16
どしゃ降りの知床。
ちょうど丘を越えたところで、秋華は走るのを止め、後ろを振り返った。
勘助の姿はもう見えない。
はち切れそうになった胸の内と
生物学的な息切れで、
秋華はその場にへたり込んだ。
「はあっ、はぁ・・・」
息の荒さが、虚無感をさらに広げていく。
秋華はしばらく下を向いていたが、やがて顔を上げ、
回りの景色を見渡した。
一面の海だった。
なんとも壮大としか言い様のない、
しかし、雨のせいか雲のせいか、
荒れているオホーツク海のせいか。
秋華のみたその場所は
あまり美しいとはいえない景色だった。
前にはただ、崖がそびえるのみである。
(ここから・・・。)
芝山の話した
『美しい知床』
のイメージは、全くかき消された。
これで・・・
ここで・・・
・・・。
秋華は、ふらふらっと立ち上がり、崖へ向かってゆっくり歩みを進めた。
昨日の風邪のせいだろうか。
やけに頭がぼうっとする・・・
秋華は、足元の花々を踏み分けながら、崖へ向かった。
秋華の頭には今、二人の秋華がいる・・・。
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《・・・さあ、もう目の前。
あとは一思いに落ちるだけ。》
秋華は一歩あゆみを進める。
『私は、まだ生きたいの・・・
芝山さんもそれだけの力があるって―』
《それ、本気だと思ってるの?》
『えっ!?』
《芝山さんほどの体験をした人が、私みたいに中途半端な理由の自殺願望者に
本気で同情したと思ってるの?》
『・・・違うの?』
《当たり前じゃない!
あのまま私が死んだら、あの勘助って人がかわいそうだから、ひと芝居打った・・・
ただ、それだけのこと。》
『芝山さんはそんな人じゃない!』
《なぜ?》
『え?なぜって・・・
・・・。』
《ほら見なさい。私もあの人たちのことをまだよく知らないの。》
『そんなこと・・・!』
《私はさっき、あの勘助って人に
「それは偽りの気持ちだ」、って
言ったよね?》
『・・・ええ。』
《・・・解らない?
結局、自分のことも、あの人のこともわかっていないのは、私だけなの。》
『・・・。』
《だって、あの人はあのとき、
(ほんと)だったかもしれないじゃない》
『え・・・?』
《めでたいこと言っているのね。
そんなに生きたいならあのときあの人にすがれば良かったのに。
そしたら、あの人は自分が壊れようと私に入れ尽くしてくれたでしょうよ!》
『そんな風な言い方……!』
《いい子ぶってるね。やけに庇うじゃない。
あんたはいったいあの人の何を知ってるの?》
『何って・・・。
私を好きでいてくれて・・・』
《じゃあ、何でさっき駆け寄らなかったのよ?》
『だって、私みたいな人間が頼っていい人じゃ・・・』
《そこまでわかってんなら飛び降りればいい話じゃない。》
『・・・!』
秋華はさらに歩みを進めた。
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《言いたいことわかる?》
『解らない!』
《私みたいなゴミに余計な善意は要らないってことよ!》
『!!!』
秋華は、二歩三歩地面を踏みしめた。
《あんたはねぇ、結局自分があの人を頼る勇気がないのを
あの人のせいにしてるだけ。
そんな人間が、あの人に頼ったところで、
あの人に何かメリットがある?》
『ん・・・。』
《ここに来た時点で、私たちに選択肢は二つしかない。
死ぬ?
あの人に頼る?
それで、もうあなたはあの人に頼るチャンスを失ってるのよ。》
秋華の足は止まらない。
『でも、あの人は待っててくれるって・・・』
《それが?
今からあの汚い牧場に帰ってどうするつもり?
あんたは手に負えないような自傷女として、
あの過去と一緒に生き続けて
勘助って人を困らせながら生き続けるの?》
加速する。
『・・・。』
《止めなさいってば。もう、そこから落ちればカタのつく話じゃない。
そっちの方が、ずっと楽なのよ!》
『ううっ・・・!』
とうとう秋華は、崖の先端までたどり着いてしまった。
下は、岩場。
落ちれば確実に、死ぬ。
秋華はもうろうとして、座り込んだ。
海は、荒れ狂っていた。
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《ほら、見なさいよぉ!
ここから落ちたら気持ちいいわよぉ!
ぶつかって死ぬんだから一瞬よ!》
もう一人の自分と思われるイメージが顔を歪ませる。
まるで、悪魔の笑い。
『あ、あなたは・・・
誰・・・?』
秋華の顔が恐怖に変わった。
《私ぃ?私はあなたに決まってるじゃない。
私はあなたの心の、し・に・が・み!》
『!!』
《誰の心にでもいるのよ、死神は。
みんなどうしようもなくなったときは、私たちに頼ってくるの。
「死にたい」ってね。》
『あ、あなたは・・・』
《私はそれを、ちょっと背中を押してやるだけ。
それで私もあなたも
ジ、エンド。
わかるぅ?
私はあなたの本意なのよ!》
『あああああっ!』
秋華はその場に倒れ込んだ。
草が肌にチクチク刺さる。
「・・・に。
ここから・・・
楽に・・・」
地面に這いつくばった秋華は、
手と足を交互に前にだし、
崖の先端から顔を出した。
「ここから・・・
楽に・・・」
その刹那、
秋華の頭の中で、
今までの二人の自分とは違う、
何か別の人の声がした。
【・・・惑わされたらあかん。気を確かに持て。】
・・・・!
芝山さん!?
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《な、何!
せっかくうまく行きかけてたのに!
あんたいったい誰!》
『し、芝山さん!?』
《違う!こいつは芝山じゃない!
そんな都合よく出てくるわけ……!
あなたはいったい誰!?》
『誰なんです!?』
【ワシか?ワシはなぁ・・・
そいつのゆうた通りや。
ワシは芝山と違う。】
《だったら!?》
【ワシはなぁ、
嬢ちゃんが作り出した芝山、
芝山の血ぃや。】
《血!?》
『血!?』
秋華ははっとして右手を見た。
先ほど握った血が、微かにこびりついていた。
【そう、その血。】
『芝さん!』
《何しに来たの!?
くたばりぞこないのくせに!》
【嬢ちゃん、惑わされるな。
こいつの戯れ言に付き合ったらあかん。】
《戯れ言!?》
【そうや。戯れ言や。
お前はこの子のことを何にも思てない。
ただ、逃げるためにカタを無理矢理つけようとする、
ただそれだけのゲスや!】
《だ、黙って!》
【あぁ黙らへんよ。
お前をここから追い出すまではな!】
《追い出す!?
何を言ってるの!?
そいつは私なの!》
【いいや、違う。
お前こそ、嬢ちゃんやない。】
《!!》
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【嬢ちゃん、よう思い出しや。
あんた自分を見つけにここに来るつもりでおったやろ。】
『・・・はい。』
【せやろ。
しかし、それをなんや。
こんなやつに負けて・・・
もうあんた、自殺のことしか考えてへんやんけ。】
『・・・。』
《そっ、そう!
もうあなたは自分が死ぬことしか考えていない!
そんな人間が・・・》
【じゃかまっしゃあ!!!
黙っとらんかいこのボケ!
嬢ちゃんに話しかけんな!】
《な・・・!》
『し、芝さん・・・』
【エエか、嬢ちゃん。
あんなわけわからんのに貸す耳があるんやったら、
坊っちゃんに貸す耳も持ったれ!】
『勘助さん・・・?』
【あぁ、そうや。
あいつの態度を見たか?
自分の気持ちが偽りかもしれへんって認めたやろ。】
『・・・はい。』
【それやのに、あいつは「待つ」って言うてくれたんや。
エエか?
自分の弱さ、過去、経験、
それを理由にしてあんたは坊っちゃんから逃げてる!】
『!!』
《結局逃げてるんじゃない。
だから、そんな中途半端なやつがあの人傷つける資格あるの?》
【お前の耳は節穴か?】
《はァ?》
【俺は今、人を頼るのに過去も経験も関係ないゆうとんねん。】
『!』
《ふん、戯言を・・・》
【人が人を頼るのが何が悪い?
え?嬢ちゃん。
もう、嬢ちゃん自分ではどうしようもないんやろ?】
『・・・はい。』
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【そういう時に、人間が他のだれかを頼るってのは
ごく当然のこととちゃうんか?】
『え・・・。』
《それができる人間ならね。》
『な・・・?』
《あんたはその膨大な量の忌まわしい過去をあの人に語れる?
ん?
やめときなさいってば!
なんなら思い出させてあげようか?
ほら・・・》
秋華の頭のなかに、「あの」プロデューサーが浮かんでくる。
あの、冷徹な笑い。
そしてそいつは徐々にこっちに近づいてきて・・・
長い髪に触れた。
嫌・・・!
私を押し倒す。
嫌ぁっ・・・!!
『やめてえぇぇぇぇっ!』
秋華は頭を抱えた。
《ほーらご覧なさい!
あんたは今の経験を語れるの?
あの人に打ち明けれるの?
そして、あの人がそれに耐えられるとでも?》
『ううううっ!』
涙がこぼれる。
《苦しいでしょ!?
死にたいでしょ!?
さあ、一思いに落ちなさい・・・》
再び秋華は崖から身を乗り出そうとした。
その時、だった。
【言いたいことはそんだけやな?】
《なにぃ?》
『・・・!』
秋華は再び顔をあげた。
【だから、嬢ちゃん死にたい理由は
忌まわしい過去と、それを坊っちゃんに打ち明けられへん、
仮に打ち明けたとしても坊っちゃんが傷つく。
ただそんだけやな?】
『それだけ、って・・・』
《勝手なことを……
何を言い出すかと思えば……》
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【エエか?
何でワシが嬢ちゃんをここに導いたかわかるか?
ちゃんと理由があるんやで。】
『・・・。』
《あんたの考えることにいちいち理由なんて・・・》
【殺すで。黙らんと。】
《ひっ・・・!》
『理由って・・・』
【俺が今まで何で生き残れたかわかるか?
教団はずっとワシの命ねらっとったのにや。】
『・・・?』
【ワシはここで過去をいっさい捨てた。
親っさんに迷惑かけんために・・・】
『・・・。』
【当然、あいつらは追って来た。
あの牧場まで。
・・・親っさんは戦おうゆうてくれたんやけど。
ただ、ワシはどっちにしろそいつらと戦っても勝ち目ないことを知ってた。
もう、死体も証拠もなにもなかった。
だから、もういいゆうた。
ワシは、おかんとおとんの子供であることを抹殺したんや。】
『それが・・・解決になった?』
【ワシは生きてる。】
『・・・。』
【さっきも言うた。
あんたには坊っちゃんがついとる。
だから「まだ生きれる」。
いっぺん死んだつもりになって、
坊っちゃん頼ってみたらどや?
多分、坊っちゃんにその覚悟はある。
内容は知らんまでも、あんたに語りたない過去があることもわかってるやろう。
ワシがここに何をして欲しかったか・・・
わかるな?】
『・・・。はい。』
【なら、ワシの役目はこれまでや。
これだけは言っておこう。
ワシは芝山やない。
お前の心の抵抗が作り出した、対抗意識の結晶体・・・】
『!?』
【わかったろう。
嬢ちゃんにはまだ生きたい気持ちが残ってる。だからワシを自分で作り出した・・・。】
『・・・はい。』
【あとは・・・
あいつと嬢ちゃんの戦いだ。】
頭のなかに(奴)のイメージか到来する。
『・・・わかりました。』
その言葉と共に、芝山のイメージは笑顔のものだけを残して、
消えた。
『芝山さん・・・。』
《わかってたまるか!》
『!!』
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《あんなやつの口車にのせられるな!!
お前はここで死ぬ!それでなにもかも終わり!
だからとっとと・・・》
『黙って!』
秋華は立ち上がった。
雨がさらに強さを増す。
『あなたは私じゃない!
私の心が産み出した、私の弱さ!』
《何を言ってるの?
私はあなた………》
『いいえ、違うわ。
あなたは私じゃない。
だって、
私はまだ死にたくない!』
秋華に、光のイメージが到来する。
その瞬間、秋華の頭の中で明らかに奴がたじろいだ。
《なっ……消え……!?》
『あなたの正体は私の過去。
忌まわしい過去の記憶・・・
だから、あなたは死に逃げようとしている。』
《そう……!あの記憶を持ったまま生きられるの!?》
『私は今を生きてるのよ!』
《うっ・・・!また・・・!》
さらに奴の体が崩壊して行く。
『だから、私は・・・』
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ここで、芝山は過去を捨てた。
忌まわしい過去を・・・
状況は違うけど、私にもおんなじことが言えるかもしれない。
勝てるかな・・・過去に・・・
捨てるって思うだけで捨てられるほど、記憶って簡単なものじゃない・・・。
でも、努力してみよう。
帰る場所作ってくれた、あの人のために。
(勘助さん・・・)
頼ることを教えてくれたあの人のために。
(芝さん・・・)
秋華は、ポケットから、カッターナイフを出した。
「過去を、捨てに来ました。」
誰とも知らない知床の神に語りかけた。
《・・・何を言ってるの?》
奴がたじろぐ。
しかし、それを秋華は気にかけずに語ることを続けた。
「だから・・・。
もう一度私に・・・
生きるチャンスを・・・
勘助さんのもとで・・・。」
秋華は、
アイドル時代に売りだった、
きれいな長い黒髪に手をかけた。
《何をするつもりだ?》
「忌まわしい記憶よ・・・
さよなら・・・」
《よせ、やめろ!》
秋華はカッターナイフを振り上げた。
《やめ―》
ブツッ。
カッターナイフは降り下ろされた。
秋華は、風と共にに舞った。




