↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/43

22

ちなみに現段階でエブリスタに投稿した分は、270万文字、文庫15冊ぶんくらいあります。


トシローがちょうど三歳の夏ですね。


勘助たちは再び、芝山のいる居間へと戻った。


トシローの購買契約を結ぶため、である。



ここでトシローの生まれの状況を整理しようと思う。


父方は

ザグレブ系の零細血統(流行りでない血統)、

母方は

サンデー系の中でもさほど勢いのないマンハッタンカフェ。


父はG1勝ちなのでともかく、


母はさした成績も残していない、一介の地方馬。




・・・生産は、ここ数年中央競馬への競走馬登録すらままならない超小規模牧場。


スタッフに育成のノウハウはさして無く、


一人は競馬歴五年のいわばルーキー。


一人は知識はあるものの、病床にふせっているのでなにもできない。


そしてもう一人―



「勘助ちゃん、



斎藤さんはどうした?」


畳の上にあぐらをかいて座った古川が、厩舎の方を覗きこむ。




繰り返し書くが山本牧場は、厩舎と自宅がひと続きであり、


居間から厩舎への通り抜けが可能である。


だから、当然向こうから一緒に来ると思っていた秋華を古川が探す際に厩舎を覗いたのは、


そういう経緯があるからだ。


《くれぐれもフォローではないよwww》



勘助はその問いに渋い顔をした。



「………まさかだったんですが。


どうもトシローがいずれ売られる運命にある、ということを理解していないようでして………


相当ショックだったんでしょうか、


全く俺の言うことに耳を貸そうとしないんですよ……」



「な………なんじゃいそれ!



馬を売らんとどうするつもりやったんや?」


眉間にシワを寄せて、大声で叫ぶ古川。


「しっ……秋華に聞こえます。」



「………!」


古川は急いで口をつむぎ、恐る恐る厩舎を覗き込む。


秋華の姿はそこにはない。


「危なかったなぁ………」


古川が額についた汗をぬぐう。


「………。




それで………さっきの話ですが。


………俺にもわからんのです。


いったいどうするつもりでいたのか、どうしてほしいのか、


とにかく何も話さないんですよ。



今は仮眠室で寝てます。



………いや、寝てないかな………。」


もうどうしていいかわからない状況に、勘助は頭をかきむしった。


編集 しおり コメント(0)


一度、会話以前に話を戻す。



とにもかくにも、トシローが生まれてきた環境と言うのは


おそらく日本の生産牧場を探し回ってもワーストの指にはいるほどの物、ということをご理解いただきたい。


通常、サラブレッド馬一頭の価格は、平均で一千万円前後。


そんななか、


基本的に血統が良ければ高くなり、悪ければ安くなる。


生育環境が良ければ高くなり、悪ければ安くなる。



そして、そんな馬たちを買っていく馬主(馬の所有者)のうち大半を占める、いわゆる『相馬眼(馬の良し悪しを見る目)のない馬主』は、


大概このポイントで馬を競り落とす。


「〇〇〇〇の子はディープの近親だから…………」


「△△△△の子は社大レーシングの系列牧場の生まれで………」



といった具合に。



もちろん、すべてがそんな輩ではない。


中には、全く評価のされない血統の中からG1馬を見いだすような凄腕の馬主もいるし、


零細牧場の馬をくまなく探して見て回る几帳面な人もいる。



あとにも先にも、競馬の華やかな世界を作り上げてきたのはまさしくそういった人間であり、


闇の世界、没落の世界、競馬の土台となる世界を築いて来たのは、前者の『見る目のない馬主』である。



まさに持ちつ持たれつ、ではあるのだが、その馬主のその馬へ対する扱い方ひとつで名馬も駄馬になりうる、


ということを留意してもらいたい。




………さて、1億円を越える、いわゆる高額馬は


血統はもちろんのこと、母の活躍、父の産駒の活躍具合、先ほども書いた生産牧場、

そしてさらに注目されるのは兄弟の活躍具合であろうか。


例えの話。


天皇賞を制した女傑、エアグルーヴには数頭の子供がいる。


これが出てくる馬出てくる馬、すべて活躍するのである。


父系トニービンから来るサンデー系種牡馬との愛称のよさ、卓越した繁殖能力、……(以下略)


から来る素質のよさがそうさせていると言えよう。



だからエアグルーヴ産駒は


特に高額馬の資格をすべて持っていて、


時たまとんでもない値段で取引されたりする。


それはこういった経緯があるからだ。


編集 しおり コメント(0)

話をさらに戻して、ここで再度トシローを考えてみる。




トシローの血統はまさにマイナーの一言。


母の成績もいまいち。


父コスモバルクはファーストクロック(産駒が一世代目)で、しかも産駒はトシローただ一頭、と来ている。



活躍しなかった高額馬の唯一の利点とも言える繁殖においても、牡馬であるがゆえに、また、血統があまりよくないために足手まといになることは目に見えている。



生産は山本牧場。「えっ?どこそれ?」レベルの知名度の牧場である。



通常なら恐らくは、他の馬と同じくそれなりの値段で取引されていたことだろう。


いや、生産牧場が無名であるがゆえに安く買い叩かれたかもしれない。




………で。



古川はそんな馬を1億で買うと言っている。


確かにトシローはかなりいい馬である。


さすが相馬眼の古川と言われただけのことはある。


それでも、普通の感覚で言えば、『あり得ない』価格である。


少し競馬の知識がある人間にこれを話してみよう。


百人中百人が『意味不明』と回答するだろう。


これが勘助にとっていかに衝撃だったか


お分かりいただけただろうか?


―――――――――――――――



「………秋華にはいずれ話さなきゃならなかった事だということです。


………むしろ今気づけてよかった………。」



そういいながらもやはり暗い顔をする勘助。


頭は下にもたげられ、口はへの字に曲がっている。


「常識的に考えりゃあ、ここで永遠に暮らす訳やないってことぐらいわかりそうなもんやけど・・・」


同じように頭を下ろしている古川。厩舎に秋華が居ることを知った以上、声のトーンは下がりぎみである。


お陰で傍らに寝ている芝山のイビキがよく聞こえる。


「まぁ………それだけ今まで非・常識的な生活環境にあったんでしょう。


あまり詳しくは聞きませんが………


やっぱり………その。


こんなところに来るぐらいですから。」


「…………。」



古川、勘助、共々黙りこくってしまった。


理由はそれぞれだが、どちらも秋華を思ってのことだった。





外の雪は止み始めていた。


編集 しおり コメント(0)

「………まあ、秋華にはあとで俺から話をしておきます。


とりあえず今は、契約の話を………」


「うむ………。」


芝山を挟んで向かい合う両者。


古川は顎に手を当て目線を伏せ


勘助は天井に掛かった蛍光灯を見上げている。



契約の話を、とは言ったものの、やはり二人とも秋華のことが気になっているのだろう。


勘助は心配、古川は責任………。


(………どのみちこのままじゃらちが明かんな。)


黙りこくる古川の様子を見て、なんとか状況の打開を計りたい勘助は


とりあえず話題の転換に勤めることにした。



「あの………古川さん?」


古川が少し目線を上げる。


勘助は一度深呼吸する。


(落ち着いて、落ち着いて……)


「………確かにトシローはいい馬です。


どう考えても僕が見てきたどのこの牧場で生産された馬より筋肉質で走りもいい。


しかも、一日中坂を上り下りできるほどのスタミナがある。


パワーがある。


おまけに丈夫で走るのも好きときている。



………はっきり言って、競走馬としての素質に疑いようはありません。


こいつがどんな活躍をしてくれるか、今から楽しみなくらいです。


それに、育て方や使い方でいろんなタイプに変化させられる、『面白い馬』なんじゃないかな、とも………」


いつしか勘助はジェスチャーを加えた


熱のこもった話し方をしていた。



古川も話を聞いてるうち、顎に当てていた手を組むようにして、うなずきながら聞いていた。


「うむ。


勘助ちゃんの今言うたこと、そのままそっくり同感や。」



「………ありがとうございます。


それじゃ、話を戻しましょう。



そんなトシローのことですし、俺はちゃんと馬の使い方を心得ている馬主さんに売るつもりで育ててきました。


どれだけ金をつまれても、ボンクラにだけは売るまいと………」


古川が少し眉を潜める。



「………それは、つまりアレか?


俺が馬の使い方を心得とらんアホ馬主やと……」




「ち、違います!違いますよ!


最後まで話を聞いてください!」


「………。」


再び古川が口を閉じる。


しかし、先ほどとは顔つきが違っていた。


(怒ってるな。早く話を進めた方がいい。)


編集 しおり コメント(1)

どうも今の言葉は古川にとって、腹の虫の居所が悪かったようだ。



(古川さんは違う、ってことを言いたかったんだけどな………



でも、この人怒りっぽいからフォローしたら余計に墓穴を掘りそうだし………


…………。)


勘助は結論を急ぐ、という方針を固めた。



「簡潔に話しましょう。



俺は古川さんにトシローを預かってもらうことになんの異論もありません。


むしろ歓迎したいぐらいだ。」


古川の眉間に寄せたシワが薄くなるのを勘助は確認することができた。



(ほっ………。)


勘助は安堵し、先ほどまでより饒舌になった。



「古川さんが馬の使い方を心得てらっしゃるのもよく知ってますし、


人一倍馬のことを大切に思っているのも知ってます。」



勘助は一年半前、古川の持つ牧場


《ラージブリーティングファーム》


での光景と、古川との会話の内容を思いだしていた。


(………あそこの馬は、三日間放牧地にほったらかしだった。


俺には一瞬動物虐待にも見えたが………。


でも、それにもれっきとした理由があって、


しかも一頭の餓死馬も出さないように、監視体制を強化したりしていた。


現に餓死馬は出ていない、とも。


自らも社長でありながら、プレハブ小屋で過ごし、来客の案内をしていた。


ガイド並みに牧場のことも知り尽くしていた………。



この人の馬に対する情熱は疑う余地がない。)



「古川さんがトシローを競走馬としてデビューさせてくれる。


バルクの件も合わせて考えても、これほどに望ましい事は他にないと思います。」


古川の顔に若干の笑みが戻ったことは言うまでもない。


それはもう、はち切れんばかりだった。


しかし、古川は冷静を保ちたいようだった。


ヒクつきながらも真顔をキープしている。



「………で?


ということは、トシロー君は俺に売ってくれる


っていうことでエエんやな?」


編集 しおり コメント(0)

「はい、その通りです。


あいつは、うちの牧場最後の希望です。


中途半端な使われ方や、馬を壊すような使われ方をされてほしくない。


馬主にとっての最良ではなく、馬にとっての最良を考えてくれる馬主さんに引き取ってほしかったんです、元々。



………夢物語だと思ってました。


うちみたいな小規模牧場の生産者の意見を聞き入れてくれるほど柔軟な考え方の馬主はそうは居ませんから………」


語尾に近づくにつれ、声のトーンを落とした勘助は自分の顔が下がっていることに気がつき、


急いで顔をあげた。



「ですが、こうして古川さんみたいな器のでっかい人があいつ………トシローの馬主になってくれるというんです。


今思えば、俺が描いていた理想の馬主像は、



そっくりそのまま古川さんのことだったのかもしれません。」



「………じゃあ!」


さらに古川が身を乗り出す。


片膝はもうすでに立ち上がっていた。



勘助も負けじと身を乗り出す。



「―この条件のどこに拒む要因があるというんです!?


むしろこちらからお願いしたいぐらいだ!


古川さん、トシローを託します!


よろしくお願いします!」



刹那、古川の右手が勘助の右手をとらえ、


左手は勘助の肩をとらえていた。

二人はガッチリと握手をしていた。



「商談、いや、契約………成立やな。


よくぞ言うてくれた………!



この老いぼれ、もう少しの間夢を見れそうで嬉しいぞ………。」



満面の笑みを浮かべる古川。



「ありがとう………ありがとう!」



次第に古川の顔はグシャグシャになっていき、いく筋も頬を水が伝っていった。



「仏さんに……感謝せにゃならんな。


もうこの年やから………バルクで一応の区切りを付けとったんやけど………。


………それがなんと!


その子供でもう一回夢が見れそうや………!


………つくづく、幸せな……人生やと思うよ。


ホンマ………。」



涙のなかに笑顔あり。


古川の声は、泣いていながらも


その絞り出した声に一点の曇りすらなく、目をつぶっていれば泣いているのかどうかすらわからないのではと思うくらい


穏やかな声だった。



勘助は、


精一杯の微笑みと古川の手を握り返すことを返事とした。



(これで、あいつが競争馬になっても


関わりを保ち続けられるな………)


勘助の胸には安堵と希望が広がっていた。



………。


ガタッ。


(ん?物音?)


編集 しおり コメント(0)


勘助は物音がした方に顔を向けた。


音のした方角は厩舎の方。


(ん………?)




しかし、何が落ちたわけでもなく、転がったわけでもなさそう。



(気のせいか……)


目の前にさめざめと泣く古川を置いて


勘助はその音の正体について考えることをやめた。


「ほんまに、幸せな人生や………」


同じ言葉を繰り返し、嬉し涙を流している古川。



(…………。)



その姿を見続ける勘助は


「あれ?」


さっきまで幸せそうに見えた古川が、なぜだかものすごく不幸そうに見えて



突然のこと、なんだか悪い予感がし出して、胸騒ぎが止まらなくなった。


(なんだ?これ………)



理由は解らないが、心臓がはや金を打つ。



落ち着け………。


何もかも上手くいってるじゃないか。


トシローは売却が確定。


しかも高額。


馬主は理想の人物。


『相馬眼の古川』が選んだ四十年来の素質の馬………。



(これのどこに不安があるってんだ。


古川さんの一億でうちの経営は持ち直せる。


古川さんだって、最後の楽しみを手に入れられる。


余計な心配は不要だ……


しかし………)



天井の蛍光灯がゆらいで見える。

「ほんまに、幸せな人生や………」


(………。)


「……くそっ。」




ついに芝山の布団に突っ伏して泣き出した古川はそのままに、


勘助は立ち上がり、ふらふらと縁側の方へ歩みより、


障子を開け、ガラス戸をガラガラッと開けた。


冷たい風と若干の雪が吹き込んでくる。



「何を心配してんだ俺は………



落ち着け、とにかく落ち着け………」


しかし、その先に広がる闇が勘助の心を落ち着けることはなく、



突如胸中に浮かんだ不安をただ煽り立てていっただけだった。



「ほんまに、幸せな人生や………


なぁ、兼続………。」


(…………。)


編集 しおり コメント(0)

―――――――――――――――


あれから少しばかり時間が経つ。


勘助は厩舎の中を、休息室に向かって歩いていた。



古川と契約の詳細の話を進めた彼。



(うちの牧場からJRAの馬が出ることになるとはな………。)



日本の競馬事情で言うならば、生まれてきても競走馬として生きていく馬は多くはない。


セリで売れ残ったり、最後まで買い手がつかなかったりした馬は


『処分』


という手段がとられる。



作者が馬刺を食べない理由はここにある。



また、運よく競走馬になれた場合でも


デビュー翌年の10月までに勝ち上がることができないと、


これもまた『処分』という手段が取られることが多い。



さらに、勝ち上がる場所によっても天寿を全うできるかできないかは変わってくる。




例えのはなし。


中央競馬会JRAの、未勝利クラス戦の一着賞金はおよそ5百万円。


それに比べて


地方競馬(例、高知競馬)等は、


たとえ一着になろうとも約5万円しか馬主は恩恵に預かれない。



およそ百倍である。




こういった事情があるため、金銭中心馬主たちは当然


少しでも勝ち上がる可能性のある素質馬をJRAへ。JRAで勝ち上がれる見込みのない馬(決めつけの場合もある)は地方へ。


という図式を完成させている場合が多い。




………もちろん、地方馬主が皆そうとは言わない。


JRAデビューさせたい馬がいても、年収制限や所得制限でやむなく地方でデビューさせたというパターンは


決して少なくない。


あのオグリキャップがその例である。




だから、誤解のないようここではっきり申し上げておく。


地方競馬は駄馬の掃き溜めではない。



でなければ、ライデンリーダーやメイセイオペラ、アブクマポーロ、トウケイニセイ、トーシンブリザードやフリオーソ、そしてコスモバルクといったような


地方の名馬が誕生するはずは無いのだから。




ただ、前にも書いたように、


競馬の世界は陽あらば陰あり。



馬主から見て期待の持てない、弱小牧場の生産馬の大半が


劣悪環境とも言える賞金制度の地方競馬で出走手当て目当てにとんでもないローテーションで走らされ、最終的に潰されるというケースの少なくないこと


これを留意していただきたい。



地方競馬の現状は苦しいものである。が、誰のせいでもない………


編集 しおり コメント(2)

で、何を言いたいかというと、


勘助がJRAでトシローをデビューさせられることに感動したのは、


今まで地方競馬にしか登録されてこなかった(=あまり期待されなかった)山本牧場の生産馬から、


JRAに登録される(=それなりに素質を認められた)馬が出たことである。



つまり、この牧場にとっては快挙である、


ということである。





(売却額は1億!


馬名は社内公募………


《秋華がなんて言うだろ?》




……預け先は栗東[滋賀のJRA馬のトレーニング施設]の名門


富士沢厩舎、かぁ………。


騎手は誰が乗るんだろうなぁ。


佐竹豊だったらいいなぁ……。)




先ほど次々と飛び出した古川の計画は


勘助の想像力を刺激するには十分で


「本気でG1を取りにいく。」


と涙を残したまま力説した古川の言葉も後押しして、



勘助はいたたまれないほどに興奮していた。


「G1、かぁ………。」



勘助の想像はイメージを超えた。


『最終コーナー回りまして、最後の直線!


先頭はトシロー!リードは5馬身、二番争いは内からリキアイタイカン、ヤシマソブリンも来ている!


…………。』



「………。


何でリキアイタイカンとトシローが同期だよ………。


てか、何のレースだよ………。」



彼の想像の世界は、あまりにも狭い知識で構成されていた。


自分の頭の中でレースを思い描くことすら、今の彼には難しかった。


(俺も勉強しないとな………。)



…………。




そうこうしている間にも厩舎の中にある休息室は目の前に迫っていた。



さて、いったい何をしに来たのか。



勘助は休息室の入り口で立ち止まり、深呼吸をした。



(いつも通りだ、いつも通り……。)


顔の前にかかったのれんを勢いよくまくりあげて、彼は暗い休息室に足を踏み入れた。



「秋華………。起きてるか?」



電灯のスイッチを入れながら聞いた。


「………。」


返事はない。


時間差で電灯がパッとつき部屋が明るくなり、全体が見渡せるようになる。

編集 しおり コメント(0)


明るくなった部屋の中で、秋華を見つけることは容易いことだった。


「秋華………。」


秋華は壁際に置かれたベッドの上に寝転び、あっちを向いたまま携帯をいじっていた。


どうもこちらを向く気はないらしい。



「………。」


勘助は傍らに置いてある椅子を手に取り、それを秋華の寝ているベッドの横に置いて、


無言のままそれに座った。


秋華は全く気に止めない様子である。



「…………。」


「…………。」



曖昧に時が流れる。


「………。」


「………。」



響くのは秋華の携帯のボタン音だけ。




「秋華?」


勘助が重い口を開く。それを重くしているのは間違いなくこの空気………。



「…………。



………私がまだ小さい頃に。」


体を動かさず、向こうを向いたまま、突然に秋華が口を開いた。


「!?」



勘助は思わぬ秋華の言葉に、体が跳ね上がるような感覚だった。


が、秋華はお構い無く続ける。



「…………まだお父さんが生きていた頃のことだけど、


一度だけ競馬場に行ったことがあるんです。」



心臓が大きく脈打つのがわかる。


「競馬場に………?



てか、お父さんって、小さい頃に亡くなったんじゃ………。」



「…………。」


再び秋華が黙りこむ。



「あ、いや、悪ぃ………。」


(やっちまった………。)


勘助は心のなかで頭を抱えた。



「お父さん、っていうのは、孤児院にいた頃に


よく私を外に連れ出してくれたおじさんのことです。


子供ごころに親代わりが欲しくて、私が勝手にそう呼んでたんです。」



「あ………そうなんだ。」


勘助はゆっくり自らの頭から手を離し、顔をあげた。


秋華の話は続く。


編集 しおり コメント(0)




「あるときに、お父さんが私を競馬場に連れていくって言ってくれたんです。


『今日はものすごいものが見れる』って………。」



「…………。」


秋華が想い出話をすることは少ない。


孤児院にいたせいか、あまり遠出もなかったのかもしれない。


アイドル時代のことは滅多なことでは語らず、たまに語ったとしても楽しい想い出ばかり。



そんな秋華だが、今日は何だか悲しそうに話す。


競馬場に行った話なんか、楽しくないはずがないのに………。



「………すごい人だったんです。

あの日………。


観客席は埋め尽くされて、みんな新聞を持っていて。


とにかくものすごい熱気でした。」


「………レースの名前とか、覚えてない?」



「………天皇がなんとかいってた記憶はありますけど………。


場所は東京です。」



(天皇賞・秋だな………。)



「みんなから歓声が上がって………。


おじさんがスタート台で旗を降って………。


ラッパと手拍子が鳴り響いて………。」


「………。」


何でこんなに悲しそうに話すんだ?



「そしたら、お父さんが肩車してくれたんです。


私、目はものすごくいいですから、遠くでもよく見えました。


その………馬の走ってるのが。」


「………うん。」



「そしたら………。


一頭だけ、ものすごいスピードで他の馬の走っている所のはるか前を走る馬がいたんです。


その………逃げ、ってお父さんに聞いたんですけど。」



「逃げ、ねぇ………。」



………ん?


何か引っ掛からないか?



「子供ごころに、すごくかっこよく見えました。


だって、一頭だけ違う感じだったんだもん。


いつまでたってもはるか前で先頭を走り続けて。


馬が金色に見えたんです。



………カーブに入ってから、その馬、さらに早くなって………。



………勝つんだろうなぁ、と思ったんですけど………。」



「!!」


まさか………!

編集 しおり コメント(0)


勘助の頭には、もはや《あのレース》しか浮かばない。



「………大きな木を過ぎてちょっといったらその馬は………」



「………!」



勘助の頭は瞬時に『あのレース』を、回想し始めた。



―――――――――――――――


『さぁ、どこまで飛ばすんだ!千メートル通過は57秒代、早い!…………』



「………!」



『大欅を通過したところ!ここで先頭………


ちょっとこの手応えはどうなんだ?』



「…………!」



『ここで、あーっと競争を中止した佐竹豊!………は競争を中止した!』



「……………!」



『なんと………は競争を中止した!なんということだ、なんということだ!』


「……………………!」



『沈黙の、日曜日ー!』



「……………………………!」



―――――――――――――――



………そこで勘助の記憶は途切れた。




「………………………くっ」



思い起こしたくない記憶。


(あれは…………あれが…………)


勘助は息が苦しくなった。


(俺も、見ていた。)



彼の父、兼続と一緒に見たあのレース。


ブラウン管の向こうで馬が走るのをやめた。


競馬のことはわからない、でも、勘助少年には何が起きたかわかっていた。


――――――――――――――


【父さん。この馬、死んじゃうの?】


首をかしげる自分。


《……………。》


無言のまま動かない父。


[坊っちゃん………。]


俺を手で制する芝さん。


【ねぇ、父さ…………】


《つうおぉぉぉぉぉぉぉぉぁおああああああああああああああっ!》


親父は叫ぶように泣き出した。


【!!】




テレビの上に飾られた、緑のメンコの馬の人形が、風にしぶかれて転げ落ちる…………。




―――――――――――――――



「…………サイレンススズカ。」



勘助は呟いた。



「…………


その馬だったと思います………。」



微かに秋華の方が震えていた。


編集 しおり コメント(0)

「その時、お父さんの手の力が緩んで転げ落ちそうになったんですが、


それより早くお父さんがへたり込んだんです………。


まるで、魂が抜けたみたいに空ばかり見上げて………。」



「………!」


(親父と同じだ。)



「………私、何が起こったのかよくわからなくて。


お父さんは何を聞いても反応してくれなくて。


だから私―


見に行ったんです。何が起こったのか…………



そしたら…」



言葉をとぎらした秋華。


「そしたら…………?」



「…………その馬が。


トラック……みたいなのに………運ばれて………


どこかに行ってしまって………。


回りの大人がみんな泣いてたんです。



…………


それで私は………。」



「秋華……………。」



勘助が秋華の肩に手を触れようとした


その時。



秋華の体は刹那的に回転し、勘助の目の前で起き上がり


彼の目の前に飛び出てきたのは秋華の顔だった。


その距離10センチ。




しかも、泣いていた。



「あの馬、死んじゃったんでしょう!?


競争馬になるってそういうこともあるってことじゃ………!



あんなに人気者の馬ですら……




トシちゃんがあんなことになったら私、


わたし………!」



「…………。」


勘助は何もフォローできなかった。


秋華の心配は事実。



どれだけ大切に育てられても、


どれだけ気を配られて走っても、


約5百キロもある胴体を華奢な足四本で支えている『馬』にとっては


常に重力との戦いで、


ただ少しの骨折で治る見込みがなくなり、結果安楽死という判断が取られる。




競争馬というものの宿命、とでも言おうか。


ライスシャワー、テンポイント、サクラスターオー、骨折でこそないがトキノミノル、そしてサイレンススズカ。


彼らは皆に大切にされてきたその時代のスターたちだった。



同時に、後世競馬ファンに悲劇の名馬として語り継がれていく馬たちである。




「………確かに。



『トシローに限ってそんなことはない』、とは




約束できない。」



目を会わせられなくなった勘助は、少し目線を伏せた。


だから秋華の顔は見えなくなったが、さっきより確かに泣き声が大きくなったように思う。



編集 しおり コメント(0)

「…………


でも………



でもな、秋華………。


馬は走るために生まれてきて………」



その言葉を発した瞬間、秋華が跳び跳ねるように逆上した。



「一体だれが決めたのよ!?


そんなこと………!



馬が自分で喋ったって言うの?



トシちゃんが競馬場で怪我して死んでもいいから走りたいって言ったの!?


人間の勝手な思い込みじゃないの!?」



涙ながらに訴えてくる。


初めて競馬の闇に直面した秋華の気持ちが痛いほどわかる。


これほどまでに『死』が近いスポーツも希だと思う。



長く競馬に携わってきた人にとっては割りきるしかない事実の一つであるが、


初っぱな、死を見てしまった秋華の場合はそうもいかないだろう。


それに………あの馬には思い入れもある。



(ほんとにトシローが好きなんだな………)



………でも。


「………それでも競争馬は走るために生まれたんだ。


トシローにも例外はない………」



「か、勘助さん………」



秋華は愕然とした顔をこちらに向け、目に涙をいっぱい溢れさせていたが、


顔をそらすことはなかった。



「トシちゃんのことなのに………



冷たいんですね…………」



「…………。」


勘助もまた、腕を組んだまま動かない。



「…………!!」


ついに秋華は立ち上がり部屋を出ていこうとした。



その時。




がしっ。



勘助の手が秋華の腕をとらえ、彼女はそれ以上進むことができなくなった。


「離してくださいっ!!」



秋華が勘助の手を振りほどこうともがく。



「………ちょっと落ち着いてくれないか?



話をしようにも、出ていかれちゃあどうしようもないだろ?」



秋華の顔は見ずに勘助が言う。



「何を!?


何を話すって言うんです!?



競馬場へトシちゃんは送られて危険な目に遭って、それでも何度も走らされるって言うんでしょ?


死ぬかもしれないんでしょ?



勘助さんはそれでも構わないんでしょ!?」


編集 しおり コメント(0)

「…………。」


本来なら我慢ならない言われようである。



確かにトシローを危険なところにやることは間違いない。


が、勘助も古川も、馬が危険な目に遭うことを良しとしているわけでは


皆目ない。



競馬というスポーツの性質のなか、いかに馬を潰さないように走らせるか、


それでいて、その競争生活においていかにいい成績を残させてやるか、



いつもそればかりを考えている勘助である。



もしこれが、相手が一介の競馬ファンだとしたら


勘助は引き留めて説明、など微塵も考えなかっただろう。



が、


相手は競馬のことについて無知な馬好きの女の子、なおかつ、初めて見たレースが



サイレンススズカのあのレースである。




トシローを競争馬として売却するということに恐怖を覚えるのは



いわば当然である。



(しかし…………)



当然ながら、いつかは売らなければトシローは競争馬にはなれない。


もし、トシローが競争馬になれなかったら


それは今まさに秋華が心配している『死』にもっとも近づかせる行為だろう。


なぜなら


これもまた当然のことだが、


『競争馬になれなかった』サラブレッドに


馬主にとっての利用価値はない。


かといって、いつまでも牧場に置いておくわけにもいかない。


ただ意味もなく、飼い葉を消費するだけのサラブレッドに、年間百万以上とも言われる餌代を払い続けるわけにもいかない。




とどめに、この馬が売れないと



この牧場は破産である。




…………まともに考えれば当たり前の話。



が、当たり前の世界にこれまで生きて来れなかった秋華には


理解するのは難しいことなのだろう。



(なんとかこの事情を説明してやらないと………


理解を得ないと………)



彼の手を剥がそうと必死に抵抗する秋華。



世話役の意見を差し置いて


勝手に売却契約なんて


やっぱり結べない………。



「離してっ!」



「なぁ、秋華。」

編集 しおり コメント(1)

「………初めて見たレースがサイレンススズカのあのレースだったのが、


秋華の中の競馬のイメージを暗いものにしたんだな………。


無理もない。」



「!?」


一瞬秋華の抵抗が弱まった。



その隙をついて勘助はもう一度秋華の腕を握り直す。


今、話を聞いてもらうにはこの方法しかない………。



「でも、な。秋華。



確かにあのレースだけを見れば競馬場で走る競争馬は、ハイリスクだけを背負って走っているように見えるかもしれない。



………死んでしまう馬がいるのも事実。



だけどな。100年以上続いてきた日本の競馬の歴史のなかで、


サイレンススズカみたいなのは希な例なんだ。」



秋華の動きが止まった。


「………どういうことですか?」



勘助は今まで見てきた山本牧場の生産馬たちを思い出していた。



「………生き物には個人差ってものがある。



馬だってそうだ。


スピードが早いやつもいれば、遅いやつもいるし、


よく怪我するやつもいれば、一生怪我しないやつもいる。



そんな個人差のなかで、能力のある馬が活躍する資格を持った奴だ。


わかるな?」



「…………。」



秋華から抵抗の気配が消える。



勘助はその掴んだ手をこちらに引き戻し、


「まァ、座れよ」


と、ベッドに座るよう促した。


「………。」



秋華は2、3秒躊躇った後、


しぶしぶそれに腰を掛けた。



彼はそれを確認すると、傍らにあった《週刊キャロット》にてをかけ、もくもくとページをめくり始めた。


なにかを探している様子。



(…………私に何かを見せようとしてる?)





その冊子が、中間程度までめくられたとき、勘助はふと手を止めて、そのページを開いたままそれを秋華に差し出した。



「え…………?」


当然だが、中に書いていることはなんのことだかさっぱりわからない。



「これを………どうしろと?」



少し高圧的に聞いてみる。



しかし、勘助の声は穏やかだ。



「このページの右下………


読んでみ。」



勘助がそれらしき項目の枠内を指差す。



「…………。」


一度眉を潜めて勘助を軽くにらんだ秋華は、そこに目を移した。




(…………?)



そこには、『おつかれさん』という項目と共に、


ずらっと馬の名前が並べられていた。



編集 しおり コメント(0)


(何なの………これが。)



秋華はその項目をざっと眺めた。


そこには、ただただ馬の名前が並んでいる。


その数、百から2百といったところだろうか。



その内容はこうだった。



―――――――――――――――

《おつかれさん》



美浦【地方競馬移籍】


三歳馬、

アイムダークホース(笠松)

エレメンタルアース(佐賀)

エイシンドールマン(園田)

ミキチャン(未定)

サイドバックキック(未定)

・

・

・


【乗馬】


ザラツクミライ

リヴァール

ガッテンヤマト

ベーシック

ナンキシラハマ

・

・

・



―――――――――――――――


単調に、こんな単語が続いていく。



「これが………


さっきの話と……どう関係があるんですか?」



全く何も理解できない様子の秋華。


「…………」


勘助は深く息をつくと、おもむろに語り出した。



「そこにかかれた馬は、みんな中央競馬をクビになった馬………



あるいは能力が追い付かなくなって調教師に現時点で中央で戦える見込みがないと判断された馬たちだ。


ちなみにそのコーナーは毎週あるんだ。」


いつもとなく暗い顔の勘助。


秋華は胸がざわつくのを感じた。


「地方競馬に移籍が確定している馬はまだいい。



だが………秋華。



ここでひとつ問いをだそう。」



「…………?」


秋華が顔をあげる。


彼と目線がぶつかる。



「………移籍地未定の馬や、乗馬クラブへの移籍と書かれている馬が居るだろう?


いや、むしろ大半のはずだ。」



………こくっ。



無言でうなずく秋華。



「じゃあ………この馬たち、これからいったいどうなると思う?」


(えっ!?)



どうって………



「そりゃあ………


危険な目から解放されて幸せな乗馬生活を………」



「送れると思うか?」



「…………!?」


編集 しおり コメント(0)

膝の前で手をくみ、うなだれるようにして椅子に座っている勘助。


けれども確実に、その目は秋華に向けられていた。



彼女はその視線にゾッとした。



―いつもの勘助さんじゃない。



悲しみとも怒りとも苦しみとも取れない、


感情を殺したような………



「いいか?秋華。


日本ではサラブレッドは年間七千頭近く生産される。


それも毎年だ。」


勘助が両手で7を作る。



(…………。)



「サラブレッドの寿命は約25歳。


もしすべての馬が適切に世話されたとしたら、年間七千頭×25年で


全国には17万頭近く馬がいる計算になるだろ?」



「え、ええ………まぁ。」



「………で、どうだ?



居ると思うか?そんなに馬がこの日本に………」



手を下ろす勘助。



「つまり………


どういう………ことですか?」



「…………


今の秋華には辛い話かもしれないが………」



「………構いません。」




「…………。



その馬たちの大半は処分される、という事だ。



乗馬グラブ云々は、競馬ファンへの表向きの理由。


畜産牧場に送られるのが殆どだ。


そこに書かれている通りに乗馬グラブにいく馬なんか、指折りで数えられるほど………」


秋華の背筋が凍りつく。



「処分、って………」




「殺す、という事だ。早い話………」


「…………!!」



驚愕したような秋華の顔を見て、ひとつため息をついた勘助。



「………はたから見てひどい話だとは思う。



けど、馬主も生産者も仕事なんだ。


いつまでもいつまでも、ただ消費するだけの馬に割く金も余裕はないんだ。


だから………」



「だからってそんな………!



生ませたのは人間でしょう!?



だったら、最後まで面倒見るのが普通じゃないんですか!?」



「道徳的に考えればな。」



「!?」




編集 しおり コメント(0)

「けど、競馬や馬産は当事者にとっては


レジャーじゃない。


娯楽じゃない。


れっきとした職業なんだ。」



目線を伏せた勘助。


あくまで冷静に見せている勘助だが、その胸のうちは………


若干声が震えている。



(か、勘助さん………?)



「馬を作らなければ生活は成り立たないし、稼がない馬を持ち続けても散財が募るばかりで行き着くところは


破産なんだ。




馬は……かわいいし、なついてくれる。


馬を死なせるような真似をしたいと思っているホースマンは、いない。


けど、これはあくまで職業なんだ。



この世界で生き残ろうとするなら、少しでもいい馬を残して


活躍しない馬は切り捨てていくしかない………。」



終わりに近づくにつれ、徐々に小さくなっていく勘助の声。



(私の………せいかな……。)



これ以上聞き返すのは酷だと秋華は思った。


しかし、黙った彼女の意思とは裏腹に


勘助は言葉を続ける。



「去年………。俺も一頭馬の命を絶った。


将来のこの牧場の生き残るすべを確保するために。」



勘助は開いた手を眺めた。


当然とっくの昔に血のあとは消えているが、そのときの臭いは今でも勘助から消えていない。



「あのとき……俺は今の秋華と同じみたいに、ただ『命』の重さだけを考えて馬に接していた。


だから、ラグフェアーの子……トシローの兄弟を死なすのに抵抗した。



けど……な。


芝さんに言われたんだ。


この牧場を守る気があるなら、自分が苦しみを背負え、って………。」



「………それってどういう―」





「ただの馬好きじゃあ、この仕事は勤まらないって話だよ。



この世界には、馬を切り離す非情さも必要なんだな。



つまり、馬を牛や豚と同じように経済動物として見ることが―」



「―あの。



勘助さんも、そう思ってるんですか?」



………聞かずには、いられなかった。




「…………。


思ってないよ。本心は………。」



(ほっ………)


何故だかはわからないが、秋華は安堵した。






「俺も馬好きなんだよな………。



でも、割りきるしかないんだよ………。


でなきゃ、我の生活が成り立たない。



だから、俺にできることは……。」


勘助の顔が、馬房にいるであろうトシローの方に向く。


そこにあるのはただの壁だが。



「せめてあいつのことを第一に考えてくれる馬主に売却するとか、


強くなって人気が出るようにしっかり育ててやるぐらいの事だ。




あいつが強くなれば、種牡馬になれれば



6年後にはまたここで会えるかもしれない………。」



「ここで………?」



「ああ。



いい成績を残して有名になった馬なら、種牡馬になったりあるいは功労馬として余生を送ることができる。


JRAから補助金が出るんだ。



………逆に言うと、大概の場合はそれ以外に牡馬の生き残る道は無いに等しいんだ。」




「………………。」




「………サイレンススズカのことに話を戻そう。


俺はさっき、あの馬みたいなのはまれな例だといったよな。」



こくっ。



秋華が無言でうなずく。



「あの馬は間違いなくみんなに……一部の非サンデー派を除いて、


愛されていた。



あの特異なレースっぷり、それでも圧勝する能力の高さ………。



スターホースという言葉にあれほどぴったり当てはまる馬も少ない。


実際、俺の親父も熱烈なファンだった。


………秋華のお父さんと同じように。」



(お父さん………。)

編集 しおり コメント(0)

「最終的には、ああいう風な形になってしまった。



………みんな悲しんだな。


さっき、非サンデー派がサイレンススズカを嫌っていたって言ったけど、



あの馬が死んでしまったときに、初めてサイレンススズカのことも好きだったんだと気づいた


って言う人は少なくない。




………でな。



ほんとは死なないのが一番いい。


みんなサイレンススズカが死ぬのを見に来てた訳じゃない。


当然、あの馬が勝つことを望んで見に来ていたはず。



………でも、あの馬は死んでしまった。



繰り返すけど、死なないのが一番いい。



でも、いざ死んでしまったときに、あの馬は伝説として語り継がれるに至った。



本人がそれを望んでいたはずはないけど、


あの馬は今なお多くのファンを持っていて



毎年墓参りに来たり、天皇賞の東京競馬場になると喪に服したりする人もいる。



あまた無名のまま死んで行く馬がいるなかで、


あれほどの称賛を受ける馬がいったいどれ程いると思う?」



「あ…………。」



勘助の視線は秋華の頭を貫いていく。



「そもそも比べることが愚かしいって言われるかもしれないけど、


うちの生産馬は、今まで何の称賛も受けずに行方不明だ。


殺されたやつがいることもわかってる。」



………それはうちも例外じゃない。


そこに書かれてる『ナンキシラハマ』って馬はうちの生産馬………。


気性が荒いから、絶対に乗馬にはなれない。


でも乗馬になると書いてある。これがどういうことか………。



…………でも、引き取ってやるわけにはいかないんだ。


うちの経営は今、バルクを世話することによって古川さんから提供される生活費を削りつつ、


トシローに割り当てるギリギリの自転車操業だ。



だから、他の馬を引き取る余裕は無いんだ………。」



「………


じゃあ、トシちゃんもそうなることがあるってことですか?」



不安の眼差しをこちらに向ける秋華。


「…………さっきもいったように。」


平然を必死に保とうとしている勘助。



編集 しおり コメント(0)

「活躍した馬は、その後の余生を送れる可能性がある。


サイレンススズカだってあんなことにならなければ種牡馬にだってなんだってなれたはず。



そんな資格すらない馬がゴマンといるなかで、




はっきり言おう。


うちのトシローは十二分にその資格を持っている。」



「えっ…………。」



「今の時点で言ってしまっていいことではないかもしれないけど、


あの子の能力は相当なもんだ。



さっきも古川さんと話していたけど、あんなに競争馬としての素質をオールマイティに兼ね揃えている馬は


滅多に出ない逸材だ。




………うちの牧場から、初めてそんな馬が出たんだ。


あいつを走らせないのでは、今まで志半ばで死んでいった奴らに顔向けがたたない。



その後生かしてやりたい馬がいる馬がいてもそれをさせてやることが出来ない生産者がいるのに、



それをやれる馬を持った俺がその馬をデビューさせないでは



…………うん。



申し訳がたたないよ………。」




うちが今まで送り出してきた多くのサラブレッドたち。


祖父の時代から数えて数はざっと100では済まないほどだが、



うちの長い歴史のなかで、無事にここに帰ってこれたのは僅かに七頭ほど。


最近ではトシローの母、ラグフェアーと、その母スクイズのみ。


ことに牡馬に至っては今だかつて帰ってきたためしがない。




それもそのはず。


成績が残らなかった上に、血統の悪い馬の子を


馬主が買っていく道理はなく、それこそ作ってもデビューすら出来ない状況になってしまう。



十数年前まで『サラ系(サラブレッド系馬=完全なサラブレッド血統ではない)』に依存していた山本牧場の生産馬では、現在のサンデー、ブライアンズタイム、トニービン等から来る海外サラ血統の波に乗ることは到底出来ない。



………ならばやはり、他の牧場の生産馬の


安くても血統のしっかりした、子供が少しでも売れそうな繁殖馬を連れてくるのである。



そうなってくるから、結局自分のところの生産馬はその後養ってやることはできず、


結局七頭という悲惨な結果が生まれていた。



………言い訳に過ぎないと言われるかもしれない。


今でも毎年、各競馬組合には動物愛護団体から『動物虐待だ』と、散々なクレームをつけられる。



だが、華やかなレースの世界の裏には闇があって


明日の生活にヒーヒー言ってる生産者がいる。




編集 しおり コメント(0)


そんななか、



零細血統、地方所属というマイナー環境のなかでも活躍馬は産み出せるといういちるの希望を見せたのがコスモバルクでは無かっただろうか。



しかし、それでもまだなし得ないクラシック制覇。



だとしたら、その一人息子であるトシローは


その希望を具現化すべき馬では無いだろうか?



中小牧場でもやれる、ただ馬をつくって殺すだけじゃないということを


見せつけてやることができるのではないだろうか?



………そうだ。




(そもそも俺は、


あいつを中小生産者の希望になるようにと思って生産したんだ。



そしてあいつは、なり得る。


そんな存在に。


必ず―)



目を上げ、それに火が点る。


勘助がこの日初めて感情的になった。


時計は午後七時半。



彼は膝におかれた秋華の手をぎゅっとにぎった。



「!」



「わかってくれ………!



あいつは希望なんだ。


今まで俺の力ではどうしようもなかった競馬の闇という苦しみに、


初めて抗えるんだ。


自己満足じゃない。


俺はあいつを大事に思ってる。



大事に思ってるからこそ、競馬場へ遣るんだ。


あいつの生きる道を開いて、その道にあとから続くうちの生産馬がその道を通っていけるように。」「道………。」



「あいつが道の開拓者になる。


中小牧場の生産者だけが苦しむ時代に終わりを告げてくれるはず!



だから、秋華。



俺も苦しい、が



あいつを競馬場へ遣ること、


許してくれ…………」



勘助が深々と頭を下げる。


彼女は面食らってしまった。



「か、勘助さん!?


そんな!頭を上げてください!」


刹那、勘助が顔をさっきより高く上げ、ほぼ秋華の真っ正面で対面する形になった。


「勘助さん………」



「…………頼む!」


さっきまでの細々とした声とは全く違う、しっかりとして


なおかつ力強い口調に、


秋華は圧倒された。


悲しみと希望が入り交じったようなその声とその行動は、


自身の言葉を振り返らせるには十分すぎた。



(………。


結局………


また苦しめてたのね、私………)


勘助の目を直視できなくなった秋華は顔を伏せた。


恐らく返答を待っているだろう勘助の温もりが



握られた手を介して伝わってくる。


編集 しおり コメント(0)

(この人が一番トシちゃんのこと考えてくれてる。


なのに私………。)



この手は嘘をついていない。


【―トシローは道になる。】



今までどれだけの苦しみをこの手で味わって来たのだろう………



(ダメだな、私………



なんにも知らないのに好きなことばっかり言って………)



「やな女よね………」


口をついて出たのはその言葉だった。



勘助の手が一瞬硬直したのを秋華は感じた。


が、その手は、また彼女のその手を握り返す。


「そんなことはない。」


「…………?」



「秋華は状況を知らなかっただけだ。


あれだけトシローのことを心配してくれてんだ。


俺はむしろ嬉しかった………。」


勘助の片手が彼女の手から離れ、


頭を撫でて上を向かせる。



秋華の視界に勘助の顔が再び入る。


(………。)



「大丈夫。



あいつはここに帰ってこれる。」



かすかに笑みを浮かべている勘助。


「だから今は、精一杯世話をしてやるんだ。


向こうに行ってもあいつがしっかりやれるように、な。」



「………。」



何でさっき私は感じることができなかったんだろう。


この人の馬を思う心の温かさに。


……違う。


私は既に気づいてたはず。


なのに一時の感情で好き放題言って、また彼を傷つけた。




(ごめんなさい、勘助さん………。)


不意に熱くなった目頭を誤魔化すように押さえて、


それでいて秋華はしっかりとうなずいた。



「………すいませんでした、勘助さん………。


私が………無知でした………。


好き放題言って………。」




じわっと目から漏れ出す滴。



秋華は悟られまいと必死にごまかそうとしたが、


勘助にはそれがわかっていた。



彼女の頭に当てていた手を顔の方にスッと下ろしていき、


僅かに光る涙をぬぐってやる。



「馬のために本気で泣いてくれる女の子は、この世界中にそうそういないよ………。」



(…………!)


一気に吹き出しそうになった感情を抑えるために、秋華は自分の膝に突っ伏した。


「~っ!」



私が泣いていい道理はない。


苦しかったのは勘助さん………。


(~うぅ!)



しかし、泣くまい泣くまいとするたび涙は溢れてくる。


トシローのことを思うと。


勘助の苦しみを思うと。




必死に涙を殺して泣く秋華の姿を見た勘助は、ふぅ、とため息をつき、



(説得のため、とはいえ


なかなか初めて考えたこともあったな。



再確認、発見、全部秋華のおかげだ………)


編集 しおり コメント(0)

―――――――――――――――


勘助はただ頭をなで、


秋華は泣き声を圧し殺している。



しばらくの沈黙の後………。



勘助はふと、カレンダーを見た。

12月29日の項目には大きく



『G1』


と書き込まれていた。



(あぁ、そうか………)



勘助はやるべきことを見つけた。



パン!


勘助が秋華の顔の前で手を叩く。


「!



ふぇ?」


驚いた秋華が顔を上げる。


その目は微かに充血し、頬は濡れている。



「よし………



そう!顔上げて!



今まで暗い話ばかりしてきて、ちょっと競馬のイメージ悪くなっちまったろ?」



「…………はい。」



勘助が指をたてて微笑を浮かべる。



「でも闇の部分が多いだけ、表の部分は華やかなんだ。


競馬ほど夢とロマンに溢れたスポーツもまた、少ないと思う。」



「………。」



「人間と馬のドラマやライバル関係があって、時には涙を誘うことだってあるくらい。



今から、そんな華やかな競馬を観に行こうか。」



「華やかな………競馬?」



ぼおっとした感じの秋華。


その問いに笑みで返事をした


「そ!


華やかな競馬!


馬という生き物が、多くの人間に称賛を受けて輝く世界だ!」



そう言うなり勘助は秋華の手を引いて立ち上がった。



引っ張り上げられる格好になった秋華は


「ちょっ、勘助さん、痛い……」



腕の張りに耐えきれず、急いで立ち上がった。



「ああ、ゴメン。



でも、急がないと始まっちまうし。」


相変わらず笑みを浮かべた顔で、勘助がこちらを向いた。


さっきまでの暗い顔はどこかへ行ってしまったかのよう。



「えっ………?



何が始まるんですか?」


秋華は壁掛け時計に目を止める。



時刻は午後7時55分を回ったところ。



彼女の視線を追って壁を見た勘助は、その針の位置を見るなり、



「ヤバい!急がないと間に合わん!」



と、彼女の手を引きながらその部屋を飛び出した。


たまらず彼女も引っ張られていく。


編集 しおり コメント(0)

「ま、待って!


ハァ、ハァ………


早いってば!」



さっきまで寝ていた秋華はすぐに息が上がった。


が、気にせず厩舎を居間に向かって駆け抜けていく勘助。


「頑張ってついて来い!」



「ええっ!?



ちょ、ちょっと………わっ!」



さらに加速した勘助。


途中、バルクやトシローが驚いてこちらを向いたり、いなないたりしていたようだが、


勘助には関係ない。



「東京大賞典の出走時刻が!」



風のごとく駆け抜ける勘助。



「ま…………待っ………」



………追い付くのがやっとの秋華。



とにもかくにも、両者はものすごいスピードで厩舎を駆け抜け………。



ピシャン!


彼はドアを突き飛ばし、居間に転げこむなりこう聞いた。



「古川さん!まだ始まってませんか!?」


そこにはこたつに足を入れ、テレビに釘付けの古川がいた。


「うわっ!なんや!」



突然の出来事に跳ね上がって驚きつつも


さすがは古川。



かねての手はず通り勘助が秋華をつれてきたことと、東京大賞典を見せるために飛んできたことを


僅か一秒の間に理解し、



「あ、あぁ、ちょうど今からゲートインや。


もうあと一分遅かったら始まってたで。」



といってテレビに指を指す。


そこに映っていたのはホースチャンネルで、画面には大きく


【東京大賞典G1】



と書かれていた。


その文字の後ろでは馬たちが着々とゲートに入っていっている。



「ま、間に合った………。」


靴を放り脱ぎ、その場に寝転ぶ勘助。



「はぁ…………ぜぇ…………」


それに続いて勘助の横にうつ伏せに

ふらふらっと倒れる秋華。


「………勘助さん、はぁ、


速すぎ………」


顔までじゅうたんに突っ伏した。



「………ハァ、フゥ、


まあ、こうしないと間に合わなかったわけだし………。」


そういって傍らにいる秋華に笑いかける。


が、彼女は下に顔を埋めているので目線があうことはない。


季節外れに汗もにじんでいる。



(………やっぱり無理させたかな?)


今更の申し訳なさが生まれた。



横で相変わらず息を切らす秋華。



そんな二人の様子を見て、



「仲エエなぁ~


お二人さん!



いっつもそないして寝てんの?」



古川がにやけながらこちらを見て笑う。



「「………!」」


その言葉を聞くなり、


勘助も秋華も瞬時に起き上がった。

編集 しおり コメント(0)

「な、何を言うんですか!


そ、そ、そ―」


「―そんなわけないでしょ!?


断じて私は自分の部屋ですから!」


顔を真っ赤にする二人。


その模様があまりにも息ぴったりだったので、



古川はさらに笑っていた。


「ハハハ、結構結構!



若いんやし、それぐらいの事は無いとなぁ!


ハハハ………」



勘助と秋華は真っ赤な顔を見合わせた。


「ふ、古川さん!」


勘助が異論の声を上げたときだった。


『うおおおおっ!』


テレビからまさかの大歓声。



「どわっ!」


『さぁ、熱気に包まれた東京の大井競馬場。


地方、中央、そして海外からの刺客(2011年より国際グレード)が一同に介しました。



東京大賞典、国際G1。フルゲート13頭が着々と収まっております。


一番人気はアメリカからの刺客、アグレッシブヒストリー。

ハリウッド金杯G3の勝ち馬で、BCクラシック(G1)の三着馬。


二番人気は中央から参戦、ビストロスマップ。スマートファルコン産駒の大将格、ジャパンCダート(G1)の勝ち馬です!



以下、兵庫からの参戦は重鎮オオエライジン。12歳での平地G1参戦はこれが戦後初となります。


浦和記念(G2)の勝ち馬、コスモスルーオフも見逃せません!』




芝山の寝る居間に、帯川サトルとおぼしき実況アナウンサーの声が響き渡る。


勘助の反論を遮るために、古川が音量を40まで上げていた。



(うっ、うるせーっ!)


思わず耳をふさいだ勘助だったが、なんの意味もなかった。



『夢と希望が走ります、満点の星空の下、大井競馬場は


今日もときめきワンダーランド!


米国の意地か、中央のプライドか、はたまた地方の逆襲か!』



キーンと鳴る頭。


(耳がつぶれるわっ!)


まるで耳元で叫ばれてるかのよう。



勘助はとうとう耳から手を離し、古川に叫んだ。


「わかりましたっ!


何も言いませんから!


音下げてくださいっ!」



腹から声を出したつもり。


しかし古川は耳に手をひらげ、



「何言ってるかわからへん!」



と、笑いながら叫び返してきた。


音量を下げる様子はなく、しかも明らかに面白がっていることから、作為的なものであると勘助は確信した。



(おのれ!それならこちらにも考えがある!)


いきり立った勘助は立ち上がり、古川の方へと猛然とダッシュ!



するはずだったのだが。


編集 しおり コメント(0)

「だあっ!」



走り出した足首を何者かにつかまれた勘助は、


その反動で見事、床に叩きつけられた。



ばたぁぁぁん!


地面が揺れるほどの衝撃。



(いてえっ!)



うつ伏せに倒れこんだ勘助の耳に飛び込んできたのは、


大歓声と


古川の爆笑と




秋華の悲鳴だった。


「勘助さんっ!」


声の方角と大きさからして秋華のものとわかるそれが、近づいてきた。


それと同時に、足首を締め付けていた圧力が消え去った。



(お前か…………。)


勘助は、すべてを悟った。



「大丈夫ですかっ!?



ま、まさかこんなことに………」




―なる予測もつかんのか、お前は。


勘助、心の呟き。



「っつ~!


何する!?秋華!」


起き上がりざま、彼は彼女の方を睨んだ。



………いや、睨んだつもりだったが、

身体中の痛みや赤く腫れ上がった顔で


相当情けない顔をしていたと、当時笑い転げていた古川は後に語った。



「ご、ごめんなさい!



どうしても気になることがあって!


ほんとは肩を叩くつもりだったんですけど、勘助さんが突然立ち上がったのでつい…………」



本当に申し訳なさそうな秋華。


こやつは思った以上に天然だ………。


「ガハハハハ!つくづく斎藤さんはおもろいなぁ!」


向こうでは古川が手を叩いて笑っている。


(ジジイ!聞こえてんじゃねえかよ!)



「あはっ………そうですか?」



瞬時に笑顔が戻る秋華



(なぁ!?)


「真に受けるなっ!」


勘助は憤慨した。



「………!


ご、ごめんなさい!ごめんなさい!


嬉しくてつい………」



「へっ!?」


(つい………って………)


もう勘助は、何もかもがアホらしくてなにも言えなくなった。



心配そうな目でこちらを見る秋華。


(本当に心配してんだか…………)


起き上がりつつ、デコを擦りながら勘助は思った。


彼女の表情はまさに七変化というに等しいか………


嬉しければ笑い、


心配なら心配して、


怒る時は怒る。



喜怒哀楽はっきりしている彼女。



(まぁ、そこもいいんだけれども………)



勘助もアホであった。


編集 しおり コメント(0)

「で?質問とは?」



今度は足を擦りながら勘助が聞く。


絨毯の下はフローリング。想像以上に痛い。



「あ、はい………



えと…………



……………。


あれ?」



人差し指を頭に当てて、深刻な顔をする秋華。



「……………?」



いくら待っても「あれぇ?」しか聞こえてこない。



(こいつまさか………)



「なぁ秋華。


まさかとは思うが、質問忘れたんじゃ…………」


その言葉を聞くなり、一瞬彼女の体は跳ね上がったように見えた。



「…………図星か。」



「ちっ、違いますよっ!



待ってください、今思い出しますから!


えーと…………」



それから彼女は顔をしかめて頭に手をのせたまま、動かなくなった。


本当になんのことだったか忘れてるらしい。



「……………。」


勘助は言葉も出なかった。



が、発送時刻も迫っているし、古川と話もしたいので(この時点で音量は21まで下げられていた)いち早くテレビのある和室にいきたかった。



「あのさ、秋華………」


全く動かない秋華の肩をポンポンと叩く。


そうでもしないと気づかないだろうから………




「えっ?」


案の定こちらを向く秋華。



「その話って、このあとでもできる話じゃないか?



その………東京大賞典が終わってからでも―」



その刹那、秋華ははっとしたようにこちらを見た。



「―そう!それですよ!勘助さん!


それが聞きたかったんです!」


思い出したことによるアハ体験からか、秋華は今日一番スッキリした顔をしていた。


その勢いに押されて勘助は一瞬たじろいだ。


「えっ………?



それ、って………」



「東京大賞典って何ですか!?」




「…………


…………



……………はっ?」



「だから、東京大賞典って何ですか?」




―唖然。


ただそれだけのために俺はぶっ倒されたのか…………。


勘助は失意のあまり、大きくため息をついた。



「…………



東京大賞典ってのはな…………。」


編集 しおり コメント(0)

《農林水産省賞典、東京大賞典》


グレード国際G1


大井競馬場ダート2千メートル



過去の有名な優勝馬


ヴァーミリアン

スマートファルコン

ブルーコンコルド

アジュディミツオー

アブクマポーロ


など。



国内ダート路線の総決算。


年内最後のG1競争で、賞金も一着八千万円ということもあり、毎年砂の有力馬が集結する。


グレード制導入後は中央競馬所属馬の一人勝ちが目立つ。


2005年、船橋競馬所属アジュディミツオーが連覇を果たして以来、地方馬は苦杯を喫している。


また、JRA勢も、スマートファルコンやブルーコンコルド、カネヒキリといった、G1常連に土を付けることができず、なかなか混戦になることは少ない。


JRA、南関東競馬所属以外での本競争の優勝馬はトーホウエンペラー(岩手)以外にはまだ存在しない。



日本競馬において、ドバイも視野にいれた馬がステップとして使うことも少なくはなく、ダートG1としては

ジャパンカップダート、フェブラリーS、JBCクラシックに次いで重要な役割を果たしている。




この一日は、大井が社交場に変わる。


編集 しおり コメント(0)

…………。



「………とまぁ、こんなところでわかるかな?」


説明を終えた勘助は、深く行きを吸い込み、吐き出した。



秋華はわかっているのかわかっていないのか、曖昧な表情を浮かべていた。


「…………んー。



なんか、すごそうですね!」



何もかもを諦めたような声で秋華。


勘助、愕然。


(今までの説明にかけた苦労を返せ…………。)



さらに失意の沼に沈んだ勘助であったが、次の秋華の言葉によって少し救われることになる。



「でも、さっきの話だと、これに勝った馬はすごい馬なんでしょ?


じゃあ、そのあと幸せに暮らせるかも………ってことですよね?



トシちゃんも、これに勝てればいいんだな………。」



(ほっ………。)



どうやら、全くの無駄ではなかったらしい。


伝えたいことの3分の1くらいは伝わっただろうか………。



「そういうこと。


このレースは、種牡馬にするかしないかの目安になるレースだし


これに勝てば世間に『強い馬』だと認められるんだな。


だから人気が出る。


愛された馬ってのは、そう簡単に馬主が手放したくは無くなるもんだ。


………古川さんのバルクみたいにな。


大概は幸せに暮らせるよ。」



そういって、古川の方を見る勘助。


彼は発送の迫った東京大賞典の中継に釘付けになっていた。



「それに………馬主にとって、G1を勝つ馬をもつことほど


名誉なことはない。」



………自分たちブリーダーもそうだが、生活の為だけに競馬をやってるのではやりがいがない。


いつかは重賞を、G1を、ダービーを取りたい。という夢を持ち続けるからこそ、その職業に誇りをもって取り組めるのだと勘助は思っていた。



「何が、それほどの価値を産み出させるんですか?」



スターターが台に登り、旗を降り、ファンファーレの鳴り始めたテレビの中の大井競馬場。


大観衆が大声と手拍子で発送を待ち構える。




「それは…………。



これを見ればわかるんじゃないかな。」


そう言い残して勘助は古川のいる隣の居間へと向かって歩き出した。


「あっ、ちょっ………。」


秋華もこれに続く。



―必ず、何かがわかるはず。


G1というレースの、競馬のロマンが。熱気が。重要性が。夢が。



誰もが認める、競馬の華。




『さあ、暮れの大一番!



東京大賞典!』



大外の馬がゲートに収まった。



体制完了!



『夜空の星に願いをのせて、


東京大賞典!


今、スタートしました!』

編集 しおり コメント(0)


G1のゲートオープンは自分の馬が出ていなくとも、武者震いがする。


始まったばかりだというのに、勘助はすでに鳥肌がたっていた。



『ややばらついたスタートとなりました。


船橋のザッツアビオンディあたりがちょっとダッシュがつかない。

さあ、先行争いですが……



大外枠から大きく手綱をしごいてビストロスマップが行きます!


ここは父親譲りといったところか。


鞍上の佐竹豊、ここは何がなんでも行こうという感じか!』



―この馬の父スマートファルコンは《砂のサイレンススズカ》といわれたほどの逃げ馬である。


その血を次ぐビストロスマップ。

あっさりハナ(先頭)に立ち、レースを作り始めた。


「むぅ………


さすがに上手いな………佐竹豊。」


古川が唸る。



『さぁ、そしてそれをマークするような形で三歳馬コスモスルーオフ。


鞍上の柴名大地はこのレースで引退を表明しています。


有終の美を飾ることができるか?


さらに3馬身切れまして外からスーパーハコダテ中央馬………』




「コスモ………スルーオフ………


スルーオフ!?」



勘助は驚愕の目を古川に向けた。

(ひょっとしてまさか………)


「スルーオフって、あのスルーオフですか!?」


彼は、もうこたつをひっくり返そうかというような勢いで身を乗り出した。


古川は微笑んでいる。



「そう!その通り!


あのラグフェアーのライバルやった、スルーオフの子やねん、こいつは。


スルーオフが船橋に移籍して、日本テレビ杯(G2・Jpn2)に勝った時、成績に傷がつかんうちに種牡馬にしたんや。


父がサンデーサイレンスやからか知らんけど、わりかし牝馬が集まってな………


この子はそのなかでも一番出来がいい。」



照明器具によく照らされた馬体がキラキラと光る。


あまり見映えがしないあの馬体。


言われてみれば、どこかスルーオフの面影がある。



「そう……ですか………。」


勘助は感無量だった。



―レースはホームストレッチを通過。


『先頭はビストロスマップ、飛ばしていきます。


そのリードは3馬身4馬身、それに続いていくのがコスモスルーオフで最初のコーナーへ。』


編集 しおり コメント(0)

勘助はふと、気になることを聞いてみた。


「コスモスルーオフ………。


冠名(馬主が、自分の馬であることを強調するために統一してつける名前の一部。例》ディープ、テイエム、エイシン、メイショウ、コスモ、マイネル、フサイチ、ヒシ、エア等)が『コスモ』ってことは、古川さんの持ち馬ですか?」


古川の使用してる冠名は、マイネル、マイネ、コスモの三種類である。


勘助は当然、古川の持っている馬なのだと思ったが、



古川は大袈裟に手をふってそれを否定した。


「いやいや、あれは俺の馬とちゃうねん。


あれは俺の息子の持ってる馬で、息子の経営してる早来の分場(早い話がチェーン店)で生まれた子や。


そもそもスルーオフを種牡馬にしたんはあいつやから。」



手を擦り合わせ、暖をとりながら古川が言う。



「あ、そうなんですか。


なんだ。ハハ………。」



(なんだか少し残念だ………。)


………僕はてっきり古川さんがラグフェアーとの二世対決の場を作ってくれようとしたのかと思ってました。」



本当にそう思っていた訳ではないが、そういうのもありかなと思った勘助。


そんな想いも籠った勘助の言葉を聞いた古川は一瞬キョトンとしたが、


すぐに笑いだし、


「そりゃあ、あいつを種牡馬にするって息子が………秀馬って言うんやけど、その可能性は考えたわな。


しゃーけど、ホラ。ラグフェアーは結構長いこと現役やったやろ?


スルーオフ自身あんまり繁殖成績は良くないし、産駒の数も減ってきてたから、もうあかんかなぁ………


と思てたんやけど………。」



やけに嬉しそうな古川。



その訳を勘助は既に察していた。


(つまり、そこにトシローとこの馬が出現したわけだな……


コスモスルーオフは三歳馬、ひょっとしたらあるいは………。)



古川と勘助が思案を巡らせている間も、レースは淡々と進んで行く。


『2コーナー手前でやっと各馬ペースが落ち着きます。しんがりから2頭目にザッツアビオンディ、


一馬身切れて重鎮オオエライジン、キングヘイロー産駒12歳馬、頑張ります!』



(まだ走るのか、この馬………)



12歳と言えば、馬でいうともうおじいさんである。


編集 しおり コメント(0)

『そしてシンガリ大きく離されました、アメリカの重賞馬アグレッシブヒストリー。


この位置取りはどうなんでしょうか、鞍上女性騎手エルピィ・プル18歳!


これも作戦なんでしょうか!?』



アップで写し出されるオレンジの髪の色をした、若い女性騎手。


栗毛の馬体、アグレッシブヒストリーと一緒に見ると、非常に様になり、美しい………。



「綺麗な人だなぁ………。」



思わず口をついて出た言葉はこれだった。


しかしその瞬間。



「知らんでぇ~………!」


今まで顔を向かい合わせていた古川が、突然に震え上がり、テレビを注視し始めたことで、



(………まずい。)


勘助は後ろで何が起こったかを察知した。



「…………………。」



キャンプファイアのように燃え盛る炎。


(ひぃあぁあぁあぁあぁ…………)



後ろの正面だぁれ………?



『さぁ、向こう正面に差し掛かったところ、依然として先頭はビストロスマップ、さらに5馬身後方からコスモスルーオフ、並ぶようにして上がっていくのは

岩手競馬ダンシングヤード、鞍上織田裕次!


ネバーエンディングを合言葉に、JRAの一人勝ちに終止符を打つべくゴールへのレインボーブリッジを封鎖できるか!


さらにそこから3馬身ほど切れたか、ガトームソン、ヒルマンドラゴンズ、ジョージアリアスと続きます………』



いよいよレースも終盤へ。徐々にレースが動き出す。


すべての馬が、先頭をとらえるべく、じりじりと差を詰めにかかる。


が、大井の最後の直線は長い。



他の全馬とも、脚を使い果たしてしまうのが怖いため、なかなかビストロスマップについていこうとは思わない。



まあ、アグレッシブヒストリーはただ自分のペースでの後方待機だが。


ビストロスマップ鞍上、佐竹豊はこの時こう思っていた。



――――――――――――――


[確かにペースは若干早い。


………が、この馬にとってはそれほど辛いもんじゃない。


後続集団にはもうかなり差をつけてあるし、


多分後ろの金髪の嬢ちゃんが怖くて積極的には動けないはずだ……。


それに、前の集団にも怖いのはいない。

編集 しおり コメント(1)

岩手の織田は相変わらず向こう見ずだ。あれは詰まってるんじゃない。ただ一杯に追ってるだけ。


ヒルマンドラゴンズにしろ、ジョージアリアスにしろ、たいした脚は使えないだろう。


元々それほどの実力を持ってないのは成績を見れば明らか。南関グレードで着外じゃ………。



まあ、このまま行ければアグレッシブヒストリーとの一騎討ちだろうがな。



あいつさえ来なければ………。]

そういって後ろを振り向く。



そこには、未だにほとんど追い出していない、しかし着実に差を詰めてきているコスモスルーオフの姿があった。



[柴名の馬か………


三歳路線で来たからあんまり詳しいことは知らんが………



とことんプレッシャーをかけてきやがる。


こりゃ………マズイな。]



しかし、そうは言えどこの時は既にペースはギリギリで、これ以上上げることはできない。最後に使う脚は残しておかなければ………。


佐竹は、コスモスルーオフが直線で伸びないことを祈りつつ、ただその手綱を維持することしかできなかった。



――――――――――――――



『………残り八百の標識を通過!


徐々に差を詰めていくコスモスルーオフ、ダンシングヤードはここまでか、上がっていくのはオオエライジン、


そして、


シンガリから押して一気に上がっていったのはアグレッシブヒストリー!』



白熱した帯川の声が響き渡る。


古川はもうレースしか見えていないほど!


しかし勘助は…………。



「………私なんか…………勘助さんは……………」



(や、ヤバいな………これは。)



一度の失言によって、とんでもない苦境に立たされていた。



そう、後ろの秋華から来るプレッシャーで。



「………そうよね。私なんかよりずっと綺麗な人ですよねー………


あ・の・ひ・と。」



言葉が槍のように勘助の背中に突き刺さる。


(ご、ごめんなさい!


もう言わないから許して!)


勘助は心のなかで何度も謝った。


編集 しおり コメント(1)

『残り6百!


ここでビストロスマップ鞍上佐竹豊が手を動かした!


しかし既にリードは3馬身ほどしかない!


それを見るようにして上がっていったのはコスモスルーオフ、楽な手応えで前を捕らえにかかる!


鞍上の柴名はまだ持ったまま!



そしてその内からは再びダンシングヤード、再び伸びてきているぞ!』


レースは三頭の攻防になり、大井のスタンドはもちろん、全ての地方競馬ファンは、今年最後の祭典に喉をからしていく。


居間にいる古川でさえ!


しかし…………


「どーせ、どーせ、どーせ………」


どんどん沈んでゆく秋華………。


(う…………。



これじゃあせっかく競馬の華を見せてやろうと飛んできた意味がない………。)



『さあ、最後の直線へ!』


大歓声。


競馬ファンのボルテージが一気に上がる。



(ダメだ!もう俺の失言はごまかすしかない!)


勘助は思いきって後ろを向き、彼女の肩を掴んでテレビの方を向かせた。


「ほらっ!秋華!


もうクライマックス!


コスモスルーオフが勝てるかもしれない!


ラグフェアーのライバルだった、スルーオフの子が!」



「……………。」


彼女は、ようやく口を閉じて顔をあげ、


テレビを見た。




その時彼女の目に写ったものは―


「あ………。」


『先頭、未だビストロスマップ!王者の意地にかけて負けられない!


しかし2馬身後方から確実に差を縮めていくコスモスルーオフ、絶対王者に襲いかかる!


さらに、来たぞ来たぞ来たぞ!


砂煙を巻き上げて飛んできたのはアグレッシブヒストリー!


エルピィ・プルのムチが唸る!』



―熱気に包まれる競馬場。


月光と照明に照らされて光の道と化したダートコース。


その上を土にまみれて、それでもただ一心にゴールを目指して駆け抜ける騎手と馬。


それを大歓声で後押しする観客、大観衆。


全てが飽和して、えもいわぬ美しい光景を作り上げていた。



「……………。」



不覚にも秋華は勘助への怒りも忘れて、ただただその情景を無言で見つめ続けた。


ただし、高鳴る鼓動を胸に。



『激しい叩き合い!


逃げるビストロスマップ!


追うコスモスルーオフ!


そして一気に差しに行くアグレッシブヒストリー!



佐竹の意地か!柴名の有終か!


はたまたはるばる海外からの刺客か!』


編集 しおり コメント(0)

「おおぅっ!行けっ!スルーオフ!」


古川が叫ぶ。


残り2百の標識を前に、一進一退の攻防を繰り広げるコスモスルーオフとビストロスマップ。


追って、追われて、差して、差しかえして。



そしてその一団を虎視眈々と狙っているアグレッシブヒストリー。


近年まれに見るこの激戦は、その場にいる人、いない人の隔たりなく


見るものをヒートアップさせた。


(これが………競馬。)


『しかし、抜けた抜けた!


ここで先頭はコスモスルーオフ!


ビストロスマップも食い下がるが既に一杯か!


コスモスルーオフ!コスモスルーオフ!


柴名のムチが踊ってスルーオフ!


柴名大地、騎手人生のゴールへ向けて、さあ、残り百!』



「行けっ!スルーオフっ!」


机をひっくり返さんがばかりに勘助が身を乗り出して叫ぶ。



「大地~っ………!」


両手のひらをを組んで古川が祈る。



これまでコスモの主戦を務めてきてくれた、支えてくれた騎手が


今花道を作ろうとしている。



『先頭、コスモスルーオフ!先頭、コスモスルーオフ!


ビストロスマップは馬郡に沈んだ、それと入れ替わるように突っ込んできたのは、


やはり来た、アグレッシブヒストリーっ!


一気に末脚を爆発させた!エルピィも必死に追っている!


その差は2馬身、一馬身半、確実に詰まっていく!』



―――――――――――――――


「がんばれっ!スルーオフっ!もうちょっとだけ頑張ってくれっ!」


自らは必死にコスモスルーオフの首を押しながら、それでも前へ前へと言葉で発破をかける。


柴名大地は、いろんな馬の記憶を、その腕に込めていた。



―初重賞のエアガッツ。



―勝てない時代を乗り越え、障害戦に活路を見いだしたとき


はじめてのG1をプレゼントしてくれたマイネルネオス。



―牡馬クラシックに本気で挑むチャンスをくれた、コスモオオゾラ。



―中山グランドジャンプ連覇、マジェスティバイオ。



そして、最後の平地重賞馬コスモスルーオフ。



(苦難もあったけど………


思えばありがたい競馬人生だな………。)



最後まで平地G1は勝てないか。


そう思っていた。


でも、最後の最後にチャンスが回ってきた。


コスモスルーオフというチャンスが。


しかし、この馬でも幾度となくチャンスを逃してきた。


他の騎手ならとうにG1を二勝はしているだろうと新聞に書かれたこともあった。


それでも、オーナーは使ってくれた。


最後にしっかり華を持て、と。



編集 しおり コメント(0)

(これ以上、俺の未熟さで迷惑は掛けられない。


だから、これが最後!


ラストチャンスなんだ!)



「ふんばれぇぇぇっ!」


柴名は、もう後ろから来るアグレッシブヒストリーは見ず、


ただひたすらに前へ前へと、自分の馬の手助けをすることだけを考えた。


「見せてみろ!お前のその根性!」



―――――――――――――――

『アグレッシブヒストリー物凄い脚だ!完全に脚色は逃げ粘るスルーオフを上回っている!


しかし、コスモスルーオフのリードは3馬身ある!


さあ、届くかどうか!』



画面の中心はコスモスルーオフ。


しかし、カメラの枠外からアグレッシブヒストリーが差をつめてきた。



「残れっ!粘れっ!」


「柴名ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」



二人が、思い思いの言葉を叫ぶ。


秋華は、二人のその声と画面内に映るその馬と騎手が飽和していくのを感じた。



(競馬って…………


こんなにも熱い…………)




今のこの胸の高鳴りは………


あの日見たときとは全く違う。



ただ見ているだけだった私と、


今、頑張って走っている馬を純粋に応援してあげたいと、微かながら思っている私。


それに、あの時のような悲しい感情は今見ている競馬には感じない。


楽しさ?ハラハラ感?胸なり?


………そのどれでもない、何か………。




この二人を見て、競馬がもたらす感動を知ることができたのだろうか。


ただひたすら、勝って欲しい一頭の馬を応援する


勘助と古川。


大観衆。


騎手。


スタッフ。



そんな人たちの情熱が、手に取るようにわかる。


自分の生活のためだけにやってるんじゃない。


この人達は、ただただ、自分が勝って欲しい馬のために、


必死になって、大小はあれど


できることをしてあげてるんだ。




秋華はもう一度、古川、勘助の両者を見た。


もう自分のことなどどうでもいい。


ただ、目の前の一頭に勝って欲しい。


そんな思いを込めてただひたすらに叫ぶ。


(これが、競争馬が愛される形なのね…………。)


そして、そんな声援を一身に受け、ゴールを目指して疾走していくサラブレッド達―。



秋華は思った。


―トシちゃんにも、こんな歓声を…………。



これほどの舞台が見えてきているんだ、あの子には。


勘助さんの言ったことに間違いはなかった。


競争馬の幸せ、が。

編集 しおり コメント(0)

………私は見たい。


こんな歓声の中、トシちゃんが競馬場を駆け抜ける姿を。



私は見たい。


トシローというサラブレッドが何万の観衆の中で輝く様を。


そして、私は見たい。


馬達が勝利を目指して駆け抜ける姿を―!



その言葉を胸にしたとき、



秋華のなかで何かが弾けた。





「頑張れぇぇぇっ!スルーオフさんっ!」






秋華の声は居間に響き渡った。



それまで口々に叫んでいた二人は、その一言を聞いたとたん口をつぐみ、


即座に振り返り、秋華を見た。



その一瞬、その場は静寂に包まれた。


実況の、白熱して今にも燃え尽きそうな声だけが響き渡る。


『しかし、粘った粘ったコスモスルーオフだっ!


アグレッシブヒストリーはここまで!


柴名は既にガッツポーズ!


なんとなんと、


三歳コスモスルーオフ今一着でゴールイーンッ!




ついにやった!ついにやったぞ!


G1挑戦五度目にしてやっと花開いたコスモスルーオフっ!


その花は柴名の花道を満開にさせました!


柴名大地、悲願の平地G1初制覇は、なんとなんと引退レースでした!


おめでとう!おめでとう!』






栃鹿毛の馬体は、古川と勘助の背中で、


確かにゴール板を一番に駆け抜けていった。


「やったーーーーーーっ!


勝ちましたよ!勘助さん!」


秋華が跳び跳ねんばかりに喜ぶ。


「えっ…………」


レースもおざなりに、その言葉に呆気にとられてこっちを見つめ続ける勘助と古川。

しかし、秋華がそんな二人の顔の向こうに見た光景は、


大歓声に包まれて月夜の闇へと駆けていく『勝者』コスモスルーオフの姿と、


馬上で感動のあまり泣き崩れる柴名大地、



そして、それを温かく声援で包み込む大観衆。



こちらを向いていた勘助が、ゆっくりと視線をテレビに戻した。


「ともかく…………スルーオフが…………勝ちましたよ…………



古川さん。」



スルーオフの首に突っ伏して泣いている柴名のアップ映像をぼーっと見つめながら勘助が呟く。



「みたい、や、な。」



信じられないといった感じで机を見つめ始めた古川。




スルーオフが勝った。


その事実は確かに二人の意識のなかに深く刻み込まれた。


しかし、


今この瞬間、それ以上のインパクトを産み出したなにかがあった。


一応は競馬の話をしているが、二人の関心事は当然…………。




「秋華…………。」



いったい突然どうしたんだといったような顔で勘助がこちらを見てくる。


勘助自身、こうなることを望んで秋華をここへつれてきたのだろうが、


それにしても予想外の行動だったのだろう。


それは、古川も同じ。



「………………。」


(ほんまにさっきと同じ子か?)



頭の上に浮かぶ疑問符を取り除くため、勘助は思いきって聞いてみた。


「いきなり………どうした?」



幻でも見たかのような勘助。



秋華はふふっと少し笑ってこう切り出した。



「勘助さんの言ったことが、少しわかったような気がして。


競馬の表側………華やかな部分という意味が。



ここにいる馬は、それぞれが変わった形で愛されてるみたい。


スタンドの人たち、みんな声をからして応援してました。


自分の応援している馬のために。


……スタンドの人たちだけじゃない、古川さんみたいに、テレビの前から必死に応援してる人だっているんです。


騎手の人だって、自分のためだけじゃなくて、馬のためにやってるんだって思います。



そんなみんなの馬への『愛』が競馬場に見えた気がしたんです。



………人が聞いたらバカにされるかもですね。抽象的な発想だと思います。


でも、私には見えたんです。


愛の形が…………」



「………………。」



「それで、私………。


トシちゃんがこんな舞台に立てて、みんなの声援を受けて愛されるなら、こんなにも嬉しいことはないんじゃないかと思ったんです。


馬としての幸せ………。」



「それが


愛、か………。」



「私はそう感じました。


さっきの勘助さんの話と照らし合わせて考えてみました。


処分、っていう結果になる馬がいっぱいいるなかで、


愛される馬も生まれる………。



悲しいことだけれど、その愛される馬がいるからこそ競馬に携わるは楽しい。


そういうことでしょ?」



「…………。」


秋華の目に自分の意思がある。


力強く話す秋華を見て、勘助はそう思った。


競馬に対する反感は、今は見られない。


編集 しおり コメント(0)

「一着になるのは、人も嬉しいし、馬自身も嬉しい。


現にスルーオフさん、すごくいい顔してる………。」



秋華の目線の先。


トラックを一周し、スタンド前に帰ってきたコスモスルーオフと柴名大地。


激闘の跡が残る直線を、ゆっくりと駆けていく。


証明に照らされて輝く馬体は、まさに歓声に磨かれたように光輝き、


嬉しさのあまりガッツポーズを連発する柴名に、


それをするたびに大きな拍手が送られる。



液晶越しにも、十分感動が伝わってくる。


「これが、勝ち抜いた競走馬だけが許される歓喜の瞬間で、


同時に多くの人に愛されることが可能になる瞬間なんだ………。」


目の前に光る大井競馬場のダートに目を輝かせながら、秋華が呟いた。


「確かにその通り………。


競馬のどこに魅力を感じるかは人それぞれ。


秋華がそうやって歓声をかけられる馬の姿に感動したっていうなら、


それはそれで正解だと思うよ。」


―どこから競馬にはまっていくかは人次第。


競馬の表舞台に魅力を感じることができれば、必ず競馬を好きになれる。


例えどんなきっかけであっても、それが競馬への情熱にいずれの時か変化することは間違いない。


そう、作者がマキバオーをきっかけに競馬好きになったように………。



勘助はそんな思いを込めて、この言葉を放った。


秋華の顔がほころぶ。



「だったら、私にも競馬が好きになれそうです!


今日は色々あったけど………



陽と陰の意味が少しわかりました。


その上で、トシちゃんが競走馬になるべきだということ、


納得できました。勘助さん。


その………さっきは好き勝手言ってすみませんでした。



今やるべきこと………立派に競走馬に育ててあげること、ですね。」


「秋華………。」



冷静に感動している様を装っている勘助だが、


このときの胸のうちは、柴名バリのガッツポーズの連発だった。


(おっしゃあ!よっしゃあ!


想像できる範囲では最高のパターンだ!


あぁ、勝者スルーオフよ、あなたに感謝します。)



編集 しおり コメント(0)

勘助のじーんとした顔。



それを見た秋華は微かな笑みでそれに返事をして、古川の方を見た。



「あ、古川さん。さっきは取り乱してしまってすみませんでした。

魅力が、少しだけわかった気がします。



影響されやすいたちではあるんですけど………


私…………。その、競馬を好きになれるように―――」



その言葉を遮ったのは、古川の手だった。


「!?」



笑っているはずの古川の顔が、存外険しかったので、秋華はドキッとした。



「結論を焦りなさんな。


まあ、確かに馬が『愛される』ってのが競馬の魅力の一要素であることは間違いない。


けど、馬が人間に愛されるだけじゃなくて人間も自らを頂点へ持っていきたいっちゅう熱意を持っとる。


たぶん、馬同士もあるんちゃう?


ライバル関係というか………」



「…………?」


「今日はええ機会や。うまいこと行きゃあ全部つかめるかもわからん。



まあ、見たらええ。


柴名がどんだけこのレースに懸けてたか………


こっからは………『人間の競馬』とでも言うとこか。


そこをわからんと、競馬は一生面白くならんよ。」



そういいながら古川はリモコンを手に取り、少しテレビの音量を上げた。


画面内では勝利ジョッキーインタビューが始まろうとしていた。



「G1を………。


取りたい気持ちは人一倍やったはず。


まあ、見たり。」



テレビに体を向ける古川。


「…………。」


秋華は言われるがままに目をテレビに移した。


もちろん、勘助も。


―――――――――――――――


『………えー、放送席、放送席。


勝ちました、コスモスルーオフ号の柴名大地騎手にお話をうかがいましょう。



最後の挑戦にして初の平地G1勝利、本当におめでとうございます!』


「あ、ありがとうございますっ!」


場内に沸き上がる大歓声。


お立ち台に上がった柴名は既に目に涙をいっぱいにためていた。



『苦節二十年あまり、勝てない時期もありました。


そんななか、最後まで騎手をやってこられて、


最後に最高の栄誉を勝ち取ることができました。


………今の気持ち、いかがですか?』



淡々と質問をこなすべきアナウンサーまでもが、少し声を震わせている。


必死に涙をこらえる柴名の姿に、観客も静まり返る。


編集 しおり コメント(0)

『僕が勝てたのは………その………状況の一部でした。


今まで、いろんな馬に乗せてきてもらって………


そのたびにG1を勝てず………。コスモオオゾラを初めとして、他の馬たちにずっと迷惑かけっぱなしで………


ほんとキツくて…………』



耐えきれなくなった涙が頬を伝う。



『絶頂期のオオゾラでG1に勝てなかった時には、乗鞍がなくなっても仕方ないと思いました。


………それでも、ラージの古川社長を初めとして、調教師の先生が根気強く僕を使ってくれました。


………でっ、でも、それでも、勝てない、僕…………もう、迷惑はかけられないと………



せめてコスモスルーオフでG1を勝つことができればと、引退を先伸ばしにして、このレースに臨んだのですが、


それでもまさか勝てるとは………』



一語一句に、柴名の強い想いが込められている。


「柴名ーっ!」


「柴名!よくやった!」


「がんばれっ!」


一部の観客がたまらず叫び出す。


そして、他の観客もその言葉に感極まる。


「柴名ー!」


「大地ー!」




いつしかそれは、言葉の波になって


やんわりとその場を包み込んで行く。



その光景に、柴名は感無量で、もう何も言えなくなって泣くしかできなかった。

《泣き虫柴名》が飾った引退の花道。


ファンも、そうでない人も、すべての人にその言葉は響いていく。


『その………



コスモスルーオフ、に、改めて…………ありがとうと言いたいです。』


編集 しおり コメント(0)



大歓声の中、柴名の視界は徐々にぼやけていき、



彼はその原因となるものを袖で拭った。


そしてふと、傍らを見た。


そこには、優勝レイを首にかけてもらって得意気なコスモスルーオフがいる。


そこにはしっかりとした刺繍で、


《優勝


農林水産省賞典 東京大賞典》


と、縫い付けられている。


勝者だけが掛けることを許されるこの首飾り。



自分が優勝したのも当然嬉しい。


けど、こいつとの別れ際に、こいつにこれをプレゼント出来たことがもっと嬉しい。


生活の危機さえ味わったことのある騎手からは、おおよそ聞かれるべきではない言葉かもしれない。


が、柴名が最後に際して思うことは結局こういったことだった。


彼こそ、本当に馬が好きだったんだろうなぁと、いろんな競馬関係者が後に語ったものである。



彼のどこまでも控えめな性格は、この後の質問において、自分が為すべきは馬のことをしっかり話してやるべき、という使命感を生み出し、


泣いている場合ではないと、切り替えるまでに至る。



「………ふぅっ。」


―少し気持ちが落ち着いた。


馬のこと、話してあげなきゃな………。



『さて、柴名さん。


柴名さんはこれで引退となりますが、コスモスルーオフの現役生活は続きます。


コスモスルーオフ、


言葉で表現するなら、どんな馬なんでしょうか!?』



アナウンサーというものは、人間の心が読めているに違いない。


そう感じられるほど、タイミングが良かった。



「はい、コスモスルーオフは凄く根性のある馬です。


親のスルーオフにも一度だけ乗りましたが、これまで主戦騎手をやらせてもらっていて、ホントに親ににているんだなぁと思いました。


まだ三歳で、気性的に難しいところも確かにあります。


ですが、馬自身がものすごくレースというものを理解しているので、切り替えられるときはバッチリ切り替えてくれます。


僕がふがいない騎乗をしてきたせいで、ここまでG1を勝てませんでしたが、


断言してもいいです。



いい騎手に巡り会えれば、


この馬は、ダート界を引っ張る存在になれます!」



歓声が沸き起こる。


言葉の魔力。


ここに新たなヒーローが突如として誕生した。


編集 しおり コメント(0)

(結局………。これを言ってやりたかったんだよな………。)



最後の仕事、と。


あまりに出来過ぎだな……。



これで、騎手稼業ともお別れ。


でも、なんだか淋しい一面、ほっとしたような感じもあって



この特殊環境から外れた生活に、少し胸を膨らませた。



『それから、柴名さん。


ファンの皆さんが気になっていると思います。


今後は柴名さん自身はどういった道を歩んでいかれるおつもりでしょうか?』



(……………うーん。)



「そうですね………まだ決めかねてるんですが………。


とりあえずは一年くらいゆっくりして、ファンとしてスルーオフを応援したいかなって思います。



まあ、その先は………


競馬に携わる仕事も視野にいれてますが、どうなるかわかりません。



これからしっかり、自分にとって最良の方法を考えていきたいと思います。」




がんばれー!の声があちこちから起こる。


あそこで叫んでたのはさっきまで必死にアグレッシブヒストリーに声援を送っていたおっさんだ。


僕が帰ってきたとき、馬券を破り捨てていた………


柴名はこのとき思った。



引退、というのは何者をも感動に巻き込む力があるんだなぁと。



ふと思い出したのは、フアンカツこと不安堂勝己の引退式。


笠松からJRAへ、転入後の成績もさることながら、しぶとくG1を勝ち続ける姿にファンも多く、


54歳で引退を表明したときには、暮れの中山には二十万の観客動員を記録した。


レースはお手馬のガルバルディシータが直線伸びず五着。


しかし、引退式。


その時は、阪神競馬場でその様子を見ていた。


一語一句を覚えているわけではないが、彼はうねりを効かすそのスタンドとの一体感に


惚れ惚れとした。


自分もああなれればいいな、と。




そして、現在(いま)―。


競馬場の大小はあれど、自分がそのうねりの中心にたてていることに彼は、ひどく感動した。


そして、改めてそんな場に立てたことをコスモスルーオフに感謝した。



(馬が僕らに何かをくれるんだな。


競馬は………)


『さあ、それでは………


これで本当に最後です!柴名さん!


これまで、そして最後まで応援してくださったファンの皆様に、


最後の一言お願いします!』




5万の目が自分に注がれる。


皆、その時を待つ。


ライトがやたら遠くにあるように見えてきた。


(潮時、か。)


柴名は深く息を吸い込んだ。




さあ、決別―!


「―――――!


編集 しおり コメント(0)

「一言だけ、



最高の騎手人生でした!


本当にありがとうございました!」


涙ながらにマイクにそう言葉を吹き掛け、スタンドに向かって深く、勢いよくお辞儀をした。



その瞬間、爆発したかのような歓声が、柴名の頭を貫いた。


彼は、無数の称賛の声を、震える肌で聞き取ることが出来た。



競馬の華に立って、いい馬に巡りあえて、最高の栄誉を最後に勝ち取って………。


平凡な回答のインタビューではあったけれど、ただの言葉とはまるで重さが違った。


観客たちは、それを読み取ることが出来たから、罵声を浴びせるものはこの時一人もいなかった。



柴名は、言葉の響くのに合わせて微かに揺れる足ぞこをしっかり地面に踏み込んで、その体勢を保ち続けた。



いつまでも終わらなくていい。



勝者だけが味わうことができる感触を確りと噛み締めた柴名は、



このまま死んでもいい、とさえおもった。






月には、何であれ、


やっぱりヒーローが似合う。


―――――――――――――――




一斉に光るカメラのフラッシュに照らされて、体全体を白い光に包まされた柴名の姿をテレビはただひたすらに写し続ける。



「あいつぁ………ほんまに苦労人でなぁ。


俺が初めて会った時なんかもう死にそうな顔してたんやが………。」



深々とお辞儀をする柴名の姿を液晶越しにしみじみと眺めながら古川が言う。



「まあ、最後にこれだけのことをやってもらえたらな。


目をかけてきてやって良かったと思えるよ、うん。」




感慨深いなぁ、と古川の表情が告げといた。


顔をあげて最後、笑顔を見せた柴名を見るその目は、さながら親のようであった。



「……………。」

編集 しおり コメント(0)

「………言うてもこの世界に楽はない。


けど、障害レースみたいな危ない仕事までしてでも騎手続けたあいつみたいなやつは、ほんまのほんまに努力家やと思うよ。


この一言でくくってまうのが口惜しいわな………。」



相変わらず液晶テレビに視線を注ぎつつ、古川が呟く。


しかし、この呟きは決して自己満足のための呟きなどではなく、


彼は秋華に聞こえるように確りとした口取りで呟いたのだ。



秋華も、その気配は感じ取ってはいたが、それを補ってなお残る感動と言えば


柴名のインタビューであることは間違いなく、彼女は返事も出来ないほどに見いっていた。


「……………。」



その様子から古川は、今回これを見せたことに一端の成果があったことを確信し、さらにこう続けた。




「競馬は人間が操って、当然馬が主役として走る。


そやけど、どっちが欠けてもレースは成り立たん。


レース中は対等な立場にあるんやと、俺は思うんや。


競馬は人間にとってもスポーツで、


もちろん俺らもやけど、馬を勝たせてやろう、強い馬を作ろうって必死にやってんねや。


それが『勝ち』って形で評価されて、馬と一緒に称賛されることがどんだけ嬉しいかやな。



…………わかるかな?」


先生が子供にものを教えたときのような笑顔で、古川は話をくくった。


「…………わかります。


その、何となくですけど………。」



申し訳なさそうな秋華。



「まぁ、今は何となくでもそのうちかならず見えてくるわ。


その掴みでも理解できたら、上等や。


おもろいねんでぇ、競馬は!


なぁ、勘助ちゃん?」



「その通りです!」


勘助が大きく頷く。


編集 しおり コメント(0)

二人の注視を一心に浴びた秋華は、なんだか恥ずかしくなって目線を伏せ、それでもとりあえず理解したことを伝えなければと、


「つまり………きっかけさえあれば自然に好きになれるもの、ってことですね?」



「大分簡潔にまとめたけど、まぁ、そういうこっちゃな。


無理に好きになれとは言わんけど、


まあ、あれだけのレース見せられて何も感じぃひんことはないやろ?」



「はい…………。」


少しばかり申し訳なさそうな秋華。


「そしたら、じきにおもろなってくるわ。


中毒性のあるスポーツやで~、競馬は!


まぁ、ハマりすぎたらえらいことになるけどな、ハハ………」


楽しそうに話していた古川の顔は、笑いつつも一瞬暗くなりはしたが


それでもまあ、そんなことを気にする余裕のある秋華ではないだろう。


ちなみにこのとき古川が思い出していたのは、カワカミプリンセスが一着降着になって三連単五万円の夢が塵と消えたあのエリザベス女王杯。


古川は一点百万円という途方もない買い方をしていたので、五億円が当たったと小躍り、いや大踊りしたが


一瞬にして夢潰えたあの事件である。


………ま、それはどうでもいい。



「いえ、入れ込むぐらい好きになりたいです。

 

はい。」



よほど視線が心地悪いのか、相変わらず顔は伏せたまま。語尾につれて声が小さくなるのはご愛嬌。


「ほう!!そりゃ良かったわ!


殊勝な心がけやな。


………でも、酒と一緒で呑まれたらあかんで………


っと。」



それだけは気いつけや、と笑い、テレビに顔を移す古川。


その1秒後、「ぐわっ!!!!」という声とともに、何かが崩れ落ちる音がした。


「…………。



………?」


視線がふっと解けるのを感じた秋華はふと顔をあげ、ようやく古川の顔色を確認することができた。


その時の彼は『単勝、3520円』と表示された電光掲示板を見て完全に硬直し、


絶句しているように見えた。



「古川さん!気を確かに!」


その木偶の坊のようになった古川を


必死に現実には呼び戻そうと肩を揺する勘助の姿も見えた。



よほど損したのだろうか………。


(これも競馬の闇………なのかな?)



『そうですよ。秋華ちゃん。人間にとっては、一番の闇かもわかりません(笑)《作者より》』


その声は、秋華の耳に貸すかに響


(ん?何か聞こえたような……


………ま、いっか。)


あまり気にしない様子の秋華。


残念ながら忠告は届かなかった模様………。


編集 しおり コメント(1)

ふとテレビの画面を見た秋華は、


そこに写る人を見て


あっ、と声をあげた。



「ん?秋華?どした?」



ぐらつく古川を支えながら勘助がこちらを向く。


そしてそれと同時に、秋華の目線で


その声の原因がテレビにあることを悟ったよう。



「なんか面白いもんでもあるか?


………古川さん以外に」


必死に古川を支えながら、勘助は苦笑する。


体の軸が定まらない古川。


ま、競馬に慣れてしまえば、何処のおっさんにでもあるような


『金尽き末期症状』であることなどはすぐにわかることだが、


初めて見たものには滑稽な様だっただろう。



………しかし、秋華が声をあげた理由は古川の脱力のせいではなかった。


「この人………


かっこいい………。」



「ぶっ…………!」


思いもかけない秋華の言葉に勘助は吹き出した。


「な、何?」


「ほら、今テレビに映ってる人……


アイドルかなんかでしょうか?」


秋華はテレビを指差していった。


「……………!!」


勘助は興味以外の何者かに急かされて、ばっと古川から手を離しテレビを睨んだ。


バタッと古川が倒れこむ。



なるほどテレビに映っていたのはしっかり体の締まった20代後半ので、スラッと身長は高く顔は小さく、髪を後ろでポニーテールにスッとまとめ、鳥谷モデルとおぼしきサングラスをかけた、


一見ダンサー風のいかにもスポーツマンという感じの男だった。


その整った容姿に、スーツ姿がよく映える。


お立ち台に上がってインタビューを受けているように見えるが、


勘助は既にそこまで知覚する余裕はなかった。



(イケメン、だな…………)


―絶対に勝てない。


彼は一瞬にして白旗をあげた。



「どこの人だろう?


あんまり見ないなぁ………


勘助さん知ってます?」


徐々に溶けてゆく勘助を尻目に次々と質問を繰り出す秋華。


「いや、俺はしらない………」



――くそ、あれが秋華のタイプか!?くそっ。


どうあがいても無理じゃねえか、くそっ!



の、勘助。



編集 しおり コメント(0)

こたつの中で溶ける男二人。


かたや馬券、かたや嫉妬。


(また嫁はんにキレられる……)


(勝てない。無理。勝てない。無理………)



居間はもはや負のオーラが闇鍋状態になっていた。


しかし、これを気にしないのが秋華。


「どこかの俳優さんかなぁ………



そうだ古川さん!


あれが誰だか知ってたりしないですか!?



すっごくイケメンですよ、ほら!

競馬場にこんな人が!」



秋華はテレビに写る、インタビューされているらしいその人物を指差した。


「がぁっ!」


勘助の脳天に一トン爆弾が投下され、


この瞬間、


勘助は終焉の時を迎えた。


(どーせどーせどーせどーせどーせどーせどーせ……………)



一方、質問された古川は、虚ろながらも顔をあげ、


少しテレビの画面を見て、フンと鼻で笑い


再び床に突っ伏してからこう言った。


「知ってんで、そいつ。」


刹那、秋華の顔が煌めいた。


「ほんとですか!?


もしかして知り合いとか!?」


いつにもなくテンションの上がっている秋華。




「知ってるも何も………





俺の息子や、それが。」




「…………。


…………はっ?」



先に反応したのは勘助。



「あ、そうなんですか。


なーんだ、親子だったんですね。


…………



…………



……………



…………って、


へえっ!?!?」


ついで秋華。



「これが古川さんの……


…


えーと、


ご子息さんですか?」


唖然とした勘助がポツリという。

古川の表情は床にあるので見えないが、何かが気にさわったらしく声のトーンを落として、


「せや。あれが秀馬や。紛れもなく俺の息子。


…………。


確かにな、


よう男前やとは言われとるけどな………。



そんなに似てないか?」


笑い流すような声で古川が聞く。


勘助と同じく、『どーせ』と言う感じのあるその声。



「えっ、いや、そういう意味では………」



そういう感じになると返答に困るなぁと勘助は思う。


編集 しおり コメント(0)

ええぃ、適当に散らすか。


勘助は思い立った。


「そのー……僕が言いたいのは、


なぜ秀馬さんが競馬場でインタビューを受けているかということで、



………秋華もそれが気になって仕方がないみたいですよ。くそっ!」


目を輝かせて古川の返答を待つ秋華を睨み付けて、勘助は弁明を括った。


「……………!」


秋華はこのとき初めてマズいことしたかなぁ、と思った。


(うわっ、怒って…………る。



………………………どぇ。



………そういえばさっき、勘助さんが金髪の人を『綺麗だなぁ』って言った時、


私怒ってたっけ………




…………………。)



「あ、あの、勘助さ―――」


「せやから、さっきも言うたけどコスモスルーオフの馬主やねんて、秀馬は。」


「!?」


秋華の言葉は、古川のそれによってあっさりと遮られた。



……それもそのはず。


床に突っ伏している古川には今頭上で何が起きているかはわかるはずもなく、


さらに彼は、今はそんなことを気にしていられる精神状態ではなかった。


「そら、コスモスルーオフが勝ったんやからインタビューも受けるわな。


勝利馬主としてな。


まして、G1勝ったんは初めてやからなぁ、自分の馬では。


喜びもひとしおちゃうかな?



…………それに、



まあルックスはともかく社交的やからな。


質問しやすいんやろ。あいつには。」


再び鼻を鳴らした古川。


俺の時はいつも適当なんだよ、と言いたげだった。



「あぁ、それで………。」



サングラス姿に似合わず爽やかに受け応えする彼に対しては、確かにアナウンサー(女性)の声の高さが、


さっきの柴名への質問の時とは明らかに隔たりがあった。



『………でわぁ、古川さんは既に新馬の時点でこの馬の素質を見抜いていたんですねぇ!?』



(………。)


笑える………。



編集 しおり コメント(0)

明らかにアナウンサーの声が1オクターブ上がった。


しかし、テレビの中の秀馬は質問の一つ一つにしっかりと頷き、


アナウンサーが口を閉じると


『おつかれさま。』


都でもいうかのように、ニコッと笑いかけた。


(うわ………すげ。


アナウンサーは失神寸前。


しかし彼は、その様子を全く気にすることなくスタンドの大観衆へ


『いやぁ、そういうわけでは………。


僕がやったことなんか…………大したことはありません。



実際走るのは…………馬ですから。


見抜くも見抜かないも…………ありません。


僕はとにかく…………金銭面でサポートしてあげただけです。


頭が…………下がりますよ、こいつには。』



………語尾、サングラスに手をかけて少し上下させた古川。


(モテるのもわかるよ…………。)


焦らすでも、不要な間を作るわけでもなく、絶妙なタイミングで一呼吸をいれて


再び絶妙なタイミングで喋り出し、


そして、聴衆を一気に引き付ける。


なんというカリスマ性かと勘助は秀馬への第二印象を持った。



…………無数のハートマークが飛んでいるのがよく見える。



………横からも。





「……………!」


声にこそ出さないものの、明らかに興奮している秋華。


(なんなんだ?その満ち足りた顔は…………)



『それでわぁ、コスモスルーオフの今後についてっ、


お話をお聞かせくださぁいっ!』


このとき、瞬映った柴名がやたら不満そうな顔をしているのを、勘助は見逃さなかった。


(そりゃ、そうなるよな…………)



『その事………なんですが。



すいません、



マイクを………貸していただけますか?』



相変わらず整然とした様子の秀馬が、アナウンサーへとやんわり手を差しのべる。


『!』


アナウンサーは言われるがまま、やたらと迅速に秀馬にマイクを手渡した。



その後の二人の会話はマイクを秀馬が一度切ったせいからかテレビからはよく聞き取れなかったが



口の形と秀馬がサングラスを一瞬上げた事実と、その後のアナウンサーがふらついたことから、


どうやら耳元で『ありが……とう』と呟いたらしいことが判明した。



(…………あはは。)


男前……………。


編集 しおり コメント(1)

秀馬はマイクのスイッチを入れて、一度前髪を掻き上げてから


どこかのナレーターかと思うくらいに落ち着いた声で、なおかつゆっくりと話し出した。



『コスモスルーオフには…………一つ………やってもらわなければならないことがあるんです。



それは…………



この馬の父、スルーオフの敵討ち………です。』



場内がざわつき始めたよう。


観客は、

「なんだなんだ?」、「なんのことだ?」、「てか、父親って誰なの?」、「あの人かっこいい!(女)」


と。



大井競馬の関係者は、


「おいおい、いったい何の茶番だ?」、「馬主が単独ライブ?」、「前代未聞だ!すぐ止めさせろ!」、「あの人かっこいい…………(女)」


と。



ともかく場内は異様な雰囲気に包まれ、その様子はテレビ越しに勘助にも良く伝わってきた。


「な、何の話、かな?これ………」

震える声で勘助が呟く。


えっ?と眉を潜めた秋華の顔は、彼には見えなかった。



何故ならば。


漠然とだが、彼には察しが付き始めていたからだ。



秀馬が何を言いたいのかを。




―敵討ち。


戦いに敗れたものが、その親しい間柄のものに、負けた相手を倒してもらうことの意。


挑みにいく人のパターンは様々で、


友達、弟子、恋人、兄弟、部下………


そしてもちろん『子供』も例外ではない。



そして勘助は、コスモスルーオフの父、スルーオフを完封した馬を一頭知っていた。


(………………。


まさかとは思うが………)



『………


この子の父、スルーオフは…………


生涯通しての無敗馬ではありませんから………


負けた馬なんて、いくらでもいます…………


しかし………


スルーオフは、ホッカイドウ競馬(門別)の時代…………一度も負けなかった。


最後の………一走までは。』



途切れ続ける言葉が、勘助を何度も貫く。

その度に跳ね上がる心臓。


(あわわわわ…………)



しかし、勘助の都合に関係なく


秀馬は話を続けていく。



編集 しおり コメント(0)

『移籍後にグレード重賞二勝もするスルーオフが…………本来負けるべきでなかったあの北海優駿………。


僕も親父も………絶対にスルーオフが勝つと………思ってました………



ですが。


それより強い馬が一頭………居たんです。』



「……………!」


勘助の興奮は極度に達していた。


秋華も、あまり良くわからないまでも


『なんか勘助さん興奮してるなぁ…………』


と思い、その動向に注耳目していた。



古川は………何故か笑っていた。



『…………あの時、その馬はとんでもない末脚で上がってきて、一気にスルーオフを交わしていった馬がいました。


今でも忘れません、あの脚は。



もうあの時は………悔しいというより………その姿に惚れてしまって…………


いつかスルーオフでその馬を倒そう、と思ったんですが………


あの時にはもう、スルーオフの大井移籍は決まっていたので、リベンジの機会はありませんでした。』


「む……………。」



『スルーオフは何とか繁殖に上げることが出来ましたが、


結局その馬はそのあとあまり振るわず………


こりゃあ、直接対決どころか二世対決すら無理かなぁ………と思いました。



で、その馬の………名前ですが。



皆さんご存じかどうかわかりませんが…………

























ラグフェアーといいます。』










「!!!!!!!!!!!!」



一気に鼻息が荒くなった。


編集 しおり コメント(0)

場内はしん、と静まり返っている。


「な、何を話してんだ?」


「懐かしい………ラグフェアー。」


「聞いたことねえな………」


そんな囁きが聞こえてくるかのよう。



「……………。」


次の言葉が気になってしかたがない勘助。


心臓が早金をうち、足が脱力していくのがわかる。


(秀馬さん………何を言うつもりで…………)



そんな勘助の心臓は、不意に横からかけられた声によってさらに跳ね上がる。


「勘助さんっ!」



「わっ!



………な、何?」



「ラグフェアーって、誰です?」



「………………あれ?


まだ話してなかったっけ?」



「聞いてませんよ…………。」


秋華が若干寂しそうにしたので、勘助はちょっとうろたえた。


「あ、あ、そう?


いや、知ってると思ってたんだが………。



えーと。つまり端的に言うと―」


『今の僕の夢は…………コスモスルーオフでラグフェアーと決着を付けることです。』


「――っ!?


ラグフェアーと!?」


説明を始めようとしていた勘助を、秀馬の言葉が津波のように襲う。


「ラグフェアーと決着………引退………


まさか…………!」



「…………勘助さんっ!?」


半ばほったらかしにされた秋華は少し頬を膨らませた。


「はっ!?


あ、悪い!


簡潔に言うぞ?トシローの母親がラグフェアーだ!


スルーオフのライバルだったんだよ!


説明終わり!」


一刻も早く秀馬の言葉を聞きたい。

勘助はやたら大雑把に説明した。


「えっ…………トシちゃんの?」



秋華は衝撃を受けたようだが、勘助にとってそれは今はさほど重要ではなかった。



『個人的な話ばかりで………すみません。


ですが、ラグフェアーに子が出来たと聞きまして。


その子が今は当歳、コスモスルーオフが三歳。


もし七歳までこいつが走ることができたら、対戦もできるかも………


そういうことも………踏まえて………


この場を借りて、


ある人にエールを。』



若干下に置いていた目線をカメラに映した秀馬。


場内が大きくどよめく。


柴名、調教師、厩務員、女子アナ、関係者各位、全員が「こいつは正気か?」というような目線を送った。


が、秀馬は気にしない。カメラをにらみ続ける。




液晶越しに勘助は目線が合うのを感じた。もっとも、向こうがどうかは知らないが。



編集 しおり コメント(0)

テレビの中に映る秀馬は、一度深呼吸をして見せ、


カッと目を見開き、それまでの穏やかな喋りは完全に成りを潜めたように思わせるほど強い口調で語り始めた。



『山本牧場の牧場長、山本勘助君以下スタッフの方々に告げたいと思います。』


「ぶっ…………!」


茶を飲んでいたら確実に吐き出したであろう勘助。



「い、今………。


呼ばれたんじゃないですか…………?


勘助さん………」


信じられないような顔をした秋華。


「みたい………だな。」


茶の代わりに吹き出した唾を台拭きでさりげなく処理した勘助。



もちろん秀馬とは面識がない。とゆーか、さっきまで存在すら知らなかった。向こうが一方的に知っていただけで、今の勘助には秀馬はただの勝利馬主。



そんな遠い関係の人間が、まさかインタビューで自分の名前をあげて、しかもさらに今からなにかを言おうと。


(意味がわからん………!)




そんな勘助の動揺は外におき、秀馬は話を続ける。


『さて。


この五年間、あの敗戦から。


必ず決着をつけてやりたいと…………思ってました。


ラグフェアーと。


このまま負けっぱなしは…………絶対に考えられないことで………。


機会を待ちました。…………待ちに待ちました。



……今、山本牧場にはラグフェアーの子がいますよね?


父はコスモバルクの………』



コスモバルクの名前が出た瞬間、一気に会場がどよめいた。



大井に駆けつけるファンの種類は三種類ある。


馬券好き、中央好き、地方好き。

地方の英雄として走り、大半を中央で過ごしたコスモバルクの名は、


それぞれの種類のファンに知られ、また愛され、他のそれには届かないほどに高かった。


そして、


コアな競馬ファンたちはコスモバルクが種牡馬にならなかったことを情報として頭にいれてあるので、


この以外な知らせに胸踊らせた。


それと同時に、勘助の体もヒートアップしていく。


「…………。


…………トシローのこと………だよ、な。


今の…………。」


首より下は全く動かないが、なんとか秋華と顔を見合わせた勘助。



「た、たぶん…………」


秋華も同じよう。



『父からは、


馬格のいい、とてつもない雰囲気を持った馬だと…………聞いています。


自分が見た中でも最高級の馬だと。


自分の最後の夢は、この馬に託すと。』

編集 しおり コメント(0)

「………


古川さん、そんなことを………」


よほど気に入ったのか。


トシローのことを。


それとも、その『相馬眼の古川』の目に留まってもしかるべき馬だと、


自分の競馬への最後の勝負を、自分の生産馬ではなく一介のこの小牧場の馬にかけてもいいと、


自分が名を残すのは最後この馬だと、


本気で思っていてくれているのか。



そんな意味を込めた問いかけだった。



いつしか座り直していた古川は、おもむろに口を開くと、


「この馬が走らへんねやったら、


もともと俺が競馬界に名を残すなんざ、ありえへんことや。」


と、目線をテレビから反らさず呟いた。



その横顔が、勘助にはとても諦めているようには見えず、


むしろ、カブトムシを捕まえたい少年が、木の前でワクワクしながら待っているときのような、


純真な眼差しを持っているように思えた。



「そう………ですか。


ありがとうございます。


……………。」




『ラグフェアーの子がG1を狙える器である…………と言うのなら、


二世対決、彼女との決着という観点において…………


なんの不足もありません。


コスモスルーオフは、間違いなくスルーオフの…………最高傑作です。




………山本さん。



決着をつけるべきところだと思いませんか!?


僕はそう思ってます!!』




場内騒然。



勘助赤面。



秋華唖然。



古川微笑…………。



この場にいた競馬ファン、そしてテレビの前に座っている何千何万の競馬ファンは、こんな勝利インタビューを見たことがない。


レースの回顧、馬の状態、自分の喜び、そして馬の今後。


すべてをほったらかしにして、彼は今、ただただ北海道にいる個人のためにインタビューを使っている。


その会場の雰囲気は、もはや歓声などは微塵もなく、ただ目の前に起こる異常事態に


言葉を失い唖然とするか、変人かという目で見るかのどちらかだった。


…………ただし、若い女性ファンを除く。




編集 しおり コメント(0)


さっきなんの抵抗もなくマイクを渡した女子アナでさえ、さすがにこれはまずいと思ったのだろう。


もう一本のマイクで焦って諌めだした。


『あ、あの、古川(秀馬)さん、レースの回顧の方を…………


その、お時間の方が―――』



ニコッ。


『………………………!』



再び脱力するアナウンサー。



『――――わかりました。


では最後にもう一言で締めます。』



――おいおいまだやるのか。


おっさん連中の悲痛な呟きが聞こえてくるようだった。



しかし、痛々しい視線を跳ね返して、なお相手に送り返すのではと思うほどに全く気にしない秀馬。

最後にもう一度、僅かに顔にかかる前髪をかきあげて、こう言った。


『ラグフェアーの子、トシロー君。


コスモスルーオフは君が戦えるようになるまで現役を続けます、必ず。



先に、チャンピオンの座は頂いておきました。


だからまた、あの時の北海優駿のように、チャレンジャーとして勝負を挑んできてください。


三年後…………。


ここ、大井でまた会いましょう!



以上です。』




「………………!



宣戦…………布告?」



勘助の胸に確かに標を落として、


古川秀馬はお立ち台をやんわりと降り、すまなかったと一言、


マイクを女子アナに投げ渡して


秘書とおぼしき人間と共に通路をゆっくりと歩いて、建物へと消えていった。


………その後ろからは歓声は一切起こらず、ただ雑然としたざわめきだけが残された。




山本牧場の居間では、古川が参ったなぁと頭を掻いていた。



「うーん、


秀馬は入れ込んだらちょっと調子乗るところがあるんや………


まさかああまでやるとは………


………ごめんな、勘助ちゃん。」


事態の展開が急すぎて目の焦点すら合わない勘助。


「えーと、これはどういう………」


編集 しおり コメント(0)

古川はテーブルの上に肘をつき、

彼の傍らで呆然とする勘助に対して、


「まあ、つまりや。あいつが言いたいのは、


ライバルやったスルーオフとラグフェアーの決着を、トシロー君とコスモスルーオフでつけたいとこう言うてる――――」


「いや、それはわかってるんですけど……………


なんかこう、頭が…………」



勘助は自分の短めの髪の毛を右手でかきむしった。



まさかあんなことを言われてしまうとは。


トシローの実力を疑うわけではないが、むしろ自分のような人間に彼をそこまで上手く育てられるかというのを急に心配して、


彼は新たなプレッシャーを抱えることになった。


「トシローとコスモスルーオフ、か。


できるかなぁ………。


俺にそんなプロみたいなことが………」



「アホか、勘助ちゃん。」



あきれたように古川が言う。


補足しておくが、大阪の人が『アホか』と言うとき。

それは、何も決して本当にその人間がアホだと思っているわけではない。

むしろ、『あちゃ~、お前やってもうたなぁ~』と言うような軽い同情や、

『何言うてんねん!』と言うようなツッコミの要素を含んでいる場合が多い。

大阪の人が本気で怒る時は『ボケ!』や『アホンダラ!』という類いの言葉を使う。


で、今、古川の『アホか』は後者、「呆れてツッコミを入れる」の分類に入る。



「え、あは………」



勘助は、芝山の『アホか』で慣れているのでその事を理解できたのだが、


東京出の秋華は理解できないようで、


「ちょっと古川さん!


勘助さんはアホじゃありません!」


バンと机を叩いた。



「ちょっ、秋華………」


勘助が手で諌めるが、


「勘助さんは黙ってて!」



まるで鬼の形相。


「は、はい…………」



(いや、その、怒ってくれるのは嬉しいんだけど………)



秋華は止まらない。



「勘助さんほど人思いで、優しくて、頭がよくて、顔がょ……………、馬のことに真剣になれる人がこの世界のどこに―――」





「―――待て秋華、顔が何だって?」



「だから、黙っててっ!!」



「は、はい…………」



(お、俺にも怒るの?)



もう、よくわからない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。