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ーーーーー
「こりゃあ驚いた………」
トシローに跨がり、四百メートルほどの坂路コース(とはいえただの坂)を駆け上がってきた柴名大地は、
目を丸くして驚愕の色を見せていた。
トシローは息も切らさず、「もっと走ろうぜ。」とばかりに首を坂路コースの方へと向けている。
「こいつが……本当に一歳馬なんですか?」
半ば信じられないと言った顔の柴名。
柵の向こう、タイム計を持った勘助がにっこり笑って
「はい。
紛れもなくサラブレッド一歳馬ですよ。」
と返事してきた。
「じょ、冗談でしょ………」
頭では理解していても、
今まで騎手として競馬をこなしてきた彼にとって、今起きた現実は
拒否反応を起こさなければやっていられないものだった。
………確かに、見た目は既に大きくて、二歳馬かと思わせるほどのそれはあったし、トモ(後ろ足の尻から膝にかけて)の筋肉の張りも申し分なく、
あのとき秀馬が言った言葉は間違いではなかったとは思っていた。
ただし、それ以上の感想はそのときの柴名にはなく。
―――が、いざ乗ってみたところ。
少し腹に喝を入れて、前へ進めと指示しただけなのに、
まるでスーパーボールが弾けるかのような瞬発力で一気に加速。
中山競馬場の急坂を二倍長くしたような坂路コースをモノともせず、
まるでロデオ牛が暴れているかのように感じられるほど、全身をうねらせて豪快なフォームでそれを登りきり。
そして、極め付きは最後、平坦な直線50メートルを、バテることなく、むしろさらに加速するように突き抜けた。
柴名はこの間、跨がっていただけで、手綱をしごかず、鞭もいれていない。
本当に持ったままの状態だったにも関わらず、このトシローという馬は、自ら望むかのようにして
そこを一杯に駆けたのだ。
「そんな馬鹿な………」
あり得ないの一言。
この馬が一歳馬であっていいはずがない。
今から二歳の新馬戦に出しても、たぶんいい勝負になるだろうと思う。
この牧場には同期の馬がいないから比べるものがないが、
仮にこの馬を秀馬の持つラージ分場へ送り込んだとして、そこで仮に同期と競走させたなら、
恐らくは一度も競ることなく他馬を圧倒して、一頭で遥か前方を走ることになるだろう。
能力云々の問題もそうだが、何よりこの時点で卓越していることは
馬が自分の役割を知り、
走ることを知っているということ。
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「………嘘だと言ってくれないか?」
呆然と馬上から柴名。
「申し訳ないけどガチです。」
相変わらずさらっと返す勘助。
「な…………」
………立ちくらみがする。
柴名は思った。
―――おかしい。何かがおかしい。
仮にこの馬が本当に一歳馬だとして、
仮にこんな馬鹿げた能力を持っていたとして、
仮にそれをこいつが目の前で披露したとして。
この牧場主はなぜこんなにも平然としているのか?
……………。
「―――勘助君!君は育ての親としてこの馬のこの走りをどう思う?
何か疑問に思ったりはしないのか!?」
―――なっ?同じホースマンとして共に驚いてくれないか!?
そんなことを願いながらの問い。
しかし勘助は………
「まあ、今さら俺は驚きません。」
「何…………!?」
柴名のプライドと知識がガラガラと音を立てて崩れ去る。
そんな彼の心中を差し置いて、勘助は話を続けた。
「まあ、こいつが親離れを自分でしたり、順馳から三日で人を乗せたり、蹄から血を出すまで走ったりしなければ、
俺も驚いたんでしょうけどね。
もう既に俺は曲芸みたいなこいつの行動を何度となく見てるんです。
ですからもう驚きません。」
――――ハッ?
ナニイッテンノコイツ。
順馳を三日で?
親場馴れを一人で?
蹄から血を出して?
チョットイミガヨクワカラナイ…………
これは孔明の罠か、いや、そうに違いない。
徐々に視界が黒くなってゆく…………
「………もうひとつ聞いていいかな、勘助君。」
視界とは逆に、白く染まり行く頭のその片隅で、彼の脳はひとつの極問を作り出していた。
「なんすか?」
「こいつは、本当に馬か?」
―――今さら違うと言われても困るが、
肯定されるともっと困る。
………さあ、否定してくれ勘助君!
「………父はコスモバルク、母はラグフェアー、母の父マーベラスサンデーのサラブレッド一歳馬、トウショウボーイの4×3、間違いなく馬です。」
勘助はきっぱりと言い切った。
柴名は光を失った。
「そうか…………。」
一呼吸置いてからそう呟いた柴名は
次の瞬間、意識を失い、
トシローの上で糸が切れた操り人形のようにグラッと崩れ落ちた。
鬣が顔で揺れるのがわかる。
「おい、ちょっ………柴名さん!?」
勘助の声が、遠くに聞こえる………。
あんなのが…………
馬であるはずが…………
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――――
『…さあ、解説の王川さん、今回の宝塚記念ですが、注目すべき点はどこでしょうか?』
『まぁ、そうですね。実績上位のワールドクロックスに、他二強がどの様に立ち振る舞うかというところがポイントでしょうか?
ミツアキインパクトは前々走高松宮記念、前走かしわ記念と連勝してのこの舞台ですね。
かしわ記念は初めて後方待機から追い込みをかけたわけですが……結果は二着トランスファーに大差をつけた圧勝でした。
その自在性と抜群の瞬発力でもってワールドクロックスの追い込みを捌くことが出来るかどうかがポイントでしょう。
それから、ザラスシュトラですが………言うまでもなく敵は距離でしょう。
今回は、上手く逃げることができなかった京都記念と同じ2200メートルのレースですから、当然不安は残りますが…………
しかし、あのときの敗因はひとえにミツアキインパクトに競りかけられて煽られたことです。
まあ、上手く逃げることができればこの馬に敵はいないと思います。
あとはワールドクロックスをどう見るか………
前走は確かに勝利していますし、勝ったレースのグレードも高い。
が、勝ち方が問題です。この時のこの馬の走りは非常に『硬かった』。
いつもの弾けるような末脚は完全になりを潜めて、『ジリジリ伸びたら何とか差しきれた』というようなレース内容。
あれを彼の本当の走りと言うことは申し訳ないが私にはできない。
体調が悪いのか、脚元に不安があるのか、それともただ単に早熟だったのか……
いずれにしても、割引は必要です。』
『ありがとうございました。
では引き続きまして穴馬発見のコーナー………』
―――そうか。
今日は宝塚記念………
テレビの発する言葉を無意識のうちに耳から取り込み、
それを反芻させた柴名は、今日の日のなんたるかを思いだし、
目を開いた。
柔らかいクッションの上、蛍光灯が細く開かれた視界でチラチラと揺れる。
『さあ、本場馬入場!
バルクが、ライデンリーダーがなし得なかった中央中距離G1制覇、為すのは笠松の風なのか!?
一枠一番はミツアキインパクト!鞍上は笠松の紀村健。
……三歳牝馬が前人未到の地を踏みます。サクラプレジデントの落とし子が古馬達に果敢に勝負を挑みにいく!
3強に沸く世間を切り裂き、疾れ高速の帝国華激団!
一枠二番、サクラビッグウォー、鞍上は大神一郎……』
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「うぅ~ん…………」
今いる場所を山本牧場の居間と理解し、大きくのびをしながら起き上がった柴名。
体を起こしきってすぐに目に写ったのは、テレビという黒い枠の中で、
漆黒の馬体が友人の佐武幸二郎に跨がられてターフを威風堂々と歩いている姿だった。
『………ここでは負けられない、ここで負けるわけにはいかない。
無敗の三冠馬が再び海外への翼を求めて、無敗のまま日本に帰ってきました。
不本意な『3強』時代の時計の針を止めることができるか!
4枠八番はワールドクロックス。
鞍上はもちろん佐武幸二郎!』
「…………
仕上がったな………。」
雄大な馬恪と張り艶溢れるトモ。
ドバイの時の彼とは全くもって別物の、『良化の一途』を辿っていると思われるそれを見て、柴名はぼそりと呟いた。
歩様のしなやかさが前とはまるで違う。
前走、誰もが感じたあの硬さ。
今回は柴名が見る限りでは、そんな様子は微塵も感じられない。
ワールドクロックスが勝った日本ダービーの時、柴名はマイネルデュナメスという馬で参戦していたが、
はっきり言って勝てる気が微塵もしなかった。
彼のパドックを見れば、心得のあるものならだれもがこう感じたはず。
『一頭だけ古馬がいた。』
今となっては古馬の彼だが、今日の彼にはそれを再び感じさせるほどの凄みがあった。
まるで、古馬を超える何かのような……………
「……………。」
「あ、柴名さん。
起きられましたか。」
対局側に座って、種牡馬辞典を読んでいた秋華が起き上がった柴名に気づいて声をかけた。
「突然気を失われたって聞いてビックリしちゃいました。
どこかお体に障りは……」
心配そうに彼を見る秋華。
「あっ?ああ、ええ大丈夫です…………。」
………バルクの子の能力の高さに驚いて気絶しただなんて、口が裂けても言えない。
「まあー、そのー、あれだ。
引っ越し疲れが出たみたいでね。ハハ…………」
「そうなんですか?
………あまり無理しないでくださいね。
勘助さんにも言っときます。
あの人、凄く人使いが荒いから…………」
申し訳ありません、と頭を下げた秋華。
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面食らった柴名は「いや!その………!あの!」とそれを手で制した。
こっちが勝手に気絶しただけで、勘助は悪くない。
いや実は本当は………という流れの言葉が口から飛び出しそうになったが、
それをなんとか踏みとどまった彼は話題を転換することを考え回りを見渡し、
そして、勘助がここにいないことに気がついた。
「あれ?そう言えば勘助君の姿が見当たりませんね?
どちらかへ向かわれたのか?」
「あぁ、勘助さんなら種付け料を払いにいきましたよ、シューカアゲインの。
初年度はキャプテントゥーレにするって言ってましたから。
もう既に受胎してます。」
本当に嬉しそうに微笑む秋華。
この牧場が、本当に牧場らしいことをしていなかった事への彼女の不満から、前回の浮気騒動は起こった。
実はこのとき勘助は、薄々その事に気づいていて、シューカアゲインがこちらに到着する前にはキャプテントゥーレの種付け権を確保していたのだった。
後れ馳せながらその事を知った秋華は、あの状況下でも自分のことを思っていてくれた勘助の心意気に非常に感激し、以来けじめというか、感謝というか、シューカアゲインの世話は彼女一人がしている。
「楽しみです。
自分のこの手で育てた馬をこの目で競馬場で見ることができるかもしれないんですから。」
立ち上がりざま、彼女はそう言って手元にあった種牡馬辞典をテーブルにポンと置いた。
開かれたページには
『キャプテントゥーレ』
という題字の下、写真すらない小さな枠のなかに
「主な勝ち鞍 皐月賞、朝日CC
距離適正:中
重馬場:○
代表産駒:フローラルトゥーレ(黒潮皐月賞、高知県知事賞)」
などという単語やら記号やらがスラッと並べられていた。
……もっとも、現役時代を知っている柴名にとってはもはや確認にすらならないちっぽけな情報だったが。
「………コーヒーでいいですか?」
台所へ向かった秋華が、ネスカフェの袋を手に柴名に聞いた。
「ああ、是非。
無糖でお願いします。」
「わかりました。」
了承の意を返した彼女は、ポットの『出』のボタンを長押しした。
…………コーヒーメーカーにポットから湯が注がれて、コポコポと心地よい音が立てられる………。
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『………さあ、そして最後、3強最後の一角が堂々の本場馬入場です!
ターフに映える灰色の馬体は、時を焼き尽くす聖火となるのか!
天皇賞を勝ってこの舞台へ、極上の逃げ足はだれもが認める芦毛最後のスーパーステイヤー!
五枠十番ザラスシュトラ、
鞍上川口優雅、初のグランプリへ!』
…………3強、か。
個々の状態はともかく、この三頭以外がこのレースに勝つ様は、彼の脳内にはどうしても生まれなかった。
単勝倍率は、
ワールドクロックス 3.1
ミツアキインパクト 3.7
ザラスシュトラ 3.9
その他は10倍圏内にひしめく大混戦。
が、それはあくまで、四着以下の争いの話。
恐らくファンも解っているのだろう。
絶対的追い込み馬、三冠馬ワールドクロックス。
それから逃げるのは、これまた絶対的逃げ馬のザラスシュトラ。
そして、鍵を握る自在脚のミツアキインパクト。
彼らの戦法次第で、このレースは誰のモノにも為りうるということを。
はっきり柴名の見解は、「ミツアキインパクトがどう立ち回るかに尽きる」というものだった。
ザラスシュトラを意識して逃げるか。
ワールドクロックスを意識して後方待機か。
どちらにしても、彼の位置取り次第でどちらかがノーマークになってしまうことがこのレースのポイントだと思っていた。
カメラはミツアキインパクトの返し馬を映し出す。
こちらも文句なしに仕上がり、足取りも非常に軽い。
「頂上決戦………か。」
既にテンションの上がりきった杉本アナウンサーの実況を耳にして、彼は呟いた。
自身の、去年の冬の東京大賞典の3強対決を思い出しながら。
「………誰が勝つと思いますか?」
彼の目の前のテーブルに見事なまでに真っ黒なコーヒをコトリと置いた秋華は、
自分のコーヒーにミルクを注ぎつつ、聞いた。
「私は………ザラスシュトラが好きなんですけど。」
……一番困る質問だった。
「うーん………。
こればっかりはやってみないとね………。」
本当にわからないのがこのレース。
………多分、どこのどんな評論家でも、このレースの展開を完璧に予想することなど不可能だろうから。
『さあ、スターターが台に上って、
宝塚記念のファンファーレ!』
コーヒーの薫りだけが漂う居間の空間を、
このレース独特の音色が駆け回った。
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『……最後大外イレブントゥエルブがゲートに収まりまして体勢が整った!
凱旋門へのチケットはただ一枚!
夢と希望の宝塚記念、
時計の針を止められるか!
―――今スタートっ!』
「………………!」
コップを握る手に力がこもる!
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ガッシャ!という音と共に、全頭が一斉に飛び出した。
色とりどりの勝負服が一線で入り乱れる。
『きれいなスタートになりました!
全頭揃った見事なスタート!
さあ先行争い何が行くか!
やはりこの馬は定刻発車、押して押してザラスシュトラが前に出て参りました!
リードを二馬身三馬身取ります。
そして、二番手内からはサクラタイセン、三歳牝馬が果敢に攻め立てて、
そしてそれを外から交わしていったのが……………
!?』
「なっ!?」
柴名が異端の声をあげる。
抜群のスタートを決めて、矢のようにハナを奪っていったザラスシュトラ。
それに競りかけようとサクラタイセンが一杯に手綱をしごいて前へ前へと押し出そうとしたが、
彼のトップスピードに着いていくことはできない。
そしてそれは、他の馬も例外ではなかったはずだった、
ただ二頭を除いて。
『ワールドクロックスが、
行ったーっ!
前を行くザラスシュトラに競りかけようという勢いで、ワールドクロックスが前に出ていった!』
彼は自分の目を疑った。
サクラタイセンの茶色の馬体の外を、黒い影が疾風のごとく駆けて、
前を行くザラスシュトラを捉えようと前へ出ていった。
『これは驚いたワールドクロックス!
今ホームストレッチ前を通過していくところですが、
なんとワールドクロックスとザラスシュトラの逃げ比べ!
後続二番手集団に五馬身六馬身と差をつけて、二強が意地のぶつかり合い!
中団は馬郡がゴチャついております、ラピュタインザスカイはこの辺り馬ごみに揺れている、
そして、そして、
なんと、
ミツアキインパクトは後ろから!!
現在最後方を追走!
これはとんでもないことになりました!宝塚記念!
貴方の、私の夢が走ります!
あなたの夢は、ザラスシュトラかクロックスか!
私の夢はミツアキインパクトです!』
「これだから…………
競馬は………………!」
前を行くのは、ザラスシュトラとワールドクロックス。
後ろからはミツアキインパクト。
誰もが想像していなかった展開。
そしてその台風の目は…………
『最初のコーナへ向かう一六頭、
ワールドクロックスがここで先頭に立ったっ!』
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―――阪神競馬場―――
(クソっ!
…………何でワールドクロックスがここに!?)
ザラスシュトラ鞍上川口優雅は、手綱を一杯までしごきながら思った。
これまで追込一貫を貫いてきたワールドクロックスが、
今なぜか、先頭を突っ走っているはずの自分の馬、ザラスシュトラの横を通過して、むしろそれよりも前に出ている。
最初のコーナーへ差し掛かる頃には、もうすでに半馬身のリードを取られてしまっていた。
「これは………マズい。」
完全無欠の逃げ馬として、持て囃されているザラスシュトラだが、鞍上の川口優雅はこの馬の唯一の欠点を知っていた。
『競り合いの勝負根性に乏しい』事である。
これまで勝ちを納めたレースの二着馬との着差は平均10馬身ほど。
この馬は特に、『隣に誰もいない』状況下で『自分自身の限界まで走り続ける持続性』に長けている馬なのだ。
現に、ミツアキインパクトに競りかけられた京都記念は直線に入るともう手応えがなかった。
道中の競り合いで全てを使い尽くしてしまったからだ。
……以前、記者に聞かれたことがある。
『何故、大逃げにこだわるのか?』
………答えは簡単だ。
大逃げでしかこの馬は、いや、単騎でしかこの馬は力を発揮することができないのだ。
そして、その事実を知る彼にとって、
今横を走り執拗に競りかけてくるワールドクロックスは、脅威以外の何物でもなかった。
『………先頭の二頭が今千メートル標識を通過!
時計は59秒ジャスト!早い早い流れになった宝塚記念!
先頭はここでワールドクロックスに代わったか!?
二番手は並ぶようにしてザラスシュトラ、
そこから10馬身ほど離れたでしょうか、サクラタイセンが追って追ってこの位置、その後ろラピュタインザスカイとイレブントゥエルブが並ぶようにして…………』
もうひとつの懸念。
この馬の持ち味、変速乱ペースが全く使えず、
ハイペースのまま直線へ向いてしまうこと…………。
さっきも書いた通り、この馬の持ち味はジリジリ粘る勝負根性ではない。
自らを律する強さからなる自分自身の持続性を最大の武器とするものだ。
そしてその幇助として、上がり下がりの激しい乱ペースを用いる豊富なスタミナがある。
しかし、競りかけられた状態ではそれすら使うことができない。
横にいるワールドクロックスが、一定ペースで走るからである。
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一馬身ほど前を行くワールドクロックスの鞍上佐武幸二郎の手綱は、いっこうに緩む気配を見せない。
(くそ………
なんだってこんな真似をするんだ、佐武さんは……………)
当然のこと、普段と全く違う戦法を用いているワールドクロックスにも不利はあるはずだ。
川口が見る限り、ワールドクロックスの持ち味は『一瞬のキレ』。
道中で力を貯め続け、それを直線で一気に爆発させることによる一瞬の巨大な推進力。
それが今回は、このザラスシュトラの持続的な推進に付き合いながら逃げている。
これが何を意味するか。
『恐らく』イメージ的にワールドクロックスは、その持ち味である一瞬のキレを、細切れにしながら併せに来ているんだろう。
でもなければあれほどまでに典型的な追い込み馬だった『奴』が、
このザラスシュトラの持続脚についてこれる道理がない。
しかしそれでは、奴は直線までに推進力をすべて使いきってしまうために、最後はスピードを失って落ち続け、
結局のところ後続が上がってこないことを祈るしか無くなってしまう。
………出走メンバーが弱ければそれでも勝てるかもしれない。
………ただ。
今回のレースには、『あいつ』もいる。
『………イッサイガッサイが二馬身後方追走、そしてその内からマイネパール、
そしてそして、嵐の前の静けさか!?
笠松の風、最後方からはミツアキインパクトっ!
じっくり脚を溜めて直線での勝負へと持ち込もうと言う形か!!』
…………競りかけられたら絶対不利のザラスシュトラ。
いつもと違う戦法を用いて少なくとも有利はないワールドクロックス。
そして、二頭の競り合いでやたらと早いこのペース。
この展開で、笑うものはただ一頭。
それは…………。
「……………!
佐武さん!
何故こんなことをするんです!?
これではミツアキインパクトが有利になるだけです!!!」
居てもたってもいられなくなった川口は、鞍上から、
その前を行く佐武とワールドクロックスに叫んだ。
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「ザラスシュトラの逃げが怖いのはわかります、
けど、こうやって意地の張り合いみたいに逃げ合って喜ぶのは、
後ろのミツアキインパクトだけでしょ!!
大体、ワールドクロックスに逃げなんて!
持続性のないその馬に、そんな戦法を使ったら――――」
「…………全く。
いつまでもそんな認識をされているからこの馬は……………」
前を見たままの佐武幸二郎からの返答を彼は聞いた。
「――――!?」
怒りなのか、やるせなさなのか、微かに声が震えている。
「こいつが………ワールドクロックスが……
ザラスシュトラの逃げを恐れとるやと?
フン………
あんまり笑わせんな。」
相変わらず一馬身ほど先行するワールドクロックス。
さすがに残り千メートル。一息入れるためにか、彼の位置取りはやや下がり始めた。
いや、或いはザラスシュトラに併せに来たのかもしれない。
………ほぼ真横まで落ちてきたワールドクロックス、そしてその鞍上からはっきり聞こえる佐武の言葉。
「………どいつもこいつも三強三強とヅカヅカうるさい。
一度も戦ったことあらへんのに全く同じレベルであるかのような報道…………
この三ヶ月、聞くに耐えへん評価を何度と聞いたわ。
やれ早熟や、やれ能力の限界や、やれ海外疲れやとかな。
全く………ありもせんことをようもぬけぬけと。
………お前にまで勘違いされたら困るから言うといたるわ。
仮にこのワールドクロックスがマスコミの連中やお前が思ってるような、体が弱かったり展開が悪かったりしてグダグダするような馬やったとしてな。
そんなヤワな馬が全部いっぺんにさらっていけるほど、
皐月賞、ダービー、菊花賞の三歳クラシック三冠は
甘いもんやない!!!」
「!」
彼はその時初めて佐武の顔を見た。
ここ最近のもどかしさを知覚させるような視線が、彼の体を貫通する。
「―――中山の2000m、東京の2400m、ほんで京都の3000m………
全部のレースがそのレースごとに展開が違う。ペースも違う。メンバーも違う。
同じ追い込みにしてもその時に応じて別のもんに変わる。
捲っていかなあかんときもあれば直線勝負に賭けるのがベストの時もある。
すべてのレースが環境が違うんや!!
お前も騎手やねやったらそれぐらい解るやろ!!」
「―――っ!」
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「――持続性が無い?
ふざけなや。
そんなスピード一辺倒の馬が、菊花賞に勝てると思ったか!?
もしお前がほんまにそう思てるんやったら―――」
刹那、佐武幸二郎の体が深く沈み、手元が激しく動くと共に、
再びワールドクロックスがじりじりと前に競り出ていった。
『さあ、残り600の標識を通過!レースも終盤に差し掛かる!
ここでワールドクロックスが仕掛けた!
ザラスシュトラに半馬身のリード!』
「―――それはお前のミスやっ!」
「なっ………!」
佐武の言葉と、目の前の現実に
川口は愕然とした。
目の前のワールドクロックスは
しっかりと、じりじりと伸びている。
へたばる様子もなく、無理にスパートをかけるでもなく。
実に『逃げ馬らしい』脚を使って前に出ている。
このザラスシュトラの一馬身手前に出て、確りと内に切れ込んで、最短ルートを通り、体力を無駄に使わず走っているようにも見える。
最初の直線で競り合っていた頃には想像もしないような光景が、目の前にはあった。
「……………!」
一瞬、ワールドクロックスと目が合った。
その時、風を真正面から受けたような感覚に教われた川口は、彼の声を聞いたような気がした。
『―――俺は。
逃げ馬に逃げ勝って最強を証明する。』
それは、佐武の声だったかもしれない。
しかし、そんなことはもはやどうでもよく、
川口は『三強』という言葉に踊らされていた自分にその時初めて気づき、
徐々に離れて行く佐武とワールドクロックスの背中を見ながら
遅すぎる反省に唇をかんだ。
(クロックス……佐武さん………
恐るべし…………)
『さあ、ワールドクロックスだ!
ワールドクロックスがここで先頭に立った!
二番手内からはザラスシュトラ、ザラスシュトラが追走するが、どうだ一杯なのか!?
そして後続も一気に差を詰めてくる!すぐそこまで迫ってきている!
ザラスシュトラの三馬身後方からはラピュタインザスカイ、サクラビッグウォーはここでちょっと後退、イッサイガッサイが現在四番手、
そして!その外この位置まで上がってきているミツアキインパクトーっ!』
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ミツアキインパクトらしい小刻みな蹄音が徐々に近づいてくる。
しかしその音は、川口を現実に引き戻すにはあまりにも小さすぎた。
「くそ………
手遅れか…………」
その自責に意味無き事を、彼はまだ気づかない。
そしてすでに舞台は直線へと向かいつつある。
徐々に前の背中が離れていくのはワールドクロックスが伸びているからのみが理由ではない。
ザラスシュトラが、落ちてきていた…………
『ワールドクロックスが先頭のまま最後の直線に入った!
逃げる逃げるワールドクロックス!
そのリードは三番手集団から約四馬身、
スタンドからは悲鳴か拍手か!
名刀の切れ味を捨てた絶対王者が、泥にまみれて帰還するっ!』
―――来ている。後ろから。
彼が知覚したことに間違いはない。
ミツアキインパクトの茶色い馬体が、ザラスシュトラの真横を通過しようとしていた。
『さあ、残り300を切る!
先頭未だにワールドクロックス!ワールドクロックス先頭!
こんなレースを、追い込みを捨ててまでも勝ちきるのかワールドクロックス!
しかし、忘れてはならない一頭、ミツアキインパクト!笠松の風は今すぐそこに!
そしてもう一強―――
ザラスシュトラは伸びがない!』
パチン!
隣で馬体にムチが当たる音がする。
ミツアキインパクトの体に、ベテラン紀村の喝が入った音。
とたん、隣にいた茶色の馬体が大きく跳ね上がり、
その首を差し出したかのように無防備になりつつあるワールドクロックスに襲いかかっていった。
目の前を颯爽と駆けてゆく、突風になった笠松の風。
「――――はっ!?」
川口は我に帰った。
自分の持つ手綱が、引っ張られている。
中途半端な追い方をしている自分を、諌めるかのように、グイグイと引っ張られる。
ミツアキインパクトに付いていこうとする。
ワールドクロックスを捉えようと、
ザラスシュトラが、まだ前進の意欲を見せている証拠だった。
「ま、まだ行けるのか……?
お前…………」
勝負根性に乏しいはずのザラスシュトラが、ミツアキインパクトに釣られるようにして再び勢いを盛り返そうとしていた。
『……やれるぜ川口』
まさにそんな台詞を体現するかのように、弱々しい川口の腕をグイグイ引っ張るザラスシュトラ。
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―――まさかそんなはずは。
規定概念にすがる川口に、事実という海、そしてそれを波打たせる『成長』という言葉の風が、一気に押し寄せた。
……あの大敗戦の京都記念からこっち。
確かにあのレースではこの馬に勝負根性無き事を痛烈に感じた。
だから、阪神大賞典、天皇賞と逃げ勝った時は、
それは間違いなく単騎で逃げれたことと、距離が適正していたことが理由だと思っていた。
確かに、距離が適したのは紛れもない事実だが。
今ならわかる。
ザラスシュトラは今、やっと成長を迎えていて、
勝負根性も付き始めているのだ。
自分が、単騎で圧勝したことに浮かれて、その事実に気づかなかっただけの事。
無理矢理自分の器にこの馬を嵌め込んで、
相手すらもその器に詰め込んだ結果、
知ったかぶりのような展開予想にすがり続ける事になり、
結果こうして今まさにこの馬の力を発揮できないままに完敗しようとしている。
「くっ……………」
再び自責の念に引きずり込まれそうになった川口だが、
それを押し留めたのは残り200の標識と、必死に粘る王者ワールドクロックス、そしてそれをとらえる勢いで失踪するミツアキインパクト。
恐らく、勝つことは難しい。
これだけ差がついてしまっている上に、前半押さえたミツアキインパクトがしっかり伸びていることを思えば、
さすがに差し返すことは難しい。
しかし、このままなにもしないでいれば、せっかく伸びてきた成長の芽を摘み取ることにすらなりかねない。
ひょっとしたらこのレースが終われば自分はこの馬の主戦から下ろされるかもしれない。
だが、この馬の事を思うなら、この馬の成長を望むなら………
ここは、追わねば。
ムチを振り上げ、体を沈め、体ごと前に体重を落とした川口。
ゴールまであと200。
押す腕に力が戻り、その結果、ザラスシュトラ再び息を吹き替えした。
ぐんと引き寄せられるような手応え。
確かな感覚を手にした川口は、振り上げたムチを思いっきり下へと降り下げた。
「行けえぇぇぇぇっッ!!」
遅まきながら、爆炎が上がった。
『残り200!必死に粘るワールドクロックス!
苦しい、苦しい絶対王者!
笠松の風はすぐそこに吹いている!ミツアキインパクトがワールドクロックスをとらえる勢い!
そして!再びザラスシュトラも伸びてきている!』
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―――――――――――
『粘るワールドクロックス!
しかし、脚色がいいかミツアキインパクト!
残り150少々、その後ろジリジリとザラスシュトラも伸びてくるがこれは届かないか!?
大混戦の三強対決、先頭を行くのはワールドクロックス!
勝負はこの三頭!競り合いを制するのはどの馬か!』
「…………競り合うてる?
………誰と誰がや?」
ワールドクロックス鞍上佐武は、必死に彼の首を押しながら呟いた。
ただし、ステッキ(ムチ)は手に持ったまま。
「しっかり見いや実況………
こいつは前しか見てへんで…………」
―――ワールドクロックスの視線は常に前。
斜め後ろの者にはもう興味を示していない。
このゴールの先に見えている凱旋門へ。
世界最強の座へ。
……もうワールドクロックスにはそこしか見えてへん。
………わかるか?
馬鹿みたいに過小評価しやがった評論家ども………
雨が降ろうが槍が降ろうが、
絶対王者はこいつなんやで……………
『残り100!
ここでミツアキインパクトがワールドクロックスを捉え――――』
「――その首もらった!ワールドクロックス!」
すぐとなりに紀村の声がした。
茶色の馬体が『佐武』の視界に入る。
―――捉えた?もらった?
なんの話だそりゃ。
その程度の脚で渡せるほど、
ワールドクロックスの首は安いもんじゃない―――
「――ふざけるなっ!!!」
佐武は、ありったけの力を込めてステッキを握りこみ、
まるで弓がしなるかのような勢いでそれを降り下ろし
直線の間、一度も使っていなかったそれを、思いっきり叩きつけた。
―――前しか見るな!
「絶対立ち止まるな!
――凱旋門行くんやろが!
ええっ!?絶対王者!!」
刹那、それまでくたばりぞこないのような走りを見せていたワールドクロックスが一変、
雷に打たれたかのような衝撃と共に体勢を一気に立て直し、
人々を『熱狂』というひとつの時代の流れに巻き込んだ。
『ワールドクロックスがまだ延びるッ!?』
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―――――――――――
「――おい、まだ伸びるのか!?」
帰宅したばかりの勘助がコート姿で驚愕を叫ぶ。
「やはり………この馬が!」
レースをスタート直後から固唾を飲んで見ていた柴名が、唸るように呟く。
幾度となく今まで奇跡を見せてきたあの馬が、
今、完全復活を遂げようとしていた。
少しずつだが、だか確実に茶色の馬体に差をつけて行く漆黒の帝王。
誰の目にも、望んでいた姿の彼が帰って来たように見えた。
『ワールドクロックス!
ワールドクロックス!
無敗の三冠馬が再び先頭に躍り出た!
必死に食い下がるミツアキインパクト、
負けじと脚を使うザラスシュトラ、
しかし、先頭はワールドクロックス!
秒針が弾けてワールドクロックス!
そのリードを一馬身として、もうゴールはすぐそこだ!
ワールドクロックス先頭!
ワールドクロックス先頭!
何が三強だ!何が早熟だ!
王者は俺だ!文句は言わせない!
刀など要らぬ!
丸腰で俺は勝てる!
ワールドクロックスが一馬身半、二馬身差をつけて、
二番手争いはザラスシュトラとミツアキインパクト!
しかし、抜けた!ワールドクロックーーース!
再び申し上げましょう!時の流れは止まらない!
やはり世界標準時はこの馬だ!
一気に時を巻き戻す!王者の帰還!
鞍上佐武はすでにガッツポーズ!
ワールドクロックス今一着ゴールイーーーーーーン!
絶対王者の完全復活!
恐れ入った!恐れ入りました!
栄光はワールドクロックスの手に!
二着は二馬身差のミツアキインパクト、三着はあそこからよく伸びたザラスシュトラ!
それぞれが強い競馬を見せた中、
二強を先行逃げから完封しました。
プライドを捨て、しかし誇りを取り戻したワールドクロックス!
夢の続きはロンシャンのターフ、
世界最高峰凱旋門賞へ!
二分九秒八の大レコードタイムを引っ提げて、
いざ行かん世界の頂上へ!
勝ったのはワールドクロックスです!』
――――圧勝。
見るものにその印象しか与えぬ勝利。
言葉を失うほどの完全な勝利。
ディープインパクトの華麗なそれではない、
はたまたオルフェーヴルの爆発的なそれでもない、
言葉にして表すとすれば、『意地』。
そう、三冠馬としての『意地』が産み出した完全な勝利。
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勝利を『もぎ取り』、勝者だけが許される《ウイニングラン》を駆ける黒い馬体と、
それに跨がり、何度も何度も高く拳を突き上げる佐武幸二郎。
競馬場のファン同様、勘助たちも、声にならない興奮を帯びながら
その様を半ば呆然と見ていた。
これほど『勝利』という言葉が明確なレースがかつて存在しただろうか?
……着差自体はそれほどではない。
推定二馬身。G1であるが故、よくあるとまでは言わないが、それほど珍しいものではない。
が、その勝ち方が問題である。
他二強が自分のレースに徹するなか、
彼はこれまでの走りを捨てたかのように先行し、
更に前半1000メートルをお世辞にも平均とは言えないペースでザラスシュトラと競り合いながら逃げ、
その後直線でザラスシュトラの脚色が鈍るなか、
残り100で、前半は脚を貯めていたためにピンピンしていたミツアキインパクトの猛追をあっさりと押さえ込んで
最後二馬身の差をつけて勝ったのである。
しかも従来の記録を〇秒二も更新するレコードタイムで。
おまけに無敗のプレッシャーにも勝って。
この三重苦を背負った状況で言うところの、完璧なまでの勝利。
相手に有無を言わさず『俺が王者だ』と言わんばかりの勝利。
ザラスシュトラを逃げで封じ込め、展開有利のミツアキインパクトを力でねじ伏せた。
三強に沸いていた世間が受ける衝撃は計り知れないだろう。
『何が三強か。』
そんなワールドクロックスの言葉が、耳元で聞こえてくるようだった。
カメラアングルは、ザラスシュトラとミツアキインパクトを交互に映す。
どちらの鞍上も、半ば目の前の事実が信じられないといった風な感じである。
最も、ザラスシュトラの川口は、このとき自分のミスを悔やんでいただろうことは間違いないが。
仁川のターフにこだまする『クロックス』コール。
そしてそれに答える佐武のガッツポーズ。
歓声を送る観客たちは気づいているのだろうか?
もはや日本での決着は付いてしまったということ、
そして、
この馬の見せたパフォーマンスは、もはやディープインパクトやナリタブライアン、オルフェーヴルといった歴代三冠馬達のそれをも凌駕する勢いであるものだということを………。
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「………すげ。」
一言それに尽きる。
幾度となくこの馬のレースは見てきたが、
これほどまでに絶対王者を感じたレースは、
勘助の記憶のどこを探っても、
また、過去まで掘り起こしてみても無く、
競馬史の中を探してもすぐには思い付かなかった。
強いてあげれば、オルフェ、ブエナ、ヴィクト、そしてその他最強四歳世代が一同に介したあの有馬記念か。
オルフェーヴルはあのレースで、ウルトラスローペースで流れたレースを、最後方待機から見事差しきり勝負を決めた。
あの時の彼を見たものなら、誰もが現時点での世界一を目指せる馬だと信じてやまなかっただろう。
『見た目以上に強い』という言葉が、最も相応しいか。
今回のワールドクロックスの勝利も、それに似る。
逃げた、追い込んだの大きな違いはあるが、
あの前半のハイペースからは考えられないような二の足で他馬を圧倒した。
インパクトの問題だけならあのオルフェーヴルのレースと同格、
事実考証を加えて考えるなら、
どちらの方が『強い勝ち方か』と言う問いに対して、
今の勘助は間違いなくワールドクロックスと答えるだろう。
勘助が異端なのではない。
柴名も、秋華も、観客も、皆同じ心持ちでそのウイニングランを見ている。
そして彼らはこうも思う。
凱旋門を勝つ馬が日本に今いるならば、それはこの馬しかいない
と。
「勝てますかね……?
………凱旋門。」
レース回顧のリプレイを流すテレビを見つめたまま、勘助は柴名に尋ねた。
――――凱旋門賞。
フランス
ロンシャン競馬場・芝2400メートル。
世界の芝のレースで最も格の高いG1競走。
日本馬はおろか、欧州以外の所属馬は未だ勝利したことのない難関レース。
ディープインパクトやオルフェーヴルが苦渋をなめ、
エルコンドルパサーやナカヤマフェスタがあと一歩足りなかったこのレース。
――――日本の悲願。
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…………勘助に問われた柴名は、
秋華のこちらへの注視を居心地悪く思いながら曰く、
「さあ、どうでしょう。
確かにこの馬は強い。恐らく、ディープと張り合える位には、ね。
………ただ、馬の能力だけではどうにもならないレースが凱旋門…………
向こうの深い芝とか、コースへの適正とか………
ディープインパクトも勝てなかったわけですしね。
ま、でも、問題無く力を出せれば、優勝に一番近いのはこの馬でしょうが。」
相変わらずのですます調だが、
却ってそれが冷静な分析を際立たせる。
そう、一筋縄では行かないのがあのレース、凱旋門賞。
少しの仕掛けのミスや、調教の優劣で勝負が決してしまう難しいレース。
………ワールドクロックスはまず間違いなくそこへ向かうだろう。
先輩の三冠馬達が挑み、あと一歩のところで何度も涙を飲んだこのレース、凱旋門賞に。
「………ザラスシュトラもミツアキインパクトも強い。
が、その二頭を完璧に押さえ込んだわけですから、
能力の高さは言うまでもありませんが。」
付け加えると、という具合に柴名が言う。
―――そう、ワールドクロックスは強い。
日本中のファンが、その感覚を取り戻していた。
興奮と期待の中、今は無邪気に歓声を送るだけのファン達も、後に気づくだろうか。
日本での決着は、これにて一旦の解決をみたのだ。
名実共に日本最強馬となったワールドクロックス。
佐武の言葉を借りれば、
『もうロンシャンのゴール板しか彼には見えていない。』
そんなところだろう。
彼はこの瞬間、
再び日本を背負う存在になっていた。
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本題~元騎手の驚愕。~
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「仮に………………」
ザラスシュトラの人形を抱えてソファーにちょこんと座っていた秋華が
おもむろに口を開いた。
「「?」」
勘助と柴名がそちらを見る。
急に二人の視線がこちらに向いたのに驚いたか、
彼女は一瞬言葉をつまらせ怯んだが
一度こほんと咳払いをして話を続けた。
「あの………もし。
その………トシちゃんが仮に……
このレースに出てたとしたら…………
勝てますか?」
「う…………。」
競馬初心者故の、純真な問いだった。
が、勘助は返答に困った。
基本的に、競馬にタラレバは禁物だ。
『もし…………だったら。』
『あの時………してれば。』
このような台詞は、この世界において何ら意味を成さない。
例えば。
『もし、ナリタブライアンとビワハヤヒデが兄弟対決していたら………』
この問いに、正確に答えられるものはいない。
あの頃のビワハヤヒデならひょっとしたらナリタブライアンに勝てたかもしれないが、
不運なことに彼は兄弟対決を前に、骨折して引退してしまった。
幻になったレースを見ることはできない。
無事にその年の有馬を走って勝ったナリタブライアンの方が、『勝ち』であるといえばそうであるし、
その有馬だってもし、ビワハヤヒデがいたとしたら、
『兄弟で潰し合いをしているうちにサムソンビッグが勝ちました』
なんてこともあったかもしれない。
また、
『サイレンススズカ』があの天皇賞で走りきっていたら。
競馬の神様は残酷である。
走りきれば、恐らく八割がた勝っていただろう。
しかし彼は、大欅の向こう、故障して還らぬ馬となってしまった。
………勝ったのはオフサイドトラップ。
《競馬の神様》と呼ばれた大川慶次郎氏はこのレースについて、
後にこう述べた。
『あのままサイレンススズカが完走していれば、8、9馬身はちぎってゴールしていただろう。
これだから競馬は何があるかわからない。』
………何があるかわからないのが競馬。
だから、タラレバは意味を成さない。
そしてそれは、勘助の父兼続が晩年口癖のように言っていた言葉で、
臨終の際、
『何があっても自分のところの馬にタラレバを使うな。
………身を滅ぼす。』
という遺言も預かっていた。
だから、勘助は何も言えない。
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「う、う~ん…………
どうだろうな………」
無理に笑顔を作り出して、曖昧な返事をしてみせる。
内心、
『トシローは勝てる馬になる!』
と、叫んでやりたい。
今まで口には出さなかったが、トシローを育てるにあたって、それぐらいの気合いを持って接してきた。
馬主である古川さんと、夢を語り合ったこともある。
そして、勝てるぐらいの素質もあると思っているから、
正直黙っているのは辛かった。
「………………?」
不思議そうな顔をする秋華。
たぶん今自分の顔は随分ひきつっている。
それも自分自身感じていた。
「――――そんなことは、
まだわからないですよ斎藤さん。」
不意に柴名が口を挟んだ。
どうやら勘助の葛藤を察知したらしい。
フォローするように勘助の前面に覆い被さるように立ち、はははと笑う。
「現時点で解ることなんて数少ないもんです。
………例えば、どんな良血馬でも走らない馬はとことん走りませんし、
逆にとんでもないマイナー血統の馬が大爆走することだってあります。
それと同じく、素質のある馬だって、ない馬だって、
育て方一つで駄馬にも名馬にもなるんです。
要は、まあ能力がある前提の話……………勝てるか勝てないかなんてのは、ある種人間に左右されるものでもあるんですよ。
馬が
『能力』という宝の入った倉庫にかかる錠前
だとしたら、
鍵は人間なんです。」
「はい………………。」
「それで、今、トシロー君という錠前の鍵は
僕たちです。
トシロー君が能力を解放できるかなんてのは、正に僕たち次第………
解りますか?」
彼の問いに、
秋華は人形を抱えたままで縦に二度頭を振った。
ザラスシュトラの頭に彼女の顔が若干隠れる。
(萌e…………)
緩んだ勘助の顔は柴名に隠れて見えない。
そんなイレコミモード全開の勘助を放りおき、
柴名は話を続けた。
「僕はそのトシロー君の能力を引き出してあげるために来ました。
貴女方もその為に今まで頑張ってこられた。
なら、最後までやり通して、彼を宝塚記念で勝てるような馬にしてあげましょう。
今は、勝てるか勝てないかを考える時期じゃありません。
勝てるように育ててあげる時期なんですよ。
だから………とりあえずトシロー君に尽くしてあげることにしませんか。」
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「……………。
うん。
そうです………
確かにそうです。うん。」
ザラスシュトラ人形を見つめる秋華の表情が、
幼子が母から問いの答えを得たときのように。
どうやら勘助にとって一番辛い状況は回避………誤魔化し切られたらしい。
(柴名さん、あんた神だ…)
背後で拝む勘助。
背中で勘助だけに見えるように親指をたててみせる柴名。
「―――頑張りましょう、斎藤さん。
トシロー君が立派に競走馬としてやっていけるように。
いつかワールドクロックス達と戦う機会が来たときに、胸張って『勝てる』と言えるように、ね。」
終始柔らかい表情を崩さぬまま、柴名は話を終えた。
柴名の笑顔は常である。
が、今の彼のそれは常のそれとはまた違った物であるらしく。
その事からは、
彼が勘助に助け船を出す………以外に、確かに持論というか自分の意思を含んで話していたのだということが読み取れた。
「――――。」
秋華もそれに呼応し、
無言の笑顔を肯定としたようだった。
―――テレビの中で観客が沸く。
どうやら表彰と口取りが始まったらしい。
………なんというか、ワールドクロックスは『大人』な雰囲気がある。
口取りをして、写真を撮る間も凛として堂々と立っている。
人間に抵抗して暴れるふうも全くない。
ただ時たま、首を上にあげて天を見上げたりすることがあるだけで
それが逆に王者の風格を醸し出しているとも言える。
そんな風だから、横に並ぶ池井調教師も馬主の吉屋も、騎乗する佐武も
同じく堂々と立ち、静かに喜びを噛み締めることができる。
動いているはずの映像が、
ワールドクロックスを中心にまるで一枚の写真のように思えてくる。
「あそこに立てたらカッコいいですよね。」
まるで未来の幸福を手に取ったかのように弾む集荷の声に。
「ええ。」
「そうだな。」
二者は二様に同感を示す返事を返した。
「いつか、立てるだろ。」
勘助は最後、兼続の遺言に少し逆らってみた。
仁川のターフの、歓声がやむことはない。




