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17



ゴォッ。



強烈な風が吹いた。



勘助は飛ばされそうになった帽子を右手で押さえ、軽トラの影に隠れて風をしのいだ。



勘助には、


今の風が何か作為的なものに操られているような気がして、


途端に極度の不安に襲われた。



(まさか・・・秋華さん?)



勘助は今すぐにでも丘の向こうの秋華のもとへ駆けていきたい衝動にかられたが、


待つといった以上はここから離れるわけにもいかず、


もし本当に居なかったら・・・



という恐怖から、それを実行することができなかった。



(頼むから生きていてくれ・・・


秋華さん・・・)



雨は次第に激しさを増す。



勘助の服は既に水が滴っていた。



空にどんよりと広がる雲は、


まるで勘助の心をそのまま透写しているかのようだった。


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勘助は、秋華と離れてからの小一時間、


後悔に身を沈めていた。




俺が彼女に何をしてやっただろうか?



なぜあの時俺は自分の言葉で説得してやらなかったのか?



そもそも、ここに連れてきたこと自体がダメだったんじゃ・・・



無理にでも連れて帰ればよかった。



押し倒してでもこの丘を越えるのを阻止してやるべきだった。



世の中の楽しみを精一杯教えてやるべきだった。



悩みを聞いてやればよかった。



自分の彼女への思いを、はっきりと伝えるべきだった・・・





勘助もまた、秋華と同じく胸のうちがはち切れそうだった。



(―行って止めてやりたい。)



いったい何度そう思っては


自分を圧し殺しただろうか。




そんなだから、勘助もまた、


被っていた帽子を顔に当て、


誰にも見られないよう、泣いた。




ただし、精一杯に声は殺して。





もとより、


この道路を通った車などは一台もいない。






勘助は秋華の帰りをひたすらに待ち続けた。


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ビュウッ。


また風が吹いた。


さっきとは比べ物にならないくらい強烈な風が。


車にもたれ掛かっていた勘助は、風にあおられて閉まったドアによって、


車のなかに押し込まれた。


「ぐっ!」



勘助は、ギアのハンドルに頭を打ち付けた。



「いてぇ・・・」


勘助は、脱力した頭を横に倒した。



その拍子に、勘助の額は何かに触れた。


『ブツッ・・・ザァー・・・


・・・岡競馬第10競走サラ系二歳B2特選競走。』



勘助が触れたのは、ラジオのスイッチだった。



しかも、競馬中継。



勘助は、《AM》の文字を写し出している電光盤を眺め続けた。



『出走馬全五頭ご紹介しましょう。


1枠一番ダイヤルアップ、450キロ、マイナス6キロ。


2枠二番ゲンキスドー、415キロ、増減ありません。』




・・・。



(・・・神様はつくづく嫌味だな。)


勘助は茫然とした表情を浮かべた。



こんなときにも、


お前には競馬しかない


ってか・・・。



勘助は顔を天井に向け、右手に持っていた帽子で再び顔を覆った。


(秋華さん・・・)



『・・・4枠四番エリクトップナイト、436キロ、プラス8キロ。』



もういいよ、わかったから・・・。



勘助はラジオのスイッチに手を伸ばした。



(・・・そうだよ。


俺の人生に付いてくるのは女じゃなくて馬だ。


それは、それでもいい。


もう好かれなくてもいい。


だから・・・せめてあの人の命は・・・)



勘助はなんの迷いもない手つきでスイッチに手をかけた。



が、アナウンサーの次の言葉は



勘助にそれをやめさせた。



「・・・最後5枠五番はシューカアゲイン、433キロ、マイナス15キロ。」



勘助は飛び起きた。



「シューカ・・・?秋華!?」




勘助は、その馬の名に、【あきな】を思いうかべてしまった。どういう思考回路でそうなったのか、自分でもよくわからないままに……



「シューカ………。秋華………。」



『各馬ゲートイン体制完了!』



知らぬうちに勘助は、


そのラジオを前にのめるような形になって座っていた。


『スタートしました!』


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『さあ、各馬最初の坂をかけ上がっていきます、盛岡のターフ1700メートル。


ここで先頭は大方の予想どおりシューカアゲイン!』



「・・・!」



こいつはひょっとすると・・・。



勘助は、五感すべてをその実況に傾けた。



(シューカアゲイン・・・!)



『さぁ、1コーナー回って先頭は変わってゲンキスドー、それを外から交わしていこうというのがシューカアゲイン・・・』



勘助は希望を取り戻した。



もしかしたら、この馬と秋華は繋がっているかもしれない。



勘助はそう思った。



無理矢理の語呂合わせに近いとはいえ、このシチュエーションは確かに出来すぎだった。



勘助の頭には秋華しかなかった。


ひょっとするとその頭が勘助の額を動かしたのか。




・・・神様はまだ俺を見捨てちゃいない。



「一人の命が掛かってる。


・・・頼むぞシューカアゲイン。」




馬と騎手からすればこんな勝手な願掛けは迷惑千万かも知れなかったが、



そんなことは勘助は気にしなかった。



もはや、すがるものはそれしかなかったのだから。




『さあ残り千メートルを通過して、先頭はシューカアゲイン、軽快に飛ばしてリードは5馬身から6馬身、差を詰めるのがゲンキスドー。・・・』



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実際の秋華の行動を気にしていなかったかと言われれば、



気にしていたとしか言い様はない。



だがこの時の勘助は、


この地方競馬のたかが一頭の条件馬に、


全神経を傾けているかのようにさえ思えた。



この馬が勝てば、あの人も帰ってくる。




なんの根拠も持たないこの自信は、そのときの勘助の精神状態を明確に表していると共に、



勘助の微かな希望を賭けた、大勝負の掛け金にもなっていた。





すなわち、


勝てば帰ってくる。


というのは、


負ければ帰ってこない。



というのの暗示であったことに相違ないといえる。




………競馬に関わるゆえの、身勝手で不謹慎で、ろくでもない賭けだと思う。が、それでも……



『3コーナー回って最終コーナーへ、差が詰まらないゲンキスドー、逃げる逃げるシューカアゲイン、残りは六百を切っている!』




「・・・頼む!」



勘助の胸に、不安と期待が一気に到来した。


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『後続各馬差を詰めにかかった、ダイヤルアップが外から襲ってくる!』



(まだ、行ける!



粘ってくれ!シューカアゲイン!)


勘助は、ズボンをぎゅっと握りしめた。



水が滴り落ちる。




ここで勝ってくれれば。


でも負けたら。



勘助の頭はさらに正常さを失った。



(秋華さんを俺に返してくれ!)



バァン!



勘助は、フロントガラスを力一杯殴り付けた。



アナウンサーがボルテージを上げた!






「来いっ!・・・秋華っ!」


勘助が叫ぶ。




ラジオも叫ぶ。


『さあ、直線にはいる!






残りは二百少々、先頭はここでシューカアゲイン、しかし外か・・・は・・・ンキスドー・・・り・・・』



「!?


どうした!」


突如、音声が乱れた。


勘助には、背中を水が流れるような感覚が襲った。


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『・・・とシ・・・か・・・馬身・・・ンキスドー!・・・は・・・』




「おいっ!!!?どうした!



おいっ!」



勘助は必死にダイヤルを回したり、ラジオ受信機を叩いたりしたが、

それの声は徐々に小さくなっていった。


『・・・3・・・の・・・て・・・



・・・。』



「何でだよ、おいっ!?」



返事をするようにラジオはトーンを下げてゆく。



バンバンバン!



勘助は必死にラジオを叩いた。




「頼む!動いてくれ!


今だけでもいいんだ!


動けっ!」



『・・・。』



バンバンバン!


再び勘助がラジオを叩く。


「動けっ!動け!動いてくれぇっ!」



『・・・。』



しかし、そのラジオはとうとうなにも言わなくなった。



勘助には絶望感が襲った。



「こんな時に………!


ポンコツが!



何で動かない!?」



うんともすんとも言わなくなったラジオを投げつけた勘助は、



失意のあまりその場にうなだれた。


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―神も仏もあったもんじゃない。


勘助は運命を呪った。



こんなことになるのなら、


こんなことになるのなら、




なぜ俺にあのラジオの実況を聞かせた?


なぜ期待を持たせた?


結果を聞くことまで許されないのか?


それならば、



神様というのがいるのなら、


少々残酷すぎやしないか・・・。



俺は玩具じゃない。



運命とかいうのが俺を弄んでいるのではないかと思う。


苦しませようとしているように感じる。



・・・。




喧嘩を売られているのだろうか。


弄ばれているのだろうか。



そうなのか?





・・・もしそうなのだとしたら。






「………負けない。」



勘助は顔を上げた。


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ーーー俺は俺の意思で動く。道がないなら………造る。



勘助はラジオを拾い直すと同時に、どしゃ降りの車外に出て



こう叫んだ。



「願掛けのひとつもろくにやらせてくれないってなら、構わない!今から、俺は自分で勝手に迎えに行くからな!」



それだけを言い残すと、勘助は、秋華の駆け上っていった丘を目指して全速力で駆け出した。



「待ってられるか、やってられるか、アホ!ふざけんな!」



雨が顔に突き刺さる。




しかし勘助は、足を緩めなかった。



「縁があるなら、レースの結果だら関係ない、あの人はまだ死んでないはずだ!」



その言葉を放った瞬間、




[いいんだな?]


どこからか聞いたことのないような声がして、


勘助への雨や風の抵抗はなくなったと同時に、


勘助の目の前は真っ白になった。



勘助は、なにかに引き込まれていった。


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そこは、桃源郷のようでもあったようにも思えたし、


地獄のようにも思えた。



ただ白の風景の続く、謎の場所だった。



勘助は、そこに浮いていた。



実際は浮いていたのか、立っていたのか、寝ていたのか、わからない。



そこには、上下の感覚は無かった。



(何だ・・・ここは・・・)



あまりに異様な光景に、勘助は言葉が出なかった。


体はもとより動かない。



(丘は・・・車は・・・)



勘助は、辺り一面を見渡した。


が、そこが地面か空か、


上下遠近すら、なにもわからないのである。


しかし、勘助に恐怖はなぜか生まれない。


終始穏やかな心で、何も感じられない。



そして、《それ》に勘助は知らない間に気づいていた。



勘助の体の正面方向には、立派な角を頂いたシカが一頭、立っていた。


その鹿の出で立ちは、明らかに生物のそれではなくて、何か神々しいものであることは間違いなかった。



心の波は、一切感じられない。




直立不動のまま、鹿はおもむろに口を開く。



『お前の祖父が、一度ここに来たことがある。』



「じいちゃんが・・・?」





そこには風は吹かなかった。


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《それ》の声はその場所を何度も反響する。




『時が惜しい。簡潔に話そう。



あの時お前の祖父は、ある子供を救おうとした。


が、その子供はある組織に命を狙われていた。


だから、その子をそこで助けることは、自らの命を危険にさらすこと・・・


だが、お前の祖父にはそれを知らなかった。


だから我は、お前の祖父を救うためにその事実を知らせてやり、そしてこう助言した。』



「・・・?」



『その子の命は諦めろ、と。』



「!!」



その場所に来てから初めて、

勘助の心は動揺した。



『当然だろう。


奴にはそのとき既に家族も存在し、


奴を頼って牧場で働くものもいた。


その状況下でその子を助けることは即ち、


その者らを命の危険にさらすことだ。』



「・・・。」



『あの時我はその人間に対して善意を持って言った


《つもり》だった』



「つもり?」



『そうだ。


我はその人間を己の危機から救うつもりでそう言ったのだが・・・


お前の祖父はそれを拒んだ。』



「・・・なぜ。」



「お前が今苦しんでいるのと同じだよ。


目の前の人間を捨てられないのだろう?」




「・・・!」


勘助は思わず指を折り曲げた。




『あの者には見捨てることこそが苦痛のようだった。』

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やはり《それ》には一辺の感情も見えない。




《それ》は、淡々と話を続けた。




『今しがた、お前の救いたいと思うておる女が、


我に語りかけた。』




「秋華が!?それでなんて!?」




『過去を捨てに来た、と。』



「過去を・・・。」



『その言葉から我は、


過去を捨て、新しい人生を歩みたい・・・という女の意思を読み取れた。


あやつはお前を頼って生きるつもりだ。』



「!!・・・それじゃあ!」



『お前も言ったのだろう?


自分のもとに来いと。』



「・・・はい!」



(秋華が生きている―!)


勘助は安堵の息を漏らすと共に、


《それ》に視線を集めた。


やはり《それ》に、感情や表情の変化は見受けられない。


しかも《それ》は、勘助の心を見透かしたように、





『が、我が呼んだ理由は、お前に忠告を入れるためだ。』





「忠告・・・?」



勘助は再び不安に陥った。




『・・・あの者の背負う過去は、お前の想像を超えて遥かに大きい。』



「!?」



『あの女がお前の所にいることで、


お前と、お前の牧場には必ず災難が降りかかる。



それに、いつかは聞いてやらねばなるまい・・・あの者の過去を。』



「・・・。」



『それは恐らく、お前の想像を絶して辛いことだ。



あの者の精神にも相当負荷がかかるであろう・・・。』



「何が・・・言いたいんです?」





『お前にあの者の過去を背負って生きる覚悟があるかどうかだ。』

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「そんなもの―」




あるに決まってる。




勘助はすぐに返答しようとしたが、その答えは《それ》の言葉に被せられてしまった。



『―言うは容易いがな、勘助とやら。』



「なっ・・・」


勘助は、言葉を遮られたのと、名前を呼ばれたのとで激しく動揺した。


《それ》は構わず話を続ける


『実際に起こり得ることは、人間の脳の容量程度では予想できないものだ。


・・・現にお前の祖父などは、その子を家に匿ったばかりに


武装した者たちが家に押し掛けてくる事態にまでなり、


その救われた子は、

その子の父と母の子であることをその場で捨てた。


自分の目の前で起こった事が、あまりにも衝撃的だったのだろうが、


晩年までお前の祖父はその事を自分のせいだと責め続けた・・・。』


「な・・・。」



『少なからずあの者にも同じことが言えるだろう。


我はお前が[あれ]に耐えられると思わん。


我にはこの先にお前とあの者の間に起きることも見える・・・。』



「・・・この先のことなんてのは、俺自身が決めることだ。」



『・・・。』



「さっき、俺にあのラジオ放送を聞かせたのは―」



『いかにも我だ。岩手の放送が、ここまで聞こえるはずがなかろう。


我はお前を試した。


あの者が我に助けを求めた以上、


あの程度の揺さぶりで絶望するような人間に、あの者を救う資格を与える訳にはいかん、


と思ったからだ。』



「なら・・・。」


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『が、お前はそこで諦めなかった。


あの者を助けにいこうとした。


お前はあの者を救うに足るべき人間かもしれん。


だから我はお前に真実を伝えるべくここへ呼んだ。


お前に真実を伝え、その事実に耐えれるのかどうか・・・』



「つまり俺が」


勘助の顔つきが豹変した。



「あの人の居場所になる覚悟を持っている事を証明すればいいんですね?」



『それだけの心意気があるのならば、それでいい。』



「俺はあの人が好きです。


……おそらく。」



『!』



燐とした涼やかな言葉だった。


『む・・・』


《それ》はその時、初めて表情をしかめた。



『それが・・・なんの証明になる。』



《それ》は僅かだが、たじろぎを見せていた。


勘助の返答はあまりにもストレートだった。



「あなた、神様かなんかでしょう?」



『・・・いかにも。


私はこの地の地神だ。』



「………不思議なこともある……。


そういうものがこの世に存在するなんて思ったこともなかった、けど……


……まあそれはいい。



ならもし、秋華が自殺するようなことがあったら―」



『あったら?』



「俺を殺してください。」



《それ》は、今度は明らかにぐらついた。



『・・・何を、言っている?』


《それ》は形をゆらつかせた。



しかし勘助は気にとめないふりをして、


「もしそんなことがあったら、


一緒に殺してくれ、といったんです。


それだけ、助けたい。」



『そのようなこと、軽々しく口にしていいものではない。


我にはそれを現実にできる力があるのだぞ。』



「神様の担保にできるものは、命くらいしかないでしょう。まぁ、どれくらいの価値があるか知りませんが。」



『・・・お前はそれを本気で言っているのか?


仮に救うたとして、あの者がお前に添い遂げるとは限らない。』



「捨てられないように努力しますし、


それだけの人間になって見せます。」





ほぼハッタリに近かった。


そんな人間になれる可能性はゼロに近いと自分でも思った。


豪語した勘助の手は、


表情と裏腹に大きく震えていた。


《それ》は、その勘助の思惟を見抜いていた。


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『手が、震えておるぞ?』



「!!」



(気付かれた!?)



勘助はすぐに腕を引っ込めたが、


時既に遅し。


『足りん・・・な。』



「!!」



『我には人間の情というものがない。


人間ならば今のお前の行動を褒め称えるのかもしれん。


が、我はお前を適応者と見ることはできん。』



「くっ・・・!」


勘助は歯を食いしばった。


その様子を見た《それ》は、少し本体をゆらつかせ、


『しかし、だ。


我に情が無いとはいえ、お前の口の達者ぶりは大したものだ。


誰に学んだかは知らんが、我を相手にハッタリをかけてくる人間など今までに存在しなかった。


皆、我の正体を知ると、


たたりを怖がり発言を控えるようになる。


そういう者には我は容赦なく制裁を加えてきた。』


「制裁・・・!?」


『その者から対象の人間の記憶を一切消し去る。』



「な!?



じゃあ、俺も!?」



『逸るな、勘助とやら。


話はまだ終わらん。』


揺らいでいた《それ》の形が、再び形を整えていく。


勘助は、背中を汗が走り抜けるのを感じた。



(記憶を、消される!)


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『ここに来て死にたいと望んだものは、


もう既にその時点で死者なのだ。


だからそういう者を我は無理に止めん。


お前の秋華は、生きるのを選んだが・・・』


「・・・。」


勘助の心が少し落ち着いた。


『我が気にかけてやらなければならないものは、お前たちのような

止めるもの、だ。


そういうカルマなのでな・・・


死者に尽くして自分を殺す、ということはあってはならんのだ。


わかるな?


だから我はお前を止めると言った。』


《それ》はその時、初めて身を動かした。


ゆっくりこちらへ近づいてくる。

勘助は身を硬直させた。


もう言葉は出ない。


『我を鬼畜生だと思うだろう?


悪鬼羅刹のように思うだろう?


人間の常識で考えれば、その時止めてやらなかった事を一生後悔すると思うのだろう。』



「そ、そりゃあ・・・」



『だから記憶を消してやるのだ。


死者とその者が共に先を生きたとて、待っている結末は


死者が一生別れられない苦しみを持つか、


何度も死を試みる死者にその者が精神を病めるか・・・』



「そんなこと―!」



『無いと思うか?


ならば、


こんなところに我のようなものが創られた理由をどう説明する?


ここは人間界で言うところの自殺スポットだ。


秘境でも何でもない。』


「・・・。」



『話を戻そう。


慣例ならお前はここで我に記憶を消されることになる。


あの者への一切の記憶を。』


「!!」


勘助はその言葉を聞くなり、その場で体をばたつかせた。


(に、逃げよ!)


が、ちっともその場から動けない。


「なっ!?」



『ここに出口はない。


落ち着け、勘助とやら。』


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《それ》は突如勘助の目の前へと瞬間的に移動し、


目と鼻の先程にまで顔を近づけた。


青白い光に包まれた、しかし姿形は立派な鹿。


しかしよく見ると顔はなかった。


「あ・・・あ・・・!」



『あくまで慣例の話だと言ったであろう。


なにもそのまま実行するとは言っていない。』



「・・・!」



『ここでお前に我から質問がある。


なに、簡単な心理問題だ。』



《それ》は少し顎を引き、勘助を見下ろすようにした。



『先ほどのお前の我に対してハッタリを言った勇気に免じて、


これはお前にチャンスを与える意味合いだ。


だから、答え次第ではそれ実行することになる。


言わばテストのようなものだ。


・・・但し。』


さらに《それ》は顔を近づける。

「うっ・・・」


勘助は気絶しそうになるのをなんとか踏みとどまった。


『お前の答えがどんなものであれ、


答えた瞬間、お前はもとの位置に戻っている。


その時に記憶を失っているか、


持ったままか、


それはお前次第だな。』



「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」


勘助は異議の声を上げた。


が、《それ》は気に止めることなく、


『お前は今、船にあの者と二人で乗っている。』


容赦なくゲームは始まった。


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その瞬間、《それ》は一度飛び上がり、途端に丸まり、スクリーンの形に変形した。


「な・・・。」


勘助は再び言葉が出なくなった。

が、自分の記憶の一大事であることも、勘助は忘れなかった。



スクリーンになったそれは続ける。



『すると回りに溺れかけの子供たちが現れた。


お前は助けるだろう?』


・・・これが質問か?


勘助は、一瞬回答を躊躇った。



(もしこれが質問なのだとしたら、奴が当たり前の回答を求めるはずがない。


たぶん、「秋華の安全を第一に考えて乗せない。」ってのが相応しいんだろうが・・・


・・・いや、そんなはずはない。



これに答えることでことが終わるなら、

既にさっきのハッタリの時点で話はついている。


つまり《それ》はゲームの継続を望んでいるはず!)


「・・・はい、助けます。」



『・・・よし。


話の続きだ。』



勘助の読みは正しかった。


(ようし・・・。)


勘助はとりあえず息をついた。


『お前はあの者と共にできる限り子供を助けた。

そして、あと二人のところまで来たのだが・・・



スペースが一人ぶんだけ足らないのだ。』


スクリーンには子供が二人溺れている姿が写し出された。


(!!まさか・・・)


『あの女には引き上げる力は残っていない。


引き上げられるのはお前だけ。


が、スペースは一杯一杯だ。


しかし、刻一刻と子供は溺れて行く。』


スクリーンの子供は次第に力を弱めてゆく。



「……!」



『ここで質問だ。


お前はあの女を海に落とせば、二人の子供は助かる。


が、そのままあの女が乗ったままだと、一人しか助けられない。』


「!」


『お前はあの女を落とし、二人を助けるか?


一人だけ助けて一人を見殺しにするか?


平等に二人を殺すか?



さあ、どれだ?』


「なっ・・・!」


いわゆる究極の選択だった。


スクリーンの子供は、懇願するようにこちらを見つめる。


(・・・落ち着け。あれはただのムービーだ。


奴が求める回答を考えろ・・・)


勘助は、息を荒く、スクリーンを見つめながら思案を巡らした。





下界では、


軽トラの時計が


静止していた。


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(落ち着け・・・落ち着け。)



溺れる子供たちの視線はさらに鋭くなる。


まるで、本物のように。


(落ち着け・・・落ち着け・・・)


奴は、この問題の回答にいったい何を求めた?


判断力?秋華を助けることへの覚悟?それとも知恵?


そもそも、秋華が死ぬことをやめる決心をした今、


秋華が望んでいることは俺を頼ること。


俺が望むのは、秋華を生活させてやること。


・・・というよりは、俺のそばにいてもらうこと。


俺と(実際は芝山も)一緒に住んでもらうこと・・・


勘助の頬が少し赤くなる。


(つまり今俺たちが望むのは、


そもそも奴が一番危惧している、

《一緒に生活する》


ということ。


ならば奴の望むのは、さっき奴の言った通り


秋華の過去を背負う覚悟。


命がけでも秋華を過去から守り通すということ。)


(だとすれば、だ。)



秋華を殺す、と言うのは根本的に問題解決にはならない。


人道的に正しいと判断できることもあるかもしれないが、


それは今の状況を当てはめると、明らかに奴の望んでることではない。


奴の望むのは守り通す覚悟なのだから。



勘助は頭からひとつ選択肢を消した。



(次・・・。)



次の候補は『一人だけ助ける。』



・・・これが一番現実味のある答えではあるな。


全力を尽くした結果、収容できなかった、ということ。


自ら命を捨てることなく、一人でも多くの命を救ったことになる。


最善の処置だといっても過言ではない。


ならばこれが答えか。



(・・・いや、違う。)



この状況だと秋華は、その子が死に行く姿を見てしまうことになる。


そして、降りなかった自分を責めるだろう。



それでは意味がないのだ。


俺が記憶をなくさないために必要なことの一つ、


これ以上の不安を秋華に与えないことに反する。


結局死神が彼女の心に戻るような事はあってはならない。


無理な深読みかもしれないが、


そこまで読まなくては恐らく俺は記憶を削除される。


それは困る。



(少しでも却下の可能性が高いものは消しだ。)


再び勘助の選択肢の扉が一つが閉じた。


残る選択肢はあと一つ。


勘助が再び考え出したそのとき。


がっばははっぶくぶく!!


気泡の上がってくるような音がスクリーンから聞こえてきて、



突如、子供たちの動きが突如鈍った。




《それ》はとうとう音声を流し始めた。


衰弱してゆく子供たちの顔が延々とこちらに向けられる。


『お、お父さん・・・!たっ、助け・・・』



(なっ!?)



「お父さん!?俺が!?」


勘助はモニターに呼び掛ける。


再び《それ》の声がした。


『そうだ。


答えに困っているようなのでな。


差し替えさせてもらった。



リアリティーが出ただろう?




さあ、答えを出せ。』



「じょ・・・」



(冗談じゃねぇ!)



これで、最後の線も消え失せた。


自分の子の死は、精神的に一番影響を与えるとどこかで聞いたことがある。


そんな状況下に秋華を置いてしまったら・・・!







・・・ん?





俺の息子ってことは母親は誰だ?




えーと・・・






・・・。






・・・まさか。」






(あき・・・な?)



勘助は顔が真っ赤になると同時に、



顔から火が出そうになった。










が、それが同時にパニックからの解放に繋がった。



(お、落ち着け、落ち着け俺!


あ、あれの母親が秋華とは限らんだろう!


落ち着くんだ俺!




・・・でももしそうだったら。




・・・。)



勘助の身は弛緩した。



人間なら誰にでも起こる、


節操のない生理的現象だった。




「・・・。


でも・・・ふふっ。」



勘助は、マイ・ワールドに入ってしまった。

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勘助の頭には、


もはや先程までのように冷静に物事を考えられる頭はなく、




もはや架空の生活を想像するに至っていた。



(・・・。)





『ば、バカめ・・・』



《それ》はその勘助の行動に呆れ果てていた。



本来、焦りを産み出させるために


溺れる子供のセリフを架空の息子に仕立てた。



何せものが息子なので、




本来、普通の人間なら考えている余裕がなくなるほどパニックに陥り、物事を考えられなくなる



ものだが。







[こやつ・・・


図太いのか馬鹿なのか・・・]



勘助は目の前で溺れゆく子供を尻目に、想像の旅を満喫しているようだ。



[・・・ここで四千年生きてきたが・・・。


・・・人間に関わるのを心底アホらしいと感じたのは初めてだ。]



《それ》は勘助にたいして、



もはや話の通じる相手ではないと感じ始めていた。




この底無しのアホには何を言っても同じでは・・・と。







同時に、記憶を消すことへの罪悪感をこの時はじめて感じた。




恐らく彼にははじめての恋か。


あの女の問題以前に、こやつからこの感性を奪ってしまうのは、


あまりにも惜しい・・・


[こやつめ・・・



我に変革をもたらすか・・・]



その時の《それ》は、呆れを通り越して、感心まで来ていた。


そして、その感心は《それ》をこう思わせるに至った。



[こやつらの生活を見てみるのも悪くない]



と。




《それ》の意思は決まった。


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『おい、勘助とやら。』



「・・・。」



『勘助とやら!!』



「はっ・・・!」



勘助は我に帰った。



『結論は出たかな?』



《それ》は既に鹿の形態に戻っていた。



(はっ!しまった・・・!)


勘助は―




・・・当然、なにも考えては居なかった。



「えっ、えーと、その~・・・


もうちょっとでまとまるかな?


なんて・・・ハハ。」



『・・・。』


「はっ・・・!」


勘助は我に帰った。


(そうだ、記憶!)


「ちょ、もうちょっとだけ時間をください!


すぐ考えます!」



勘助は焦った。


(な、なにやってんだ俺は・・・)


想像に身を溺れさせて、自分を見失っていた勘助は、


その自分の行動を悔いた。


(まずい、早く考えないと記憶が・・・!)



が、想像とはいえ


至福のひとときを過ごしてしまった勘助は、再び思考することが難しくなっていた。



(な、何も考えらんねぇ・・・)



勘助はもう、半泣きに近いような表情だった。



(考えろ・・・考えろ・・・!)






そんな意思を読み取った《それ》は、ため息をついて



『もうよい。』



と語りかけた。



その瞬間、勘助の表情は恐怖に変わった。


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「ボーッとしたのは謝りますから!


悪気はないんです!


だからもうちょっとだけ待って下さい!」



『その必要はない。』



「お願いです!


記憶を無くしたくないんです!


だから、だからもう少しだけ・・・」



『もうよい!』



《それ》の一喝で、勘助はとうとう黙ることしかできなくなった。


《それ》は『まったく・・・』といいたげにため息をついた。



『お前は正真正銘のアホだよ。勘助とやら。


我の問いの途中に要らぬ想像を巡らせ、我を忘れたものなど、今までに見たことがない。』



「あ・・・!謝りますから!


すいませんでしたっ!」



『往生際が悪いっ!』



「ひっ・・・!」



『いいかよく聞け。


我はお前を今から下界へ戻す。


意味は、解るだろう?』



「あぁっ・・・!」



勘助の顔が恐怖でひきつる。



『・・・だが、最後に聞いておこう。


お前はあの問いの状況ならどうする?』


「!」


その時、勘助の脳みそは自然回転した。


ラストチャンス!


(いつものアレだ!もう正直に言うしかない!)



秋華を落とす?

↓

無理!


子供らを見捨てる?

↓

・・・無理。


じゃあ、どうやってスペース作る?

↓

・・・やっぱり誰か落とさないと。


誰を落とす?

↓

子供を落としたらなんの意味も無いから・・・

でも秋華は殺せないし・・・

・・・。


・・・あれ?




どうした?

↓

・・・一人居るぞ。落ちて死んでも大丈夫なやつ・・・。



マジで?

↓

マジ。



そいつと答えることで奴は納得するか?

↓

・・・恐らく。



よし、じゃあそれでいこう。

↓

・・・賭けだな。


が、仕方ない。





この結論まで、わずか五秒。


勘助の脳は、返答を固めた。


『答えを聞こうか。勘助とやら。



・・・それでお前とはお別れだ。


二度と会うことはあるまい。』



《それ》は、頭を上げながら言った。



『お前なら、どうする?』


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自分なりの結論。



自分が納得するためにどうするか・・・。


それを導き出せた今、勘助はその答えに賭けるのみだった。



秋華も子供も殺さず、二人の溺れゆく子供をも助ける方法・・・。


最も自分に罪悪感の残らない解決法!


『答えよ!』


《それ》から気が飛んだように見える。


(わっ・・・!)


勘助はだいぶ臆してしまったが


なんとか踏みとどまり、確りとした口取りで、答えた。






「・・・僕が、飛び込みます。」




自分が降りてスペースを作ってやる。事故犠牲というやつだ。


勘助なりの最善策だった。






《それ》はその答えの瞬間、姿を歪ませ、こう叫んだ。





『いい答えだ!』



刹那、《それ》は一本の青い光になり、高く上ると


勘助めがけて急降下してきた。



(ゑゑゑゑゑゑゑゑゑゑゑゑゑ!?


今いい答えって・・・!


もうダメだ・・・!)



勘助は、しかし目を見開いた。


すると、落ちてくる光の先頭に、鹿の頭―。



『痛快だ!勘助とやら!


下界でもアホなりにうまくやれ!』



「・・・!」



ピカッ!


目の前が真っ白になる。



ドゴオオォォオン!


轟音。





勘助の五感はその機能を果たさなくなっていた。






その間勘助は、どこともわからない場所をさ迷い続けていた。




しかし突如、勘助の体は浮いた状況のものから重力のあるものに移行し、



どうやら地面に叩きつけられた。


(帰って、来た・・・)




最後に芝生を背中に感じた勘助は、そのまま意識を失った。




再び軽トラの時計が動き始める・・・



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