると、『あ、今日の鍋は豪華だね♪』なんて言って喜んだものではあった。
しかし、今晩の鍋はそんな安っぽいものとはひと味違う。
「…………勘助さん。」
「…………。」
秋華も勘助も、微かに箸を持つ手が震えている。
大鍋の中、飴色のダシに揺られて柔らかくなってゆく、野菜、マロニー、肉。
往年のベテラン俳優達が脇役を固めるなか、
『鍋業界のレオナルド・ディカプリオ』とも言うべき赤いそいつは、
鍋の底から沸き出る白い気泡に煽られて、ボコボコと音をたてていた。
その、白と赤の混じりあった、縦の繊維質の身を踊らせて、
赤色のメインディッシュは勘助達を食欲の世界へ誘う………。
「あの、秀馬さん……これ、ホントに頂いても…………」
今さら返すつもりもないが、礼儀の上、一応聞いておく。
棚ぼたのように降ってきた、カニと言う名の幸福。
その殻の中に潜む僅かな身のために、我々は命をも賭す覚悟がある。
手放さない、手放さないぞ、このカニは。
――どこまで行っても食べてやる。
まるで百カラットのダイヤモンドを見るかのようにキラキラと輝く秋華の顔。
「これが………海の宝石……………
カニ…………。」
「……………。」
―――あのな秋華、海の宝石はキャビアだから。
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「鍋にいれてから返せなんて……鬼畜なことは言わない。
………もう9時を回ってるんだ、
さっさと食べよう。」
………予想通りの肯定。
勘助は『これで気兼ねなく………』と心の中でガッツポーズした。
「………じゃあ、頂くとするか。」
高揚する心をひた隠し、冷静を保とうとする。
自分の下心、察されては何かと不利だ。
「――そうだって勘助っち。鍋の中で揺られてるうちに、カニのエキスが全部逃げちゃったらどーすんの?もー、あたし、昼食べてないし、お腹減りすぎてクレーターみたいなんで早く食べたいなー、なんて。」
輝く宝石箱を前に、鍋ごと食ってやろうかという勢いの桜花。
「同感です………勘助さん。もう、限界です………」
げっそりした秋華の姿なんて、あんまりみたくない。
……ちなみに柴名は、マイホームに帰宅している。
テーブル回りを見渡し、全員がしっかり箸を握っていることを確認した勘助は、
自らも箸をグッと握りこんで、開戦に備えた。
四方から殺気が飛んでくる。
冷たい汗が背中を疾走し、生唾が口の中を充満する。
緊張の一瞬――――
『では……みなさん。
………………。
いただき――――』
――――刹那、目の前を四本の閃光が走って、ダシが弾けた。
『宝物』は空を飛び、皿に飛び込んでゆく。
聞こえてくるのは、桜花の勝どき、秀馬の舌打ち、秋華の涙声、そして、
自分の絶叫。
そして2ラウンド目とも言うべき次の一瞬には、
ステージから、『レオナルド・ディカプリオ』の姿は消えていた。
脇役のみとなった映画に、
一体誰が興味を示すだろうか……………。
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――――※――――
電工掲示板に結果を発表しよう。
四着 秀馬 2本
三着 勘助 3本
二着 秋華 5本
一着 桜花 12本…………
七馬身差の圧勝劇だった。
大戦後、
「これぞ鍋界のディープインパクト!」
と、ガッツポーズを決めた桜花をぶち殺したくなったのは、
勘助だけではなかった筈。
肩を震わせ殺気立った秋華の姿を見るのは『奈落事件』以来ではなかろうか。
………普通そこまでやりたい放題やれば、そのあとは大人しくするものである。
しかし、あろうことか彼女は、雀の涙ほどの豚肉までも、その大半をかっさらっていった。
一体今までどんな生活をしてきたんだと言いたくなるようなKYっぷりで
勘助達の度肝を抜いた。
平謝りする秀馬の姿を見ていると、日々の生活でどれだけ苦労しているのだろうかと、哀れみの目すら送りたくもなる。
………つくづく、転がり込んできたのが秋華でよかったと思う勘助だった。
そんなわけで、
今はただ、残った野菜達をちょこちょこつまみながら、『アサフィスーパードライ』をちびちび飲んでいる(秋華はバヤリースオレンジ)。
………いわゆるやけ酒である。
一応全員二十歳は越えているので、罪になることはまずない。
が、本来の目的も忘れてベロベロに酔っぱらう桜花については、
もはや犯罪にするべきでは無いかと思ってしまう。
桜花のことを姉と慕う秋華ですら、今日は終始冷たい視線を送り続けている。
「かぁ~んすけっちぃ、ひくっ、なんで、もっとぉ、のまないのぉお?」
「……桜花さんみたいになりたくないからですよ。」
断言。
「本当にすまん………勘助くん。」
今日何度目だろうか、頭を深く下げる秀馬の姿。
「なぁ~んで謝って、んの?秀馬~若・社・長?ひゃひゃひゃ!」
「……………。」
秀馬のグラサンから光が消え。
刹那、桜花の首に彼の手刀が飛び、
彼女は「くけっ!」という奇声と共に床に崩れ落ちた。
ひゃっ!と声をあげたのは秋華。
しかしそれを秀馬は手で御し、
「大丈夫、いつものことだ。」
と、笑顔を作り出していた。
誰の目からも作り笑いとしか思えない、口角が上にひきつったそれで。
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「くかーっ……」といびきをかいて転げる桜花。
……これほど擬音が似合う女性も少ない。
「……やっと静かになった。」
肩を落とし、蔑むような目で桜花を見下す秀馬。
「黙ってれば美人なんだが。」
「同感です。」
苦笑の勘助。
目頭をギュッとつまんで、「困ったものだ……」と呟いた秀馬はその後立ち上がり、
シャツをはだけさせてヘソを見せながら大の字で寝そべる彼女をお姫様だっこでゆっくり抱えあげ、
リビングに横たわる黄色いソファーへと運んで、そっと寝かしつけた。
「毛布、借りるよ。」
「ええ、どうぞ。」
………お姫様だっこしてもらい、寝かしつけてもらい、毛布をかけてもらい………。
向こうで眠る桜花の表情は、どう見ても『ご満悦』のものだった。
(ホント、好きなんだな。秀馬さんのこと………)
……なんとなく隣の秋華の様子を伺った勘助。
「?」
どうしたの?とはにかむ秋華。
目線がぶつかってなんだか恥ずかしくなった勘助は、
「いや別に……」と目線を戻したことで、
秀馬が席に戻ったことに気がついた。
「待たせて悪かった。
話………いいかな?」
いつにも増して、険しい表情の秀馬。
「え、あ、はい。」
さっきまでの喧騒があまりに陽気なものだったので、
どうせ何か軽い話だろう、と踏んでいた勘助は、その想像と秀馬の態度のギャップに、
少し面食らった。
テーブルで肘をつき、口元で手を組んで、いつものグラサンはかけたまま。
まるで碇ゲン(自重)のような威圧感を出す秀馬に、
勘助も秋華も、その顔を見合わせる。
「あの、そんなに深刻な話ですか?」
「見方によっては……といったところかな。」
「見方…………。」
「楽天的に見れば……改心ともとれる。
が。
慎重に見れば………そう、嵐の前触れとでも言おうか。」
――嵐の前触れ。
その表現は、勘助の胸の内をざわつかせた。
要は、大いなる災厄の前兆…………何か自分たちにとって壁になるものが、その切っ先を覗かせているということなのだろう。
秀馬ほどの人間がそれを警告しに来たのだ、恐らく既に何か根拠になるものを握っているに違いない。
……楽天的に見る、というのはそのときすでに選択肢から消えていた。
それに。
勘助と秀馬に共通する災厄など、1つしか思い当たらない。
「奈落…………ですか?」
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「…………。」
無言は、この場合肯定である。
知らずの間に、勘助の手は隣にある、自分とは別の震える手にぎゅっと握られていた。
(秋華……………)
久方ぶりに、ここまで不安そうな秋華をみたと、勘助は思う。
「………何か、しでかしたんですか。奴は。」
少し身を乗り出した勘助。
鍋の湯気が顔を焼く。
相変わらずも無言の秀馬だが、やがて体をテーブルの下に沈めて、そこでなにやらゴソゴソし始めた。
その対象は、彼がこっちに来たときに蟹の入っていた紙袋。
その後しばらくして、ガサガサ、という紙独特の接触音と共に、秀馬の頭は卓上へと戻ってきた。
「まずはこれを見てくれ。」
秀馬はその右手に持った一冊の雑誌を、勘助に差し出してきた。
「週刊キャロット………。」
よもやこんなものが出てくると思わなかった勘助は、それを秋華に握られていない方の、若干強ばる手で受け取り、表紙を眺めた。
『週刊キャロット
サマー2000シリーズ途中経過!
ザラスシュトラ完全復活で新潟記念G3を圧逃!』
……題字はこんな風で。
写真は、走りきったあととは到底思えないほどに余裕綽々の表情をしたザラスシュトラと、その鞍上でムチを大きく振り上げて喜びを爆発させる川口優雅の姿だった。
(ザラスシュトラ、勝ったんだ………。)
まあ、夏開催で、相手メンバーが手薄であることを考えれば当たり前の結果ではあるが。
それにしても斤量は61キロとかなり重たく、なかなか彼にとっては厳しいものだったはずだ。
しかしそれでも、相手が写真の枠内に収まらないほどの着差で楽勝したらしいところを見ると、そこはやはりそれ、地力の差と表現すべきだろう。
……宝塚記念は、相手が揃いすぎたのだ。
「………………。」
勘助は、無言のままそれを開いた。
目次に続いての二ページ目はワールドクロックス。
凱旋門賞の前哨戦、フォワ賞(G2)に出走した彼は、アイルランドチャンピオンS(G1)勝ち馬で地元の有力馬、ルパンザサードと直線激しい競り合いの末、かの三冠馬オルフェーヴル以来となる同レースでの勝ちを納めた………と、その記事は語る。
ただ、『激しい競り合い』と書く割には2馬身ほど差がついている写真が載ってあるので、
レース的には楽勝だったのだろう。
さすがである。
「……………。」
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その後も勘助は、流す程度にではあるが、それを読み進めた。
ミツアキインパクトは放牧→マイルCS南部杯(盛岡・ダ16・G1)のローテーションで、秋もそのままダート路線へ向かうとのこと。
『今年の帝王賞(G1)を勝ったコスモスルーオフとの対戦が待たれるところである。』と、記者。
この記事は、まあラグフェアーのライバルの子の話であるし、曲がりなりにもトシローに宣戦布告してきた相手の話であるから、もっとじっくり読みたい勘助だったが、
そのコスモスルーオフの馬主が目の前にいる手前、
気兼ねした彼はすぐにそのページを閉じ、次へ次へと読み進めた。
………その後は特に気になるページもなく、膝の上でキャロットは徐々に右側のページがゴツくなっていった。
―――勘助が、いわゆる『問題の記事』にその目につけたのはその右側の厚みが左と比べて3対7ほどになった時だった。
「――――!?」
『奈落』の二文字と、鬣の美しい栗毛の一歳馬が目に飛び込んでくる。
「―――奈落が馬を!?」
驚愕の声を上げる勘助。
秋華に握られた手がさらにその圧力を増す。
……驚かないでいられた道理はない。
元々ラージにいたいい馬を、これでもかというほどに適当に売り払っていたあの奈落が、
競馬に知識の全くないあの奈落が、
秀馬と桜花の直接の接点である馬そのものを嫌っているそぶりすら見せていた奈落が、
わざわざ海外まで行って馬を買ったというのだ。しかも、超良血馬を。5億もする馬を。
「…………マジですか。」
そのページを開いたまま、勘助はキャロットを机の上に置いた。
秋華がそれを見て小さく「奈落が………」と声を漏らす。
「………事実のようだ。確認は済んでいる。」
俺もまさかとは思ったがな………と、秀馬。
手元にあったビールを一口含んだ彼は、ふぅ、と一息ついて「ご馳走さま」と手を合わせると
それから彼自身が持った見解を、勘助たちに洗いざらい話し始めた。
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ここで秀馬が語った内容は、おおよそ彼と桜花がラージのオフィスで話し合ったものと同じようなものだった。
この栗毛の一歳馬の血統は、母トゥーサウザンドニンバスをはじめとした超名血であるということ。
そしてそれが恐らく、トシローに対抗するために買ったものなのだろうという推測。
いい方に見れば、法の内側で対抗しよう、社会のルールの内側で戦おうと思い始めたように見えるが、
悪い方に見れば、準備を裏で進めていた奈落が、とうとう我々に対する行動を開始したのだろう、という見方になる。
そして、もし奈落の意志が後者であるなら、『あの日』に奴が告げた、「秋華の秘密を知っている、覚悟していろ」宣言、あれが実行に写される可能性があるということ…………
「………以上が俺と桜花の見解だが。
どう思う?勘助くん。」
顎に手を当て、険しい顔をして腕組みをする秀馬。
グラス一杯に入っていたビールは既に底をついており、替わりに冷水がそれを満たしていた。
「俺、ですか。」
勘助は一度視線を手元に落とし、それからその手を終始握り続けていた秋華へと目を移した。
フラッシュバック、とまでは行かないだろうが、あの日の記憶が舞い戻ったのだろう。
気を紛らわすためかどうか、まだジュースの残っているグラスを手にしている彼女は、
その恐怖からか小刻みに手を震わせ、机とグラスをカタカタならしていた。
怖くないはずもない。奈落のような社会の闇の人間に、
忌まわしいとすら思っている自分の過去を知られているのだ。
それをどう扱われるかも奈落次第のことで、自分にはどうすることもできない。
……徐々に息すら粗くなっていく秋華。
(秋華………。)
勘助は、その小刻みに上下する肩を掴んでこちらに寄せ、自分の胸に彼女の頭を当てさせて、無言のうちに抱きすくめた。
「…………。」
「こ、怖い………!」
秋華の手が背中に回るのを感じた勘助は、その自らの腕の力もいっそう強くした。
秋華の息づかいが胸に響き、揺れる髪がカーディガンをくすぐる。
「……すいません、秀馬さん。」
「いや、一向に構わんよ。」
秀馬の表情はグラサンの向こうで、光の加減ゆえよくわからない、が、その声のトーンが『冷徹なことをやっている』と自分に言っているようにも感じられた。




