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24

あ、もし更新止まってて続き読みたいって人いはったら、エブリスタに同名の小説ありますのでそちらから。一作目『無垢なる疾走』の402ぺーじぐらいからです。


ーーーーーー



山本牧場のリビング横の階段を二階へと上がると、社員寮………(個人部屋)がある。


社員寮、とまで言うのだから昔そこには人が住んでいた。


かつては大勢の人で賑わっていたこの牧場も今は昔。


今や二人になってしまったスタッフ、芝山と勘助はリビングで生活していたため、


廊下を挟んで左右に5部屋ずつ、計10部屋は、忘れ去られたように放置されていた。



――――斎藤秋華が来るまでは。



彼女の手前、これまでのように家中を裸で歩き回るわけにもいかず、


勘助は最近になってやっと自分の部屋を使うようになっていた。



もっとも、寝るとき以外に使うこともないのだが。




一夜開けて12月30日の山本牧場、朝。



当然まだ外は暗く、北海道ゆえにとんでもなく寒い。



………かつて作者は一度、真冬の北海道、乳牛を育てる牧場に一週間ほど移住したことがあるが、


真っ白である。何の文句もなく。


昼間の北海道を形容する言葉として


銀世界、というのもあるが、作者的には銀というよりは(情緒がないかもしれないが)蛍光灯のようだと感じる。


スキープレイヤーがゴーグルをする意味が身に染みてわかる典型的な場所がここではなかろうか。



が、そんな雪国の白き世界も今は闇の国………



すでに、4時59分を示している太い針と細い針。


秒針が12の位置を通過するのを待つように、わずかづつ、わずかづつ右に揺れていく。


そして次第と秒針が円を一周し、秒針と長針が『12』で一体化したとき―――――




『アドマイヤオレンジが一気に突っ込むが、ウォッカが先頭だ!ウォッカ先頭!2番手ドリームジャーニー突っ込むが、アサクサキングス2番手で粘りそうだ!


なんと、牝馬のウォッカ先頭ゴールイーン!


半世紀以上の空白を埋めて、ついに牝馬がダービーを――――』


バアン!



「ううん…………」



寝起きの勘助が、ウォッカ型の目覚まし時計を叩き音を止め、上半身を起こす。


「ふわぁあああ……………」



大きなあくびをひとつかまし、彼は目を擦った。


彼の寝起きはそれほど悪くない。


なぜなら彼は、六歳の頃には既にこの時間から起きるトレーニングをしていたからだ。



……………視界が合うまでわずかに時間がかかったが、ようやく焦点が定まってきた勘助は、何か暖かいものを感じて傍らを見た。



「……………何で?」



秋華がいた。



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「ん~~。くぅ~。」



何の苦痛もないような天使の寝顔。イビキと表現するにはあまりにも可愛らしすぎる寝息。



「……………。」



いや、連れ込んだりはしてないよ。


誤解されてもなんなので、ここで彼は自分の昨日の行動を省みることにした。



(あれから飯食って、風呂はいって、上あがって…………


寝たはずだ。間違いなく。)


卑しいことは何もしていない。



彼はそう自分のなかで再確認し、絡まりつく秋華をやんわりと離してからベッドを出た。



「ん………。」



秋華は寝返りをうち、壁側を向いてしまった。



顔が見えなくなってしまったのを残念に思いながら、勘助は着替えを始める。


「朝飼い葉付けにいかないと………。」



馬の一日は、早い。


毎日朝飯………つまり朝飼い葉は必ずこの時間に与えなければならず、馬の様子を確認するのもこの時間にしなければならない。


本来なら勘助と秋華二人でこれをこなすのだが、



昨日の疲れが出たのだろう。


彼女はいつになっても起きようとしない。



(ま、今日ぐらい寝かしてやるか。


………何でここにいるかはあとで聞こう。)



ジャージの紐を締め、防寒具を身体中に巡らせた勘助は、すやすやと眠る秋華の肩に毛布をかけてやってから


ドアノブを回して廊下へ出た。



誰もいないので当然真っ暗。



しかし、階段の下からはわずかに光が漏れてくる。



あそこから光が出てくるのは、リビングに電気がついてるか、玄関の豆球の消し忘れか。



「確かどっちも消したはずなんだがなぁ…………」




歩く旅にギイィと呻く廊下を階段へと歩きながら、彼はその光について考えていた。


現在この家に人間は四人。


勘助、秋華、芝山のいつものメンバーに古川が昨日の流れで泊まっている。


芝山は病気の療養のため体を動かすことができず、和室で眠っている。


秋華は………そりゃ女の子ですから………自分の部屋を持っている。


ちなみにそこはもともと勘助の母が使っていた部屋。


秋華が改めてこの家を訪れた時、「どの部屋がいい?」と聞かれた際、何の迷いもなしにこの部屋に飛び込んだ。


他の部屋がもともと男どもが使っていた事もあって、その部屋が一番清潔感があった。というのも一因であろうが、



それでも何か運命的な物を感じずにはいられなかった。



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さて、勘助もいつもは居間で勝手に寝るのだが、古川が来ているので今日に限り自身の部屋で。



そして、その古川は一番奥の部屋で。




全員の所在がはっきりしている以上、消したはずの電気がついていることは不審以外の何にも感じられず、


勘助の背中には少しばかり悪寒が走った。




廊下の端に到達し、階段の下、居間と玄関をつなぐ廊下を覗きこんだ。



「……………。」



光はどうやら居間方向から出ているようで、その光がちらつくことから誰かいることがわかる。



(芝さん、起きてんだろうか?)



物事を合理的に考えようとした結果、勘助の脳はそういった結論に達し


一応の安心を得た彼は階段をゆっくり降りていった。



老朽化した階段の板の一枚一枚がギィギィ言う。




(よっ………と。)



最後の一段から廊下に降り立った彼は、居間へ向かって恐る恐る足を進めた。



「誰だか知らねぇけど、化けて出てるようなことは止めてくれよ…………」



以前秋華の時にこんなことがあったなぁと思い出しつつ。


彼は隠れるようにして居間を覗きこんだ。



するとそこには……………



「あれ、古川さん起きてたんですか?」



古川がこたつに入ってタバコを吸っていた。


繰り返すようだが今は午前五時。



「えらく早起きなんですね。


………まあ、仕事柄この時間に起きる僕もあんまり人のことは言えません……………が……………



な………………。」



近くまで歩いていって勘助はその場の異様さにはじめて気がついた。


煙がかった部屋のテーブルの上、灰皿に山のように積まれた吸い殻は一箱や二箱のものではない。


テレビは付けっぱなし。ただし、終了したアナログ放送を流しているので画面はノイズのまま。


しかも、古川はそれを見ていない。タバコも、持っているだけで吸わない。


ただ持っているだけで、減ったら灰皿につっこむ。また火をつける。


………あの吸い殻の量からみて、おそらくそれを繰り返していたのだろう。



「古川さん…………?」



いったい何をしてるんだとばかりに勘助が肩を叩いて自分の存在を知らせる。


が、


「………。」


反応がない。



というか、むしろ魂が抜けたような。


よく見れば目の焦点も定まっていない。


口は開けっぱなし。


煙は出しっぱなし。


未だ勘助にも気づかない。



まさに放心状態と言う感じ。



勘助は、さっき走り抜けていった悪寒が、再び登って来るような感覚に襲われた。

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「ちょっ………古川さん!?


いったいどうした!?


気味悪いから動いてくれ!」



両肩を持って揺すってみる。


しかしやはり反応がない。



「……………!


いったいなんだってんだ!」



とうとう勘助は力一杯古川の体を揺すった。


古川の手から燃え尽きたタバコがポロリと落ちる。



そこまでされて、やっと古川は勘助に反応した。



「……………勘助ちゃんか。」



「!!」


こちらを向いた古川にはいっぺんの笑顔もない。


そればかりか昨日見たときより二十歳は老け込んで見える。


顔は筆文字で「疲労」とかかれているのかと思うほどにやつれており、わずかに開いた両目はハエのように赤く充血している。


ことに表情に至っては全く生気が感じられない。



ほとんど死人かというほどに負のオーラを放つ古川が、そこにはあった。



「ひょっとして………夜通し起きてました………?」


顔色を伺いつつ勘助が聞く。


昨日、自分達の方が先に二階に上がったのを思い出したから。



彼の問いかけを半ば聞き流すように古川はそっぽを向き、机の上にあったマイルドセブンの箱からまた一本タバコを取りだし、口に加えて火をつけた。


ただし、吸わない。



「な、何がしたいんですか…………?」



これを見て勘助は、これはもう本当にただ事ではない、と感じた。


これはもはや、古川だからおかしいのではなく人間の行動としておかしい。



勘助は古川の手中で延々と煙を吐き続けるタバコをひったくって灰皿に押し込み、


古川を一喝した。



「どうした古川さん!?いったい何が―――」



「―――勘助ちゃんは、ホラ、トシロー君の朝飼い葉つけにいかなアカンやろ……………」


視線をテーブルから移動させることなく、古川は『呟いた』。



一応は勘助に話しかけているのだろう。が、会話にならない。一方的に古川がおかしいこの状況では。


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勘助は古川の正面に自ら入った。


こうすれば必ず視界に入る。



しかし、古川は目の前に勘助を見るなりまた同じように虚ろな表情を見せる。



(…………何が起きてるんだ………


この人に…………)



勘助はもう一度正面から肩をぐわしと掴み、はっきりした口取りで聞いた。



「………古川さん。落ち着いて聞いてくれ。



いったい、何があったんだ?



昨日までのあなたと今日のあなたでは何もかもが違う。



あなた今自分がどんな顔してるかわかってます?


……………。


まるで死人ですよ、死人――――」





「俺はもう、死人同然や。


悪いが放っといてくれ。」




「!!!!!!?


古川さん!?あんた一体何言って―――――」




ピンポーン。



玄関から呼び出しのべるがなる。


「来客?こんな時間にか?」



古川の肩をつかんだまんま、音のした方向に目をやる。


同時に目に入ってきた壁掛け時計を確認しても、やはり五時半にやや足りない時間。



こんな時間に誰が何の用で―――


「――――来たな。」



「えっ?」


古川がはじめてまともに言葉を発した。


と、同時に今までがなんだったかと思うほどにしっかりとした足取りで立ち上がり、玄関へと歩いていく。



「ちょちょちょ、古川さん!?」



「俺が出るから、勘助ちゃんは飼い葉つけに行き。」



掠れまくった声で古川は勘助に言う。


これを辛うじて聞き取った勘助は、


「いや、そういう訳にも………」


と、古川のあとに続いた。



玄関からはすでに、車のヘッドライトから来ているとおぼしき光の筋が、幾重にも重なってガラス戸を貫いていた。


「これは…………」



あまりにも光の良が多すぎて目が眩みそうになる。


玄関へとたどり着いた頃には人の影もちらほら。



「そ、相当な台数なんじゃ…………


古川さん、これは一体………?」


ノンストップで既に土間に降り立ち、鍵を開け始めた古川に、勘助は聞いた。しかし、



「…………………。」


その戸が開くまでに返事が帰ってくることは遂に無かった。



ガラガラと独特な音を上げて右にスライドするガラス戸。


その向こう側にいた人物とは………






「ンフフフフ……………


あぁッはッはッは!


来ちゃあぃましたよぉ?


古川さぁーん!」





真っ白なスーツを着た、どでかいサングラスをかけたやせ形の三十代くらいの男が、大口を開けながら笑い、手を広げて立っていた。



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そしてその後続に、黒いスーツと目の辺りを覆い隠すようにかけられたサングラスが特徴の


いかにもヤクザという出で立ちの男が2、30人、ずらりと並んでいた。


(な、なんだ…………


これ………)


あっけにとられる勘助。



この連中…………いや、軍団が、一体うちの牧場に何の用事だと?



その人間の大さと怖さに圧倒され言葉も出ない勘助。



そんな彼が、古川の顔がだんだん険しくなっていっていることに気がつくはずもない。



「お前らと馴れ合いをするつもりはこれっぽっちもあらへん。


用件だけ言うてとっとと去ね…………」


唸るように睨みを効かす古川。



しかし、白スーツの男―――八島奈落がそんなことで気後れするはずもない。



「ほほぉお!初対面の相手にえぇらく高圧的なんですねぇえ?


ま、あれでしょうかぁ?負け犬の遠吠えぇ?


そんなとこですよねぇえ?古川さん?」



「貴様……………!」


いきり立った古川が身を乗り出したところ、奈落を庇うように後続の黒スーツが2、3人飛び出し、古川を突き飛ばした。


「がっ!」


突き飛ばされた古川は、長靴やらスニーカーやらが散乱する玄関口に転がり落ちた。



「ふ、古川さん!大丈夫ですか!?」


あわてて、勘助は介抱する。


「うぅ……………。」


頭を擦りながら唸る古川。



いくらこちらから詰め寄ったとはいえ、60歳の老人にやっていいことではない。


唸る古川を腕に抱いているうち、勘助の胸には恐怖をまるごと黒で塗りつぶすような怒りが沸き起こってきた。



「あんたら一体何者だよ!?


うちの牧場に文句でもあんのか?


なら俺に言え、俺に!



老人相手になんてことしてんだよ!?」



今まで発したことがないような怒声が自分の口から飛んでいった。


正直不味いかなぁとは思ったが、苦しそうに唸る古川の姿を見るとそんなものは吹き飛んでいった。


白スーツを睨み付ける。



が。




奴は笑っていた。



「人聞きが悪いですねぇえ?


そこの老いぼれが先にボクを殴ろうとしたんですよぉ?


つまり、つまり…………



正・当・防・衛・ってこと!



そのちっさい脳みそでもわかるんじゃないのぉ?


ああッはッはッは!」




「こ、こいつ…………!」


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白スーツの男、八島奈落は


やれやれ、と首を左右に振り、少しも笑っていない目と対照的に上に歪ませた口許から「くふふふふふ………」と笑い声を出しながら、黒スーツと共に玄関に侵入してきた。



「おーぉ邪魔しますよぉお?山本勘助ぇくぅん?



ここで立ち話もなんでぇすしぃ。」


足で散乱する靴を蹴飛ばしながら奈落が侵入してくる。



「何ぃ…………!?」


勘助の直感は、その男の侵入を許すなと告げていた。



「クソが!汚い足でうちの敷居を跨ぐな!


帰って老人愛護の意味を辞書で引いてから来やがれ!



てめぇは俺の脳ミソ以上に器が小さいことをよく覚えとけ!」



精一杯反撃したつもり。


どこで聞いたか習ったかわからないような悪言を発した勘助だったが、


(おっ?効いたか?


よし、このまま口で追っ払ってやる!)


白スーツが一瞬うろたえたのを見て、勝利を過信してしまった。



「お前の器は湯飲みか?計量カップか?お猪口か?


いや、もっと小さいか!ペットボトルの蓋でどうだ!


ちょうどいいちょうどいい!



それがわかったらとっとと帰れ!」



語尾に鼻をフン!と鳴らし、嘲るような視線を白スーツに向けたとき、


彼は言い過ぎに気がついた。



つり上がった口と目が明らかにヒクついている白スーツ。


完全にキレている。



「いってくれますねぇえ………!



忠告どうもありがとぉ………!」


まるでトラックにぶつけられたガードレールのようにひしゃげた顔を勘助の顔数センチまで近づけてくる。


ヒートアップした口からは、多量の唾が飛ぶ。


(きっ、汚い!)



勘助はおもいっきり仰け反ったが、それがかえって尻餅をつく原因となった。



白スーツは立ち上がると同時にクルっと一回転し、ピタッと止まると勘助を指差して言った。



「でわぁ、立場をわきまえない君にボクからお礼を…………





蘇武輪。




殺しなさい。」



「へぇ!若頭!」



「!?」


最後列から列を割って勘助に向かってダッシュしてくる八島蘇武輪。



約2年前、怪我をした自分を迅速に手当てしてくれた優しい古川の秘書が、明確な殺意を露に突っ込んでくる。



「なっ!?はっ!?」

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「そ、蘇武輪さん!?一体こんなところで何し―――」



「やかあしい!!!」



尻餅をついたままの勘助に、虎のようにとびつく蘇武輪。


「うぉッ…………!?」


馬乗りになられたかと思うと首に腕が回り、脇腹に一発パンチが入り、勘助は次の瞬間


足が地面から浮いたままの宙ぶらりんの状態で、蘇武輪に固定され



首を絞められていた。


「ガッ…………く、苦し………」


足をじたばたさせてみるが、なんの効果もない。



「な、何してんねん!?蘇武輪やめろ!」


事態を察知し、


すぐに起き上がった古川がやめさせようと蘇武輪に飛びつこうとするが、




「お前たちぃ?」


「へぇ!」



白スーツの腕のひと振りで三人ほどの黒スーツか飛び出し、古川を取り押さえる。



「なっ!?こら、離せ………このッ!


勘助ちゃん!」



古川は必死に叫ぶが、吊り上げられた勘助が返事をできるはずもない。



(うっ…………し、死………)



「くふふふ………さぁて、知床にでも捨てましょうかぁ?


死体は…………」



(な………に………を………)



「苦しいかぁ?苦しいかそうか!


んふふふふ…………


あひゃひゃひゃ!!


続けなさい。」



「へぇ!殺します若頭!」


なおいっそう蘇武輪の腕に力が入った。


「かっ…………………!」



「凄い大きな声がしましたけど………何かありましたか………


ああっ!勘助さんっ!」


秋華の声がする。














………あぁ、だんだん意識が遠くなってくる…………。


白スーツの笑い声がやたら頭に反響する………。


ん?古川さんや秋華の声も聞こえるなぁ………



俺を助けようと蘇武輪になんかしてるんだな………


でも、なんかもう、どうでもいいや…………


俺はたぶん死ぬんだ。


最後に余計なことを言ったから死ぬんだ。


そういや古川さんにも親父にも、一言多かったよな、俺…………



口は災いの元だな、へへ………


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遺書も書いてないなぁ………



あ、でも親父は書かなかったっけ…………



『ラグフェアーは勘助に譲る


父より』



って書いた紙が一枚だけ……ふふっ。



あぁ、親父とおんなじ所へ行くんだな…………





芝さん、今までありがとう。


本当に、親父のように慕ってました。


長話も、叱咤も、あなたのすべてに憧れていました。


先立つ不孝をお許しください。


無理かもしれないけど、できるだけ長生きしてね。天国から応援してます。



バルク。


お前には死ぬほど蹴られたし噛まれたけど、この半年は凄く楽しかった。


でも、


観光客が減らないようにおとなしく生きてください。




トシロー。


短い付き合いだったけど、俺はお前を弟のように思っていたぞ。……真田さんみたいだな(解る人だけわかってね)。


お前は将来大スターになれる馬だ。


三船俊郎のように………


頑張れよ、トシロー。


霊となっても、競馬場には行くからな…………



古川さん。


トシローを頼みます。強い子にしてやってください。





最後に…………




秋華…………………




秋華…………………




秋華…………………




秋華……………………




秋………………………




あき……………………な。




……………………。
















山本勘助は死んだ。



このあと、山本牧場は解散。



古川は芝山と慎ましやかに過ごし、



秋華は銀行員と結婚し、



トシローは乗馬でオリンピックに出場した。






――――――完――――――――

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って、






終わってたまるかーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!!










トシローの活躍を支えるのは俺だろ!?





古川さんに夢を見せるんだろ?





芝さんがこのまま死んじまってもいいのか!?







それに、


俺はまだ秋華と何もできてない!(いろんな意味で)













くそがっ!死んでたまるかッ!このッ!



えぇい!離せっ!このッ!










あああああっくそッ!てぇい!









ガツン!








勘助の足は、何か柔らかいものを蹴り飛ばし。












今にも死に至らしめようとしていた拘束が、










一気に解かれた。











「うおおおおおおおっ!」


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ドサッ!


拘束を解かれた勘助が地面に落下する。




「がはあっ!ぶはぁっ!ぶはっ………!ハァ!ハァ!ゼェ!ゼェ!はぁ!」


視界が真っ白な世界から一気に玄関の景色に戻る。



「勘助さんっ!」


仰向けに倒れた勘助を介抱するように、見たようなパジャマ姿の女の子の顔が目に映る。





「あき……………な。


うぉッ!?」



次の瞬間、彼はさっきの圧迫とはまた違った圧力に全身を委ねる形になった。



が、さっきの圧迫全く違う、心地よいものだった。



「ばかぁっ!何回死んだと思わせんのよっ!


無茶ばっかりっ!」



「あ、あぁ…………」



状況は解らないが、とりあえず助かった…………。



(走馬灯…………じゃないよな。)



勘助は、彼女に抱き締められている自らの状況から、


自分の生存を確認した。



「何で…………ヒクッ、こんな……うう………無茶を………」



「いや、まあ………ゴメン。」



なんか、泣かしちゃったっぽいので、謝る。


凄く、暖かい…………





「うおおおおおおおっ!」


桃源郷のような幸せを切り裂くように、野太い声が耳をつんざく。



「!?」


すぐさま体を起こすと、目の前に八島蘇武輪が地面を転げ回る姿が見えた。


ただし、珍玉を押さえて。


「うおおおおおおおっ!く、苦しい!苦しい!」



どうやら勘助が蹴飛ばした柔らかいものとは(自重)だったようで、しかも、クリティカルヒットだったようだった。




「そ、そぶりぃん!?」


白スーツはこれまでになかったほどに狼狽し、おろおろしている。



「も、申し訳ありません、若頭………油断しました…………。」



「あのなぁ……………お前はバカかぁ?


誰がお前の心配なんかしてると思ってるのぉ?


誰が本気で殺そうとするんだぁ?


脅しをかけろって言ったんだよこのクズがぁ!!」



そう叫んだ白スーツは蘇武輪を足蹴にする。



「あぁん!?またムショにいきたいのかぁい!?


ホントに体だけだねぇ、お前はぁ!」


何度も何度も蘇武輪を蹴飛ばす白スーツ。


「申し訳ありません!申し訳ありません!若頭!


ぐっ、がはっ!申し訳ありません!」



体を丸めて苦痛にうめきながらも必死に謝罪する蘇武輪。


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勘助は思った。


この白スーツの男は、汚い。



自ら手を下さないことで、自分の責任を逃れようとする上、自分にはなんの責任もないと言い張る。


忠実に言うことを守った部下に、責めを負わせる。


まあ、守った方にも問題はあるが。


ずっとこんな生活をしてきたのだろう。部下を蹴飛ばしているのに、むしろ楽しそうにすら見える。



性格が悪いとか、そんなんじゃない。


クズだ、こいつは。



人間の最底辺に位置する本物のクズだ。


さっき自分を殺そうとしていた、蘇武輪すら哀れに思える…………


こんな上司が…………




「あぁあ?てめぇも脳みそ小さいクズかぁあ?


天才のこのボクの命令ぐらいはしっかり理解しろよぁあ!」



「す、すいません!がはっ!申し訳ありません!ゴハッ!」



「ああ!?謝って済むかぁ?コラ。


てめぇがムショ入りしたらボクの計画はは全部おじゃんだろぉがよぉ!


このクズ!クズ!こらっクズ――――」




「もういい!やめろ!」


勘助は手元にあったスリッパを地面に叩きつけた。



パァン!と乾いた音がする。


白スーツは手を………いや、足を止めた。



「ぐっ…………がはっ!ごほっ!」


蘇武輪は噎せ返った。



「もうやめて、勘助さん!」と制してきた秋華をやんわりと退けた彼は、丸まりながら息を整えようとする蘇武輪を一瞥してから白スーツに向かって、こう言った。



「わかったよ………中に入って話をすりゃいいんだろ…………



…………入れよ。」


親指で家のなかを指す。




それを見た白スーツは、ニヤリと顔を歪め、最後にもう一度蘇武輪に蹴りを入れてから甲高い声で笑った。



「あぁーっひゃひゃひゃ!



懸命な判断で痛み入るよぉ、クズが!


最初から素直にそういえばいいぃ!」



「クッ…………勘違いするな、今入れるだけだ。


お前らが話すこと話したら俺はすぐに警察を呼ぶ。


ここに首を絞めたあとはくっきり残ってんだ………!」



勘助は自らの服をはだけさせ、圧迫された箇所を見せつけた。



そこは、ものの見事に赤くなっている。



誰の目にも、何かされた後だということは明らかだった。




しかし、白スーツは狼狽えない。



むしろ笑う。



「くふふふふ………これだから頭の小さいクズは………」



「なにぃ?」


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「何がおかしい…………


俺が証人だ…………!」


古川が唸る。



しかし、白スーツは全く臆することなく高らかに笑い



「……………いいでしょお!


やってみなさぁい!ボクはすぅーぐに捕まるでしょおう!



そしたらぁ、ムショ送りになるでしょお?


ま、そうなったら全国の八島組があなたのご家族に何をするか解りませんがねえぇえ!


当然、そこのお美しい嬢ちゃんにもねぇ!



うちの衆には変態も多いですからお気をつけあれぇえ。」



「!?」


一気に恐怖の表情に変わる秋華。


彼女の自分を抱く手が一瞬強くなったのを勘助は感じた。



「この……………ゲスが。」



勘助は、軽蔑の念を、かつ憎しみを込めて白スーツを睨み付けた。


「あぁらっ?ただの独り言のつもりが…………


ひゃひゃひゃ!




とりあえずあがるよ。


土足でいいかなぁ?」



奴は冗談ではなく、本当に靴を脱がずに上がる気らしい。


フローリングの上に、革靴をのせようとする。




「馬鹿野郎!靴は脱げ!


汚らわしい…………!」



「汚らわしいぃい?まだそんなことが言えるんですかぁ、立場もわきまえずぅ!



もう一度痛い目を見ますかぁ?



―――蘇武輪!」


白スーツは手で攻撃しろと合図を送ったが、



「申し訳ありません若頭、しかし……………」



と未だ苦しそうに踞る蘇武輪は、とてもそれどころではなかったのだろう。


命令に従うことはできなかった。



「チッ………


使えねぇゴミだなぁあ!」


白スーツはポケットの中にあったガムの噛みクズを取りだしそれを蘇武輪に投げつけてから、


「野郎共ぉお!行くぞぉう!」



と、手でカモンサインを出しながら、今度は靴を脱いで上がった。


「まて!居間には人が寝てるから絶対入るな!」と、白スーツを追いかけるようにして古川が続く。



玄関には、秋華、勘助、蘇武輪が残された。



「…………………。」


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数分後、蘇武輪は血を吐き出しながらも立ち上がった。


こちらを殺意のこもった目で睨みながら。



反射的に勘助は身構えたが、それを庇うようにして秋華が彼の前に立った。



「まだやる気なの!?


もうやめて!


やるなら勘助さんより私を―――」


震えながらも両手を広げて立ち向かう秋華。


「…………いや、あのな。


それはさすがに逆だと思うぞ、秋華。」



「でも………………!!」



そのとき、蘇武輪の目から殺意が一瞬和らぎ、そして彼は下を向いた。



「心配するな。俺は命令もねぇのにお前らガキを襲う趣味はねぇ。


特に嬢ちゃん………あんたにはな。」



「…………!


な、何で………」



秋華が一歩後ずさりする。



「あんたは………俺と同じ匂いがする。


………ここの人間じゃねぇだろ、あんたは。」



「……………!」


後ろからでも、秋華が動揺したのはよくわかる。


勘助は肩を支えてやった。



「………それに、お前のことも嫌いじゃねぇ、勘助。」



「………………!!



覚えて………たのか?」



唖然とする勘助。



に、唖然とする秋華。


(し、知り合い……なの?)



蘇武輪は血でぐちゃぐちゃになった顔を拭いながら驚くほどに低い声で話始めた。



「お前には度胸がある。うちの若い衆に爪の垢煎じて飲ませてやりたいほどにな。」



「な……………。」



「そこまで言うのになぜ殺そうとしたのか、だろう?お前の質問は。



……そもそも俺はあそこの牧場には若頭の命令で行った。


蘇武輪って名前もわざわざ作り直した名前だ。取り入るためにな。


あそこの人は嫌いじゃねぇし、古川のジジイの事だって今でも男気のあるいい奴だと思っている。



が、な。



この世界は理屈じゃねぇ。


俺が世話んなった先代の頭が亡くなりゃあ、


その息子に付き従うのはこっちの世界じゃ当たり前のことだ。


嫌とかできないとかそんなんじゃねえ。



若頭の命令があれば、俺は親友だって殺す。親だって殺す。兄弟だって殺す。


これはルールなんだ…………。



だからお前も、俺は本気で殺しに行ったし、古川のジジイも裏切った…………。



若頭の前では情を見せちゃなんねぇ。どんなに心苦しかろうが、相手を罵倒し、殺傷し、始末する。汚ねぇと思うだろうがな。



が、これも仕方ねぇ。どうもこうもこれは掟なんだ。



…………俺は人間だ。


誰が好きで人を殺すか……」



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膝についた血ヘドを払い、あらかた表だった流血は無くなったような蘇武輪は、靴を脱ぎ、それを丁寧に並べて


未だ勘助を守ろうと一人奮闘する秋華の横を通りすぎてフローリングに上がった。



「蘇武輪……………」



「勘違いするな。だからと言ってお前を助けようだとかそんなことは一切考えていない。


若頭がお前に罵倒された。その事実は変わらん。



お前に蹴られたことは何とも思っちゃいないが、


配下の人間として、若頭を馬鹿にしたお前は許さん。



だから、次同じ命令が下れば、迷わず俺は同じことをする。


それを覚えとけ………」



「………。」



警告、か。


口ではああは言ってるが、どこか自分達に対しての気遣いが見える。


仕事に純粋なゆえの、苦しみも見てとれる。


数々の裏切りを、自分の頭領のためと割りきってきたのだろう。



「………わかった。以後気を付ける。」



純粋に警告への礼、として勘助は軽く頭を下げる。


それを見た蘇武輪はフン、と鼻で笑い、


「おめぇみたいな奴が一番騙しやすいんだよ、俺らからすりゃあ………」



といい残し、蘇武輪もまた、フラフラとリビングへと歩いていった。


その歩いたあとには血のあとが点々と残る………。


「許したんですか?」


いつの間にか正面を向いていた秋華が、腕を組んで聞く。



「あんなにひどいことされたのに……………」



もっともな質問だ。


蘇武輪は本当に彼を殺そうとしていた。


実際、走馬灯も見えた。



確かに、今考えてもやり返して当然、腹がたって当然


とは思う、が……………。



「わからない…………


けど、あの人は根っからの敵じゃない気がしてな…………



………すまん。」


勘助は秋華にもまた、頭を下げた。


はぁ………とため息をついた彼女は組んでいた腕を下に下ろし、



「あの人の言ってることは理解できないけど………



勘助さんが騙されやすいっていうのは絶対その通りです。」



いつものムッとした怒り方とは違う、本当に心からの呆れと怒りの入り交じった口調だった。



「………わりぃ。」



「謝り方変えたからって一緒です。」



いっそう秋華の声が冷たくなる。


………ま、無理ないか………。



「…………とりあえずその話はあとだ。


向こうにいる芝さんが心配だし、


古川さんだけだったら何をされるかわからん。」



「……………。」


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多少誤魔化すようにそれを言い流し、勘助が段差に足をかけてフローリングを上ろうとしたその時。


「勘助さん……………。」



「ん、どうし―――――」



パァン!


「!?」


勘助の顔が横に吹っ飛ぶ。



秋華の平手が、彼の頬をしっかりとらえた音だった。



勘助の体は極度にぐらつく。



「いってぇ!!


何する秋華――――」


こんなことははじめてだったので、勘助はひどく狼狽しながら秋華を怒鳴り付けたが、


彼女の様子を見てそれをすぐにやめた。





「今日はこれで許しますから………



だからあんまり無鉄砲はやめて…………」



「!」


彼女の目に再び滴が落ちる。


ふらふらっと勘助にもたれ掛かった秋華は、勘助の背中に手をを回し


それをゆっくり抱き締めた。




あぁ、こりゃ不味かったなと。


想像以上に秋華は自分のことを心配していてくれたようで、


それに対して自分はあんまりにも適当に受け答えをしていたようだと。



「……………。



うん、悪かった………。」



勘助が胸の前にある彼女の頭を静かに撫でる。


それに比例するように、背中の圧迫感が更に増す。



「約束です……………。」







「…………。」



そんなおり、ふと勘助は


今日の朝、何で秋華は俺の部屋にいたんだろうか


というのを思い出した。


横に秋華がいるのは、今このとおり心地いいものだから嫌とかそんなのではないけれども、


やっぱりそれは気になる。


確かに昨日、部屋の前で別れたときには互いの部屋に入ったはずで………



「なぁ、秋………」



胸に顔を埋めて、なんにも言わない秋華。




…………まぁ、いっか。



ここで聞くのは野暮だ。





結局勘助は、何もいうことなく


頭を撫でることに没頭した。




とりあえず、秋華が離れるまでは………………






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―――――――――――――――


山本牧場社員寮(兼自宅)のリビングはそれなりに広い。


かつて、多人数の従業員を抱えていた頃は皆がそこで飯を食うので、いわば食堂のようになっていた。


今でも入り口に『食処』と書かれた表札がかかっているのは、その名残なのだろう。


そこを勘助の父兼続が、従業員の大幅削減を行った際、


家族のスペースとして使えるよう、長テーブルを排除し、ソファを置いて壁掛けテレビを設置し、普通のサイズのテーブルを置くことで、リビングと呼ばれるにふさわしい形にした。



ま、この家の主とその先輩、そして主の恋人は、専ら和室に集合するのだが。





日も明け、時計は午前9時を回った頃。



その兼続が設置したテーブルをはさんで、


古川、勘助、秋華と


八島奈落は対談を行っていた。




とはいえ、『対談』とは形だけのもので、実際には白スーツの奈落が


ショッキングな事実を古川に伝え続け、それを聞いた古川が愕然とし、勘助が驚き、秋華が励まし、



その様子を見る奈落が高笑いをする。


それの繰り返しだった。




「じゃあ…………ロージズインメイの本株も全部売り払って………


コスモオオゾラはサウスヒル牧場に売り払ったと…………?」



彼が大切に守りとおしてきた、ラージブリーティングファームの裏主流血統とも言えるロージズインメイ系の最有力後継種牡馬、コスモオオゾラの売却と、その祖、ロージズインメイの持ち株を全て破棄されたという事実を知らされた古川は、


テーブルの上に手をつき、辛うじて体勢を起こしながら聞いた。



「えぇえ、はい!そのとぉーり!



あんな馬、持っていても仕方ないでしょう?


時代はディープインパクトですよぉ?オルフェーヴルですよぉ?


良血の時代なんですよぉ~!」



競馬を初めて間もない、素人そのものの発言を繰り返し、玄人がじっくりと造り上げてきたコスモ、マイネルの繁栄の道を、まるでシャベルカーで森を切り開くかのごとく否定し、


それを実際に実行したと言う八島奈落。




これまで三時間ほどこれの繰り返しで、古川は絶望のあまり勘助の補助なしでは座ることすらままならない様子であった。



「あ………………あ……………」


頭を抱えて顔を伏せる古川。



「き、気を確かに!古川さん!」


枝のように細くなった彼の神経を、なんとか繋ぎ止めようと勘助が支える。

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(こんなことが…………


あってたまるか………!)


声にできない怒声を頭の中に反響させる勘助。





あまりにも大胆、かつ無情な八島奈落の仕打ちに、彼は言葉もでなかった。



古川と八島奈落の会話の内容でわかってきたことは、



まず、有馬記念でワールドクロックスが優勝した12月27日。


勘助は電話で、芝山の容態悪化を古川に伝えた。


そのとき古川は、東京地区に仕事(東京ホースアソシエーションとの幼駒の購買契約)を残していたのだが、勘助のその報告を聞いて居ても立ってもいられず、北海道に帰ってしまう。



これにより、東京ホースアソシエーションとの契約がオシャカになり、総額2億円の損失を計上した。


この時既に八島蘇武輪は役員会の会員(古川秘書枠、古川が創設)である自らの立場を利用し、この損失をネタに絶対効力のある不信任決議案を提出する準備を整える。

二夜あけて東京大賞典の12月29日、八島蘇武輪は『社長の解任要求に当人不要』を理由に当人留守の状況のまま理事会を断行。


満場一致で古川の社長解任が決定した。



さらに八島蘇武輪は、『新体制にはサボタージュの無いような、ちゃんとした人材を、新風を吹き込む必要がある』と発言し、社長を外部の人間にすることを提案、満場一致で可決。


次いでその人材として、カリフォルニア大学院卒業(ただし、偽情報)の八島奈落を擁立、こちらも満場一致の可決で就任が確定した。




「なんで…………理事の連中は………


お前なんかに………従った…………!?」



息も絶え絶えに古川が聞く。


無理もない。


古川から見れば、


今まで一緒に仕事をして来た仲間が、一瞬で手のひらを返すように自分を排除しようと働いた。


しかも一致団結して。


信用してきた仲間に裏切られるというのは、やはり、人にものすごいダメージを与えうる。



そして、八島奈落はそんな状況を、まるで古川がおもちゃであるかのように弄ぶ。



「へえぇ?そんなものぉ、お前がグズみたいなことをしたからに決まってるじゃなぁあぁい!


不満が招いた結果でしょぉ?」



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「ふざけんな…………!


お前が連中を焚き付けたことはわかっとんねや!



せやなかったら、満場一致で可決やなんてアホな真似があってたまるかっ!!」



精一杯の怒声なのだろう。


が、はたから聞けば弱々しい以上の感想は得られない。



おそらく八島奈落もその一人で、くわえていた葉巻を灰皿にトーンと落とすと、突如含むような笑いを漏らした。


「くふふふ………ご名答。」



「……………!」



「なぁに、脅したりはしていませぇんよぉ?


ただ、一人一人の後ろにうちの部下をつけて、札束で顔を叩いただけですねぇえ。



たったの100万ぽっちで動くとは、情けない連中を雇いましたねぇえぇ、古川さぁん?」



いかにも優越感に浸る奈落の顔。


葉巻の煙をわざとらしく遠くへ吐き出し、それを古川にまとわせる。


が、古川はそんなことはもうどうでもよくて、部下に裏切られた絶望と悲しみで、もはや再起不能かと思われるほどに、その場に崩れ落ちた。



「古川さん!」


勘助は肩を支えようとするが、古川はそれを払いのけた。



「くっ………この…………」


目線だけはそらすまいと奈落をにらみ続ける古川。



奈落は少し怪訝そうな顔をして、『まだ足りないかぁ?』とばかりに再び口を開いた。




「古川『前』社長は、


大切にされてきた幼駒が三頭ほどいましたねぇえ?」



さっきから変わらず、大福がひしゃけたような気持ち悪い笑顔をさらす奈落。


傍らの部下から書類を受けとる。



「三頭やて……………?」



「えぇえ、そうですよぉ?


まずは………これですねぇ、


フレンチカクタスの牡馬、父キングカメハメハァァ!


評価額は五千万。」



「そ………れがどうした―――」



「結構高く売れましたねぇえぇえ!



社長になるのを見越して先に契約したんですょお?


賢いでしょおぅ!


蘇武輪使って。



今ごろサウスヒルについてる頃かなぁァァ?」




「な、なにぃ?あれを売ったやて………!?」



古川の狼狽は、馬の話に入ってさらに加速した。




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逆襲のヤシマ


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「それから次わぁ………


あぁ、コスモバルクの全妹の産駒がいましたねぇえ?」



手元の書類をのぞきながら蘇武輪が言う。



「あ、あれも売ったんか………?」




「ンフッ!



はぁい当然ん!



どこに行ったんですかねぇ、あれはァ?



えーと、何々?香港に売却………


くふふふふ!もう帰ってこれませんねぇ!



あそこは繁殖と言う概念がありませんからァ?(★1)」



「な、なんちゅうことを………



………………。



………ってことは三頭目てのはまさか…………。」




「はぁい!そのまさか。」



ニタニタ笑いながら、八島奈落は手元にあった書類を古川に投げ渡した。



馬の写真と血統表が挟んであるファイル。


馬名の欄には


『コスモスクエアの牝』


と書かれてある。


『父、スルーオフ


母、コスモスクエア



全兄コスモスルーオフ』



とも。





「何でもG1馬の弟だそうでぇ?


かなりいい値で売れましたよぉ!



あなたは相当なオファーにも関わらず、この子を手放そうとしなかったらしいじゃないですかぁあ?


だから、未練の無いように僕が売ってあげましたァ!



はははひゃひゃ!せいぜい感謝でもしなさァい!」



黒いサングラスの向こう、目をへの字に曲げて高笑いする八島奈落。



その奈落から渡された書類三枚にくまなく目を通し、幼駒の売却が現実にあったことを確認した古川は、「こ、こんな………」とうめいたかと思うと、


操り人形の糸が切れたときのように、ドサッとソファに崩れ落ちた。



「ふ、古川さん!?古川さん!」



今度こそ古川は、抗言する力を失ってしまったようだった………。



「あーっひゃひゃひゃ!


やっとくたばりやがったよこの老いぼれが!



お前の肝いりの馬なんて見たかないんでねぇえ?


全部売ってやるんだよぅ!ひゃひゃひゃひゃ!」



腹を抱え、崩れた古川を指差し笑う奈落。





(★1)…………日本は、北海道という広大な土地があるため馬産が可能であるが、面積の小さい香港競馬では、そもそも繁殖して子を作らせるという考えがないため


大半の馬が気性を正すことを目的にセン馬(大事なものをとられた馬)にする。


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ただただ、幼稚な遊び。


そう、遊びなのだろう、こいつにとっては



全てが。



人の苦しむのを見て、それを楽しみ優越感を得ようとする。


そこには、何の意志も存在しない。


人が苦しむという事を苦としない冷徹さと、


人間が元来から持つ他より優位に立って他人を見下したいという本能。



それを曲げて組み合わせてひねくれたのがこの形。



八島奈落はその具現―――




「さぁーてぇとぉ。



状況は理解できたァ?クズが。


おい、特にそこのボンクラ坊主。



もうそこのジジイは社長じゃねぇんだ


すでに金も地位も名誉も馬も無くなって、スッカラカンのクズ同然のヤツだ。



そんな奴に肩入れするぐらいだったらどうだァ?



僕と組まないかァい?」




「……………は?」


勘助は耳を疑った。


何言ってやがる?こいつは?



「お前………気は確かか?」



「あぁあ、確かだとも!



なァに、簡単な話だよぉ!


お前はラグフェアーの子を老いぼれに売っちまうつもりだろぉ?


それを俺に売らないかといってるんだぁあぇああ!」



語尾、はたから聞けば興奮しすぎて何が言いたいのかわからない八島奈落。


笑いとも、威勢付けともとれないその言動は彼の狂気を際立たせる以外の何物でもなく、



冷水が通り抜けたような背中をソファに押し付けた勘助は、


「だ、誰が…………!」



と、声を絞り出した。



すると八島奈落は不気味に微笑んで、


「この老いぼれはあの馬に1億出すと言ったんだろぉ?


フフン、あの馬になぁ………



血統も母方の成績も大したことねぇのになぁあ!」



「なんだと!?


てめぇ、言わせておけば―――」



「―――その感覚は理解できねぇがァあっ、なぁ、坊主よぉ?



お前の馬はどうしてもボクに必要なんだよぉお。


だからボクに売れってんだよお!」



「必要だと…………?


なぜそんなことを言う?


肝いりの馬は必要ないとかぬかしていたのは…………」



「ボクだぁ、いかにもボクだぁ!」


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一言づつにポーズを固め、まるで子供が母親にオモチャをねだるときのように、全身を弾ませるように話す奈落。


ソファの弾性も相乗し、あまりに激しく跳ねるため


彼のサングラスは既にずれ落ちる直前―――鼻に辛うじて引っ掛かかっているレベルだった。


が、彼はそれを気にしない。


そのため彼の顔は目から口まで何もかもが確認できるようになっていた。




その時に、勘助はその目を初めて直に見た。


(これは…………)



くすんだ黒色の、血走った目。何処までが瞳孔何だかわからないような、クレヨンで塗りつぶしたような黒い闇。



目蓋は三重にも四重にも重なり、


目の下もはっきりとわかるグマがある。


年に似合わず多量のシワも確認でき、顔回りの肌はガサガサに荒れている。




まさに病人のような――――


しかし、病気が原因でない。


その性格、行動、言動、まとめるならば生き方そのものが彼のそのとんでもなく悪い目付きを形成しているのだろう。




勘助の目の前にいる男は狂者でしかない。



秋華も傍らで息を呑んだ。



(落ち着け………落ち着け、俺………)


勘助は必死に自らを勇めて、話を続けた。



「なぜトシ………ラグフェアーの子がお前に必要なんだ?」



再び、その狂喜の塊は再び話し出す。



「んふふふふ…………



あんな馬………普通なら見向きもしねぇよぉ!!



競走馬としての利用価値なんてあんな奴には求めてぃなぁあい!」


「な、何ぃ…………!?」



「だけどなぁああ、あの馬がこの老いぼれの所有物である限りぃい、こいつは競馬を諦めないだろぉぉお?



だからボクがあのクズ馬を買い取って、この老いぼれの戦意を根こそぎとってやろうと言うんだァああ!




ヒャヒャヒャ!


父がコスモバルクだぁぁ?そんな奴この世にいたのかァあ?見たこともねぇなあああ!



ご執心の母ラグフェアーってのも、ホントにサラブレッドなのかァい?


耳に入ったこともなぁい!」



「な……んだと……!」



ラグフェアーが、バルクが、トシローが………クズ馬?


競走馬としての価値をこんなゲスに否定された。


競馬のイロハも知らない知ったかぶりのゲスに……



トシローに至っては、人間を陥れるための材料程度にしか考えられていない。


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先々代、親父、そして芝さんが必死に守り抜いてきたこの牧場ゆかりの血統。



自分の生活を必死に支えてくれた馬。



その二つの、勘助の宝物のような血統が合わさってできたトシローというひとつの形。



サラブレッドは経済動物というものの考え方の型にはめると甘いと言われるかもしれないが、


誠意を込めて、愛されてほしいと願いながら育ててきた。



それは秋華も芝山も、これから預かる予定の古川も同じこと。



それがトシローという馬を形成していくのだと思う。




……………しかし、奈落は。



そのトシローですら、人を苦しめるための道具でしかないと平気で言う。



古川を絶望させるための『素材』と。


買う買わないの問題ではない。


売る売らないの問題ではない。



奴は俺の大切なものをとことんまで言葉と暴力と金で


踏みにじり、汚していく。



こちらの勝手な言い分であることは認めないでもないが、それを差し引いてなお



奴は、許せない。



思考回路がそう繋がったとき、とうとう勘助は黙っていられなくなって、



「黙れ……!


あいつらだって立派に競走馬だ、


てめぇの知識の範囲で競馬を作るんじゃねぇっ!!」



そう言うなり


その、怒りと苦しみと憤りを全て込めた拳を振り上げてテーブルの向こうの奈落へ向かって思い切りそれをぶつけようとした。



(死ね…………………!)



極論ではあるが、彼の今の正直な気持ち。



知らずして瞳に殺気が籠る。


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怒りという思考しか、その時の彼にはなかったと言える。



「ひっ………!?」


奈落は突然の出来事に面食らい、避けることもせず凍りつく。




勘助のその拳は、そのまま降り下ろされていれば、確実に奈落の顔面を捉えていただろう。



しかし――――



「ダメですっ!勘助さん!」



「!?」



突如として腰から回された手に引き戻され、


振り上げた拳が解放される前に勘助の体は再びソファに叩きつけられた。

ソファと引き戻した勘助とでサンドイッチになった秋華が小さく「うっ………」と呻いた。



同時に、怒りで我を忘れていた勘助は現実に引き戻され


背中に秋華の存在を感じた。



「秋華!?何する!?


………って、大丈夫か!?おい!」



すぐさまソファから体を離し、秋華の様子を確認する。



大の男の体重が丸々一人分かかったのだから、相当な衝撃だっただろう。


しかし、彼女はすぐに起き上がり勘助に詰めより、



「腹が立つのはわかります!私だってあんな奴殴ってやらなきゃ気が済まない!


でも、勘助さん………!」



そう言って秋華は奈落のいる方向を指差した。



そこには恐怖に震えてヒィヒィ言っている奈落と、



それを守るようにして蘇武輪が立っていた。


さっきと同じように、殺気を目に宿して。



「信用できない相手だけど、さっき私たちに忠告してくれたんでしょ!?


だったらそれを無駄にしないで!」



秋華の気迫に押されて勘助は「あ、あぁ……」とうなずくことしかできない。



「さっき約束したばかりでしょ!?


無理はしないって………



こんな状況で難しいかも知れないですけど、しっかり理性を持って………!」



秋華の目が「殺されるところだったんですよ!」と訴えてくるかのよう。


そうだった。次は殺すと警告されていたのだ。


危うく再び自らの首を絞めるところだったということを自覚した勘助は、秋華に向かって頭を軽く下げ、



「……………すまん。


助かった。


ありがとう。」



と、呟いた。



それを聞いて、安堵したのだろう。秋華は自らの体を初めて痛がった。


「はぁ……あは、勘助さんは重たかった………いたた。」



「だ、大丈夫か?結構派手に………」



「さっきの勘助さんがされたことに比べたら、軽いもんです………


………っう」



そういいながらも脇腹を抱えて体をくるめる秋華。



「おい!?大丈夫か?」


背中をさすりつつ、勘助が聞くと、


彼女は苦しそうな笑顔で弱々しいVサインを返す。



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悪かったよ…………



「秋華…………」



勘助が手のひらで秋華の顔をさすってやろうとしたその時。



「ヒィヒィ、ハァッ、ヒャヒャヒャ!


そ、その女に感謝するんだなぁああっ!」



八島奈落は震えつつも、息を吹き返すように叫びだした。


震える指で勘助を指しながら。



「お前が、ボ、ボクを殴っていたらどうなっていたかぁあぁあ――――」



「―――あぁ、てめぇも秋華に感謝しやがれ。


あのまま俺がお前の顔面にパンチを食らわせていりゃあ


お前の鼻は数センチは曲がっていた。」



瞳に怒気をこもらせ、奈落を睨み付ける。


「ひ……………!」



実際には曲がっても殴られてもいない鼻を擦って「ぁああぁっ!」と叫んだ。


「は、鼻ァ!鼻ァ!」



子供が見もしないお化けを恐れているときのよう。



(気の小さい奴………!)


改めて勘助は、蘇武輪をあわれに思う。


先代との確約に縛られ、こんな人間としてなんの魅力もない人間に付き従えられ、自らの手を汚さねばならない。


自分では何も出来ないが故に虚勢を張って人を見下す。


自分になんの能力も知恵もないことを隠すために。




秋華の顔をひと撫でし、勘助はすっくと立ち上がり


未だにソファーの上を鼻を押さえて


狂ったように叫び転げ回る奈落を上から見下ろして、


腐ったゴキブリを見るような目でこう言った。



「てめぇみたいな野郎にトシローは売らん。


例え十億だろうが百億だろうが、


古川さんが百円しか出せなかろうが、な。



てめぇみたいな競馬を愚弄することしか知らない、しかも馬を人を苦しめるためのオモチャぐらいにしか思っていないような奴が、


この家で息をしていること自体が不愉快だ。



古川さんへの用事が済んだのなら、とっとと帰れ。



てめぇの鼻が無事な間にな。」




「ひぇっ…………!えっ………!



か、帰るぞ!ボ、ボ、ボ、ボクは帰るぉ!


や、野郎共ぉ………!車を!車ををぅ!」



一人ソファーの上でバタつく奈落。


さっき自分をあれだけ高圧的に攻め立てた白スーツはいったいどこへ消えたのか。


自らに被害を被ることが現実に起きたらこうまで弱気になるのか。


勘助は部下になだめられる奈落を、見下ろし続けた。


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「帰るうぅぅぅ!ボクは帰るぅ!」


二、三人の黒スーツの部下にすがって泣きつく奈落。


若頭と呼ばれる身の上ゆえに、


今までに、殴られるという経験が無かったのだろう。


なんと情けない、30代半ばのおっさんが、自分より若い部下にすがり付いているのである。



「帰る!帰る!帰る!帰る!」



黒スーツですら、どうしていいのかわからず困惑している。


こんなことは初めてだったのだろう。




勘助はため息をついて、蘇武輪にこう言った。



「もういいだろう………古川さんも十分苦しんでいる。


こいつの目的は達成したんだろう?


もう連れて帰ってくれ………。」


蘇武輪と目線が合う。



―――頼む、そうしてくれ。


勘助は視線にそういう思いを込めた。


こんな奴がこの場にいることすら狂おしい。



泣き叫ぶ奈落の横で、勘助と蘇武輪は暫く視線を合わせ続けた。



「…………


出来ればそうしたいがな…………。」


「!?」



了承の答えが返ってくるとばかり思っていた勘助は、若干面食らった。



「まだ何かあるってのか!?」



「……………フン。」


若干の含み笑いを返した蘇武輪は、その刹那身を翻し、


未だに嗚咽を漏らす奈落に向かって一喝した。



「若頭っ!しっかりなされい!



若頭のここに来た本当の目的、よもやお忘れか!?



皆、若頭の恨みを晴らすがためにここに来てるんですぜ!」



奈落の肩をぐわしと掴む蘇武輪。


奈落の動きがピタリと止まり、泣き声も同時に無くなる。


「恨みぃ?」



「へぇ、その通りです。



まだ役者は揃っていないでしょう?


若頭が本当に苦しませたい相手―――――」



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その言葉を聞いたとたん、奈落は今までの狼狽がなんだったのかと思うほどに大声で笑いだした。



「―――ンフッ。ンフフン。あーっヒャヒャヒャ!



そーうだぁそうだぁっ!



ボクはぁ、あいつの泣き顔が見たいがためにこんなことをしてるんだぁああ!



古川のジジイなんてただのついでだぁ!苦しめ苦しめ!ヒャヒャヒャ!」



(な……………!)



さっきまで泣きわめいていた男が、転じて突然笑い出す。


腹を抱えて。



(い、いったいなんなんだ……?


こいつは…………)



背筋が凍るような悪寒を足に受けた勘助は立っていられなくなり、再びソファーに崩れつつ座り込んだ。


秋華も同様に思ったのだろう。



「こ、この人………!」


と、怯えるような声を出して勘助の裾をつかんだ。



涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、誰の目も憚らず、小躍りしながら笑う奈落。


目の前の光景は、異様以外のなんでもなかった。






「ヒャヒャヒャ!


おい!そこのクズ!



お前だよクズ、山本の御曹司ぃいい!」



(御曹司?)


なんかすっげえ違和感………



「俺はまだ帰らねぇぞおぉ!



あいつが、あいつが来るまではぁああぁっ!」



「あ、あいつって…………?」



「ヒャヒャヒャ!


リア充爆発しろおぉおお!」



「は、はぁ?」



「あいつのせいでボクの人生は狂ったぁぁぁあっ!


あいつがいなければ僕の横には今頃あの人が…………


ンフッフフフフ!あははははははっ!」



「勘助さん、この人怖い………」



秋華がさらに体を寄せる。


が、勘助はそれを知覚することなく、ただ唖然としていた。


蘇武輪ですら、「こうなったら手のつけようがない」とばかりに首をふっている。



「な、何が言いたいんだ?お前は………」



「お前だってそうだぁああ!山本の御曹司ぃいい!」



「は?」



「何でボクみたいないいぃ男に女が寄ってこなくて、お前みたいに冴えない奴が彼女持ちなんだぁぁあ?


ふざけるなぁぁああぁっ!」



「……………へ?」



この期に及んで、一体何を言っているんだこいつは………



「いや、お前にだけは言われたくな―――」



「―――いや、お前なんかどうでもいい!



あいつがボクからあの人を奪ったぁぁあ!


だからボクはあいつをあいつを陥れるためにぃいい!


あの人を取り戻すためにぃぃ!


ンフフフフフ!


さあ、早く来い、クズ野郎がぁああ!


古川―――――」


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奈落がその相手の名を叫ぼうとしたその時。



ばたぁん!



彼の語尾を掻き消すような大きな音が、その場にいた全員の耳を震わせた。



それは、戸が勢いよく開いて壁に叩きつけられた音。



「――――呼ん………だか?


………俺を」



「!!」


誰もいないはずの厩舎の方向から声がする。


涼やかな、艶やかな、流れるようなきれいな声。



そう、それは昨日、勝利したものだけが許されるあの場所で聞いたあの声で―――




「あぁぁああぁぁお前はぁぁぁあっ!








古川秀馬ぁああぁっ!」




発狂したように奈落がその名を叫ぶ。



そこには、あの色の綺麗なサングラスをかけ、長身のポニーテールで髪をまとめた


なんとも涼やかな雰囲気を醸し出す、


町を歩けば十人中十人が振り返る、



よくジャ〇ーズが声をかけなかったなと思うほど爽やかな男がポケットに手を突っ込んで立っていた。



「随分と………派手なことをやらかしてくれたな………


八島………奈落。」



ゆっくりとサングラスを外し、前髪を掻き上げる。そして、その日本人離れした青い目で奈落を睨み付ける。



「ぁぁああぁぁ………古川秀馬ぁああぁ………」



動揺を隠しきれず、再び狂ったように頭を抱えて暴れだす奈落。


「フン………相変わらず気の小さい…………」



外したサングラスを折り畳み、スーツの内ポケットに直しながら、秀馬があきれたように言う。



「秀馬………さん?」


目の前で今起こったことの収集がつけられない勘助は、とりあえず確認のために彼の名を口にした。



「………ああ、いかにも。



君が………勘助くん………だな。


話は…………父からよく聞いている。」


そのとろける笑顔でもって勘助に語りかける秀馬。



(これが…………古川秀馬………



惚れそう…………)


そこにたつのは紛れもなく古川秀馬その人。生で見るとさらに涼やかに見えて(真冬なのだが)、あのアナウンサーの気持ちがよくわかる。



くれぐれも言っておくが、勘助にそのケはない。


あくまで、女性の立場に立って考えてみた意見である。



「悪いな…………


このバカが迷惑をかけたみたいで…………」



笑っているのかいないのかわからないような顔で、


顎で奈落を指す秀馬。



口をパクつかせて何かを言おうとする奈落をほったらかして、勘助は秀馬に疑問に思ったことを聞いた。



「い、いえ、俺は大丈夫です。


ですがその………



えーと、何から話せばいいのか………」


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何も考えのないまま勘助は回りを見渡し、傍らでショックによってもうろうとする古川を見つけると


「あの、その、古か………あなたのお父様が…………」



と、申し訳なさそうにその事を伝え始めようとした。



「大事はないと思うんですが………



その―――」



勘助の説明は、核心に迫ることなく途切れた。


古川秀馬が手でその先の言葉を遮ったからである。



「大体の話は………調べがついているし、


事の発端も………どうやら俺のようだ。



それに、親父のことなら………心配しなくていい。


馬券が外れたときはいつもそんな感じだから。」



ハハハと流すように秀馬が笑う。


事情を知っているならこの期に及んで何を笑うことがあるんだ?と勘助は心底思ったが、


当然そんなことは口にできず、


彼は「そうですか………良かった」と返事するに留まった。



「………そうとも。」と返事した秀馬の声を掻き消すような奇声が部屋中に響き渡ったのは次のひとコマ。



「古川ぁ秀馬ぁああぁっ!


おっ、おっ、お前を待っていたぁ!


そしてぇ、この時を待っていたぁぁああぁっ!」



さっきの百倍は血走った目で刺すように古川を睨み、髪をグシャグシャとかき回しながら奈落が立ち上がった。



「俺はお前を待ちもしなければ特段用も無いんだがな………」



それに呼応して、秀馬もフローリングに上がる。


そうして秀馬が奈落に近づくたび、彼のわめき声は一層ヒステリックになる。


「ぬかせえっっ!


お、お前がボクからあの人を奪い去ったぁああぁっ!


あの人はボクのものになるはずだったのにいぃぃ!」



「あの人って………桜花の事か?



………お前、また追ってるのか?」



秀馬は「ヤレヤレ………」とため息をついた。



「世間では………ストーカーというんだ、その行為を。」



「な、なんだとぅ!?」


奈落の狼狽が一層激しさを増す。

しかし秀馬は一歩たりとも譲らず、むしろ踏み込んでさらに攻め立てる。



「最近またつけられている………とあいつが言っていたが………お前の手の内の者か。


…………汚らわしい。



未だに自分が嫌われていた理由もわからないんだな………」




「き、嫌われていたたぁああぁっ!?



そ、そんなことは一度も―――」


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「―――それすら知らんのか………話にならん。



………しかも、あいつ……桜花がお前のものになると?


………フン、片腹痛い。



あいつは少なくともお前に好意を抱いたことは一度たりともないし、


そもそも俺があいつをうちに引き込んで、お前から引き離したと思っているなら………それは大きな間違いだ。



あいつは自分から俺のところに来たんだ………お前の執拗なストーカー行為から逃れるために、な。」



奈落のそれとは対照的に、一点の迷いもない、流れるような言葉で、しかも的確に反論しているように聞こえる秀馬の言葉。



「俺とお前とあいつが大学(あそこ)にいた頃………


お前はまだ一回生だったあいつを


一年中追いかけ回していただろう?四回生の三浪のくせして………



………思い付く限りの事はやったらしいな。桜花から……聞いた。


盗聴、盗撮、ごみ箱あさり………」



「それがどうした!?


好きだからやったんだぁあ!


それの何が悪いぃ!?」


奈落が叫ぶ。



………家内騒然。


ドン引き、という言葉はこういう時に使われるのだろう。


勘助は、桜花という人物が誰だかは解らなかったが、とにかく奈落が女性に対してそのような事をやっていた様を想像し、


妙に納得する一方、あまりの気持ち悪さに身悶えした。


秋華に至っては、体の痛みもあい重なり、蹲りながらも勘助の背中に隠れるように移動した。



「愛し合うべきボクらがぁ、何を遠慮する必要があったんだぁい?


ボクにはわからないなぁあああ!」



両手を『意味不明』とばかりに広げ、えへらエヘラと笑う奈落。


その態度は明らかに秀馬を挑発するための物で、



当然それに気付いたのだろう秀馬の肩が大きく跳ね上がったのを、勘助は見逃さなかった。


(キレ………た?)



ふうう………とため息を吐いた秀馬だが、先程より明らかに声のトーンが低かった。



「あのな…………。


………お前は知らないだろうが、あいつはお前のその追跡に悩んで悩んで悩み込んで、


挙げ句ノイローゼになりかけてたんだ。



………俺が部長だった馬術部の新入部員だったあいつが、俺にそのことを相談してきたとき………



あいつはお前から逃げることができずに、もう人間である事を忘れたように疲弊していた。


怯えていた。苦しんでいた。


いったい次は何をされるかと………



お前は果たしてここまでの事情を知っていたか?」


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「そそそ、それはお前の戯言だぁああああっ!


あれはボクの愛情表現だぁあああぁあ!



それを桜花様もわかってくれていたあっ!


だからボクを叱り付けたり、警察に突き出したりはしなかったんだぁぁあっ!


だからボクは桜花様に愛され――――」



「―――あいつがお前を警察に突き出さなかったのは、お前の部下に『告げ口したら家族に危害が及ぶぞ』と脅されていたからだ。



でもなければとっくに俺がお前を警察にでもどこにでも突き出している………!」



秀馬が歩みを一歩すすめ、奈落に詰め寄った。


奈落は「ヒッ!」と小さく悲鳴を上げ、秀馬とは対照的に一歩後ろへあとずさった。


黒スーツの部下が若干体を前に乗り出し、臨戦態勢をたようにも見える。



(ま、マズいな………)


勘助は直観的に秀馬の危険を察知したが、声を上げるようなことは当然できず、ただ傍観することしかできない。



そんな勘助の葛藤と心配をよそに、さらに秀馬は踏み込んでいった。



「お前が、な………



俺のところに桜花が就職してきたことをどう思ったかは知らん。


が、奈落よ。



少なくともあいつは俺が無理矢理引き込んだわけではない。


………親御に迷惑を掛けたくないが為に自分から俺を頼ってきたんだ。


……勘当まで食らってな。


お前に自覚が無いのは知らん。が、な、奈落。


お前はその自分勝手な行動と軽率な命令で、少なくとも一つの家族と一人の女の人生を崩壊させたんだ。」



お前には解るまい……22の一人娘が、知らぬ男を頼って生きる怖さが………。」



「…………。」



勘助の服の背中を秋華が、無言でぎゅうっと掴んだ。


………そうだった。


彼女もまた、見知らぬ男を頼って生きざるを得ない状況を経験してきた人間だったのだ。



勘助とトシローとの生活の中で忘れかけていた暗い過去が


ふと頭をもたげたのだろう。



気付かれないよう、そっと横目で見た秋華の表情は、


唇をぎゅうと噛みしめ、何かに耐えているような感じにも見えた。



『大丈夫、今の私は大丈夫………』


ふとそんな声が聞こえたような気がした。


秋華の、いつもどおりのやさしい、しかしひどく怯えたような声が。



『大丈夫』と言ったのは本意では無かったのかもしれない。


……というより、間違いなく本意ではなかった。


今、秋華は奈落という人物に


昔の男―――養父や事務所の責任者たちを見ているのだろう。


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「……お前が桜花の過去を壊した。


母や父と過ごした時間を……棄てざるを得ない状況を作り上げた。



そして………行くところもなく、頼るべき大人もなくて、どうしようもなくなって


俺のところに飛び込んできたんだ。


………身一つでな。」




「くぅ…………!」


秋華が苦しそうに声を上げた。



『桜花』………という今回の事件に関わりがあると思われる人物の足跡は、


秋華のそれをなぞったようなものだった。



とても他人事とは思えない、彼女の経験を秀馬の口から聞かされている秋華は、一種のフラッシュバックに襲われていた。



(秋華………。)



出来ることならもうこれ以上は言わないでほしい、と勘助は思う。


彼女は今も、額を勘助の背中を背中にくっつけて、必死に落ち着こうと努力を続けている。



その手助けをしてやりたい勘助だが、


呻く秋華の声は小さく、勘助以外には聞こえないだろうし、


秀馬だって、『桜花』と言う人物の無念を必死にぶつけようとしている。


勘助にはそれを邪魔することはできなかった。


できることは、彼女の手を握ってやることぐらい………。



「いいか、八島奈落。



これは全部お前がやったことだ…………。」



ゆっくりと足を奈落の方へと進める秀馬。


「お前は自分が桜花に好かれたいが為に、


桜花を潰したんだ………


望みどおりにお前の手によって…………




―――貴様、これ以上に何を望む!?」



ついに秀馬が声を荒げた。


溜りにたまったものが爆発したかのような声で、奈落の目と鼻の先で彼を怒鳴り付けた。



もはや声も上げられず、ただ口をパクパクさせてソファに座り込んだ奈落。


その奈落への秀馬の叱咤は留まるところを知らない。



「貴様はこれを復讐だなんだとほざいているのか!?

親父から社長の座を奪いラージの実権を握り、俺を自分の配下にし、直属の部下である桜花を取り上げ我が物にしようとする……!



さらに桜花が俺の下へ来たことへの嫉妬から、俺を分場の社長から追い落として絶望させてやろう、


なんてことを考えているんだろうが、貴様は!!



貴様がこんな騒ぎを起こした時点から俺は全部見通してたんだ、お前の計画も、性格も、目的も………!」


「ひいぃあぁぁぁ………!」

奈落は詰め寄られてとうとうソファから転げ落ちた。

憤る秀馬の足下へと。



「ひいぃあぁぁぁ秀馬ぁあ!」



奈落が逃げるように転げ回る。

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「―――貴様の薄汚いその脳味噌のおかげでどれほどの人間が苦痛にあえいでいると思ってるんだ…………!?


桜花だけじゃない。


貴様が売り払った幼駒をデビューまでしっかり支えてやろうと意気込んでいたうちのスタッフの落胆が、貴様に解るか?


コスモオオゾラを精一杯世話してきた廐務員の悲しみや淋しさが貴様に解るか?

貴様の好き勝手で引退を余儀なくされるであろう馬の無念が貴様に解るか?


手塩に掛けて育てた幼駒のデビューを自分の手で果たさせてやれない、



親父の苦しみが貴様に解ると言うのかっ………!?



あぁっ!?奈落!!」





古川秀馬の剣幕の前に、言葉を発するものは居なかった。


あえぐ奈落を除いては。



………勘助は、昨日燐とした佇まいで整然と質問に受け答えしていた男が、


眉間にしわを止せ、奈落に詰め寄り、大声を上げて自分の部下たちの無念をぶつける様を


ただ見つめ続けた。



一見すればただの気取り屋ともとれるその涼やかさ。

しかしその裏側には、燃えるような馬やスタッフへの愛情があって、しかしそれを表に出してしまわないよう、必死に抑えながら生きているのだろうと思う。


社長の息子としての責務を果たすために。

どちらが本当の彼なのか―――などと詮索する気は毛頭無い。


冷徹な彼も確かに彼で、現在のように秘めたるものを解放する彼もまた、彼である。



しかし、今は不謹慎かなとも感じるが、


勘助は思う。



彼が今現在、『早来』の分場で若社長として成り立っているのは、彼の部下たちがその彼の『内面の熱さ』を知っているからではないかと。


自分達のことを第一に考えてくれていると思える充足感を、彼に対して持っているからではないかと。



…………まとめた髪を揺らし、大声を上げながら全身で怒りを体現する秀馬のその姿が、


勘助のその推測が間違いでない事を表しているかのようだった。



「貴様のくだらん妬みが、人と馬を不幸にしているんだ!!


今でもあいつらの嘆きや憤りが聞こえてくる………!


――――この恨み、怒りなどという言葉で表すには生ぬるい!!」



今日一番に眉間にシワを作り、鬼のような形相で、右手に拳を作った秀馬。


いまにも火が出るのではと思う程に固く握り締められたその拳。



勘助は、彼の背後に、


羅漢仁王を見たような気がした。

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―――――――――――


「……この恨み、怒りなどという言葉で表すには生ぬるい!!」



秀馬から発せられる怒気で、奈落の目に写る彼の姿が揺らいだ。


(こ、殺されるぅ!?)



さっきの勘助から飛んできた物とは比べものにならないような殺気の塊が


八島奈落の目の前で揺らいでいた。



(殺、死………)



今、こうまでされていても、彼は古川とラージを巡る一連の出来事に関して、自分の行いが悪いとは感じてはいない。



今彼の心を惑わすのは、一重に秀馬への恐怖心と、我が身の安泰のみ。



彼はこれから先、


ラージの社長となり、金と名誉、斉藤桜花を手に入れ、薔薇色の人生を送るための


切符を既にその手中に収めていた。



――後のことはほとんどついでのようなもので、秀馬の泣き面さえ見られれば、それで目標は達成だったのだ。


が、しかし。


古川秀馬は今こうして彼に鉄槌を加えようとしている。


それも、膨大で明確な殺意を持って。



(冗談じゃねぇぇ!せっかく古川のボケを苦しめさせて、


桜花様を囲えるようになるんだ、こんなところで死ぬなんて勿体ねぇぇ!


そうだ、損なんだ損なんだ!!ボクは生き損はしたくねぇぇぇ!)



彼は、我が身を守るために、自らの持つ、唯一無二の必殺技を


迷いなく、何の迷いもなく秀馬に向かって叫んだ。









「や、野郎共お!!こいつを殺せぇっ!殺れえっ!


今度は本当に殺せっ!」







彼は、当然蘇武輪や黒スーツ達が当然、彼を守るために動いてくれると思った。




が、しかし。





彼の推測は無残なまでに当たらなかった。



彼が頼りにした配下の人間たちは、誰一人として動かない。



「ど、どうしたぁ!?


早くこいつらを殺………」


そこまで叫んだ奈落は、傍らに大勢居るはずの黒スーツの姿が


忽然と消えていることに気付き、絶句した。



「おおおおおい!?お前たち、どこへ行ったんだ!」


彼は、半ば秀馬から目を背ける意味もこめて、回りを見渡した。


するとどうだろう。


黒スーツは全員一ヶ所に固められて、頭に手を乗せ座らされて、なお囲みこまれていた。


彼の配下の黒スーツとはまた別のスーツの一団によって。


その場に居合わせた誰の目から見ても、黒スーツ達が降伏した形である事は明らかだった。



「何をやってるんだお前たちぃいいいいいいいい!?


早くそれを解いてこいつを殺――――」


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――――――――――――



「―――申し訳ありません若頭。


しかし………あっしらも含めて………


完全に囲まれました。」



唯一横に残っていた蘇武輪が、回りを警戒しながらも彼に事を伝えた。



「な、な、な、んだとぅ!?


いいいつのまにいい?」



よく見れば後ろには既に二人スーツ姿の頑丈そうな男が、


いつでも捉えられるとばかりに若干身構えつつ、仁王立ちしていた。



回りを見渡し、状況を理解したらしい奈落は、驚きの表情を隠せない。



そんな主人の様子を見た蘇武輪は、


「さっき若頭が古川に詰められている間にやられました、面目次第もありません。


お叱りはあとでも受けます、しかし………


この状況ではあっしらが下手に動けば間違いなくこちらが負けます……。」



と、努めて落ち着きながら言った。



それは、蘇武輪自身が状況を冷静に分析した結果だった。




ヤクザと言う職業柄、確かにドスは常に懐にしまってあって、命令さえあればいざとなったらそれを振り回してでも脱出する覚悟はある。


たとえそれがどれほどつまらない理由でも。



が、それは『殺人』を意味し、命令した奈落は居合わせただけではあるが『共犯』となるに違いない。


おとなしくここでこのまま身を退けば新社長として奈落はやっていけるだろうし、場主の絶対条件『前科なし』も破られることはない。


暴力的で大げさな話だと思われるかもしれないが、これは暴力団という組織において仕方の無い考え方。


生きることに必死な彼らは、どんなときにも生と死を意識し、


時に物事を慎重に進めようとする。




改めて、蘇武輪は考えた。



決死覚悟で特攻するよりも、おとなしく引き下がったほうが圧倒的にこちらに利があるやり方なのだ、と。


(それに……仮にドス振り回して突っ込んだとしても………)


蘇武輪は自分達を取り囲む、秀真のボディーガードらしきスーツの一団を横目で見た。



(かなり、できるな……。


もとよりうちの衆を、


音もなく武装解除出来るような連中だ。


まともに戦っても勝てるかどうか…………)



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「あっしの判断を言わせてもらいやす。


退きましょう。長居は無用です。


古川の坊主も強がっちゃいますが、あれで相当焦っているはずです。



奴を苦しめるチャンスなんざこの先いくらでもあります。今日はこれでもう上出来かと…………」



蘇武輪は、極力奈落の気分を害さぬよう、


彼の顔を立てるように気遣いながら進言した。


その間、部下たちの視線が背中を焦がす。



「なぁ!?なぁぁにいってんの蘇武輪?


お前がこのボクに意見していいいとでもぉ??」



「お気持ちはよく解ります、しかし、ここで暴れてしまっては今までの苦労が水の泡です……!


古川の坊主には脅しが効かぬ事くらい若頭が一番承知なさっているでしょう?」



理解力に乏しく、目先の欲にしかとらわれない奈落。


この乗っ取り騒動も、何度となく奈落の勝手な作戦変更に苦しまされた。


気弱な奈落が、恨みや嫉みを相乗して唯一秀馬にだけは強気で出ていくのだが


それが何度となく裏目に出て、無茶な行動をとらされた。



今の奈落は、秀馬への妬みがブリンカーになって、隣の馬が見えない気性難の馬とそう変わりが無い。



この状況、自分一人なら絶対に帰るという選択肢をとり、これ以上部下と自らを危険にさらすようなことはしないが、


一度奈落という暴れ馬の騎手になってしまった以上、その馬が『撤退命令』というゴールに辿り着くまでは


手綱を引いて、折り合いを付けなければならないのだ。


必死にレース展開を読みながら―――。




「今は『退き』です。若頭。


何もここで暴れて果てるようなことをする必要は無い……!


少し冷静になって―――」



――今できる、最善の策を執りましょう。



そんな言葉が、喉まで出かかっていた。


しかし、蘇武輪がそれを皆まで言いおわる前に、事は動いてしまった。



ぐわしゃっ。



何かが勢い良く捉まれる音。


「ひおいえっ!」


彼には奈落の小さな悲鳴が聞こえた。



その直後、蘇武輪の目の前で


秀馬によって頭を握られた奈落が


クレーンに引き揚げられる荷物のように、持ち上げられるような格好になっていた。


掴み上げた秀馬の腕には、血管が浮いていた。



「………


立て……………!」



秀馬のいつもどおりの冷静な―――いや、どこかいつもより冷徹さの交じった低い声が


蘇武輪の耳を凍り付かせた。


彼はその時はじめて、想像以上の秀馬の本気さを識った。


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―――――――――――



―――この期に及んで引き揚げるだと…………?



そんな簡単なことで許されるような事じゃない………!




奈落の頭を目一杯鷲掴みにした秀馬は、空いた右手に力をこめた。




―――親父………桜花………。




ソファの上で気絶して動かない古川を見、更に頭を握る手の力を増した秀馬。



奈落の頭からは髪の毛と頭皮が擦れて、ギチギチ………と気味の悪い音が漏れだす。


「あぁあぁあぁいたいぃぃ!」


奈落が叫ぶ。




―――当然だ。それだけの、いや、それ以上のことを貴様は今までやってきた。


これっぽっちの苦痛で済まされると思ってか?



―――殴り飛ばしてやりたい。



気の済むまで腕を振り回していたい。


顔の形が無くなるまで殴り倒してやりたい。


奴が苦しむ姿を、この手で作り上げたい。


暴力に身を任せて、あいつらの苦しみを


一気に清算してやりたい………!!








が。







秀馬には、自らが決して抗う事のできない








『自制心』が存在していた。





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―――暴力的に解決させてしまうのは簡単なことだ。


が、それでは………




結局奈落とやっていることは同じなわけだ。



俺自身が奈落と同化してしまうのも同じ………





そんなことになって、果たして親父や桜花が喜ぶだろうか?



よくやってくれたと誉め讃えるだろうか?



何かそれは違うのではないか………?




それに、ここは山本牧場―――勘助君の家にして、



恐らく親父の最後の希望。




こんなところで俺自身を自分の右手に任せてしまったら、



ここに危害が及ぶのでは?











………………………。












秀馬は、次に起こす行動を、



胸の内で決めた。


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「奈落…………



今にも貴様を右手が殴りそうだ。



俺の体全体がお前を潰せと命令しているようだ………。」




頭を握っていた手をこめかみに移し、ちょうどヘッドロックのようにした秀馬は


そういいながら、自らの顔の前に奈落の顔を強引に引き寄せた。



「ひ、ひいっ!」



奈落の目には恐怖の色が見える。



秀馬は、再びそれを殴り飛ばしたい衝動に駆られたが、


彼はそれを言葉に替えるという手段で昇華した。



「わかるか、この思惟が。


――見ろ、この右手を。



この震えは、貴様を殴り飛ばすまで収まらん………!」



秀馬は、奈落の目の前に拳をちらつかせてみせる。



それを見る奈落の目に映っていた恐怖は、次第に焦燥に変わっていった。




「貴様がそうしたように、俺も貴様をズタズタにしてやりたい。


いや、貴様なんざ頬の一発で十分なんだろうがな………」



「ひぇっ、ひぇっ!」



奈落は、なんとか秀馬の手から逃れようと必死にもがいたが、


それは結果的に秀馬の握力を、増強させたにすぎなかった。



メリメリっ、とこめかみに指が食い込んでいく。



「あぁあぁあぁいたいぃぃ!」



奈落の狼狽もさらに激しさを増す。



彼を助けようと「若頭………!!」と唸り、懐に手を入れた蘇武輪は、後ろに立つ二人のスーツ男のプレッシャーで動けない。



「痛い、痛い、痛いぃぃぃ!」



なお叫び、なお抵抗する奈落に対して


「五月蝿い………!」とつぶやいた奈落は、開いていた右手を奈落の顎を捉えるのに使った。




「ふ………はがっ!?」



なんとか秀馬の魔手から逃れようともがいていた奈落だったが、


顎という人間の力の根源を封ぜられた彼は


抵抗する術を失い、動作としての抵抗は沈黙した。




先程まで動乱のなかにあった山本牧場は、


一瞬静けさを取り戻した。


厩舎の向こうに、怒ったような


バルクのいななきが聞こえた気がした。




「貴様を打ちのめす事は容易だ………



が、な。



俺には貴様と違って理性がある。


………残念なことに、な。」


微動だにしなくなった奈落の様子を確認した秀馬は、顎を圧迫していたその手をゆっくりと離した。


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逆襲のヤシマ


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さらに秀馬は、その手に握っていた奈落の頭を、ソファーに投げ付けるようにした。


「ぐひっ………!」


情けない声を出して、奈落がそこに


膝から崩壊したように崩れ落ちる。



その様をちょうど上目線から見る秀馬の目は、氷のように冷たかった。



「その理性が………な。



俺に言うんだ。



『暴力に訴えるのは、目の前にいるクズの行動と一緒だ』ってな。


だから俺は………」



次の瞬間、秀馬は奈落の顔、鼻先数センチまで自分の顔を持っていき、



奈落に声を上げさせる暇もなく、


続けてこう言い放った。




「貴様も事実はどうあれ、馬主になったんだろうが?



だったらいちいち従者の暴力で解決しようとするな、











自分の馬で勝負しろ………!












貴様みたいなド素人が、俺らプロにどれだけの事ができるかは知らん。


が、これも貴様が選んだ復讐だろうが?





だったら貫徹してみせろ、



土俵に俺等を上げたのは貴様だ、ヤクザならそれらしく自分で落とし前付けてみせろ、











馬で俺等を絶望させてみろ!








俺は、そんなお前を馬で全力で潰しに行く……!






貴様が音を上げるまでとことんな!






貴様には今、何もない。




優秀な馬は売ってしまったし、知識もコネも何もない。



あるのは親父の莫大な金だけだ、



が、覚えておけ、競馬は人のスポーツでもあるんだ。












それに引き替え、俺にはスルーオフがいるし、



親父にはトシロー君がいる、



ここには勘助君のような熱意のある人もいるし、芝山さんのような優秀なスタッフもいる。



俺にだってそういう人はたくさんいる。







だから、俺等はまだ何も失っちゃあいない!!





だから、まだ貴様には負けちゃあいない!!




何もないのは貴様の方だというのを


識れ!




わかったか!?八島奈落!




競馬は繋がりのスポーツだ、



貴様にそれができるならやってみせろっ!!」





胸ポケットから、サングラスが飛んだ。


それは、コトリとフローリングに落ちたが、その音が、実際の質量の何十倍にも大きく聞こえたようだったことからも



いかに激しい口上だったのかが想像できるだろう。





しかし、以て………………その言葉に心を動かしたのは、



奈落よりむしろ、勘助の方だった。





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―――のぼせてたんだな、俺は。



古川さんが話してくれたトシローの購買契約や育成計画、その後の処遇など、


自分が望んでいたものを遥かに超える、その甘美たる言葉全てに高揚し、



その後の奈落の介入に地の底へ落ちるほどに落胆した。


彼らの前途を洋々たらしめる筈だった階段が、足元から崩れ落ちたのだ。



確かに、その時未来に希望を失ったことは否まない。



言い訳ではないが、たぶん、同じ状況なら誰もがそうなったただろう。




ならば、俺はさっきまでありもしない夢幻を見ていたというのか?


答えはノー。



仮に古川さんにそれだけの力が無くなったとしても、



トシローはいる。


確実に。


この山本牧場に。



走るべき馬は、今なお手元に残っている。



走るのは馬。走らせるのは人。


その条件はまだ二つとも残っている。


思えば、傍らで古川さんを励ましながらも、この先の不安や古川の社長の座の陥落で、あきらめかけていた自分がいたと思う。



しかしそれを、トシローという馬の存在を持ち出してきた秀馬が、


まとめて追い出してくれた。



『繋がりのスポーツ』



その言葉に震えたのは、耳ばかりでは無かった。




秀馬のその溢れんばかりの怒りを抑制した宣戦布告は、



勘助の心に想定外の影響をもたらし、


絶望に苛まれていた勘助の心のうちに、何かを蘇らせた。



(――やってやろうじゃないの?


なぁ、古川さん。


競馬での復讐―――)



すなわち………生産者として競馬に関わり続けていく、理由か何かを。




今まで、奈落と秀馬の間に入っていくことを避けていた勘助だが、


この時ばかりは何か言わずにはいられなかった。



「………。



秀馬さんの言うとおりだ。



俺はブリーダーで、てめえは馬主。


落とし前付けんのは、競馬しかねぇだろ。



古川さんをこうにまでした恨み、俺をシメた事への恨み、殴ってやりたいことはなんぼでもあるんだけどな。



俺は、てめえに競馬でこの借りを返すことに決めた。


」


ソファに腰掛け、体を前に傾けながら話す勘助。



同時に何かを言おうと口を開こうとしていたらしい秀馬は


突然の勘助の発言に少々戸惑うような素振りを見せたが、


内容がわかるとすぐに奈落の方に体を向けて、同意を示すように腕を胸の前で組んだ。



その間奈落は、意外にも何も言わず、叩きつけられたままの態勢でじっとしていた。





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「いいか、耳かっぽじってよく聞けよ。



俺の希望は、トシローだ。


並じゃないのは見りゃわかる。


親父の最高傑作と、古川さんの愛馬の仔。配合を考えたのは芝さん………


『生まれ』以外に何ら関係の無いあいつに全てを委ねてしまうことは心苦しいんだけどな。


………仇討ちには持って来いの血統じゃないか。」




宿命の血―――ということになるだろうか。


コスモバルクとラグフェアー。


それぞれの生産者の想いのこもった馬から生まれた、


トシローという馬。



――血は繰り返す。



仮にこうなる事が運命だったのだとしたら、



もう、山本勘助はそれに従うしかないと思った。





「それと…………さっき言いそびれたから言ってやろうか。



そんなトシローを俺は、絶対に何があっても古川さんに売ると決めた。


あの人が一番トシローの事を考えてくれる馬主さんだと思うから。



――だから、例えてめえが八億出して、古川さんが百円しか出せなくなったとしても、



俺は古川さんにあいつを預ける。



死んでもてめえにゃ売らない……………!」



「……………。」



「だからな、奈落。



てめぇはトシローの活躍と、

古川さんの再起を指をくわえて見ていればいいんだ。


………あの人が今までやってきたことは、てめえみたいな素人が一年そこらで真似ができるような簡単な事じゃない。


相当の知識と経験に裏付けされたもんなんだ。



それをてめえみたいなポッと出の乗っ取り社長に真似ができると思ってか?


出来ないに決まってんだ、絶対に―――」



「―――親父のやってきた仕事は決して楽ではなかった。


いつもどんなときも馬のことを考えて、


馬のために社長としていろんなところを飛んだ。


………もっとも、おかげさまで俺はあまりかまってもらった記憶はないがな。



ともかくも親父は、


あの大牧場をその手一つで切り盛りして、その二つの目で馬の良し悪しを見抜いてきた、


相馬眼の古川だ。


貴様が思うほど簡単にくたばりはしない。」


いつもの、落ち着き払った口調に戻った秀馬は、気を失っている父の手にもたれた三枚の血統表を拾い上げ、


そこに貼られた写真とともにそれを奈落に見せるようにして、



「………少なくとも、こんないい馬をあっさりと売ってしまうようなセンスの無い奴に、


潰されるような玉じゃない。」



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スルーオフの子だから、と言う訳ではなく、


その馬は写真で見るかぎり、一歳馬離れした馬体の張りだった。


多少、写真写りをよくしている節はあるものの


長く競馬に携わってきたものとしては、兄コスモスルーオフのような力強いダート馬になれるであろうことは、容易に想像できた。



誓って彼は、自分の相馬眼に慢心していたわけではない。


ましてや奈落の気を沈めるために発した嘘というわけでもさらさら無い。



写真に写る馬がただただいい馬で、(認めているわけではないが)同じホースマンとして、奈落が安易にこの馬を売りに出したことが信じられなかったのだ。



「七千余頭の中から、重賞を勝てるような馬はほんの一握り………



見分けるのは難しいし、大変だ。



―――が。


貴様のやったことは、百カラットのダイヤの原石を、『原石は光らない』と言う理由で安値で売り捌いたも同然。



研けば光るものを、目先の欲にとらわれて、結局自らの首を絞める……


フン、貴様に似合いだといえば似合いだがな………」


冷たい視線を飛ばし、奈落を一瞥した秀馬は、手に持っている三枚の紙を奈落に投げ渡した。




「………要は、貴様に牧場経営は無理だってことだ。

精々、俺等なりの復讐を肌身で受けることだ。



自分には何も出来ない屈辱でも味わってな。」





…………。



言うべきことは全部言った。


これで少しはあいつらも浮かばれただろうか……。


牧場スタッフの顔を思い出しながら、秀馬は思った。


(これで少しはこいつも………)


そう心で呟いて、奈落をにらんだ彼は、ギョッとした。



受け取る奈落に笑みはない。



が、焦燥もない。




その一片も悪ぶれない奈落の態度は、話し終えた秀馬の心を冷たいザラついた手で撫でたようだった。



(いったい何を企んでいるのか…………)


サングラスを拾い、目の中に動揺を見せないよう努めた秀馬は、


自分の経験の範囲を超えた奈落の静けさに、少し身震いした。





しかし、勘助の方はそれを奈落の悔恨だと勘違いした。



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もう、奴はすべてが手遅れだと思い込んで何も考えられないただの木偶の坊だ、と。


だから彼は、止めを刺そうと


暖めていた、最後の一句を口にした。





「山本と古川をあんまり舐めんなよ。


すぐ貴様を地獄に落としてやるからな………!」






決まった、と思った。


この状況下、一矢報いねば自分の気が済まなかった。



明らかに出し抜かれた形となっていた自分達が、せめて口喧嘩ぐらい勝てればと。


………情けない話ではあるが。



そう言う観点から見て、むしろ勘助は『勝った』とすら思った。



奈落を意気消沈させ、気持ちの上で優位に立てたと思った。



「………………。」



―――どうだ、見たか。


彼の胸中には、優越感が去来し、


ほとんど見下すような形で、無言で奈落を見た。



奴の苦し紛れな顔を見たいと思ったからである。



…………しかし。



彼の見たかった顔色と、目の前の奈落の顔色はまったく違っていた。






「クフッ…………。」


息を吐きだすように笑う奈落。


口元は逆への字に曲がり、サングラスがズレた目はダラリと垂れ下がっている。


笑顔、と言うには表現が優しすぎようか。


新しく言葉を創るとすれば、『狂笑』と言うのがふさわしいその顔は、


彼が勘助の口上を何ら問題にしていない事を表していた。




「馬との絆で……プッ……



………………復讐して地獄に落とすだぁ?……キヒッ!


……ヒャヒャヒャ!


何才だよぉ?お前らあ?



クフッ………スポ根みたいな厨二臭いこと言いやがってええぇ!




…………ンフフフフ。





あぁあっハハハヒヒヒハハフハハハハハ!



バカかてめぇらああ!?



そんな事でこの天才のボクがへこたれるとでもぉお!?



可笑しくて腹で湯が沸かせるねぇえぇえっ!!!」



手を広げ、天井を仰ぎ、高笑いを始めた奈落。



「な、何ぃ………?」



「おまえらがぁぁ、何を言おうとぉお、


忌まわしいラージの牧場はボクの物でぇ、



桜花様はボクの嫁でぇえ


秀馬、お前はボクの部下ぁっ!!」



奈落が秀馬を指差す。


確かに、ラージの社長が奈落である今、その傘下グループである早来分場の社長である秀馬は、部下ということになる。


勘助は、思わず秀馬の方を見た。


同然焦ったような顔をしているのだろうと思ったが、


彼はフン、という鼻笑いとともに、不適な笑みを見せた。



「ほう……俺が貴様の部下?」


サングラスを整えつつ、秀馬が聞いた。


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「ああそうだ古川秀馬ぁああっ!



いまに見てろぅ!お前を一般社員のサラリーまで落としてやるからなぁっ!」



「…………面白い。やってみせろ。」




「ひひひへへへ!


へらず口ををを


!クビにしちまうぞ平社員!!」



キャキャキャ、と腹を抱えて笑う奈落。


それを見る秀馬は、我が身の危機にもかかわらず、異様に落ち着いていた。


というのが、勘助目線のこの場の総括だった。




「いいだろぉおお!


やれるもんならやってみなぁ!



こんなボロ寂れたちっちゃい牧場で、我がラージブリーティングファームに対して何が出来るのか、


とくと見せてもらおうかぁああ?


こんな何の施設もない、ただの草原みたいな薄汚れた牧場でぇえ?


面白いねぇ、面白いねぇ!

楽しみだねぇえ!


きゃはひははっ!




出来るもんならやってみなさぁぁあい!



その仲間とか言うくだらん連中引っ提げてなぁああ!



ああ、おまえらの没落が目に映るようだぁああ!」



「なんだと………?」



―――聞き捨てならん。


いきり立った勘助は一歩を踏み出したが、


秀馬の腕がその進出を阻んだ。



「秀馬さん!?」



「―――俺たちは馬産だ。


肌馬、種牡馬と牧場さえあれば…………とりあえず生きるために………働く。


強い馬を作ろうと……働く。



今まで、先代―――親父の下で働いてきて………それだけは信念にして生きてきた。



状況はどうあれ…………俺たちは馬さえいれば生きていける。




―――だから、俺はこの先に何の心配もない。」



馬産は馬産。


馬に携わって生きることが宿命。


そんなふうに人生を割り切った彼にとって、環境など関係ない。


金持ちの発想と言われればその気は否めないが


ともかくも彼の、馬に対する情熱である。



その落ち着いた佇まいとは裏腹に、


思わず仰け反ってしまうほどの凄みを


押さえられた腕に、勘助は感じた。


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「それよりも俺は………これから貴様に率いられる部下が……心配だ。



貴様ごとき何の熱意もなく…………ただ思い付きで行動するような男の部下になるラージの社員がな。



貴様のような馬に何の誠意も感謝も持たぬ………ましてや知識も何もない男に何が出来るのか………」



自分の頭を押さえて、忌まわしい………と首を振った秀馬。



奈落の顔はみるみるうちに怒りに歪んでいった。



しかし、容赦なく秀馬は続ける。



「………ダイヤモンドはな。


研く機械が揃っていても、研くべき人間の腕が悪くては


百カラットの原石も、結局は1カラットになってしまうんだぞ。




…………よく似ていると思わんか?


貴様の状況に………」



バァン!


机が数センチ跳ね上がった。


奈落が机を蹴り上げた音。



「つまりなにかぁ?この天才のボクが腕のない作業員だとぉ………?」



「他に解釈の仕様があるなら………教えてくれ。」



「ふざけるなぁっ!ボクは天才だぁああ!


ボクには何でも出来るぅう!天才だからなぁっ!」



―――――――――――

作者は、思った。



―――アミ○か、お前は。


……まあ、それはどうでもいい。


―――――――――――


「いいだろぉおお!


ボクも職人になってみせるぅう!



おまえらがぁぁ、足元にも及ばないような職人にいぃぃっ!



―――さっきのお前の言葉を借りようかぁ?」



ダイヤモンドは研く機械が揃っていても、研くべき人間の腕が悪くては百カラットの原石も1カラットになってしまうぅうう!



少なくともボクにはラージという研ぐ機械があるううう!


しかし、お前らはどうだぁ?山本の御曹司ぃい!」



勘助を指差し立ち上がった奈落。


何かに感づいたように秀馬が勘助の前に躍り出る。



しかし、奈落はそんなことは気にも止めず、



「―――お前らは研ぐ機械をそもそも持っていないじゃないかぁああ!


調教施設はない、放牧地も狭い、肌馬はいないぃい!―――」



そう叫びながら奈落は、どんどんフローリングを和室の方へと歩いていく。



そう、芝山の休んでいる和室の方へ。



「――ちょっと待て、何をする気だ?」



前を遮る秀馬を押し退け、勘助が奈落と同じ場所へ向かおうとしたその時。



「挙げ句の果てにぃい―――!」


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「ダイヤを削る職人は、



こんな老いぼれ一人しかいないじゃないかぁあああ!」



奈落ポケットに手を突っ込み、足を出す。



「馬鹿っ!やめろぉおお!」


勘助の必死の叫びは、残念ながら奈落には届かなかった。


彼の叫ぶのと同時に、奈落の足が閉じられた障子にヒットし………




ドバシャッ!



奈落に蹴飛ばされた障子に穴が開く。



ガタッ!


障子がレールから外れる。

そしてそれはぐらりと和室の方へと傾き―――



………障子の下には、勘助の父がいた。



「「芝さん!!!!危ない!」」



――勘助と秋華の声が重なり、時間の流れは止まったように遅くなった。



バタァアアン!



障子は、大きな音を立てて、着地した。



「あああああああああっ!」



にわかに信じがたい出来事だった。



奈落は、病人のいることを知っていて、そこの障子を蹴り倒して


その病人の上へと押し倒したのだ。



人間のすることか、これが………



「芝さぁんっ!」



勘助は、一瞬にして芝山の下へと飛んだ。


「芝さん!芝さん!大丈夫か!?芝さん!」










―――障子は、不幸中の幸い、テーブルに引っ掛かって、


間一髪芝山には当たらなかった。



「芝さん!無事か?」


障子を投げ除けた勘助は芝山の枕元へと移動した。



その時、テーブルからコトリと何かが落ち、これもまた芝山の枕元へと転がっていった。



(!?


これは…………)



「ハァ、ハァ………また………ハァ、先代に助けられた訳や………はは…………ゴホッ!」



それは、勘助の父兼継の位牌だった。


本来仏壇の中にあり、仏壇もしっかりと戸を閉めていたはずなのだが…………



「位牌…………」


芝山はそれを手に取り、顔の手前に持ってきて、



「ハァ………何があったか………ハァハァ、しらんけど、ハァ、これが…障子に……引っ掛かって、助かったんやな…………ハァ



先代、ありがと………うございます、南無大四辺浄金剛…………」



「親父が…………」






………たぶん、偶然―――ではない。


たぶん、その位牌は意志を持っていたと思う。


たぶん―――中にいる親父の魂が―――


この牧場で一生を尽くしてくれている芝山を、守らなければならないと思い立ってのことだろう。


あのまま倒れていたら…………


恐ろしくて想像できない。


そこに寝かせたという自分の過ちを、一生背負って生きたことだろう。


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「ありがとうございます、ありがとうございます…………」


芝山は、それを涙を流しながら拝んだ。


自らが助かった事実より、死して尚、自分のことを気に掛けてくれている兼継の心がうれしかった。


自分はこの先短い老いぼれだが、


なんだか兼継が『まだ芝さんには役目がある』と言ってくれているような気がして。



(もうちょっと、頑張って生きますわ………)


芝山は心でつぶやたいた。



手のひらの中で位牌が温もりを持っている。


そんなふうにも思えた。



「ありがとうございます…………」



いつもの奔放な大阪弁とは違う、ゆっくりとした、柔らかな言葉で


芝山はいつまでも涙を流した。




それにはやはり、勘助も感ずるところがあった。



(ありがとう、親父………)

―――情けない息子でスマン。


俺が芝さん守らねば。


もう、親父の手は患わせない…………




一緒に、勘助も拝んだ。


(本当に、助かった………)


感謝で、一杯だった。











勘助は、この奇跡に、一時的に心を鎮められ、ただただ芝山の無事を安堵し、



芝山をこんな状況に追い込んだ奈落への怒りをしばらく忘れていた。



そう、奈落への怒りを。





彼はむしろ、このまま祈り続けたい感覚だった。





が、それを思い出させたのは














なんと秋華だった。











「あんたねぇっ、



自分のやったことがわかってんのっ!?」





パチィイイン!










彼女の右手が、奈落の頬を捉えた。














「ふぶへっ!」










奈落が情けない声を上げる。








場の空気が凍り付いた。


皆、息を呑む。





しかし、秋華は構わずそれに飛び付き、












奈落を押し倒し、馬乗りになるや否や、



力一杯に首を締めた。











「かっ………くっ………」


奈落がうめく。













――――一度ならず二度までも。



権力者は、父を私から奪おうとする。










「殺してやるっっっ!」











「秋っ…………」




彼女を諫めようとした勘助は、



秋華の目から、光が消えたのを見た。








そして、見てしまった。
















彼女の、どこまでも深い、憎しみの情を。







金縛りにあったように、勘助は動けなくなってしまった。


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勘助は、その一瞬で、今まで知らなかった秋華の


人間に対する憎しみを識った。



その一瞬で理解してしまうには膨大すぎる、その憎しみを。





「……………」




動けない。




動かない。




ウゴカセナイ。





「そんな……………。」




刻一刻青白くなっていく奈落の顔。




「嬢さん、落ち着け!!」



秀馬が必死に引き離そうとしているが、


秋華はすでに正気を失っていた。



「ぐうわぁぁああああぁっ!


死ね、死ね、死ねばいい!」



その顔に、その声に、人間としての理性は欠けらもない。



「かかっ………くっ………」

とうとう土気色になった奈落の顔。



「やり過ぎだ!嬢さん!」


秀馬が決死の表情で諫める、引き離す。




「うるさいっ!黙って!」


しかし、その手を離そうとしない秋華。



「若頭っ!」


抑えられている蘇武輪が叫ぶ。




「嬢さん!本当に死ぬぞ!」


大粒の汗を飛ばし、大声で秋華を怒鳴る秀馬。



「うわっ、わっ、ちがうっ!殺すっ!」



涙を流しながら、さらに力をこめる秋華。



「こんな奴………みんな死ねばいいっ!」











「あ…………あ………。」




目の前に広がる光景は、その憎しみを理解した勘助にとって





あまりにも重いものだった。





――俺は………どうすれば…………。

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締める秋華。


止める秀馬。


苦しむ奈落。


叫ぶ蘇武輪。



そして、


愕然とその様を見ていた勘助。




体は動かない。精神的な反動で。



しかし、秋華を止めなければ。


彼女は居場所をまた無くしてしまうことになるだろう。



(くっ………動け、この………)



恐怖に萎縮して、動かない自分を、


なんとか動かそうとする自分。



でも、どうしても動かない。



いつぞや知床で聞いた声が頭の中にこだまする。



『奴の背負う過去は想像を超えて遥かに大きい………』



―――そんなことは百も承知だっただろう!?



(何を思う………自分!?)

だんだん頭が白くなっていく。


(くそっ、一体何だってんだ…………)




と、次の瞬間、勘助の体を拘束していた、精神の檻は、



突如として右腕に走った痛覚と共に、フッと消え去った。



その反動で、前につんのめりそうになりながらも、勘助はその痛覚の正体を見ようとした。


(…………!?)



見ると、勘助の、


筋肉質に硬くなっている腕に、


爪が食い込んでいた。



芝山の手だった。



芝山が、彼の腕を、思いっきり握ったのだ。



「芝さん…………!」



彼は、父を仰ぐように言った。



……その『父』は、いつにも無く険しい顔をしていた。




「何をグズグズしてんねん。


はよ、止めてこい。



嬢ちゃんを犯罪者にする気か。」



「…………。」



………そうなるか。



「止めてこい。はよ、行け。



坊っちゃんの、義務や。」


眉間に寄るシワの数と比例するように、腕を握る圧力が増していく。



こんな状況に無ければ、


本当に病人なのだろうかと疑問を持つところ。




勘助の体に流れ込んでいく。



芝山の、自らの体を動かせない無念と、


彼の不甲斐なさへの叱咤が。



(そんなこともできんようで、


よう留めようなんぞ言いだしたもんやな、孃ちゃんを……………)



目から言葉が伝わる。


言葉で頬をひっぱたかれる。


(―――何を、迷う!?



あいつを、守れ、勘助!)




―――本来なら、相応の間があるべき場面かもしれない。


しかし、この局面、この場面において、


そんなものは邪魔以上の何物でもなく。





「………。




………すみません。


………行きます。」



勘助は、空いている方の手で右腕の、芝山からの拘束を解いた。


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そして、視線を合わす。



その意志を宿した目を、相手の目に移す。



芝山に安堵の表情が映る。


――行け、坊っちゃん。



「―――――――!」



脚は自然と跳ね上がり、秋華の下へといざなう。



もう、時間が無い………!



――ためらう余地は、なかった。







「秋華っ!」



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