25
ーーーー
――きょうはおとうさんがきているのに……つまらない。
――都内某所。
『お父さん』が買ってくれた、サイレンススズカの人形を片手に遊びながら、
今日七歳の誕生日を迎えた秋華は、膨れっ面をした。
―――わたしのたんじょうびは、おそとでいっしょにあそぶって、
やくそくしてたのに…………
………彼女の誕生日を祝うがために駆け付けた、彼女に『お父さん』と慕われる男は
『ここ』へ来るなり園長に呼ばれ、
その部屋にこもりっきりで何やら話をしているらしい。
何か難しい話を。
「おい……そんな話聞いてないぞ!?」
戸はしっかり閉まってはいるものの、その特徴的な大きな声はしっかりと秋華の耳に届く。
―――おとうさんのこえ。
それがいかなる怒声であろうとも、
純真無垢な子供の秋華は、
『お父さん』の声の所在が園長室の中であることに安心し、近くに『お父さん』はいるのだと、安堵していた。
この話が終われば『お父さん』は一緒に遊んでくれる。
だから一生懸命に待つ。
子供心に彼女は、そんなことを思っていた。
たとえそれが終わる頃に待っているのが、彼女の運命を狂わすような、
とてつもない出来事であったとしても。
「…………おいちょっと待て園長!
話が違うぞ!?」
「………仕方なかったんだ。
この条件を呑まなければ、先方がここの施設への支援を打ち切ると…………
そしたら、あの子だけじゃなく、他の子まで路頭に迷うんだ………」
「だからといって!
『秋』一人に重荷を負わせる気か!?
俺は断じて許さんぞ。」
「そうは言ってもだな……」
「――園長お前、《あの男》がどういう奴かわかってそんな事を言うのか?
本当に子供のことを考えろ。
………あいつの養子になって、まともな大人になって世に出た人間が今までに居たか!?
名ばっかりのアイドルグループに放り込まれて、ボロ雑巾のように使い回された挙げ句、
行き着く先は奴のハーレムか水商売だろうが?
正に八年年前に養子に出した早苗がそうだっただろ?」
「………………。」
「園長、あんた今あの子がどんな生活してるか知ってんのか?
薄汚ねぇステージの上で裸同然の衣裳着せられて踊らされ―――」
「解ってる………!
それ以上言うな……。」
「解ってんなら何で!?」
「だから仕方なかったんだ!!」
園長、と呼ばれる男は机を叩きつけた。
編集 しおり コメント(0)
「うちは『孤児院』としてやってきてはいるが、
未だ否認可のボランティア活動と同じ扱いの団体だ……。
当然国からの支援は無いし、サポーターも全くゼロに等しい。
そんなうちの施設への援助に唯一手を挙げてくれたのがあの人なんだ……。
実際この施設は、その援助一つにしか収入が無い、
だから!ここで向こうの要望を聞かないことには、うちは潰れてしまう……」
「んなこたぁ、百も承知だ!
ここが苦しいのもよくわかってる。
だがよ、園長。
仮にも保育施設の所長が、子どもを地獄に突き落とすような真似をしていいのか?」
「地獄だと………?」
「ああ、地獄だよ。
例えば、康本プロダクションのアイドルグループだった《わんこ倶楽部》の元メンバーな。
律田や畜生さゆりといった有名どころは仕事があるからまだいい。
が、解散後、他の連中はどうなったと思う?
消息不明が何人いると思う………!?」
「……………。」
「アイドルなんてのはな集めるだけ集めて
へたな鉄砲数打ちゃ当たるってな具合に世に送り出されてだぞ、
それでいて、最後まで面倒を見てもらえる人間なんざ、ほんの一握りだ。
あとは落ちるところまで落ちるしか道が無い……!
………それで飯食うしか仕方がねぇ連中の事なら未だ解る。
が、奴……康本ってのは、もうすでに金をしこたま懐に持ってるくせに、そいつらが落ちるまで骨の髄をしゃぶるような人間だぞ。
それを承知の上でいく奴はいい、が、『秋』がいつかそんなところへ遣られる事を望んだことがあったか、ああ!?」
「それは…………」
「だいたい、ここの経営状態が康本に依存しているのだって
園長、あんたがこれまでずっと康本からの収入に頼りっ切りでかまけてきたからだろう?
本当のあいつの目的はここの支援じゃない、自分の社会的善行を知らしめ、『秋』みたいなのを自分の所に連れてくるためだ、
思えば弥生の時に気付くべきだった、
違うか!?」
またバァンと机を叩く音がした。
今度は『お父さん』のものだった。
「なんとか言え………!」
編集 しおり コメント(0)
――――――――――
バァン!
園長室の外にいる秋華は、その音に若干驚いた。
―――おこってる?
あの温厚な『お父さん』があんなに怒るなんて。
私が何か悪いことしたのかな………。と少し心配になった秋華は、
サイレンススズカの人形を胸に抱き、よろよろと立ち上がって
園長室のドアノブをそーっと回してみた。
生憎とその扉は開かない。
鍵がかかっていた。
ドアノブがガチャガチャと音を立てる。
―――つまらないの。
秋華は再び座り込み、人形遊びを始めた。
編集 しおり コメント(0)
――――――――
ガチャガチャ。
ドアノブが回り、乾いた音を立てる。
「聞こえるぞ………
声を落とせ…………。」
園長、と呼ばれる男は机の上で掌を組、そこへ頭を当て深い溜め息を吐いた。
「それをあんたが言うか………!」
極力声を押し殺しながらも怒りのこもった声で『お父さん』は言う。
「あんたがこんなふざけた話を持ってこなけりゃ―――」
「―――あのな。
ちょっと落ち着いてよく聞けよ。」
「何を。」
「うちは孤児院なんだよ。」
「………………。
………は?」
予想外の園長の言葉に、彼の足元は極度に抜かるんだような感覚に襲われた。
「それと何の関係が……」
園長の伏せていた顔が上にもたげられ、目だけが彼の方を向く。
「……うちは孤児院なんだ。
子供を幸せに導いてやるのは当然の責務。俺等は結果的にそれで飯を食わさせてもらっているのだからな。
だがよ、孤児院には子供のために里親を見つけてきて、一日でも早くここを出してやる義務もある。
ここでは与えてやれる愛情も人数分に分割されてしまうし、これだけ人数がいたら平等になんてのは正直不可能な話だ。
お前が秋華に対して異様に執着心を持っている様にな………」
「執着心だと………?」
「ああ。
お前は秋華の事になると我を忘れたように過保護になる。
現に今がそうじゃないか。」
「いや、だからそれは!」
「それ位の秋華への愛情を全員にお前は与えることが出来るか?いや、出来ないはずだ。
この世にそこまで割り切れる人間の数なんざ一握りだ。
そして、お前はその器じゃない。俺だってそうだ。
それならば、こんなところに長く居させるより、誰に対しても平等に愛情を配ってくれる、『家庭』という物に子供らを送り出してやる事が俺等の大きな役目だと思わんか?
そして、秋華は運良くそれに手を挙げてもらえたんだ。
笑顔で送り出してやるのが園員の役目だと思わんか?」
「あんた、そりゃ詭弁だ!
なるほど幸せな家庭に行けるのならそれは笑顔で送り出してやるべきかもしれない。
けどな、相手は康本だぞ?
あの男が連れて帰った人間で、ろくな生活をさせてもらっている子が居たか?
弥生みたいな子が何人居たか、お前は知ってるのか?
今あいつに何人娘が居て、何人芸能界で裏仕事させられてるか解ってんのか?」
聞かされる園長の顔が厳しくなる。
編集 しおり コメント(1)
が、彼は怯まない。
「成長するまでに何をされるか解らない、
成長してからも身が危ない、
道具にされてボロボロになるのが関の山、
それでもあんたは康本のところに養子に行ったら『秋』は幸せになれると、
そんな事を言えるのか!?」
「くどい!」
いきり立った園長は立ち上がり、机の向こうの『お父さん』を一喝した。
「黙っていれば好き勝手言いおって!
仮に秋華をお前の要望通り、ここに置いたままにしたとしよう。
じゃあ、うちの経営は立ち行かなくなる。
ならば、そのせいで路頭に迷ってしまう子供らを、
お前が面倒見るんだな!?」
「なっ…………」
「あの子らがここを出て一人で暮らせる道理など一つもない!
誰かが面倒見てやらにゃあ生きてけない。
だが、秋華をあそこに遣らなければここが潰れるんだ!
お前は一人の幸福を追うがために、
他の子全員を命の危機に晒そうとしているのが解って言ってるんだろうな!?」
「しかし………!」
「俺だって辛い………けど、今はこうするより他にしょうがない………!
自分が鬼畜のようなことをやっていることくらい
今さらお前に言われずともわかってる………
けど、今のウチじゃ、どうしようもないんだ………」
首を降り、うなだれる園長。
「じゃ、じゃあ俺が!
俺が何とかする!
俺がよそで必死に働いてここの経営を――――」
「―――だから!
三年前まで職なしのお前に何が出来るってんだ!
あぁっ!?
日雇いの一日分で事足りるほど、うちの維持費は少額じゃない!」
「……………!
園長、あんた………!」
『お父さん』の表情が、グラリと音を立てるように歪む。
「あっ………いや、すまん………」
少しばかり言い過ぎた……、とばかりに園長が弁明する。
「…………うん、悪かった。
少し頭に血が上って……
悪かった、お前はよくやってくれている……………」
少し頭を下げた園長。
「………だが、お前一人の頑張りではどうにも成らないのは事実…………
お前もそれくらい解ってるんだろう………?」
「くっ……………。」
その場に暫しの沈黙。
不意に、ガチャガチャとドアが再び音を立てた。
(秋…………………。)
締め付けられる、『お父さん』としての心―――――。
編集 しおり コメント(0)
重苦しい空気と、
鉄の鳴る音だけが響く園長室。
その鉛のような空気の中、
園長は、正にそれを暗喩するかのように重く口を開いた。
「………康本は、
『秋華だけは特別大切にする、本当に娘のように育てる』
と言ってきた…………
確かに真偽のほどは怪しいが…………
今のウチはその言葉を信じるしかない…………
私からよーく頼んでおく。確りと大切に育てて貰えるように…………
だから……………」
「じゃあ…………
あんた本気で秋華を…」
絶望的な表情と、声を持って『お父さん』は訊いた。
「本当に…………」
―――秋華が居なくなるのか。
彼は今ですらその言葉が嘘であると信じたいと思っている。
それは、親が子を離したくない感情に相違ない。
ドアの外で、自分を待っている『子』が、蕀の道を歩むことになるかもしれないのだ。
「なんとかならないか。」
最後の希望を込めて、彼は園長に訊いた。
「すまん……………
万策つきた。
…………堪えてくれ。」
無慈悲とも言えるその言葉を耳から脳へと通した『お父さん』は、
それが反対の耳から抜けていくのと同時に、
その場に崩れ落ちた。
編集 しおり コメント(0)
――――――――――
ガチャ、という乾いた音と共に園長室のドアが開いて、
園長先生と『お父さん』は部屋を出てきた。
―――あっ、
おとうさん!
秋華は手にサイレンススズカを抱えて、
とたとたと『お父さん』に駆け寄った。
「おとうさん!
おはなしはおわったのね?
あきな、こうえんでおとうさんといっしょにあそびたい!」
『お父さん』の足下で立ち止まりつつ、万面の笑みで『お父さん』の服を引っ張り、ねだった。
「あきな、きょうたんじょうびだから、すなばでケーキつくるんだ!
あっ、できたらおとうさんといっしょにろうそくのひをけしてね――――」
秋華のその先の言葉は、
不意に彼女の体を拘束せしめた『お父さん』の強い抱擁に、掻き消された。
「おと………うさん?」
突然どうしたのか。
今まで、こんなに急に抱き締められたことは一度もなかった。
『お父さん』らしくない。
「おとうさ―――」
擦り合わせた頬に、滴が伝わるのを、
彼女は感じた。
――――えっ?
一筋、二筋…………
――――ないてるの?
首も回せない状況で、表情も何もわからないが、
その水感が途絶えることはない。
「どうしたの………?
なんでないてるの……?」
とうとう彼女は『お父さん』から伝わってくる不安を、
我が身に感じてしまった。
何とはわからない、けど、
大きな哀しみと寂しさ…………
「いったいどうしたの………
あきな、なにかわるいことしたの…………?」
彼女は、震える声で、訊いた。
しかし、お父さんは黙ったまま。
何ともわからない恐怖が秋華の背中を揺らす。
何事もなくてほしい。
でも、何でこんなに胸がザワザワするの?
お父さん、いつもみたく秋華の不安を笑い飛ばして。
いつもみたく―――――
しかし、非情にも。
『お父さん』の返事はこうだった。
「秋華…………。
お前に話さなきゃならないことがある………
心して聞いてくれ………」
サイレンススズカの人形が、
小さなかわいい涙の滴と共に、
彼女の手からポトリと落ちた。
編集 しおり コメント(0)
―――――――――――
「―――では、よろしくお願いします。」
暴れる私をガッチリ押さえながら、
黒塗りのベンツに乗って彼女を『引き取りに』来た康本に対して、
軽く会釈した園長。
「いやっ!いやだ!あきなここにいるっ!!」
服が破れんばかりに抵抗し、必死に逃れようとする私。
ここを離れたくない。
あの人のところには行きたくない。
私は必死に抵抗した。
けど、小学生の力が大の大人に叶うはずもない。
あっさりと捕らえられてしまう私。
「ほおぅ。相変わらず美しい…………」
恍惚にニヤつきながら、
ゆっくり車から降りた康本は、
懐から封筒を取りだし、
「五百万あるから。」
と、それを園長に投げ渡した。
園長は私を抑えつつ、大事そうにそれを受けとる。
「ありがとうございます………!」
にや、と笑う園長。
彼は、「あいつをどうやって納得させたの?」という
康本の問いかけに対して、
「他の子が危ないんだとちょっと脅してやったらね………」と、含み笑いをした。
あいつ、というのは『お父さん』のことなんだろう。
急に気持ち悪くなった園長先生の手を
必死に振りほどこうとするが、
小学生の私がやはり叶う通りはない。
「いや………どこにも行きたくない!」
――――誰か、タスケテ。
「じゃ、連れてくよ。」
と言って、私の手を思いっきり引っ張る康本。
――――痛い!イタイ………
私は精一杯叫んだ。
「助けて!お父さん!」
しかし、無情にも、
私の目に写ったのは、気味悪くにやけた康本の顔で。
「やめて!こないで!」
自分の鼓膜が破れるほどに叫んだ。
康本の顔も引っ掻いた。
行きたくない、この男のところになんか。
特別なことなどなにも望まない。
このままお父さんと一緒に居たいだけ。
「お父さぁぁぁぁぁん!」
そんな彼女の思いは。
突如として右頬に走った『掌』という悪寒と
康本の気味の悪い声が、
絶望の淵へとそれを投げ込み、消滅させた。
「…………お父さん、か。
フン。
あのね、秋華ちゃんは知らないだろうから言ってあげる。
今日から君のパパは
この私だから。」
焼け火箸でひっぱたかれたか、
もしくは雷が落ちたような衝撃だった。
編集 しおり コメント(0)
そんな……………。
――――あの男が、お父さん…………!?
………………やだ。
……………やだ、そんなの。
やだよ、そんなの………!
イヤだ。
イヤだ。イヤだ。
イヤだ。イヤだ。イヤだ。
イヤだ。イヤだ。イヤだ。イヤだ。イヤだ。イヤだ。嫌嫌嫌
嫌嫌嫌嫌嫌
嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌
嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌!!!!
無理矢理押し込められた車のソファーは、鉄のように冷たい。
ゆっくりと車が動き出す。
思い出が、離れていく。
「楽しい思い出、作ろうねぇ…………………?」
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――」
編集 しおり コメント(2)
―――――――――――
「はっ…………!」
斎藤秋華は、目を開いた。
先ほどまで深い闇に包まれていた世界が、津波のような光の到来で
彼女に、フラッシュのような効果を与えた。
(っ……………)
………目の前をペンキのように塗り潰す白い光。
そのきつさに耐えられなくなった彼女は、手汗でグショグショになっていた手をゆっくりその光源にかざして
それを遮った。
顔に影が出来、次第に鮮明に成り行く視界。
知ったような天井が、目に写る。
そう、山本牧場…………
見慣れた風景を頭が認識すると、秋華はホッと息をついた。
(夢………………)
そう、夢。
何度となく見てきた夢。
悲しい出来事が起こる度に見る夢。
苦しいときに何度も見る夢。
それでも、ずいぶん久しぶりに見た気がする。
もっとも、もう『お父さん』の記憶は浅くて、顔が出てこないことも希ではない。
自分で自分を不義理だと感じたことは何度とある。
「………………。
久しぶりね……………。
お父さん………。」
滴が溢れる前に
目を、擦った。
編集 しおり コメント(0)
………お父さん?
何か、あれ………?
もうひとり?
――――はっ!
彼女の脳裏を過ったもの。
芝山雄一。
そう、上から障子が落ちてきた………
「か、勘助さんっ!芝さんは――――」
一気に押し寄せた過去の情景を、そのまま体内に飲み込んだ秋華は、
跳ねるように、また、飛び上がるようにその体を起こした。
すると直後、ゴン!という鈍い音と共に、
彼女の頭に軽い衝撃と、多少の痛覚が走った。
「って、痛っ。」
「あっ。」
どうやら頭突きをお見舞いしてしまったよう。
「あたたたた………」
頭に手を当て、渋い顔をする相手。
「わっ、か、か、
勘助さん、ごめんなさ…………」
彼女はその言葉を皆まで言い終えることなく言葉を切った。
何故か。
そこにいたのは勘助ではなく。
……というか男ではなく。
長い黒髪と、小さな顔、
そしてそれを更に際立たせる古川秀馬とお揃いのグラサンを鼻にちょこっと乗せた、スーツ姿のボーイッシュな
……………女の人。
「痛いなぁ………いや、アハハ!あなた相当な石頭よね。結構いたかったなぁ~ってか、頭突きかぁ………小四の頃男子に一発食らったっけなぁ………。ま、あの頃は私に叶う男子なんていないと思って時代を謳歌していたけど、あ、私の名前桜花って言うんだ、ナハッ!まあ、そんなことはどうでもいいや、要は私に勝てる石頭はたぶんあなたくらい……………………………………………って、
ちょちょちょ!?
ひょっとして目、覚めた?」
「えっ…………」
「だから、えー、気は確か?………じゃないな、うーん…………
そうだ!自分の名前がわかる?」
「し、秋華………です、けど………」
とたん、桜花は立ち上がり………
「勘助くーーーーーーーーーん!!
彼女、意識戻ったーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
編集 しおり コメント(0)
――――――――――――
「悪かった。」
再びソファーに横になった秋華に対して、勘助は頭を下げた。
「もうちょっとで秋華を犯罪者にしてしまうところだった…………
その、とっさのことで、体が動かなくて…………
本当に悪かった。」
……今まで多分馬の世話でもしていたのだろう。
作業服にいっぱい藁を着けた勘助が頭にバンダナを巻いたまま、そばに座っていた。
「そんな………勘助さんは悪くないです。
取り乱しちゃったのは私の方で…………」
ブランケットを体にかけ、まるで病人であるかのような形の秋華。
彼女自身も、正直こんな扱いを受けていることに困惑していた。
「その、皆さんもすみませんでした。
わ、私……………」
勘助の後ろに立つ、秀馬と桜花に、彼女は頭を下げた。
「いや……………なんの問題もない。」
秀馬は起き上がろうとする秋華を手で制した。
なぜか秀馬も藁をまとっていた。
「でも…………」
「いいのいいの!気にしない気にしない!
それにああまでやってくれて、
私達むしろスカッとしたくらいだから。」
アハハと笑い流す桜花。
いや、笑い流すという表現はむしろ適切ではないかもしれない。
実際、彼女は奈落が半殺しにされた事実に関して、非常に満足していたのだ。
「まー、よくぞあそこまで過激にやってくれたことだわ。あそこの物陰からこっそり覗き見してたんだけど、いやー、凄かったね。てか、凄まじかったね。もう私、身体中の血が煮えたぎって今にも飛び出して一緒に襲ってやりたい衝動に駆られたって言うか。あはっ!」
「は、はぁ…………」
編集 しおり コメント(0)
桜花の口は止まらない。
「もう、何かね。あいつの顔面をこう………ぐちょぐちょにするって言うの?実際のところ、台所に走りそうになったよ。ほら、包丁であいつの目ん玉抉って煮物にして犬に食わせてその糞をあいつの墓に投げつけてやるってのが私の夢な訳で。ホント、その夢が叶うかと思うともう腕がこう、くぅーーーーーーーーーーっ!!!って感じでね!まあそこまでできなくても私的にはとりあえずでいいからあいつを苦しませてやりたいわけ!
そうだね、例えば思いっきり蹴りあげてやるとかね!あいつのキンタ――――」
刹那、エスパーのようなスピードで桜花の背後に回り込んだ秀馬が、彼女の口を両手でふさいだ。
「ムグッ!ううっ!………!」
「――――桜花………。全員………引いている。
「ぶ………………!」
勘助の影に隠れる秋華と、「あり得ねぇ………」という目で自分を見る勘助の姿が目に映っただろうか。
それとも自分がとんでもない言葉を口走ろうとしていたことに気づいただろうか。
グラサンの向こうの顔がリンゴのように赤くなり、湯気がたち、
彼女は抵抗をやめた。
「………………。」
恥ずかしさのあまり顔を下に向ける桜花。
未だ彼女の口を抑える秀馬は深いため息をついた。
「…………奈落の事になるとやたら饒舌になるその癖………
恥ずかしいからやめろ。」
少し、秋華に対してのフォローを含んだその言葉。
しかし、当の秋華はと言えばひきつった笑顔を返すばかり。
それは恐らく、
桜花の繊細かつ華麗なルックスからは想像出来ないほどの爆弾発言が繰り出されたことへの、
ギャップの類いがそうさせているのだろう。
ただし、萌えはしない。
秀馬は石化した桜花の立ち位置を後ろにやりつつ、もう一度深いため息をついた。
「勘助くん………桜花が話を反らして悪かった。
斎藤さんに………あのあとの状況を教えてやってくれ。」
――彼女は怖いかも知れないけど、伝えた方がいいだろう、
と、秀馬。
「斎藤!?それ私と同じ名字!」と反応した桜花の口は、秀馬によって塞がれている。
………けれども勘助は、それを少し渋った。
「いやしかし…………」
編集 しおり コメント(0)
秋華は今、いろんなものを抱え込みすぎている。
こんな状況ではあるが、まだ芸能事務所の連中からの逃亡生活は続いてるし、
目的はともあれ北海道まで逃げてきたと言うのは、
それなりの追跡もあったと云うことなのだろう。
それに今、彼女には勘助以外に身寄りもない。
後ろに下がることのできない彼女の今の状況に、
この事実が与えるであろう更なるプレッシャーが秋華を今以上に圧迫するのを、勘助は恐れた。
逃げ帰る奈落が、
去り際に残した、あの言葉―――――
「やっぱ…………止めといた方が。
余計な心労を課すことになりかねませんし。」
「いや…………しかしな、勘助くん。
このままだと斎藤さんは、我が身の危機を知らぬまま…………なんの警戒もなく過ごすことになる。
相手はあの奈落だ。どんな手を使うか解らんしな。
それに、我が身を守るのは最後は自分だということ…………これに例外はない。」
「それは解りますけど!
でも、脅しにしたってあの言葉は今の秋華にはキツいです…………
さっきの見りゃわかるでしょう?秋華は未だに過去を引きずりながら何とかやってるんです。
だから俺はこいつにこれ以上心配事をさせたくない。」
「勘助さん…………」
「………気持ちはわかる。
が、な。勘助くん。
…………単細胞とは言え、あれで奈落は全国的暴力団八島組の組長をやっている人間だ。
そして、斎藤さんは………理由はともあれそんな人物を半殺しにしたんだ。
むしろ、報復が無い方がおかしいし、
奴のことだ…………キレたら一体何をしでかすかわからん。
斎藤さん自身が、何も知らぬまま連れ去られる可能性だってある。
もしそんなことになったときに後悔したでは遅いんだ。
…………それに、あいつらは勘助くんがどうにかできる相手じゃない。
奴らは戦闘のプロだ。
君が彼女の全てをカバーするというのは
残念ながら、非現実的だ。」
編集 しおり コメント(0)
「それもわかってます……!
それでも………………!」
秋華は俺が守ります………!と続く筈だった、
勘助の言葉は、途切れてしまった。
『それでも』の後が言えるほど、自分は強いか?
守り抜くだけの力と覚悟が?
勘助の頭をよぎったのはそれだった。
「…………………。」
自らの不甲斐なさに、頭を抱える勘助。
そんな勘助の様子を見て、腕を組んだまま口を開かない秀馬。
今にも泣き出しそうな秋華。
そして、それを心配そうに見つめる桜花。
………四体の銅像が織り成した、
沈黙の始まった部屋には、重苦しい雰囲気が漂う。
編集 しおり コメント(0)
「………言ってください。
勘助さん。」
一体の銅像が発したその言葉は、他の三体を大きく跳ね上がらせた。
「しゅ、秋華………?」
「………秀馬さんの言うとおりです。
自分の身は自分で守る。
当たり前のことと思います。」
「あのな、秋華―――――」
「―――それに………
あそこまで聞かされて。
これで奈落が何を言ったか知らなかったら。
私、その方がもっと怖い……です………。」
「けど………!それを知ることでお前は今まで以上にここで神経を使って生きてかなきゃなんないんだぞ!?
………それは怖くないのか?」
「それも怖いです…………。
………でも。
仮に私がその事を知らなかったとして。
勘助さんが私の知らないところで私を守ってくれようとするのは、
私が勘助さんにずっと心配を与え続けちゃうってことでしょ?
私………その方がずっと心が痛いです………。」
「俺のことはいい!俺はお前にここでゆっくりと暮らしてもらえれば―――」
「よくないです。」
「!?」
「だって、私は勘助さんに世話されるためにここに残ったんじゃない。
勘助さんを支えてあげたいから残ったんです。
そりゃあ………あの時は他にいくところもなかったわけですけど。
でも、私はそう思ってきました。
だから………対等の立場でいたいんです。」
「……………。」
「私が奈落の狙いを理解することで、勘助さんの負担が少しでも減るのなら………
……私、がんばります。」
「しゅう……………」
その時の秋華は笑顔だった。
が、勘助にはそれが作り物であることがすぐにわかる。
(震えてやがる………)
本当は怖くて怖くて仕方がないのだろう。
若干目が潤んでも見える。
だが、それは、彼女の意思を明確に表す物でもある。
互いの心に存在する、相手への思いやりの狭間で、
勘助は何も考えられなくなってしまった。
(俺は…………どうすれば。)
編集 しおり コメント(1)
「『今ここで殺すのは容易い。が、このアマにはそんなもんでは腹が収まらない。
この一家共々絶望の縁に放り込んでやるから、覚悟しろ。
俺はそのアマが何処に居たのか知ってるんだ。
こいつの仕事は馬の世話じゃない。
せいぜい男を悦ばすテクニックでも磨いてな。』」
秀馬が壁にもたれながら、
秋華とは目線を合わさず呟いた。
「え………………」
秋華から笑顔が消えた。
ハッ、と我に帰った勘助が
「秀馬さん、あんた……!」
といきりたったが、
「勘助くん、怒らないで!」
との桜花の制止に、何とか踏みとどまった。
「それ………は…………?」
蒼白、という言葉がふさわしい、文字通り真っ青になった秋華の顔。
手元も小刻みに震え出す。
「奈落が去り際に言った言葉……………」
若干天井を見上げるような格好で秀馬が言う。
「あの言葉が意味するもの………
俺は………詳しくは詮索しない。
………が、意味は解るんでしょう?
斎藤さん。」
「………………。
………………はい。」
秋華が小さく頷いた。
次第、秋華の息が荒くなるのを、勘助は感じずにはいられなかった。
―――俺は…これを恐れていた。
その過去に足を引き回されるように囚われる秋華。
その表情からは目に見えたような苦痛が伺える。
勘助はその情景を呆然と見ながら心で呟いた。
―――やはり、知らせるべきではなかった。
編集 しおり コメント(0)
「あのなっ、秋華―――――」
下を向いたまま震えの止まらない彼女の肩を勘助は少し強引に引き寄せ、
こちらを向かせた。
勘助はその後の言葉を『ただのハッタリだろうから気にするな』
というような内容の言葉で励ますつもりでいた。
が、しかし。
振り向いた秋華の表情を見てとった彼は、
とてもじゃないが、そんな無責任なことを言えるような精神を持ち合わせることができなかった。
秋華は、顔を崩さず、
ただその大きな瞳から滝のような涙を流してこちらを向いていた。
恐怖をそれで押し流そうとするが如くに。
「しゅ…………」
「へ、変ですね………なっ、なんか、な、涙止まんないや……………」
一生懸命それを隠そうと涙を両方の手のひらで拭う秋華。
しかしそれは、拾われることなく床にポトリ、ポトリ、とこぼれる。
そして、その小さな音の一つ一つが、その小さな心に傷をつける。
勘助の心をかき回す。
「私の………仕事………って………」
………未だ滴の乗る掌を、ただ見つめる秋華。
―――怖い、誰か助けて。
それを言えない苦しさが、床に写って反射するのだろうか。
「秋華――――」
なにもできない不甲斐なさゆえ、勘助は
人間の持つ、直線的な意思表示にしたがい、
なにも言わず、ただ秋華を抱き締めてやろうと思った。
少しでも不安を取り除いてやろうと、
自分という人間はそばにいるのだと、
そして、
頼れ、と、伝えるために。
――しかし、接近してきた勘助の体を、
彼女は押し返した。
近づかないで、と。
「秋華…………!?」
「………すみません………勘助さん………
…………しばらく一人にさせてください…………
こんな涙を、勘助さんに見られたくない………から。」
「何を……………!?」
「ごめんなさい………
で、でも…………
私は、確かに、そういう女でした………………
だから、今は…………
この涙は…………
わかんないや……何も……」
―――刹那、秋華は立ち上がって廊下へと駆けた。
(!?)
階段をかけ上がる、
ドンドン………という音がフロア中に響き渡る。
編集 しおり コメント(1)
「秋華っ!」
勘助は当然追おうとした。
が、それを阻むものがいた。
「行っちゃダメ!勘助くん!」
背後から回った細い腕に拘束され、勘助は全く前に進めなくなってしまった。
「ばっ………離せ………!」
強引に振りほどこうともがいたが、テコでも離れない。
「今勘助くんが励ましにいっても、傷つくだけだから!
だから行かないで!」
「うるさい離せ!
あんたに何がわかる!?」
「私は女よ!
秋華ちゃんほどかわいくないけど!
女同士、わかるんだって!
あの子に何があったか私は知らないけどさ、
絶対に知られたくないことなんだよ、勘助くんに!
わかるでしょう?
だったら、今追いかけるのは逆効果なんだって、
気づいてあげてよ!」
「………………!」
ばたあんっ!
二階でドアが勢いよく閉まったとおぼしき音がした。
それは同時に、勘助の追跡の不可をも意味する……。
「あ…………。」
思わず天井を仰いだ。
その瞬間の勘助の魂は、空中ブランコに揺られる曲芸師のように、
ふわふわと浮いているような感覚だった。
思考が止まった、とも言える。
この先どうなってしまうのだろうか、という不安が何とか彼を地上と繋ぎ止めていたが、
彼の四肢を支える操り人形の糸は
今にもプツリと切れて膝から体ごと崩れ落ちそうな、そんな感覚だった。
「…………辛いけど、耐えて。
秋華ちゃんの為だから……」
そう呟いた桜花がその手を離すと、彼の体は何かに操られたように前に推進し、
リビングからひと繋がりの馬棒の方へと向かった。
「耐えてあげて………
私たちじゃどうしようも………」
遠ざかる勘助の背中に、桜花はぽつりとつぶやいた。
馬房に繋がる通路からは、トシローが心配そうに顔をのぞかせて。
「ひゅん……………」
ふらふらと近寄ってくる勘助に鼻面を合わせにいったが、
勘助に反応はなく、
彼は厩舎へと一人消えていった。
「……………。」
桜花と秀馬は二人して、それを黙って見ていることしかできなかったのだった。
無料小説ならエブリスタ
さがす
本棚
マイページ
メニュー
目次
読書設定
前ページへ
474
/ 976ページ
過去
(21/35ページ)
次ページへ
―――――――――――
それからあとのことは、勘助はよく覚えていない。
無理もない。
これから自分はどう秋華と接してやればいいのか
本当にあの時追わなくてよかったのか
今でもひょっとして俺が来るのを待ってるんじゃないか
これで今まで通りの生活は、本当に駄目になってしまうのだろうか
というような思案が、彼の頭の中を駆け巡り、
その後の行動全てが上の空だったからだ。
しかし、その後をたどってみると、だいたいの状況は掴めた。
あのあと、秀馬と桜花は、未だにうなだれる古川を何とか奮い起こし(秀馬の持ち牧場、ラージファーム早来は無事だから気を確かにもて、という話をしていたのが聞こえてきた)、
勘助に詫びを入れて、午後九時に三人で車で帰る。
そして勘助は、それを見送ったあと
バルクとトシローに夜飼い葉を付けたらしい。
たぶん、頭の中は空っぽでも、大切な馬の事だけは忘れなかったのだろう。
そういうところに、彼の人間性が見てとれる。
そして、芝山が寝付いたのを確認して(これは覚えていた)、どうやらそのあとちゃんと風呂に入ったらしい。
頭が若干湿っていたし、来ている服が寝巻きだったから。
…………そんな過程を経て。
山本勘助は、気がつくと自分のベッドに横になっていた。
編集 しおり コメント(0)
午前0時。
日付は31日になり、大晦日がすでに始まっていた。
――――我に帰ったのはちょうどその頃。
「あ………」
社員寮のベッド特有の、
柔らかく安っぽい肌触りを知覚した勘助は、回りを見渡すまでもなく、自分の部屋であることを知覚した。
(…………。)
ウォッカ形の時計で時間を確認する。
「一時………か。」
勘助は、ムクッと起き上がった。
(秋華………………)
壁の向こう、隣の部屋にいるであろう秋華を、
彼は想った。
なんと不憫であることか。
大人の理不尽に付き合わされ、振り回されたあげく、
彼女はここへ逃げ込んだ。
そして、やっと静かな生活を手に入れた筈だったのに、
今度は暴力団に身を狙われる立場になってしまった。
彼女にとっては、唯一安住の地であった山本牧場は、
今、彼女にとって最も危険な場所に相違なかった。
(もう………ここに置いておくのもどうだろう………。)
心の中で呟いてみて、胸が苦しくなる。
簡単に割りきれたもんじゃない。
もう既に彼にとって秋華は、欠けると絶対に完成しない、パズルのピースになっていたのだ。
しかし、彼女の安泰を願うのならば、ここにこのままいるのは危険以外の何でもない。
『疎開』
の二文字が頭をよぎる。
身の危険が解けるまで、秋華を安全なところへ置いておこうというのだ。
だが…………
(いつになれば『安全』なんだ?
あの男の性格だ。
吸い付いたらテコでも離れないのだろう。
そうなると、俺はいつまでも秋華と暮らすことは叶わなくなってしまう………)
勘助は、自らの未来をも悲観した。
起こした体が、自然と再びベッドに落ちてゆく。
壁の向こうの秋華に触れたい衝動に駆られた勘助は
その壁に手を重ねた。
冷たい壁からは、何も伝わってこない。
(今、お前はこの壁の向こうで何を思う………)
言葉の伝わるはずの無い、無機質なコンクリートの壁に向かって、彼は訊いた。
返事は、冷感のみだった。
編集 しおり コメント(1)
その冷感は、ますます彼の心を波立たせる。
最悪のイメージばかりが頭をよぎる。
(仕方無いのか………)
創造すまいとギュッと瞼を閉じる。
しかし、それでいても勘助は
彼自身から出る思考を止めることはできなかった。
(別々で暮らすのか………)
自分の中の自分の一人が呟く。
その意見すら、もはや極論とは言えない。
むしろ秋華のためを思うなら正論ですらある。
(秋華……………)
眼球を覆い隠す瞼の裏の闇の世界で、
徐々に深く沈みゆく意識の中。
勘助はとうとうひとつの結論にたどり着こうとしていた。
(……………やっぱり、移動させよう…………)
秋華には明日話す。
………自分のことを考えている場合じゃあない。
秋華の身を守ってやるのが先決。
その事だけを、自分に言い聞かせるように頭にしっかりと刻み込んだ勘助は、
自らの体を切り付けるような胸の苦しみと共に、
闇の世界へと身を投じていった………
編集 しおり コメント(0)
――――――――――
『………………
………………。
………なぁ、勘助とやら。
我は、近々よく思う。
人は、人というのは、な。
情けや心配をかけられればかけられれるほどに、
それが新たな心労になり、結局のところは
その人間は、不幸に為りゆくのだな…………』
立派な角を戴いた、大きな蝦夷鹿が、
体をせつなげに青白く光らせながら、語りかけてくる。
その鹿に、表情―――顔はないが、哀しみが発するオーラが勘助にはわかる。
そして勘助は、その鹿の事を知っていた。
そう、誰よりも生き死にの哀しみをその身に溜め込んだ、
知床の、死を司る土地神―――
「というと…………?」
『……………………。
――今しがた、ここで人が一人身を投げた。
我はあえて理由を聞かなんだ。
が、遺書があった。
我はそれを読んだ………』
「何と書いてあったんです?」
『…………周りの心配が痛いほどわかるが、
自分はその期待には答えられない、
辛い
と。
人間は、何を軟弱な、等と思うかもしれん……が。
それは、勝手に保護を語る者の勘違いでな………』
鹿は地面を引っ掻き、ガツッという音をならした。
『要は、時に善意は自己満足だと言うことだ。勘助よ。
その者の苦しみ、他者に解るものではない………』
光が今にも消えそうにポッ、ポッと仄かに光る。
その後、微動だにしない蝦夷鹿を、勘助はただ見つめる。
「なぜそれを俺に?」
『―――お前は、お前だけは………
見失うでないぞ。相手の心を。
押し付けない、その、根っからの善意を………』
「根からの善意」
『根からの善意、だ。
お前の祖父から続く、その人好しの血が
誘うままに生きればいい。
我が羨んだその血の系譜を………』
「……………………。」
―――今の俺には欠けていると?
そう訊こうとした勘助を
ひとり暗闇に残し、
妖しげな青い炎を身体中に纏わせたその蝦夷鹿は、
その時を察させることなく
、仄かに、そして静かに消えた。
編集 しおり コメント(0)
――――――――――――
光が差し込み、朝。
はっきり言って、最高の目覚めだった。
いつ目を開けたかもわからず、
眠気は欠片ほども残らない。
知らぬ間に朝日が目に入ってきていて、
知らぬ間に体が朝を感じている。
布団がはだけることもなく、心地よい温もりを体に伝え、
起き上がった体はしゃんとしていた。
小腹も空いた…………。
まだ夢を見ているよう、と表現しようか。
勘助は何も考えず、ただ
ぼーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっとベッドに長座していた。
睡眠、という点において、勘助は
三歳のころ、彼の父に命令されて五時半に起きるトレーニングをさせられた頃から換算しても
間違いなく一位であろうと思うほどに
今日は充足していた。
そして、そのあまりの充足ぶりに驚いた脳ミソが、
恐らくありとあらゆる思考を全て停止し、
彼の動きを止めたのだろう。
彼の『体』は今、天使が奏でるハーブがごときこの羊毛布団の気持ちよさに、
いたたまれないほど感度していた。
(……………。)
今日は全てがパーフェクト。
何故かは知らないが、いつもの睡眠と比べて、何かの要因がとてつもなく充実している。
何かが、確実にいつもとは違うのだ。
(…………?)
そこまで来て、
やっと勘助の脳は、思考を再開した。
(俺の睡眠が完熟するだと?
そんな馬鹿な…………)
編集 しおり コメント(0)
―――だって、な。
俺の仕事は牧場勤務だぜ?
勘助の脳が徐々に動き出す
。
そう、その様子はまるで、プログラムを解凍する
Windows'98の如し!
―――牧場勤務で睡眠が安定するなんてあり得ねぇ事だよ、うん。
解凍率20%。
―――えっ?何でって?
そりゃあ、あれだ、えーっ
と………………
解凍率70%。←えwww
―――牧場には馬がいるからな…………だから………
解凍率80%。
―――そいつらの為にどうしても毎朝五時半に起きてやんなきゃなんないことがあるわけで……………
それは……………
解凍率90%。
―――朝、飼、い葉……………………………
としろー、と、ばるくに…………
………………
………………
…………………
………………
……………………いま何時だぁああああぁああああぁああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
勘助は布団を天井まで蹴りあげ、
枕元のウォッカ型時計に飛び付いた。
Q(め、目覚ましは!?)
A、かかっていなかった。
「何でやねんッ!」
柄にもなく大阪弁を吐き、
勘助はその場に時計を叩きつけた。
その拍子にそれは上の目覚ましを止めるボタンを押されたようで………
スピーカーから実況が時間をコールする。
『さあ、九時を回って最終コーナ一直線!
現在時刻は、なんと12時だああっ!』
「はあっ?へぇっ!?
12時??」
それを聞いたとたん、勘助の脳裏に彼の父の言葉が木霊した。
「サラブレッドはな、勘助。
決まった時間に水とエサを与えなければ
死ぬことだってあるんだ…………」
「うわぁああああああああああああああああああああトシロおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおバルクううううううううううううううううううううううううううう!」
勘助は床に脱ぎ捨ててあったジャンパーを拾い上げると、
パジャマのまま一目散に階段を駆け下りた。
(やっべ、これは洒落にならん………………!)
編集 しおり コメント(1)
彼は京都の3コーナーの急坂のごとき階段を、
『ゆっくりと、ゆっくりと下らなければなりません!
by杉本清』
の大原則を無視してロングスパートをかけたミスターシービーのように、
その豪脚を炸裂させた。
(こ、れは、ヤバい!!!)
もう、昨日のことも、不思議な夢のことも、全部頭からぶっ飛んでいた。
ただ、トシローとバルクの無事を確認したい彼は、
残り三段の階段を飛び降り、その反動でよろつきながらも厩舎に向かって
廊下を大外一気で突っ切った。
だだだだだっ!と老朽化したフローリングが音を上げる。
――その様子を一部始終見ていた芝山雄一は、後にこう日記に書いた。
「………あれはなんだったのか。
爆弾が落ちたような音がして、何事かと思いその方角を見た。
するとどうだろう。
坊っちゃんがとんでもないスピードで廊下を走って行った。
その様子………まるでマイルチャンピオンシップのデュランダルの如し。」
ともかくも、彼は、厩舎に辿り着くなり、
音速の末脚でスリッパも履かずにそこを駆け抜け――――――
「トシロおおっ!無事かあっ!?」
トシローの馬房に飛び込んだ。
「待ってろ、今すぐ水を用意してやっからなーーーーーっ!……………って、
あれ?」
ただでさえ青白かった顔が、土気色に変わる。
彼が拍子抜けしたのも無理はない。
何故ならば、そこには寝藁の他に、何もなく、
当然トシローの姿もなく。
要するに、ただの空間、
もぬけの殻であった。
「……………………?」
まだ夢を見ているのかと思った彼は、
手元にあった熊手で自分の顔を引っ掻いてみた。
「…………痛い。」
血が出た。
どうやら現実らしい……。
「えーっと、これは一体………………」
編集 しおり コメント(0)
何が起こっているのか解らず、呆然としていた勘助。
すると、暫くしてガタガタっという錆び付いた音と共に
厩舎の大戸が開いた。
反射的にそちらの方を向くと、
秋華が雪まみれになりながら
手綱(馬を引く長いヒモ)を持って立っていた。
「あっ!
おはようございます勘助さん!
いや~、急に降りだしてもうびしょびしょです…………」
ほとんど水になった雪を軍手で払い除けながら、こちらに歩いてくる。
そして、手綱に引かれたバルクと、馬服姿のトシローがそれに続く。
「えっ……………?」
再び状況がつかめない勘助。
とりあえず馬は無事………
と、ひと安堵したところで彼は、
自分の失態を伝えなければと思った。
もし、秋華が知らずの間にトシロー達を空腹のまま放牧していたら、
えらいことである。
「あ、いや、秋華、
俺今日朝起きれなくてそいつらまだ飯―――」
勘助が語尾にたどり着く前に、秋華はそれを手で遮って若干得意気な笑顔で返事した。
「あ、心配いりませんよ!
トシちゃんもバルクっちも、ちゃんと朝飼い葉しっかり食べてますから。」
親指立ててグッドサイン。
………その表情、殺人的である。
「あ、ありがと………」
「………あ、それと、寝坊したことは勘助さんに責任はありません。
だって、勘助さんの目覚まし遅らせたの、私ですから。」
「へ……………?」
――何やってんだよ!
「昨日は私が寝かせてもらいましたから、今日は私が全部やろうと思って………。
…………眠れました?」
「えっ?あっ、ああ…………
まあ、何年ぶりかに熟睡できた――――」
「――――それは良かった!
勘助さん、いっつも眠たそうにしてましたもんね…………」
ふふ、と仄かに笑いながら、秋華はトシローとバルクを馬房に入れた。
その一連の動作の楽しそうなこと。
ぶるる、と嘶いたトシローも、秋華のそんな様子に嬉しそうである。
………トシローは賢い。
昨日起きたことを少なからず理解しているのだろう。
見ている限りでは、わざといつもよりテンションが高い気がする。
ひょっとしたら、勇気づけようとしてくれているのだろうか?
………ともかくも、本当に楽しそうにじゃれあう秋華とトシロー。
編集 しおり コメント(1)
そんな二人のようすを見て。
ふと、勘助は思い出してしまった。
自らの昨日の決心を…………
(……………言うか?)
いずれは告げなければならないことだと、彼はもう了解していた。
昨日も述べた通り、ここにいる方が危険………
だからそうすることが最『善』だと、勘助はもう心で納得している。
和やかにじゃれあっている彼女らを見ていると、本当に心が痛いし、
離れて暮らすと思うと、胸が張り裂けそうに辛いが…………
「あの…………秋華。
ちょっといいか?」
「?」
ひょっこり顔を出す秋華。
トシローも一緒に。
………ヤバい、泣きそうかも。
「いや、その…………
昨日みたいなことが起きて、俺もよく考えたんだが。
……一時的にその――――」
「!」
瞬間、秋華の視線のキレが明らかに変わった。
「ふひぃん!」
つれてトシロー。
ドン!と馬体がぶつかる音がする。
「行け!トシちゃん!」
勘助を指差す秋華。
「うひひひひひぃん!」
突如として、秋華を押し退け、トシローが馬房を飛び出した。
「なっ!?」
かと思うと、まるで馬とは思えないような軽快なフットワークで体を反転し、
一直線に勘助に突進した。
「どあっ!」
四百キロの筋肉の塊にタックルされ、
見事なまでに吹っ飛んだ勘助。
「痛い!」
―――何すんだトシロー!
と勢いよく体を起こした彼は、
すぐに一頭と一人に詰め寄られることになる。
「勘助さん…………」
「ぶふーーっ。」
トシローの視線がまるで出刃包丁のよう。
「……………はい?」
「昨日からたぶんそんなことを考えてるんだろうなと思ってましたけど…………
私は絶対この牧場を離れませんから。」
「えっ…………?」
――何でバレてんの!?
編集 しおり コメント(0)
―――※――――
―――何でバレてんの?って顔ね……………。
スウェットにジャンパーという異様な格好の勘助を見下ろしながら秋華は思った。
「あの…………何でバレてんの?」
―――ほら来た。
「今朝勘助さんの部屋に忍び込んだとき、
勘助さんが寝言で『秋華には悪いが……』なんて言ったからです!」
―――そう、それで全て解った。
勘助さんが私を大事にしてくれているのはもう解ってる。
だからこそ、次はそうするんじゃないかなぁと泣きながら思ってた。
それが、今朝の寝言で確信に変わった………
「勘助さんが私のことを思ってくれてるのはわかります。
けど、今の私からトシちゃんとバルクっちと勘助さんを抜いてしまったら、
またなんにも残らないただの女になっちゃうでしょ!?」
「……………。」
「芝さんの看病だってあるんですっ!
私はここを離れません!」
―――そう、絶対離れないから。
いつまで、とかじゃなく。
私の居場所はここなの。
ここにしかないもの、いっぱいあるから………
「…………んなこたあ俺にでもわかる!
秋華がトシローのことを大事に思ってくれてるのも嬉しいし、
芝さんを父親のように思っているのもわかる!」
―――勘助さんも、ね。
「――けど、お前はここにいたら何をされるかわからないんだ、危ないんだ!
情けない話、俺は暴力団に立ち向かえるほど強くない。
だからお前を守りきれるかどうかわからない!」
「大丈夫、自分の身は自分で守りますから。」
「それができるなら俺が守るわ!
暴力団ってのは、ただ暴力振るうだけの連中じゃない!
知らない間に連れ去られることだって…………
そんな状況でお前はここで暮らしていけるか?いや、むしろ俺が耐えられな――」
――――ああもう!
「うるさーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーいっ!」
―――もう怒った!
「…………へっ?」
「危険だろうがなんだろうが私はここにいますから!
他のところにはいきませんから!」
「な……………!」
編集 しおり コメント(0)
―――もう、はっきり言っちゃおう。
「いいですか!?勘助さん!
もし、私がこの牧場以外に行くところがあるとしたら!
それは知床ですから!」
「はぁああああああっ!?」
―――言っちゃった。
とりあえず、これが私の覚悟……………です。
編集 しおり コメント(0)
―――※―――
「いいですか!?勘助さん!
もし、私がこの牧場以外に行くところがあるとしたら!
それは知床ですから!」
大マジな顔で秋華が叫んだ。
頭がぶっ飛んだ勘助。
「はぁああああああっ!?」
―――ちょ、おま、何言って………………
しかし、当の秋華の顔は綻ぶ気配すら見せない。
「……………。
あの………秋華?」
「―――もし勘助さんが無理やりここから私を追い出すつもりなら、
今までのことは全部NGシーンてことにします。」
「なっ、NGて……………?」
「勘助さんと出会う前に巻き戻しします。
だから私は何事もなかったかのように知床で――――」
「―――待て待て待て待て待て待て待て待て!」
―――なんかこいつ、凄いこと言ってないか……?
「………おい、冗談だろ?」
「勘助さんの気が変わらないなら、本気にします!
それでもいいんですか!?」
「ばっ……………!」
―――いいわけねぇだろ、んなもん!
あまりの極端さに言葉を失った勘助。
覚悟を示した………にしてはちょっとキツイ感がある
。
……………マジか。
「いや、でもな、秋華。
俺はお前のことを思って………」
「私のことを思うなら!ずっとここにいさせてください!
私にはそれしかないですから!」
秋華の目に光が乱反射して見える。
もうすぐ溢れそうな具合に。
「秋華……………」
―――マジかよ。
女の涙は核兵器。
予想だにしない展開に、勘助は頭を掻いた。
こっちが攻めるはずが、思いっきり攻められている。
勘助が思っていたのよりもずっと、彼女のここへの思いは強かったのだ。
「…………。」
ふと頭をよぎる昨日の夢。
土地神さんのあの言葉。
『………時に善意は
自己満足だということだ。
勘助よ。』
―――……………。
編集 しおり コメント(0)
秋華の幸。
秋華の不幸。
今本当の彼女の幸福は何で、
本当の不幸は何か。
俺にとって不幸なのは、彼女の身に危害が加わること。
自分の前から完全に姿を消してしまうこと。
それが怖いから俺は、疎開なんてことを言ったんだ。
けど……………
『時に善意は自己満足だということだ』
俺の不幸と秋華の不幸は、
必ずしもイコールじゃない………。
――秋華にとっての不幸は何だ?勘助………
自分に問うてみた。
答えは問題文に書かれているようなもの。
さっきからはっきり彼女は言ってるじゃないか。
「ここを離れてただの女に戻ること」だ、と。
トシローの面倒を見て、芝さんをしっかり支えて、バルクの余生を静かに送らせてやること。
それだけのことだ。
自分の身の危険が、自らの不幸にならないわけがない、が、
それを差し引いても未だ残るここへの愛着、
それが彼女の『幸』。
本当に彼女の望む、
幸福…………
………………だとすれば。
『根っからの善意……だ。
勘助よ。
押し付けではない、その清らかなる善意を………』
……………仕方ない、か。
返答を待つ秋華が、微かに視界を見切れた。
粉雪が馬房の鉄格子から吹き込む。
―――よし。
「…………わかった。
何処にも行かなくていい。」
「ふえっ………………?」
秋華の手から手綱がポトリと落ちる。
―――ダメだわ。照れ臭くて顔を直視できん………
「だから…………何度も言わすな!
………ここにいてくれと言ったんだ。」
それでいい。もう、それでいい。
力が足りないのは百も承知だけれども、
俺は全力でお前を守るから。
お前の幸福の為に全力で…………
「か……んすけ……さん。」
「…………………。」
―――だあーっ!そんな顔すんなって!!
やめろって!
頼むから!
「ほら、そんな顔するな。
ここにいていいんだって。
笑え――――」
「勘助さんっ!」
突如として、秋華が空を飛んだ。
で、勘助に体当たりのごとく抱きついた。
「グホッ………………!」
編集 しおり コメント(0)
「ほんとにどこにも行きませんからね!?
いいんですね!?」
秋華としては、もう否定させるつもりもないのだろうが。
―――今さらダメとか言わんでしょ。普通………
押し潰されそうな上からの圧力の中、勘助は突っ込みを入れた。
「そ…………いていいから………頼むから………退いてくれ………」
……当然、秋華には聞こえない。
―――死ぬーーーっ!
雪を全身に含んでいる秋華は、いつもの三倍は質量をもっているように感じられた。
まー、この状況が幸せかそうでないかと言われれば、
それはやっぱり幸せだが。
「一生ここで暮らしますからーーーっ!」
―――わかったわかった。
そんな大声出さなくても…………
「ぶひゅ……………」
氷のような強烈な視線といななき(『勝手にやってろバカ』と勘助には聞こえた)を残して、
トシローは馬房に戻って行った。
(わりいなトシローwww)
―――優・越・感。
自然と顔がほころぶ勘助。
その顔の横には、わあわあ泣いている秋華。
本当によく泣くなあと思いながら、やっぱり頭を撫でてやる。
自分にはこのポジションが一番合ってるなぁと思いつつ。
はっきり言って、先に問題は山積みだ。
古川の社長解任でトシローの購買契約も白紙に戻ってしまったし、
秋華も当然狙われたままで、自分ごときがどれ程の事をできるかもわからない。
けど。
秋華の思いに気づくことができて、馬たちも無事で。
そして何よりフルメンバーで年を越えられる。
これ以上大晦日に何を望もうか?
………今は、それだけで十分じゃないか。
無理を望まず、とりあえず慎ましやかに次年度を迎える。
来年のことは来年考えればいい。
今日は、ソバ食って紅白見ながら寝る日なのだから……。
「………よし、秋華。
ソバ打つか。」
起き上がりざま、勘助は閃いたように言った。
「ソバ…………?」
キョトンと秋華。
「そ、ソバ。
ながーく幸せが続きますように、ってな。」
「長く……………
うーん………
そうですね!」
適当な説明だったが、納得してもらえて何よりである。
「よし、じゃあ仕入れだ!
各員、軽トラで業務スーパーへ突貫!」
「らじゃー!」
可愛らしく左手で敬礼した秋華。
そのあとくるっと回れ右をすると、ぱたぱたと居間へと駆けていった。
その後ろ姿を見送りながら思うことには。
編集 しおり コメント(1)
――何を迷ってた俺。
あり得ないな、秋華がいない生活は…………
覆水が盆に帰る。
………また、フツーの生活が帰ってきた。
それが嬉しい。
――こんなときだからこそ、大きな綺麗事を言ってやろうと勘助は思った。
『生きてさえいればなんとかなる』
経営が苦しかろうが、身が危険にさらされていようが、
とりあえず生きていればなんとかなるだろう。
そう割り切ることにした。
俺も秋華に、これからの生活に余計なプレッシャーをかけるのはやめよう。
フツーの生活でいい。
それが彼女の幸せであるなら―――――
窓の外を覗く。
北海道としては珍しく、大雪という感じではなさそう。
しかし放牧場は雪化粧の銀世界である。
…………そして、また見た。
あの青白い大きな蝦夷鹿を。
何も言わずに、延々とそこに立ち尽くす。
「何だかんだで気にかけてくれてんだな…………」
一言勘助はそう呟いて、ゆっくりとブラインドを下ろした。
「根っからの善意、な。」
ありがとうな。土地神さん。
また助けられた…………。
白いブラインドに閉ざされてなにも見えなくなった窓。
―――もういないのかもしれないが、もし居るのなら、俺の感謝を受け取ってください。
そうして勘助は、深々とお辞儀をした。
……………。
――――さ、ソバ打ちでもやろう!
材料を仕入れにいくか。
えーと、トラックのキーはどこだっけなと。
「勘助さん!」
障子の向こう、秋華が顔だけをこちらに覗かせていた。
「ん?どした?秋華。」
「私、ソバアレルギーなんですけど、
それでも大丈夫ですか………?」
「あぁ、アレルギー?そんなの関係ない関係ない………………
って、
アホかっ!
絶対食うな!死ぬぞ!」
勘助の怒声が、厩舎に響き渡った。
日常が、帰ってきた。




