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―――たんぽぽが、牧草に混じるようになった。
木々も息を吹き返し、緑がちらほらと蘇り始めた今日この頃。
四月下旬といえば、北ではまだ少し肌寒いくらいか。
………子馬たちが世に出ずる、いわゆる出産シーズンを終えた馬産地。
今年も、良血馬や零細血統、牡馬牝馬様々にサラブレッドが誕生した。
必ずしも同じスタートラインとはいえないものの、この子馬たちの大半が三年後には競馬場を走る。
そして、大半は、残念ではあるが『競馬』というシステムの中に消えゆき、
勝ち抜いたほんの一握りが次の世代へ命を繋ぐ役割を果たす。
一世紀半にも渡って繰り返されてきたこの命の淘汰は
全て、この四月の、気温共々全てが穏和で幸せな時期から始まる。
…………さて。
前記の子馬の出産シーズンを終えた馬産地は
つぎに、今年の配合について頭を悩ませる。
オルフェーヴル、ディープインパクトを筆頭として、サンデーサイレンス系の種牡馬が日本競馬を牛耳るこの頃。
当然ながら、繁殖牝馬にもサンデーサイレンスの血が入るものが多く、
血が濃くなることを嫌う馬産者にとっては、非サンデーサイレンスの種牡馬の中から活躍しそうなものを安く選ぶことは
この上なく難しい、頭の痛い問題である。
主流のキングカメハメハ直子か、
はたまたロージズインメイやアジュディケーティング直子のような微・零細血統か。
どちらにせよ、サンデーサイレンス系の種牡馬に勝るという確証はなく、その可能性は低い。
かつて、『サンデーにあらずんば馬にあらず』という平家物語も真っ青の勢いで、ノーザンテースト以来の日本のスーパー種牡馬になったサンデーサイレンス。
当時、全国の馬産が欲し、多少無理をしてでも血統表に彼の名を入れたいとすら思わせたその血は、
約30年の時を経て、日本の馬産にとって、大いなる足かせになっていた。
求めすぎたがゆえに、
求められなくなる。
結果が全ての競馬界では仕方のないことなのかもしれない、が、
なんとも皮肉な話である。
…………そんなだから、大半の牧場は、前記のように頭を悩ませる。
特に中小牧場は、予算とサンデーの板挟みにあい、苦しみ悶えるというのが現実である。
いつのどこの世界も、中小企業は苦しいのだ。
…………そんななか、そのどちらにも属さない例外がある。
馬を生産しない牧場、だ。
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―――山本牧場、居間。
「勘助さん………」
「ん?」
「暇です。」
「同感だ。」
「……………。」
………繁殖牝馬のいない山本牧場は
この、生産界が最も活気付く時期、
出産もなく種付けもなく、はたまた手持ちの種牡馬もいない、
開店休業状態にあった。
かといって繁殖馬を手に入れるには予算がなく、
無二の財産コスモバルクをもう一度種牡馬にする、なんてことも、盟約上かなわない。
要するに、打つ手がない。
何もしようがない。
「むー…………。」
ソファーにちょこんと腰をかけ、勘助を見つめ続ける秋華。
勘助は、種牡馬辞典を読んでいる。
いや、ひょっとしたらページを眺めているだけで、内容は全く頭に入っていないのかもしれない。
「…………………。
……………はぁ。」
床に寝転び、なすがままに時間を過ごす勘助を見て、
秋華はため息をついた。
(最近ずっとこんな調子ね………、勘助さん………。)
彼女は、
ここ最近の勘助に、いつものような行動的さが感じられなかった。
いや、通常業務は毎日きちんとこなすのだが。
朝、トシローとバルクに飼い葉をやり。
昼、トシローとバルクを放牧地に送り出し。
夜、彼らを馬房に戻し、飼い葉をつける。
これだけはちゃんと(というか当然)毎日欠かさずやっているのだが。
(つまんない…………。)
秋華は不満だった。
何が彼女をそうさせているのか。
………あの12月の事件以来、勘助は彼のそばから秋華を離さなかった。
無論、奈落の攻撃を恐れての事である。
彼の監視の目が届かないときは外に出さず。
買い物をするときも必ず連れ添い。
一人で家に残すような真似をせず。
万が一遠出の際は秀馬宅に預け。(お陰で桜花と仲良くなった。)
極めつけには、
夜は添いn
……………等々。
心配なさる方もいるだろうから記しておくが、
勘助は極めて理性の強い男であっ(以下略)
………そんなわけで最初の3ヶ月間、
彼女としては寧ろ幸せなくらい、延々つきっきりで勘助にかまってもらっていた。
それが仮に束縛される生活であったとしても、だ。
………ところが。
『幸いなことに』奈落は彼女を襲うような行動を、この数ヵ月間何一つ起こさなかった。不気味なほどに。
重要なことだから繰り返す。
何にもなかったのだ。
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――勘助は最初、あまりになんの動きも見せない奈落を、かえって不審に思っていた。
あれだけの脅し文句を吹っ掛けておいて、まさかハッタリということはあるまい。
奴には何か陰謀があるに違いない。
そう考えた彼は、年明けて二月にかかるまで、さらに神経を尖らせていた。
何時なんどきでも対応できるように、護身用のスタンガンを常に懐に忍ばせ、なけなしの金でセコムを雇い、
外出時は
秋華を分厚い眼鏡にネルシャツをジーンズにインさせた、いわゆるオタク風に変装させ、
自らもゴツいサングラスをかけて野球帽を被って顔を見えないようにし、それでいて絶対に手を離さない。
はたから見れば異様な光景だっただろうが、
ともかくも、何時なんどきでも彼女を自分の保護範囲に置いておこうとする、
まるで彼女を要人として警護をするかのような生活を送っていたりした。
そして、その状況はかえって秋華には(変装以外は)嬉しかったりもした、ということは先程も書いた通り。
そんななか彼は、彼女が連れ去られてしまうという恐怖からくる絶対に守ってやらなければならないというプレッシャーと、
かえってそれを秋華が楽しんでしまっているという事実のもとに
知らず知らずの間に板挟みになっており、
彼の持つ緊張の糸は正に三味線のごとく張りつめていたようだった。
………思えばあんな状況に少しでも喜んでいた自分にバチが当たったのかもしれないと今は秋華も反省している。
三月になっても何も起こらない状況に、
とうとう勘助の緊張の糸が
プツリと音を立てるかの如くに、
切れた。
四月に入ってからの彼は、それまでのゆとりを取り戻そうとするかのように無気力になってしまっていた。
………いや、寧ろそれは秋華の見解であって、
正しくは『元に戻った』というところだろうか。
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四月以降の彼らの生活のなかに、
こんな一幕がある。
―――――――――――
「勘助さん!今日はどこへ行きます?
買い物ですか?それとも…………」
「ん?ああ……そうだな………。
……とりあえず今日のところは………
……いや、もうめんどくさかったら別にわざわざついてこなくてもいいぞ。」
「………えっ?」
「……いや、というより秋華には謝らなきゃならないと思ってたんだ。
俺は奈落がいつ襲ってくるかもしれないとビビってばかりで、
結局何もないのにお前をだいぶ束縛してたみたいだ。
悪かったな。」
「えっ?いや、勘助さんが謝ることじゃ………
そっ、それに私―――」
「―――いや、いいんだ。気を使わなくても。
せっかく秋華はここに残ってくれたのに、結局疎開してるのとおんなじ様なことにしてしまってたからなぁ………
うん、反省してるよ。
もうちょっと俺が気弱でなければな………」
「いやっ、あのっ、だから、かんす―――」
「―――とりあえず、これからは行き先さえ言ってくれればどこへでも行ってくれていいし、無理に俺についてくる必要もない。
だから秋華。これからはまた以前みたいに好き勝手やってくれていいからな!
存分にトシローに絡んでやってくれ。」
「あのっ、違っ………」
「―――っと。そろそろトシローを馴致(馬具に慣れさせる仕事)の時間だな。
じゃあ、秋華。またあとで!
昼飯期待してるよ!」
「あっ、ちょっと!勘助さん!待っ………
…………………
…………………
ばかあっ!」
―――――――――――
秋華にとっては残念なことに、この日から勘助は元に戻ってしまったのだ。
それも、なぜか突然に。
一緒に出掛けることもめっきり減ってしまったし、
家にいても会話をする機会があまりないし、
別々の部屋で寝(以下略)
……勘助にとっては、生活の基軸が元に戻っただけなのかもしれない。
が、秋華にとっては、もはや日常となりつつあった勘助との密着した生活が、
なんの前触れもなくボロボロと剥がれ落ちた形になったのだ。
…………そんなこんなで。
『せっかく大好きな勘助さんとの時間が多く持てていたのになぁ………』という念からか、
今の秋華は不満だった。
それに…………
どうも最近の勘助は、秋華に隠し事をしているらしい…………。
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時間を元に戻す。
「…………。」
待てども待てども、本から目を離そうとしない勘助。
「んー!」
とうとう秋華の怒りが噴火した。
バッと立ち上がったかと思うと、その足で勘助のもとへ詰めより、彼の手から種牡馬辞典を引き離す。
はっ?とでも言いたげな勘助の顔が目にはいると、秋華の怒りは更に増した。
「勘助さんっ!」
「わっ………!」
まさか怒鳴られるとは思っていなかったのだろう、若干勢いに押されて体を仰け反らせた勘助。
「な、何?いきなり………」
「いきなりじゃないでしょ!
さっきからずっと話し掛けてるのに勘助さんが………」
「ああ、そうだっけ?」
「…………っ!」
この世で一番かと思うほどの怪訝そうな顔をした秋華。
それを見て、さすがに不味いと思ったのか、勘助はそれを取り繕うかのように急いで起き上がった。
「わ、悪い悪い!
で、何だ?」
「何って……………」
いざ何と聞かれると、ちょっと面食らってしまう。
――もちろん、不満はたくさんある。
最近あんまり構ってくれていないことや、
会話が少ないこと、
奈落の事でしか自分への態度が変わらなかったこと、
そして何より、
何か自分に隠し事をしているらしいこと………
が、しかし。
彼女の良心は、それを直接咎めることをよしとしなかった。
ここへきての勘助の変化が自分にも一因があるのだ、と自覚していたからである。
だから彼女は、自分の利にならないことで勘助を責めるしかなかった。
「―――何って…………
………
……あっ!
えぇと、そう、トシちゃんのことです!」
完全に出任せた言葉だった。
「トシローの?」
眉を潜めて顎に手をやる勘助。
全く心当たりがないといった感じ。
しかしその間に、秋華は彼のぐうたら(繰り返すようだが、あくまでも秋華目線)を正すための口実を、何とか思い付いていた。
「そ、そう!トシちゃんのことです!
勘助さん、最近本読んでばっかりで、えぇと………
何て言いましたっけ、あの、馬具に慣らせるがどうとか………」
「…………馴致?」
「そう!それです!
その馴致を、最近ずっとやってないじゃないですか?
お陰でトシちゃん前とおんなじように牧場走り回っちゃって…………
あれでいいんですかっ!?」
ああ、何て適当な言いぐさなの?と思いながらも、現状に耐えかねた思いから、彼女は勢いで押しきった。
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勘助は一瞬キョトンとしたのち、
ああ、なんだその事か。
と呟いて、苦虫を噛んだような顔をして頭をかいた。
「それなんだがな………
あいつ、信じられないことに、
一回も鞍(人をのせるための道具)や馬銜(ハミ・馬に意思を伝達するための口輪)を嫌がらなかったんだよ。
てか、寧ろ早く載せろって言われてるみたいだった。」
……基本、馬という動物は人間が装着する道具をかなり怖がる。
仮に、なんの訓練もうけていない馬がいたとして、その馬に突然鞍を着けようとしたら、
100%暴れる。
つけられるのが怖いから。
しかし、それをつけなくては人は馬に乗れないし、人が乗らないでは競馬をすることは叶わないので、やっぱり鞍は着けなければならない。
ではどうするか。
この、比較的馬が若い時期に、無理矢理に鞍をのせて、それに馴れさすのだ。
最初は当然、馬はそれを拒絶する。
なんとかそれを振り落とそうとして、大暴れする。
しかし根気強くそれを百回、二百回繰り返すうち、
馬はやっとそれを怖がらなくなる。
それにより、晴れて人をのせる準備ができて
そのあとはまた、人をのせるのに馴れさせる、地獄のような作業が待っている。(数十回、数百回は馬から人が落ちるため。)
そして、これらの作業すべてをまとめて言ったのが、
『馴致』
である。
この馴致という作業は、総じてどの項目も、馬が大暴れする。
とにかく暴れる。手こずらせる。怪我させる。
それは、ディープだろうがオルフェだろうがオグリだろうがワールドクロックスだろうが同じこと。
そして、小学生の頃からこの作業に携わり、その危険性を重々知っていた勘助は
自分の骨が四、五本は折れるつもりで、先月それに取りかかった。
『トシローよ、お前が競走馬になるためなら、俺の体はどうなってもいい………』と心で自分に言い聞かせながら。
しかし初日に、彼の経験上あり得ないことを、トシローは起こした。
通常二月はかかる作業の行程を、
彼は一日で終えた。
鞍をのせられることを全く苦とせず、馬銜を掛けられることをむしろ好んだ。
戸惑う勘助を差し置いて、二日目にはあとは人をのせるだけの格好に。
そして、三日目にはとうとう、勘助を乗せたのである。
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「………もう、目の前の出来事が信じられなかったけど…………
あいつは確かに鞍を、馬銜を、人間を
全く怖がらなかった。
だから………馴致はもう終わったんだよ、信じられないことに。」
窓の外、元気に坂を駆け上がるトシローを遠い目で見つめる勘助。
その表情はどう見たって、『手の掛からない奴だ………』なんて感動を表しているそれではなかった。
何か化け物でも見るような………
「そんなことって………
あり得るんですか。」
……驚いたのは勘助ばかりではない。
秋華も、その事実に驚愕の色を示した。
ここに来た当初、当然競馬に対して無知だった秋華だが、
この四ヶ月間、なにもしなかったわけではない。
牧場に住まわせてもらっている以上はそれをしらなければ………と、競馬や馬に関して万のことを学び始めた。
まずは、『優駿の〇』や『みどりのマキバオ〇』や『風のシルフィー〇』といった競馬漫画から読み始め。
そのあとそこで気になったことを調べ。
それを事実と照らし合わせるためにモノホンの競馬を見た。(門別競馬場にも足を運んだ。)
そうこうするうち、初めは義務として学びはじめた『競馬』だったが、知れば知るほどにその魅力に取りつかれ、
爆発的な興味から知識を取り込み始め、
しまい、トシローが凄い馬だということを知りはじめた辺りから、
ミーハー熱にも負けるとも劣らない、競馬マニアになりつつあった。
そんなだから彼女は、馴致の難しさも大体わかっていた。
まあこの知識は、『じゃじゃ馬グルーミンU〇!』によるところが大きかったが…………。
「確か、馴致って何ヵ月もかかるんじゃ…………」
「だから、あり得ないって。
あのときばっかりは俺、あいつが馬であることを疑った…………」
語尾にいくにつれて小さくなる声。
―――……まあ、それだけあいつが化け物だってことだよ。
と付け足して、勘助は深いため息をついた。
「そもそも、親離れから普通じゃなかったんだ、あいつは………
ひょっとしたら俺は、とんでもない奴を世に送り出しちまったのかも………」
顔は一応は笑っているが、彼が冗談を言っている訳でないことぐらい、
秋華はすぐに理解できた。
―――ああ、トシちゃんはやっぱり凄い馬なんだ。
そんな答えが脳を回りきるまでに一秒も要らなかった。
「凄いですね………」
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それだけ?と聞いてきた勘助に、彼女は肯定の返事しかできず、
会話はとぎれた。
二人の間に、暫しの沈黙。
さっきとは変わった形でその空間が静寂に包まれる。
「…………紅茶、入れましょうか?」
その沈黙に耐えかねた秋華は、ふと立ち上がると台所向かって歩き出した。
ん?ああ、頼む。と相槌を打った勘助。
しかしそれ以上に会話は続かず、
彼女が湯を沸かしている間も沈黙は続いた。
勘助はその事を特に気に止める様子もなく茶を待っていたようだったが、
秋華はそんな空気を居心地が悪いなと感じていた。
というか正直、たまらなく嫌だった。
そもそも彼女は、そんなだんまりが嫌だったからこの話を持ちかけたのだから。
そんな曖昧な彼らの空間を駆け抜けた、一本の電話の着信音。
『これは世紀のレース!世紀の一戦となるか、内からテンポイント、外からトウショウボーイ………』
念のため、着信音である。
(……………。)
秋華は、やかんを見ることをやめ、勘助を注視した。
ソファーの上、
誰だよ………とめんどくさそうな顔をした彼は、取り出した携帯の画面を見てすぐ驚愕と焦燥の表情を見せ、ちらと秋華の顔を伺ったあと
「ちょい電話………」
と呟くなり、厩舎の方へ猛ダッシュで消えていった。
あまりに一瞬の出来事であったがために、暫し唖然としていた秋華だったが、一瞬間後、「怪しい。」と第六感が告げたため、彼女もまた、勘助のあとを追った。
但し、忍び足で。
………最近彼女が、勘助が彼女に隠し事をしているのではないかと思い始めた由縁はまさにコレだった。
最近になって、彼の携帯にはなにやら頻繁に電話が入るようになり、彼はその都度彼女の耳の届かないところに行く。
さらに、帰ってきた勘助に「誰から?」と聞くと、
「ん?ああ。まあちょっとね……」
などとはぐらかすのである。
不振に思って後でこっそり彼の携帯の着信履歴を見てみたが、
そこはもう全て消去済み。
その時間に通話していたという事実は、記録さえ消え
去っていた。
おかしい。何かがおかしい。
最近よく出掛けることや、
誰もいない馬房を掃除して、仕事をしているフリをしていることがある勘助。
心なしか、自分の扱いもおざなりであるように思う。
彼女の胸には遂にあの疑念が……………
(まさか、他の女………)
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―――――――――――
「…………そう、そういうこと。
……うん。」
そーっと物陰から覗いてみたところ、勘助は携帯を手になにやら深刻な顔で話し込んでいた。
(……………。)
「そう、だから……いや、違うってば!
明後日で無いと意味ないから!」
(明後日…………。)
………何かあったような。
何だっけ…………えっと………。
「うん、うん。そうなんだ。だから、明後日………
違う、そっちの都合に合わせられると困るんだってば!」
(!
都合…………)
………女の嫉妬は飛躍しやすい。
早くも彼女の疑念は早くも確信に変わりつつあった。
「だからっ!ちょ!待て!
違う、違うから!」
(違うって………
一体何に弁明してるの…………!?)
彼女の脳内では早くも勘助の浮気の構図が。
(明後日………都合………)
あまりにも具体的すぎるワードの数々。
(そんな………勘助さんに限って…………)
それでもまだ彼女には、ソレを否定するだけの勘助への信頼が残っていた。
(勘助さんが………無いわよね、そんなこと………)
しかし、勘助が次にはなった一言が、彼女を暗闇へと突き落とす。
「何回言わせりゃ気がすむんだよ!
だから!今日じゃダメなんだって!
…………秋華にバレたらマズいだろ…………。」
(!!!!!??)
頭が真っ白になった。
(バレたらマズい!?なんのこと!?勘助………!)
「あんなもん、どうやってあいつに隠すんだよ………!?
えっ?馬房で?
バカ、バレるに決まってんだろがっ!!」
(あ……………!)
もう我慢ならなかった。
彼女はヤカンで湯を沸かしていた事もすっかり忘れて、放心状態のまま2階へ駆け抜け上がった。
全てのつじつまが合ってしまった。
最近、よく外に出ていくことも。
電話をわざわざ隠す事も。
仕事をぼんやりとこなすようになったことも。
そして何より、自分への態度が適当になったことも…………
…………確信した。
勘助さんは…………
(何で……………っ!)
「……………………!」
声に出来ない悲しみと怒りを、彼女はドアにぶつけた。
バタァン!と地震でも起きたかのような大きな音が鳴る。
自分の何がいけないのか。
自分の何が不満なのか。
相談してもくれないで。
(…………!)
ベッドに突っ伏した秋華。
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すると直後、閉じたドアからコンコンと音がして。
「秋華?どした?」
何事もなかったかのような勘助の声。
「―――」
ショックとあまりの突然さが重なり声がでない秋華。
「いや、上がるのは構わんけどな、せめてヤカンの火ぐらいは消し―――」
ガチャ、とドアノブが回る音がして扉が開こうとしたその瞬間、
彼女の声帯を梗塞せしめていた何かが決壊して―――
「入ってこないでっ!」
「!?」
ドアが再び勢いよく閉じられた。
「ど、どうした秋華?
…………着替えてたとか?」
相変わらず無頓着な勘助の声。
彼のそんな態度が更に彼女の心を掻き乱す。
「違う………!ばかッ………!」
もう、訳がわからない。
一月前までは、あんなに仲が良かったのに。
大事にしてくれていると思っていたのに。
私は、そんな誠実な勘助さんが好きだから、
勘助さんしか見えないから、
ここに帰ってきて、
これからも二人でって。
なのに――――
(…………裏切られた。)
最悪の形で。
これ以上ない、最悪の形で。
勘助さんは、もう、私のことが好きじゃないんだ………
じゃああの時、何で残れだなんて………
今は、勘助さんの顔も見たくない…………
だから、
「来ないでッ!」
喉が一発で擦りきれるのではと思われるほど、大きな声。叫び声。
その声は、もはや物理的な力を持ち、開きかけた扉を勢いよく閉じた。
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――――――――――――
「違う………ばかッ……!」
…………………………。
………………………は?
馬鹿?
「来ないでッ!」
………………へっ?
勘助は思わずドアを閉じた。
………ちょい待て、俺なんで突然そんなこと言われなきゃなんないわけ?
「馬鹿って、何?」
「自分の心に聞いてみたら!?」
……………再び、はっ?
「いや、待て秋華、それはどういうこと?」
「知らない!ばかッ!」
はぁーーーーー?
「待て待て、秋華?
あの、何に怒ってんの?
全然意味わかんないんだけど…………」
―――なんか俺、マズいことしたっけか?
「もういい!今日でも明日でも会って来ればいいじゃない!!
邪魔者の私はここでじっとしてるから!」
――――――三度、はっ?
「えっ?何の話?
俺、今日はどこにも行かねぇけど。
……てか邪魔者って、何?」
「惚けないでよ!
今日は私がこの家にいるから都合が悪いんでしょ!?
馬房で会うのは都合が悪いんでしょ!?
だから明後日―――
そうよ、明後日は天皇賞だから、
WINS(場外馬券発売所)にでも行くふりして会ってくるんでしょ!?
そんなことしなくたって、私は、もうここから出ないから!
いつでも会って来れば!?」
―――えーと。
これは。
何事だ。
一体。
何が。
起こってるんた。
「あの、秋華?」
「何よ!?」
―――こっちの台詞だよ!
「電話を、聞いてたんだな?」
「そうよ!悪い!?
わざわざ着信履歴まで消してさ!」
―――あぁ?
「………つまり、何か?
俺が別の女つくって遊んでると、
お前はそう主張するわけだな?」
「そうよ!事実なんでしょ!?
開き直らないでよ!」
―――カッチーン。
どこに、浮気なんぞ、する暇が、あぁ?
「…………ったく。
ずいぶん見下げられたもんだ。」
「………………。」
「………無視か。
そうか。
わかった。
よーく、わかった。
お前が俺をいかに信用していないかが。」
「あんな隠し事ことしてて、まだ信用しろって言うの!?
虫がよすぎるわよ!」
―――隠し事だ?ざけんな!
「ああそうか!
じゃ一生そこにいりゃあいいじゃねえか。
信用しないなら別にそれで俺は困らねぇしな!
勝手にやってろ………」
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「言われなくても………
そうするわよっ!」
泣き声混じりにドアの向こうから叫ぶように秋華の声がする。
その悲痛なまでの彼女の言葉は、若干勘助の胸を刺したが、
彼はすぐにこう思い返した。
―――俺が責められる道理はない…………!
………すべてはあいつの勘違いで、
その勘違いはアイツの俺への不信が招いたこと………。
不信………か。
くそっ!
「ああ、一生やってりゃいいじゃねぇか!
後で謝ったって知らねぇぞ!」
その返答は正に鸚鵡返し。
「謝るべきはどっちよ!?」
悲痛な意思を含んだ彼女の、その言葉を聞いた彼は、
今彼女に何を言ったところで同じだと言うことを知り。
「……………っ、クソッ。」
自分は何故こうも苦境に立たされなければならないのだろう?
―――いきり立った彼は反撃の言葉を残さず、ドンドンと音を鳴らし階段を駆け降り、
玄関に散らばる靴を蹴散らし外に出た。
息を切らすほどに走った。
皮肉なことに空は久しぶりの冬の晴れ、最高の日和である。
ハァ、ハァと息を乱しつつ放牧地のある丘の下りへと歩いていく。
何で俺があんな風に言われなきゃならない?
何であいつはあんなに怒ってる?あの電話の内容を聞いていて、何であんな勘違いが起こる?
そんなことを思いながらの下り道中。
だんだん見えてきた放牧地にはいつも通りにトシローが、脚から血を滲ませて走り回っていた。
何かを追い回しているようにも見えるそれは、長く育った芝の上を、見えない何かに食らいつくように駆けていた。
(………………。)
勘助が更に下へと降りていくと、トシローもこちらに気づいたらしく、首を嬉しそうに上下しながら駆け寄ってきた。
「…………トシロー。」
勘助が何気なく手を前に差し出すと、そこへ冷えたからだを擦り付けるように鼻をこちらへともたげた。
「ぶひゅるる…………」
勘助にはめったに見せない、甘えたような態度。
秋華の時によく見せるこのしぐさを、彼は今、このタイミングで見せている。
彼と彼女の仲が冷え込んでいる、今。
これが何を意味するのか。
「トシロー…………
お前は解ってくれるか。」
「ひゅん!」
彼の手のひらをトシローの舌が滑る。
「そうか…………
ありがとう。」
理解を示してくれたただ一頭の馬に、彼は感謝の意を示しながら額を撫でてやった。
「ふひゅー……」
トシローが笑った気がした。
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『全く…………。
気が澱んだと思って来てみたらこの様か、勘助とやら。』
急に背後で声がした。
「――――」
――この声は。
振り向くまもなく、次の言葉が飛んできた。
『………貴様のやりたいことは解るが………な。
勘助とやら。
やりようが良くない。』
「土地神―――。」
ようやく振り向いた勘助の目の前には、白髪の『若者』がアイヌ民族の、ロシア文化と松前文化の混在した、きらびやかな衣装を着こんで立っていた。
手に薙刀を持ち、口に意地悪く笑みを乗せて。
「――――様!?」
当然(と言うには怪異だが)彼はあの、
巨大な青白い蝦夷鹿が立っているのだと思ったため
絶句した。
声もしゃべり方もオーラもあの土地神のもの。
しかし、そこにいるのは鹿ではなく、人間だった。
『久方ぶりだな。
勘助とやら……………』
その青い瞳を細め、ふ、と微かな笑みを見せたそれは
薙刀を地面に突き刺し、空いた右手をこちらに突きだし握手を求めてきた。
『夢の中以来――と云ったところだろうか?』
「い、いや……
……何で人間なんです?
てか、何でそんなに若いんです?」
あまりに神々しすぎて、性別すらわからない、寧ろ人間と呼ぶのがおこがましいとすら思えるそれは、
『外を出歩くにはこちらの方が―――な。
……二つ目の問いだが、我は生まれてたかだか四千年の、赤ん坊にすぎぬ。』
と呟き、更に前へと手を突き出した。
勘助が急いで手を握り返す。
「その節は………その。」
『昔のことはよい。
今、貴様の状況の方が深刻………ちがうかね?勘助とやら。』
それの手に力がこもるのを感じた。
「………何で解るんです!?」
『我も下級とはいえ土地神だからな。
それに、死すべきものを生かしてしまったのだから、
我には貴様らの行く末を見届けなければならないのだ、
解るか、この意味が。』
「いえ…………」
『時が惜しい、端的に言おう。
―――少なくとも、我は既に裏世界の秩序を百は破ってしまっていると云うことだ、勘助とやら。
本来我は自殺を試みたものを助けてはいけない身の上にある。我の造り出された理由は、一重に「自殺者を追うものを救う」ことにある。
………逆に言えば本来はそれ以外の権限は認められないのだが。
我はその掟を破り、二人も助けてしまった、しかも同じ土地に住まうものを。
貴様が芝山と呼ぶ者と、貴様の連れ合いのことだ。』
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連れ合い、とは秋華のことで間違いないだろう。
勘助は微かにうなずき、次の言葉を待った。
土地神は握った手を離さない。
『だから………申し訳無く思わないこともないのだが、貴様らの動向は常に監視している。
と、云っても四六時中見張っているとかそんなことはしない。
気の乱れによってここの状況を感知する、そういう監視だ。』
「はあ…………」
少し背中に悪寒が走る。
『気の流れというのは……便利なものでな。
その者の思考、気分、感情、記憶、ありとあらゆるものが見えてくる。
………ことに、直接に肌を経由しているともなればな。』
土地神は悪戯っぽく笑い、
握り合わせたままだった右手を、そのままの形で勘助の顔の手前に持ち上げた。
「……………!?」
無意識のうちに勘助は、または反射的にその手を振りほどいて、
しまったと思った。
「あ、あ、すいません!
そんなつもりは………」
『いや……人間として当然の反応だ、勘助とやら。
透視されて心地の好い者などいない。』
フム、と鼻を鳴らすように笑った土地神は、振りほどかれた手を瞬間的に衣装のなかに戻した。
『………さて。貴様の心中を覗いたところで伝えなければならんことがある。
我は、あの小娘を救った時点で裏の秩序に於ける貴様らの管理職のような要素も担ってしまった。
……もし、自殺を望みし者が絶望したり、逆に止めた者が苦しむような結果に終わってしまったら、
すべてを振り出しに戻すということもせねばなるまい。
我はそのために作られた。』
笑顔から急変した土地神の真剣な顔を見て、
勘助は生唾を飲み下した。
「ひゅるる?」
トシローはなんだか不思議そうにそれを見つめている。
「…………だったら?」
『もし………貴様らの間に未来を害するような出来事があって………
それであの小娘が苦しむようなことがあれば、
残念ながら我はその使命を果たさねばならぬ。』
未来を害するような出来事とは?
勘助は頭で問うた。
気の澱みを感じたから来たと云った土地神。
その気の澱みというのができた理由は間違いなく秋華と自分の痴話喧嘩であろう。
………もしあれが「未来を害するような出来事」であったとするなら……
この土地神はここへ何しに来たのか。
そして、振り出しに戻すとはいかなることか。
勘助の胸に焦燥が走る。
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「ま、待ってください!
あれは秋華の勘違いなんですて!
俺は一度たりとも秋華以外の――――」
『――――解っている!
落ち着け、勘助とやら。』
興奮しきった勘助を、土地神は手で制する。
「………!」
『全く………。
人間の考えることは理解できん…………
なぜあの場で貴様の計画とやらをぶちまけることをしなかったのか………
あそこで弁明でもしていれば、こんな面倒にはならなかっただろうに………』
「いや、だってそれは……」
『………まぁ、よかろう。
貴様に悪意がないのはよくわかった。
下心がないことも同様だ。
だからとりあえず……
当分このまま見送ることとする。
貴様が言う、「さぷらいず」とやらを貫徹して見せろ。
道を外すでない。これを好機とする手もある。
だから今回は不問に処す。
………わかったな、勘助とやら。』
「いや、しかし……………!
って、
………えっ?
あ、はい…………。
その、
解りました…………」
あまりに急な忠告に、彼はは思考を巡らせることができなかった。
自分は恐らく呆けた面をしているのだろう。
神様の溜め息を、勘助は初めて聞いた。
『不安だな………』
土地神はそう呟いて、その身を反転し、放牧地の脇に広がる原生林に向かって歩き出した。
地面から抜けて宙に浮いた薙刀がそれに続く。
「あの………どちらへ?」
『帰るのだ。知床に。』
当然だろう、と云った顔をして振り向いた土地神は、後ろからついてきた薙刀をその手に取り、そう言った。
ああ、そりゃそうかと納得した勘助は、「その………お気をつけて。」と言って深くお辞儀をした。
何なのだろうか、この神様は。
立場で見れば、自分達の敵に成りうる者だし、そういうことになれば実力行使も辞さないということを度々示している。だが…………
自分達のピンチになると、必ず何らかの形で現れる。
自分達を助く側の者として、勘助を必ず的確な方向へと導く。
あの夢の時、『我が羨んだ血』とあの神様は言った。
紛れもなくそれは、勘助の先々代から繋がる『善意の血』。
ならば自分がそれを持ち続ければ、考えようによっては見守り続けてくれるということか。
ありがたい話ではあるが、一体なぜ神様が自分達のためにそこまで………
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「………最後にひとつだけいいですか?」
顔をあげた勘助。
『………訊こう。』
足を止めた土地神。
「…………あの。
なぜ俺たちをそんなに気にかけてくれるんです?」
勘助は控えめに、かつ丁寧に聞いた。
死を司る神、いわば死神でもあるこの土地神様。
考えてみれば、人を生かしておくことに執着する、『善意の血』を持つとまで形容された勘助などは、むしろ厄介者であるはずなのに。
なぜ、自分達のためにそこまで…………
あまりにもアバウトなその問いに、
土地神様は一瞬、キョトンとしたのち、ふ、と顔を緩め、
『全く………自分が理解しがたいわ。
……………本来なら貴様の言う通り、放っておくのが得策だが…………』
目を細め、トシローを見た土地神様。
優しく鼻面に手を当てるその姿からは、どこの厩務員にも負けないくらいの、馬への思いやりが見てとれる。
『この馬と………貴様と………あの小娘と、
そして父…………
貴様らの過ごす
まるで小説のような日常が、な。
我の過去を消し去るようで、
心地好いのだ…………』
「……………。」
……以前会った時には表情がない、簡単に言えばのっぺらぼうの鹿だった土地神様。
あの時は自らの境遇をどう思っているかなんて知るよしも無かったが。
今日、人間として現れたそれの、勘助の目の前にある表情は
深く哀しみを身に刻み込んみ、懺悔を多く含んだ、苦痛にも見えるものだった。
神は、人々の前では堂々と、神としての威厳を保ち続けなければならない。
日本各地で信仰の対象になりうる神の偶像は、いずれも堂々としたものだ。
だが…………。
神格を持つもの達にも意思があって、気分がある。
ことに、誰にも相手にされず、その本意にも関わらず人間に疎まれてしまう死神という職業にもあれば。
それでも多分、この神様だって、笑えるときは笑えるのだろう。
逆に、それぐらいの権利はあってもらいたいものだ。
人間らしく、とまではいかないが、そこはそれ。
この神様だって『神様らしく』自分の意思を持っている筈だ。
不思議な感覚だが、今この瞬間、勘助はそれを知った。
「……なら神さん。」
『何だ。』
「また、こっちへ寄ってください。」
―――今度は用事じゃなく、純粋に客として。
そんな意思を含んでの言葉。
多くを語らずとも、気とやらが伝えてくれるだろう。
少なくとも俺は、あんたに感謝してんだ。
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その言葉を聞いて、土地神様は一瞬ギョッとしたようだったが、すぐにもとの真顔に戻り、
『あのな。
我は貴様らには疫病神なのだぞ…………』
と呟いて「頭痛がする」と云った風に頭を押さえた。
―――全く、こいつのお人好しは一体どこまで………
「ええ、わかってますよ。
でも、疫病神とはうまいことやって行きたいじゃないですか。」
冗談まじり、というのがもっとも適切な勘助のトーン。
もちろん、疫病神だなんてこれっぽっちも思っちゃいない。
自分達のためにこうまでしてくれる神様を、どうして邪険にできようか。
そんな意思も、全て気を通して伝わっていただろうか。
『……………。
いい馬だ。』
勘助と目を逸らし、トシローの鼻面を再び撫でた土地神様。
急な話の転換と、相変わらずの無表情で、勘助にはそれが今何を思うのかはわからない。
ただひとつ、その言葉が世辞ではないことはわかる。
「でしょう!」
だから勘助も、自信満々に返事してやった。
それを見て神様はフッと笑い、
再び身とマントを翻して、森へと体を向けた。
『……ではそろそろ帰るとしようか。
………トシローとやら。
また併せ馬でも興じようではないか。』
「ぶひゅひゅん!」
心底嬉しそうに嘶いたトシロー。
それに笑みで返事をした神様は
『それと……「さぷらいず」とやらの成功を成功を祈っておるぞ。勘助とやら。』
と、勘助に踵を飛ばし、
『では。』
そう言い残して、歩き始めた。
(ありがとう………)
勘助は何も言わず、森に消え行く土地神様に深々とお辞儀をし続けた。
―――――――――――
神様の姿が見えなくなって、顔をあげた勘助は
「………神様に祈られたんじゃあ失敗できないな。」
と、トシローと顔を合わせて、は苦笑した。
「ぶふっ。」
地面を見つめて、前掻きを始めたトシロー。
ふと思い出したことがある。
「あのときお前………併せ馬してたんだな、神様と。」
なんと豪華な調教だこと。
道理でいつもと違ってなにかと競り合っているように見えたものだ。
「ひゅっひゅーん。」
得意気に嘶くトシロー。
――人間かお前は。と苦笑した勘助は
彼の首をポンポンと叩き、
「あとにも先にも、神様と併せ馬した馬なんて、お前ぐらいなものだよ。」
と、笑った。
晴れ渡る空に一筋の雲。
――天皇賞が、2日後に迫っていた。
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――――――――――――
『…………一番ゲートにラピュタインザスカイが収まりまして、
残すところあと一頭、日経賞の勝ち馬カザハネが一六番ゲートに収まりますと態勢完了です。』
タンスの上に置かれた一六インチの小型液晶テレビは、
ゼッケン一六番の馬がゲートにはいるのを嫌がる姿を映し出している。
『カザハネがちょっとゲート入りを嫌がっておりましたが………
今入りました、枠入り完了!
ミツアキインパクトの、ワールドクロックスの待つ宝塚記念へ、
そして、その先に見えるロンシャン凱旋門へ!
芦毛の怪物の逃走劇、天皇賞春!
今スタートしました!!』
ゲートから馬たちが一斉に飛び出す。
そんななか、灰色の馬体をした一頭だけが、まるで弾丸が弾けるように前に出ていった。
『ザラスシュトラは最高のスタート、最高のスタートを切りました!
さぁ、スタート直後から川口が激しく追っている!
リードを二馬身三馬身取りましたザラスシュトラ。
華麗なる逃亡劇が始まります!
離れて二番手追走はウィルノウェム関東馬、さらにその外トゥザヒストリーはトゥザグローリー産駒、
一馬身切れてソーカイ、父ゴーカイと、初の親障害からの子平地G1制覇なるかといったところで第三コーナーの坂を上って行きます……………』
テレビ脇のスピーカーから延々と流れる実況の声は、
荷物をまとめられ、タンスとベッドの他には何もない、がらんどうのようになった秋華の部屋を虚しく駆け回る。
「……………。」
無言のままシャツやらズボンやら下着やらをボストンバックに詰める秋華。
『…………さぁ、ホームストレッチ!
早くも、早くもザラスシュトラが大逃げの態勢か!そのリードは10馬身といったところ、千メートル通過は60秒ジャスト!
早くも遅くもありません!
後続はどうした、これがザラスシュトラのペースマジックか!…………』
三日前まであんなに興味のあった競馬なのに。
見るのが楽しくて仕方なかった競馬なのに。
いつかトシちゃんがここを走ると思うと嬉しくって堪らなかった競馬場の風景なのに。
………ここを出ていく決心をした今となっては、その実況すらもはやただのBGMにしか感じられない。
『………大きく遅れて一六番カザハネがシンガリ追走です。』
秋華は、ふと手を止めてテレビを見た。
さっきゲート入りを嫌がっていたあの馬が、ポツリと一頭取り残されている。
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「置いてけぼりか………。」
遥か前で人々の喝采を受けながら走るザラスシュトラを見て、
自らはついていけない状況にヤジを飛ばされながら走って、
その末にこの馬は一体何を思うだろう?
ザラスシュトラにカメラが移ったテレビ画面をボーッと見つめながら、秋華は思った。
置いてけぼりを食らうほどに能力のない自分を責めるのか。
自分を置いてけぼりにした相手を恨むのか。
……普通の精神状態なら。
当然その答えは前者だろう。
能力の無いものはただ消え行くのみ。
勝負事の世界には必然のこと。
競馬だろうが競輪だろうが、野球だろうがサッカーだろうがそれは同じこと。
敗者は去りゆき、勝者は進みゆく。
ただそれが繰り返されるだけの世界。
だが、今の秋華にはその考えを肯定するだけの余裕はなかった。
知らず知らずの間に勘助においてけぼりを食らって。
その上彼は見えないところまで一人で突っ走っていってしまって。
そして、自分は追い付くことは愚か、気を引くことすら出来ない。
回りを気にせず、ただ突っ走ってゆく、彼女のなかの彼女の勘助。
後方で息を切らし、もはや同じポジションで走っていた馬にすらついていけない一六番の馬。
『ザラスシュトラが軽快に飛ばす!リードはもう二十馬身、しかし、流石に早いペースになり始めました…………』
実況はもう、一六番の馬は存在しないかのようにザラスシュトラの独走と、その後方の二番手の攻防の模様を早口に伝える。
ゴチャゴチャに纏まった馬群から見ても、
一六番の馬はあまりにも遅く、非力で、やる気にも事欠けているように見えた。
「可哀想…………」
―――何が可哀想なのかは解らない。
でも、あの馬は今の私に似ている気がする。
勘助さんにおいてけぼりを食らって。
謝りに来てくれるのを待って。
でも、この二日間なんの音沙汰もなくて。
ドア一枚、壁数枚に囲まれたこの空間で。
私はただ、勘助さんの気がこちらに向くのを待っていた。
一六番の馬が、他の馬が落ちてくるのを待つかのように。
でも……………
本当に、なんにも言ってこなかった。
謝罪はおろか、話すらしようとしなかった。
弁明を、試みなかった。
それはもはや、無言の肯定…………
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前座(勘助、浮気編)
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「もう……………
私のことなんかどうでもいいんだ。きっと…………」
ふふ………と息をはくように笑った秋華の頬の上を、水滴がすうっと綺麗に駆け落ちる。
そしてそれと重なるように、ただ一頭三コーナーの坂を駆け降りてゆくザラスシュトラ…………
『三コーナーから四コーナへ!
ザラスシュトラの脚が止まらないぞ!?
もう残り八百しかないが、いまだにザラスシュトラのリードは15馬身と開いている!
後続勢もようやく追い出しにかかったか!外捲って行ったのはトゥザヒストリー、鞍上エルピィが必死に追うが、内からそれを交わして伸びてゆくラピュタインザスカイ、しかし、そんな喧騒も遥か前のザラスシュトラには関わりのないことか、
芦毛の怪物が残り六百の標識を通過した!』
―――一六番の馬は。
後続が映った時、彼女はその馬の姿を探した。
ひょっとしたらあるいはあそこから伸びるかもしれない。
ザラスシュトラは捉えられなくても、他の馬と同じラインに立てるくらいは。
そう思って彼女は必死にその馬の姿を探した。
だが……………
『……後方からはトウカイテリトリーがいい脚で二番手集団へ!
そしてシンガリ一六番のカザハネは三コーナー手前で競走を中止しています――――』
もう、走ることをやめていた。
「あ……………」
だめだ。
私はもう、だめだ。
『さぁ、ザラスシュトラが最後の直線に帰ってきました!
場内からはものすごい歓声!
先頭はザラスシュトラ!
先頭はザラスシュトラ!
鞍上川口はまだ持ったまま、そのリードはいまだに十馬身ほどもあるぞ!?
二番手集団からはトゥザヒストリーとラピュタインザスカイが好位から怪物の首を窺うが!
ようやく追い出しにかかったザラスシュトラと川口!
リードは七馬身と詰まったが!
ザラスシュトラはまだ伸びるッ!』
―――もう、いいじゃない。
誰も、先を突っ走るあの子には追い付けない。
誰がどれだけ追っかけても、あの子にとっては同じこと。
自分一人の世界を貫き通して、自分一人のままゴールする。
ザラスシュトラは…………
勘助さんは………………
『鞭が入ったザラスシュトラ!
残り二百!
これはもはや、逃げではない!
前を行く三冠馬!横に並ぶ宮記念馬!
それらをまとめて交わすための
いわばDemonstration!
その名を世界に轟かすための―――――』
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きゅーっ、とチャックの閉まる音がして。
彼女の、この家を出ていく準備が完了した。
「…………よし。」
濡れた頬を拭いつつ、すっくと立ち上がる。
手に大きなボストンバックを2つ持ちながら。
『ザラスシュトラだ!
ザラスシュトラだ!
川口は既にガッツポーズ!
強い強い強いザラスシュトラが今一着でゴーールイーーーン!!
何が一強だ!何が最強だ!
青雲の京都は、ターフを真っ赤に燃え上がらせたザラスシュトラ!
芦毛最後の怪物がここ京都の天皇賞で見事にG1制覇!
難所と名高いここ京都の3200も、難なくまんまと逃げ切りました!
勝ったのはザラスシュ――』
ぶちん。
リモコンの右上、赤いボタンが彼女の細い指に押されて、
テレビは言葉を失い、顔を黒くした。
沈黙したテレビの前に、丁寧にリモコンをおいた彼女は、
両手を広げて深呼吸をした。
勘助の母の香りが、肺を充満する。
「ふぅ…………。」
部屋を見返してみる。
(…………思えば、
そんなに長くなかったな………。)
ここへ転がり込んだのが去年の秋。
以来、今までに感じたことがなかった、ゆとりを持った生活をここで送ってきて、
今は初夏。
たった半年のことではあったが、彼女には二年にも三年にも感じられる、長い時間であった。
「もう少し………
いられるとよかったな…………」
まだ芝山も病に臥せっている。
本当は今出ていくなんてあり得ない。
それに今だって、勘助を思う気持ちに嘘偽りはない。
だが、勘助が自分に興味を示さなくなった以上は。
―――いや、自分にそれだけの魅力がなくなった以上は。
出ていかねばなるまい。
ここを。
勘助のためにも。
自分のためにも。
「お世話に……………なり…………ました。」
部屋のドアの前、立ち尽くした彼女は、『居場所』だったこの部屋に、深々と頭を下げた。
勘助、芝山、トシロー、バルク、秀馬、桜花、古川………
自分に関わった、すべての人に、礼を尽くして。
感謝をこめて。
愛をこめて。
「…………………。」
一通りの時間が過ぎ、
彼女は顔をあげた。
その表情は、意外にも晴れやかなものだった。
「…………よしっ!
じゃあ、行きますか!」
彼女は、自らの尊厳を守るべく、ドアに向かって歩いた。
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ドアノブに手をかけて、それをくるりと回す。
ガチャリ、と乾いた音が鼓膜にさざ波をたてる。
このドアを押し出したら最後。
もう後戻りはできない。
「………いいの。もう。」
覚悟を口にして、それを勘助への慕情と共に吐き出すつもりで。
彼女は、とうとうそれを前に押し出した―――――――――――!
ガツン。
「?」
あれ?
開かない……………。
(´ω`)?
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秋華の思考は、約一分ほど停止した。
「押して………開かない?
………ドアなのに?」
思わず口に出してしまうほど、彼女は動揺していた。
―――ドアは…………
前に押したら開くもんじゃ…………
「……………。」
とりあえず、気を取り直してもう一度………。
(ドアノブを、回す。)
ガチャリと音がした。
(押す!)
ガツン!
―――やっぱり開かないぃ!
「ちょ!何!?何なの!?」
押そうが引こうがびくともしないドア。
しまい彼女は、荷物を放り出し、全身を使ってタックルを試みたが………。
―――バァァン!
「痛っ!」
肩が痛くなっただけで、やはりドアはびくともしなかった。
「何で!?何でよ!?
ちょっと、誰か!
開けて!開けてよ!」
激しくドアを押し引きしながら、半狂乱といった感じで脱出を試みる秋華。
が、やはりドアは動く気配すら見せず、叩いてみても無機質なゴンゴンという音を返すだけで………
「ちょっ………助けて!
ここから出して!」
返事は相変わらず、ドアの出すゴンゴンという音ばかり。
(そうだ携帯―――!)
彼女は急ぎポケットから携帯を取りだし、電話帳を見た。
が。
(勘助さんと………桜花さんしかない………)
桜花は頼るには遠すぎるし、勘助に掛けたのでは意味がない。
「……………。
ばかあっ!」
携帯を放り投げた彼女は、三度、タックルを試みた。
「お願いだから開いてっ!」
が、当然手に入れたのは肩の痛みだけ…………。
とうとう彼女は力尽きて、はぁはぁと肩で息をしながら、膝から崩れ落ちた。
開かない………
開けられるのは勘助だけ………
かといって仮に勘助に開けてもらったところで、
部屋を見られたら、出ていくのがバレてしまう。
それは、最悪だ。
「うぅ……………開いてよぉ……………」
頭の上に位置するドアノブを、押したり引いたりしながら、彼女はとうとう泣き出してしまった。
「開けてよぉ………開けてってば………ひっく。」
時間がたてば、未練が生まれてしまう。
………決心が鈍ってしまう。
勘助さんと居たくなる………!
だから、お願いだから―――――
「ここから出してっ!!!」
絶叫。
その家全体に、響き渡るほどの――――
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「じゃあさ…………」
「!?」
コンクリートの壁一枚の向こう。
勘助の部屋から声が聞こえた。
それも、かなりはっきりとした、声。
「かんっ………」
「何で、俺の名前呼ぼうとか思わないわけ?」
若干怒ったような声で、勘助とおぼしき声が訊く。
「それ、は……………。」
返事をできるはずもなく。
暫し間を置いてから、
向こうからはため息が聞こえてきた。
「…………まぁ、いいや。
話もゆっくりしたいし、
今からそっちいくから。」
……………えっ?
「い、行くってどうやって――――」
「それは、お楽しみだ。
とりあえず、壁から離れてろよ………。」
「か、壁っ!?」
ドアじゃなくて?
秋華の心を、一抹の不安がよぎる。
「か、か、か、勘助さん、いったいなにする気―――」
ギュイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイン!
何かが高速で回転する音。
「ひっ!?」
あまりに機械的なその音に、秋華は後ろに飛び仰け反った。
鍵を開けだけにのにこんな大きな音がする訳がない…………!
か、壁の向こうでいったい何が――――
「退いてろよ!秋華ぁっ!」
「ふぇっ!?」
壁の向こうの勘助が叫んだ次の瞬間、
機関銃を耳元で連射したような爆音と、
マグニチュード6かと思うほどの地鳴りと、
勘助の「でぇりゃあああああっ!!」という発狂したような叫びと、
突如として壁から吹き出した土煙で、
秋華の五感は一時的に失われた。
ドガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ!
「崩れちまぇっ!心の壁ぇぇぇぇ――――」
「何!?何!?」
頭を抱え、耳を塞ぎ、三角座りで反射的な防御の体制をとる秋華。
その間も、絶え間なく続く地鳴りと爆音と土煙。
(何なのよぉ!これっ!)
ただただ何も見えぬまま、
また、(勘助の馬鹿さ加減を)見ようともせず
聞こうともせず、
ただ頭を抱えてその場の恐怖を耐え抜こうとした。
そしてそれは、永遠に続くのではないかと思うほどに長かった。
何せ情報が何も入ってこないのである。
ただ判ることは、
勘助がいつものような冷静さを失い、
半ば自棄っぱちになりながら、
何か機械を使って、
何かを崩しているということ。
「鍵開けるだけでいいでしょっ!?」
秋華も、半狂乱だった。
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………………!
……………。
…………。
そして、一通り時間が過ぎ。
――それらすべてが止んだ時。
「秋華………………」
誰かが秋華の肩をポン、と叩いた。
「ひっ!?」
恐る恐る秋華が顔を上げるとそこには―――
「はい、お待たせ。」
「かん、勘助さ――――」
―――タンクトップに鳶服を着、ヘルメットを深々と被り(ずれていただけかもしれない)、肩には大型の破コンクリート専用ドリルを担いだ勘助が、
明らかに暴力的に崩れ去ったと思われる、秋華の部屋と勘助の部屋を隔てていた壁をバックに、
笑顔で立っていた。
「――サプライズ第一弾!」
「さ、サプライズって……」
何の?
秋華は疑問を持たざるを得なかった。
今日、何か行事があっただろうか?
天皇賞ぐらいしか覚えていないけど………
「何の………サプライズ?」
額に安全第一の文字が眩しく光る勘助に、彼女はこれまた恐る恐る聞いた。
何の意味もない日にサプライズと言われても………
それを聞いた勘助は「へっ?」と一瞬キョトンとした後、少し何かを考えたような様子を見せ、
そのあと、大笑いした。
「―――なるほどな!
道理で浮気だのなんだの言われるわけだ!
はっはっは――――」
あー可笑しい!と腹を抱えて笑う勘助。
秋華は少しムッとして、
「そんな今更………」
と呟いた。
「だって………他の女と親しそうに…………」
「――――いやー、面白いね、人の勘違いって!」
コンクリートの破片が散乱する床の上で、勘助はよっこいしょ………と、あぐらをかいて座った。
首掛けタオルで汗を拭く。
「勘違い?」
秋華は眉を潜める。
―――今更弁明だなんて。
………許さないんだから。
「おっ?
『また嘘ついてやがる』って顔だな?そりゃ。」
いつになく能天気な勘助。
正直こんな勘助を秋華は初めて見た。
コンクリート崩しがよほど楽しかったのか………
「ま、いいや。
百聞は一見にしかず。
とりあえず、ついて来い。」
勘助は再び立ち上がって、
秋華に手を差し出した。
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しかし彼女は、その手を取ろうとしない。
「……………。」
「どうした?行くぞ、ほら………」
さらに前へと手を差し出す勘助。
「………行きません。」
「………何で。」
「……………。
私、ここ出ていきますから。」
秋華はキッパリ言った。
――もう、決めたから。
振り回されたくないから。
それを聞いた勘助は、「またか……」と頭をかいた。
秋華は、その態度に心底腹が立ったが、
まぁ、最後に弁明しようとしてくれたわけだし、ま、いっか。と心を静めて、本当に最後のつもりでこう言った。
「――もういいです勘助さん。
半年間、お世話になりました。
あなたと過ごしたこの期間、一生忘れま――――」
「――――このボケッ!!」
刹那、勘助はヘルメットを地面に叩きつけた。
「!?」
一変した勘助の表情。
笑みなど欠片もない。
「かん………」
「―――さっきから聞いてりゃ、何だ?
好き放題言いやがって!
あー、そうかそうかそうですか!
半年間も一緒におって、俺が女にモテるかモテないかもわからんのかお前は!
言っとくがな、俺は浮気なんぞしたことないぞ!?」
「えっ………」
水に打たれたような秋華。
勘助のド剣幕は続く。
「それになぁ、仮にするにしても馬房で電話掛けたりするようなヘマは絶対にせんぞ。
半年おったら俺の慎重性ぐらいわからんか!?
それに、何だ?
作業着でデート行く奴がこの世におるか?
札幌の時計台を作業着で女とうろつく奴を見たことがあるかって!
それになぁ、誰が軽トラで、しかも寝ワラやら馬糞やらが満載の軽トラで、
女に会いに行くってんだ?
すぐにフラれるわ!
………って、そんなことが言いたいんじゃなくて!
だからな?今から俺が浮気なんざしてないってことを証明するから、
いいからついてこい!」
「いや――――」
「―――引きずってでも連れていくぞこの野郎!!!」
次の瞬間、秋華は勘助に思いっきり腕を掴まれて持ち上げられ、
文字通り『引き摺られて』いった。
「ちょっ………勘助さん!
痛い!」
秋華も必死にもがくが、勘助の力は以外にもかなり強靭なものだった。
「………………。」
無言のまま、瓦礫を蹴散らし勘助の部屋から廊下に出、
そこから階段を降りて玄関に向かう。
「ちょっ………勘助さん、どこへ――――」
「―――黙って着いてこい!」
「!」
勘助の目が、本気を告げていた。
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「痛い!痛いってば!」
「五月蝿い!」
廊下を通過し、
段差を飛び降りて靴の散乱する玄関に到達した勘助と秋華。
それでもなお、勘助は前進を続ける。
足は靴下。
まだ、昨日の雨も残っている地面。
まさかこのまま外に出るつもりじゃ…………
「ちょっと勘助さん!
く、靴っ!」
秋華はなんとか自分のブーツに足をかけようとしながら勘助に叫んだが、
そんな彼女の忠告もむなしく、
案の定彼は扉に手をかけそれを思いっきり横にスライドさせて…………
「これが……
俺の浮気の正体じゃ!」
次の瞬間、彼女の体は激痛と共に、豪快なまでに外の世界に放り出された。
水溜まりの反射光がフラッシュのような効果を生み出す。
そして、見事その上に着地した彼女の靴下を、
柔らかい冷たい水が染み込む。
「ひゃっ!冷た…………
って
………………………。」
目の前に現れたのは、なんとも異様な光景だった。
「………何してるんです?
こんなとこで…………」
大型トラックを背に、
何やらケーキのようなものが乗った円卓テーブルを囲んで、
秀馬と車イスの芝山が、
まるで永遠に待てをさせられている犬ような目をして、震えながらそこに座っていたのだ。
「勘助くん………空腹だ。」
充血した目を、秋華の背中にいる勘助に向けた秀馬。
「なぁ、後生や、坊っちゃん。
頼むから、ホンマ先食べへん?
今朝からなんも食うてへんねんけど………」
かたや哀願する芝山。
ケーキを中心に、北海道名産が並ぶ円卓テーブル。
そして、その軸たるケーキは、ろうそくから火を吹いていた。
「か、勘助さん、
これは一体…………」
秋華が急ぎ振り返ると、
「まだわかんねぇかな……」
渋そうな顔をしていつも通りに頭をかき、そう呟いた彼は、
「これでも気づかないのか……」とかぶつくさ言いながら、
かったるそうに嫌そうにポケットに手を突っ込んでそこから三角形の丸い筒を取りだし、
それを秋華の顔の手前に持ってきて…………
「――サプライズ第二弾。」
「ふぇ?」
パァァァァン!
乾いた音が山本牧場に鳴り響いて、
仄かな火薬の香りと共に
彼女の目の前を、紙吹雪が舞った。
「えっ…………?」
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「秋華。」
「はい……………。」
「誕生日おめでとう。」
「…………………!」
その時の秋華の頭は、
白いペンキをドラム缶ごとひっくり返したような感じだった。
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「たん………じょうび?」
随分長い間聞かなかった言葉。
孤児院を、『お父さん』の下を離されてから、
祝われたことのない日。
あの地獄のような環境のなか、
自分自身
もうすでに覚えのない日……………。
「―――4月の30日。
………だよな?」
念押しする風でもなく、半ば確信の籠った感じで彼は聞いた。
さっきまでの鬼のように険しかった形相を、一気に崩して柔らかな表情をした勘助。
未だにさっきの土煙が身体中にまとわりついていて、まるで雪を被ったよう。
手には、紙が焦げてびろんびろんになったクラッカー。
その裏にある手のひらには、明らかにカッターで切ったと思われる切り傷が隠れているのが見えた。
(勘助さん………)
少しずつ頭に色が戻る。
再び、気配りの行き届いた円卓を眺めて、彼女は呆然とした。
「じゃあ………
ずっとこれを………
準備してたんですか……」
ケーキも、オードブルも、装飾も。
芝山専用焼酎『二階堂』も。
見事なまでに完璧に用意された、パーティーグッズ。
ケーキの上には、『HAPPY・BIRTHDAY・AKINA』の文字。
そして、少ないながら集まった友人と家族。
「まあ、秀馬さんに手伝ってもらって。
……その、もしかしたらやったことないんじゃないかなと思って。こんな感じのパーティーとか。
でも普通にやったら面白くないかなぁとも思って。
それでちょっと極秘に………
ま、結局5人しか集まらなくて、寂しい感じになっちまったけどな……ハハ」
苦笑いの勘助。
「五人…………?」
――私と、勘助さんと、芝さんと、秀馬さん……………
その他回りを見渡すが、人影は見当たらない。
「四人じゃ…………」
そんな揚げ足とりしかできない自分を忌みながらも、彼女は勘助に聞いた。
すると勘助は、
ふふん
と笑い、奥手に見えるトラックに向かって手を挙げて合図をした(そのように見えた)。
すると、返事のように、トラックのハザードランプが二度光り、
ウイィィ………という機械音と共に、
何やら後ろの扉がゆっくりと降り始めた。
「……………?」
「まあ、見てなって。」
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そのリフトが下に降りてゆくにつれ、次第と中が見えてくると、
何か黒いものがうごめいている様がわかってきた。
「――そんで、これがサプライズ第三弾―――」
リフトが地面につき、コンテナの中に光が射し、
中身が露になる。
「……………!?
勘助さん…………
これって……………」
秋華は自分の目を疑った。
そのコンテナの中に繋がれて、
鎖をガチャガチャ鳴らして暴れているのは
―――なんと馬だった。
「―――これが、
誕生日プレゼント。
シューカアゲイン号
牝馬六歳!」
「………………!」
芦毛の、年を経て真っ白になった馬体が日に照らされて眩しく光る。
そしてその光は再び、彼女の頭を白く染め上げた。
「これが…………。」
手から一切の力が抜けてゆく。
………プレゼント?
想像もつかなかった言葉。
―――これが、本当に誕生日プレゼント………なら。
彼女は瞬間、勘助の電話の内容を思い出していた。
『明後日でないと困る、
秋華にバレるとマズい。』
―――サプライズプレゼントだから。
『馬房だとバレる』
―――馬だから。
『都合が悪い』
―――言うまでもなく……………。
疑念というパズルの土台に、真実というピースがはまり始める。
「あ………………。」
彼女の足は、自然とそのプレゼント―――白馬の方向へと進んでいった。
口許に微笑を浮かべて勘助がそれに続く。
そして、車イスの芝山を押しながら、秀馬も一緒になって歩いた。
地面を引っ掻きに引っ掻いてなんとか鎖から逃れようとするシューカアゲイン。
見た感じ、あまり気性はよくないようで。
幾度となく跳ね上がるその馬体に、恐る恐る近づきながら、
彼女は最後その馬の額に手を触れた。
シューカアゲインの鼓動が手から伝わってくる。
一度どくんと響くたびに、心の壁にヒビが入る。
「………………。
何で………馬だったんですか………?」
本当は感謝を伝えたいのだが、
気持ちの整理がつかず、彼女の口は素直にならない。
そんな彼女の様子を察したか、勘助はゆっくり歩み寄って。
「―――秋華は知らないかもしれないけど、
この馬は俺と秋華を繋いでくれた馬なんだ。」
「えっ……………?」
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勘助は、秋華の反対側からシューカアゲインの馬体を撫でる。
「………あの知床の雨の日、俺は神様に願掛けをしたんだ。
もし『秋華』の名を持つこいつが、
こいつが勝ったら、
その時は秋華は丘の向こうから帰して来てください、ってな。」
「……………。」
「―――ま、それは結局神様のイタズラだったり、策略だったりしたんだが。
でもあの時、秋華を追う勇気が出たのは紛れもなくこの馬のお陰だった…………
そんなわけで、第一回の誕生日プレゼントはこいつなんだ。
それに…………せっかく秋華が最近競馬を好きになってくれて、馬を生産してみたいって思うようになってくれたのに、
うちの牧場は繁殖牝馬がいなくて………
つまらなそうにしてただろ?実際。
だから馬なんだ。
…………どうだ。
気に入ったか?」
「……………。」
気に入るも入らないもない。
思い出と思いやりが詰まった最高のプレゼント。
切れそうだったこの牧場と自分を、今この瞬間確りと繋ぎ止めてくれた、最高のプレゼント。
勘助の優しさを踏みにじっていた自分を、まるで抱擁するかのように包み込む、
遥かに想像以上の優しさ。
あの雨の日のこと―――忘れていたあの日のこと。
自分の知らなかったあの日のこと。
いや、寧ろ思い返すこと自体が愚かだったと今思う。
またやってしまったのだ。
つまらない疑念で勘助を苦しめて。
自分は被害者のような立場をとって。
この二日間、どれだけ私に弁明したかったことだろうか。
誤解を解きたかっただろうか。
自分を疑る私の態度に、どれだけ苦しんだだろうか。
でもそれでも、勘助さんは耐えて今日の用意をしてくれた。
自惚れで無ければ、恐らく私のために。
ダメだ…………。
私はトシちゃんの売買契約のあの時から、なんにも変わってない。
駄々っ子のように勘助さんに甘えて、泣きわめいて、一人で拗ねて…………
これじゃただの構ってちゃんだ…………前と同じ。
支えてあげたいだなんて。
口だけなんだ。自分………
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「ごめんなさい……
やっぱり私、ここを出ます。」
場が瞬間凍りついた。
「「「………はっ?」」」
三者三様に男どもが驚きの表情を見せる。
勘助は馬引きロープを落とし。
秀馬はトレードマークのグラサンがずれ。
芝山はワンカップ大関を吹き出した。
「何言ってんの?」
「もう………自分のバカさ加減に耐えられない…………。
勘助さんへの甘えがある限り、私は………
多分、ずっと勘助さんを苦しめる…………。」
………永遠に続く自己嫌悪のループ。
またうつむき、下を見つめ始めた秋華。
「…………あのな、秋華。
………………。」
何を言っていいやらわからない勘助。
その行動自体が俺を苦しめてるんだ、と言ってやりたいが、
残念ながら彼には、理解が過ぎるあまりに彼女が言わんとするところもわかってしまう。
無論、出ていくなんてことを許すつもりは塵ほどもないが、
今この言葉を言ってしまうには、彼女はあまりに精神的に虚弱だった。
だから彼は
「お前な…………」
と頭をかくことしかできなかった。
そして、それを肯定ととってしまうのが今の秋華。
「ダメなんです、私は。
勘助さんみたいな人を前にすると、どうしても構って欲しくなって、駄々こねて、甘えて。
自分じゃいけないと思っていても、どうしてもやっちゃうんです。
それでも私は多分、人に甘えないと生きてけない。
…………でも、生まれのせいなんて言い訳は、できませんし………
だから、もう勘助さんに迷惑かけたくないから―――」
―――ええい、さっきから勝手ばっかり言いやがって。
それが迷惑だと思ってんのか?
お前は本当のバカか!?
聞いていられなくなって、黙ってもいられなった勘助。
「秋華!」
彼が声を荒げて彼女を諌めたそのとき。
「なんかダメなことなの?
それ。」
輪として涼やかな、女の声がした。
秋華がはっと顔をあげる。
勘助も声のする方を見た。
その女の後ろで、秀馬が頭を抱えているのが見えた。
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「えー、なになに、その顔は二人とも。私今日秋華ちゃんの誕生日って聞いたから楽しみにして来たのにナニコレ珍百景(笑)って感じなんだけど。普通誕生日ってもっと盛り上がってワイワイガヤガヤやりながら酒のんで焼き鳥食ってベロベロになるまではしゃぐって行事じゃないわけ?え?私だけ?あるわけねぇだろんなもん!プライスレス!的な?だってあたしの前の家なんか毎年誕生日になったら会社の重役とか役員とか三十人ぐらい来て祝いだ祝いだ!って酒やら肴やらを土産に持ってきてそれはもう豪勢な大宴会になったもんだけどねー。ひどいときには誕生日ケーキにイカの足が刺さってて、酔った副社長がそこに火をつけてボヤ騒ぎになって、誕生日プレゼントのWindows8がぶっ壊れちゃって、再び(笑)。その副社長次の日私に辞表持ってきて、家族全員で大笑いしたとかが思い出だなぁ~、って。その点行くと勘助っちの用意は完璧だよね~。私たちにはオードブルとかフルーツとかちゃんと用意してくれてる割に、男どものためにはしっかりと酒のアテを用意してんだもん。さきいかでしょ、貝ヒモでしょ、砂肝でしょ、堅焼きスルメでしょ、うるめでしょ、柿ピーでしょ。私の好きなもの全部揃ってるじゃん、あげぽよ!的な?マメなところ全開じゃん!いやー、いい彼氏持ったよね~、羨ましいわ秋華ちゃん。
で、なんの話だっけ?」
…………言うまでもなく、
桜花だった。
「………………バカが。」
額に手を当て、秀馬がうなだれる。
その場は沈黙だが、決して彼女の言葉が響いたからではない。
「「……………」」
唖然の芝山と勘助。
「お、桜花さん………?」
いつの間に………と秋華が言うのを待たず、
再び桜花のターンが始まった。
「こんちわー!秋華ちゃん!いやー、いっつもかわいいねっ!秋華ちゃんみたいな子が妹にいたらあたしの人生は多分薔薇色だわ、うん。
そんでさ。そんな秋華ちゃんが一体なんでそんな顔してんの?何を悩んでんの?右にお馬ちゃん、左に勘助っち、両手に花じゃない?何でそんな不幸そうな顔してんのよ?」
秀馬とお揃いのサングラスの向こう、決して秋華を責めている風でない笑顔が、黒のスーツに映える。
「それは――――」
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秋華が何かを言おうとしたが、桜花はそれを手で遮って続けた。
「まー、多分さ、優しい秋華ちゃんの事だから迷惑かかるとかなんとか言ってんだろうけどさ。
それってちょっと違うんじゃない?」
「…………?」
「だーってさ。女が男に甘えるのってさ。普通喜ぶべき特権じゃないの?わがまま言えるなんてさ、普通に考えりゃあ女にとって幸せじゃないの?
ほら、あたしみたいに相手に気にもされない人間がいるなかでさ………」
ギン、と秀馬を桜花が睨むのを秋華は見逃さなかった
(あわわ…………)
しかし、その後すぐに視線を秋華に戻した桜花は、笑顔に戻る。
「でさあ、秋華ちゃん。
この間うちに泊まりに来た時さ、いろんな話してくれたじゃん。子供の時の話とか、アイドル時代の話とかさー。」
泊まったとき、というのは、勘助出張の時のことである。
秋華が勘助宅に居候しているように、桜花も秀馬宅(ただし豪邸)に部屋を借りているので、勘助がいないときにそこへ預けたというのは先にかいた通り。
「その話聞いてるとさ、秋華ちゃんて本当に甘えることを知らずに生きてきたみたいだと思ってさ……
あたしはほら、養父母が優しかったからいくらでも甘えられたんだけどさ。
秋華ちゃんの養父じゃそんなことできなかったわけでしょう?
普通子供の時に体験すべき要素を知らずに生きてきたわけでしょ?違うかな?」
「………そう………です。」
「でしょ!?
じゃあさ。勘助っちっていう甘えられる要素を初めて手にいれられた秋華ちゃんがさ、
目一杯勘助っちに構ってもらって嬉しいのなんて、
当たり前じゃないかな?」
「え…………。」
「うん。それに、さ。
秋華ちゃんに構ってちゃんをやられたからって、
それをウザがる奴なんて、多分この世にいないんじゃない?
てか、少なくとも勘助っちは絶対に思わないじゃんか、そんなこと。
ね?勘助っち?
秋華ちゃん好きで好きでたまんないんでしょ?」
「なっ――――」
急に振られた上に、他人の前で言うにはあまりにも恥ずかしい事を聞かれた勘助の顔は、
まるで温度計の目盛が上昇するかのような形でみるみる紅潮した。
「それは………その……ちょっ、桜花さん!!」
「あははっ!
ほら~、顔に図星って書いてるじゃん!」
けらけら笑う桜花。
「ちょ………何を………!」
「……………。」
なんだか、言われる秋華自身も恥ずかしくなって、目を伏せた。
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「甘えてやんなよ、秋華ちゃん。
…………いや、もしくは
いっぱいわがまま言って、精一杯困らせてやったらいいんだって。
勘助っちだって、それに付き合うのが楽しいから秋華ちゃんと付き合ってんじゃん?
………だからあんな痴話喧嘩してても、当初の予定続行してこんなすんごいパーティーの用意つづけてんだよ、ね?」
桜花が勘助に詰めより、肩をガシッと掴んだ。
まるでズゴックがジムを貫くかのように彼女のネイルが肩に食い込む。
「ね!?勘助っち?」
「―――そう!
そのとおり、そう!」
涙目の勘助。
その様子を見た彼女は一度
ニッ、と勘助に笑みを見せて
バッ、と手を離し
サッ、と秋華を見て曰く、
「それに、もうあんたら夫婦みたいなもんなんだし。
いちいち迷惑だなんだこだわるような仲でもないっしょ?
だったらさ、気楽にやりなって。
秋華ちゃんは甘えるだけ甘えたらいいし、迷惑かけるだけかけたらいい。
そしたら勘助っちは、気の済むまでそれに付き合ってくれんだから。ね?
あんたたちみたいにお似合いのカップル他のどこ見ても見つかんないしさ。
もっと気長にやりなって。
………ね?秋華ちゃん。」
「……………。」
「結論焦りすぎだって。
今回の事は秋華ちゃんの勘違い!
でも勘助っちはそれを許している!
もう、それでいいじゃん?
ね?」
「でも………」
「――いや、桜花さんの言う通り、ほんとにそれでいいから、秋華。
今回のことだって俺ぁそんなに怒ってねぇし、傷ついてもない。
お前が思うほど事態は深刻じゃないって。
むしろ、今お前が出ていく方が俺はヘコむぞ。かなり。いや、死んじゃうかも。
だから、な?
出ていくとかワケわからんこと言わずにホラ………」
シューカアゲインを繋いだ綱を、彼は秋華に差し出した。
「勘助さん………」
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「これだけ用意させといて、『出ていくから中止』は無しだろ?
見ろって、ほら。
こんなところで時間食うから…………
せっかく作った鮭鍋が沸騰して吹き零れて………オードブルに………かかって……………
ぎゃあああああああっ!?」
鍋がカタカタと揺れて泡を吹いていた。
「やべ、鮭味の唐揚げなんて食いたくねぇし!」
カセットコンロに向かってダッシュの勘助。
ただしその際、シューカアゲインを繋ぐ綱をしっかりと秋華に押し付けて。
「あ…………。」
手元に握ったロンギを見つめて、それの繋がる先にいるシューカアゲインを見る。
相変わらず落ち着きなく暴れまわるシューカアゲイン。
「――この馬さ、苦労したんだよ?手に入れるの………」
桜花が苦笑いしながらシューカアゲインの馬体に触れる。
「…………?」
「この馬の馬主が、それはそれはゲスな奴でさ。人間の最底辺な奴でさ。ゴミクズの下っぱみたいな奴でさ。
あー、今思い出しても腹立つわ。地方の条件馬で血統もはっきり言って悪い………父オグリワンだし、母方も目立った馬はいないし………
そんな馬が、引退するって言ったら普通行き付く先は精肉所じゃない?悲しいけど…………
そんな馬をさ、勘助っちみたいな馬産が引き取ってくれて生産に使ってくれるって言ったら普通は嬉しいもんじゃない?
でもね……あのクズ馬主、勘助っちが譲ってくれって頼みに行ったらなんてったと思う?
どのみち繁殖に上げる気もないくせに、『一千万なら考えてやる』って言い出してさ。
当然そんな金あるわけないじゃん?
だから、勘助っちそう言ったわけ。丁寧に頼み込みながらね。
そしたらその馬主は………
『犬の真似して三回回ってワンと吠えたら譲ってやる』、って言いやがってさ。
普通はそんな条件呑めるわけないじゃない?
そんな古典的でバカらしい手法………
当然私は勘助っちに言ったよ。『他を当たるべきだ』ってさ。
そんな恥を被る必要なんて無いって………
……でもね、秋華ちゃん。」
彼女の言葉はそこで一旦途切れた。
カセットコンロと格闘する勘助を遠い目で見ながら、桜花は切なく微笑む。
秀馬も腕を組んで目を伏せた。
「………ここにこの馬は確かにいるんだ。
勘助っちは…………。
それは見事だったよ。
それも全部、秋華ちゃんのため。
あんなイイ男は、世界のどこ探してもいない。」
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――言葉が出なかった。
反応ができなかった。
桜花の言葉の半分以上はもう、頭から抜け落ちていた。
三度回転して吠える勘助の姿が何度も脳裏で再生される。
自分のために恥を捨てる姿が。
プライドを無にして戦う姿が。
時間を経るごとに苦しくなる胸。
「わ……たし……は………」
―――どうしたらいいの?
そんな目で桜花を見た。
―――苦しい。苦しい苦しい。
そこまでしてくれる勘助を一度でも疑ったことが―――
そんな秋華の目使いをやんわりと受け止めた桜花は、彼女の頬を両手の平で包み込み、
「とりあえず、ね?
今日は祝われなよ。
そんな思いまでして、勘助っちがせっかく用意してくれたんだよ?
今は、祝われて楽しそうにするのが秋華ちゃんの仕事。
ね?」
そう言って、優しく微笑む桜花。
「――――」
目の前を霧に包まれた秋華は、
まるで、いるはずのない姉に包まれるか、見たことの無い母にすがるかというぐらいの感覚で、桜花に抱きついた。
「…………秋華ちゃん?」
そう言ったものの、たいして驚く様子もない桜花。
「―――ちょっとだけ。
泣かないから、こうしていて…………」
姉か母か。
味わったことの無い感覚を手に入れようと、彼女は『甘え』を持って桜花に寄りかかったが………
ふぅ、とため息をついた桜花は彼女の両肩を
「だーめ。」
と押し返した。
「!?」
「だから、さっきから言ってるじゃん?
甘えるべきは、あっち。」
「え……………」
桜花の指した指の向こうには、勘助。
「勘助さん…………」
「ほらほら、定位置でしょうが、秋華ちゃんの。
『一番センター赤星』より鉄板の守備位置、
勘助っちの胸のなか!」
ポン、と桜花が背中を押す。
若干弾かれるように秋華が前につんのめる。
「でも――――」
「くどい!」
満点の笑顔で叫んだ桜花は、シューカアゲインの尻をぺちんと叩いた。
「ヒィン!?」
ビックリしたシューカアゲインは尻っ跳ねをし、それからそのトラックから直線上の先にいる勘助めがけて突進する。
「わわわ!?」
綱を持っていた秋華はそれにつられて勘助の方へと引っ張られる。
「わーっ!ちょっと、止まって!止まって!
あっ!?ちょっ!?
勘助さん危なーーー………」
「――えっ?
どわっ!!」
…………………。
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――――――――――
「ふふ………」
初めて見たときのように、仲良く暴れる秋華と勘助(と、シューカアゲイン)を遠目で見ながら、桜花は微笑んだ。
あの子達は、あああるべき。
ハキハキした秋華と、それに振り回される勘助。
その関係がなんとも絶妙なバランスの上に成り立っている姿、
それがあの子達の本来の姿。
しんみりしてるのは、似合わないよ。うん。たぶん。
春風に吹かれ、『しんみりと』そんなことを考えていたさなか。
彼女の肩に後ろから手が乗った。
「怒濤の展開だったね。
若秘書、登場からまだ五ページだよ。」
トラックの奥、光の届かない暗闇から現れたのは、四十代後半の細身の男だった。ただし、筋骨は隆々。
………その深い渋い声を聞いた桜花は、振り返らずにため息をついてこう言った。
「その『若秘書』ってのは止めてください、柴名さん。
いくら秀馬……若社長が『若社長』って呼ばれてるからって、その呼び名は無いでしょ………。」
すると『柴名』と呼ばれた男はふふと笑い、
「若社長に若秘書。
ふふん。
………早く結ばれるといいよね、君ら。」
と、悪戯っぽく言った。
「ばっ……なっ………!」
顔を真っ赤にして振り返る桜花。
その存在をハナから知っていたことではあるが、その視線の先には
元JRA騎手、柴名大地の姿があった。
「さて………
そろそろあの子達に紹介してくれないかな?
僕も一応、『サプライズプレゼント』なんだろう?」
蒸気を上げて恥ずかしがる桜花を他所に、
コンテナから歩みを出して「うぅ~ん!」と伸びをした柴名大地。
――そう、彼はサプライズプレゼント。
その存在は秋華は当然ながら、勘助も知らされていない。
トシローの馬主である古川が、
トシローをこれから調教する上で、下手な乗り役では上手く育たないと考え、
結論として、親交深く、また、引退後間も無かった柴名大地に調教助手として声をかけたところ、
柴名が快諾したので、彼はこの山本牧場でトシローの育成のために働くことになっていた。
繰り返すようだが、この事を勘助はまだ知らない。
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「柴名さん、この度は本当に…………」
柴名の登場に気がついた秀馬が、彼のそばに駆け寄る。
「親父の無茶な願いを聞いていただきまして……」
「いやぁ………
あなたのお父様には現役時代本当にお世話になりましたから。
まぁ、星の数ほどの迷惑もかけましたけどね。
最後コスモスルーオフの時はあなたにもお世話になりましたしね。
まあ、恩返しのつもりでやりますよ。」
偽りの無い、社交辞令の色の無い笑顔。
競馬に対する情熱、まだここにありといった感じか。
「それに………あの古川社長が見込んだというコスモバルクの子。
トシロー君、だったか。
東京大賞典の時のあなたの大演説を聞いて、
本当にいかほどすごい馬なんだろうとホースマンとして純粋に興味が沸きまして。」
そういった彼は腰に差していたステッキ(鞭)をさっと抜いて、目の前でひと振りして見せた。
風を切ったステッキが、ヒュ、と音をならす。
「むしろここへの赴任は楽しみにしてますよ。」
「そう言っていただけると……………こちらもありがたいですが。」
サングラスを外し、再び礼をした秀馬。
大井の闇では幻想的に見えた彼の容姿は、陽の下に充ててみても同じように繊細で。
―――なるほどあの子が惚れるわけだ。
柴名はそんなことを思った。
と、同時に、向こうで戯れる若い男女を見、呆れたように曰く、
「あれが………この牧場の主ですか。」
明らかにその先には勘助。
そのトーンの低さに、苦笑いの秀馬した秀馬。
「そうです。
まあ、柴名さんは初見ですから、バカップルぐらいに思われるでしょうが………
出会い方がすごく特殊だったもんで、他人と恋愛の仕方が違うんです。
……仕事になったら彼らはすごく真面目ですから。
ここの馬を見ればすぐにわかりますよ。」
「へぇ………」
そんな風には見えないな、と柴名。
それに対して、
それがギャップなんですよ。と秀馬。
「特に勘助くんは………体調管理に関して天性のセンスがあります。
たぶん自分では意識してないんでしょうが………」
あながち嘘ではない。
芝山がサポートにいるとはいえ、馬に対しての経験のあまり深くない勘助が、トシローのあの見事なまでの体を作り出しているとあれば、その事も頷ける。
ましてやそれが日常の中で身に付いていったものであって、特に何を意識したわけでもないと来れば、
………これをセンスと言わない手はない。
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前座(勘助、浮気編)
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「あの父ですら、彼の腕を見込んで………世話の一切を勘助くんに一任しています。
ま、トシロー君自身の能力も当然ありますが…………彼が一歳であそこまで体が大きくなったのは彼の育成方針の賜物といっていいと思います。」
「―――なるほど。
あなたがそこまでおっしゃられるのなら、まあ、信じましょう。
すると、ますますコスモバルクの子を見るのが楽しみだ………」
柴名は一転して穏やかな表情に。
と、同時に彼はキョロキョロと放牧地を見渡し始めた。
ただし、露骨に何かを見つけようとするわけでは無く、あくまでも控えめに。
それを見て秀馬は、恐らくトシローを探しているのだろうと思ったので
「呼びましょうか?」
と、シューカアゲインと戯れる勘助らを指差し聞いたが、
柴名は「いや、結構。」とそれを手で制して曰く、
「――今邪魔しちゃあ悪いでしょう。
本格的にここに勤めだしたときの楽しみにしておきますよ。
まだ引っ越しもできていませんし、家内もまだ抵抗してますし…………
それが全部済むまでは、
お預けです。」
笑顔でそういいながら、彼はステッキを腰に戻した。
「引っ越し?どちらへ?」
「この近くに家を借りまして。流石にここに住み込みというわけには………」
苦笑の柴名。
「そうですか…………
ではこっちには六月頃になりますか?」
一応『父の部下』である秀馬は、確認の意味も込めて聞いた。
すると柴名はええ、と頷き、
「宝塚記念の週を予定してますよ。」
という言葉に、「ま、作者の都合ですが、ね。」と余計なフォローを付け加えてその話を終えた。
「そうですか……。」と相槌を打った秀馬もそれ以上に詮索はせず、
再び『こちら側』は静寂に包まれた。
『向こう側』では、やかましくじゃれあう、まるで高校生のような勘助と秋華。
シューカアゲインはもはや、それに付き合わされる形になっているようにすら見える。
「仲がいいんだね。」
柴名が呟く。
その問いに秀馬は、
「まったくだ。」
と苦笑した。
順馳を終え、あとは人を乗せるだけのトシロー。
そこへ現れた元騎手、柴名大地。
何より、元の関係を取り戻した勘助と秋華。
新たに牧場の仲間となったシューカアゲイン。
トシローが、
本格的に競走馬として歩み始めようとしていた。
やっとこさ本題!




