第6話:ママの面影と、初めて紡ぐ言葉 ## ◯月◯日(育児日記 75日)
# 第6話:ママの面影と、初めて紡ぐ言葉
## ◯月◯日(育児日記 75日目)
**タイトル:ショックのあまり水たまりへと液体化。けれど、世界で一番愛しい響き。**
「いいかい天智。口の形を意識するんだ。両唇を一度しっかり閉じてから、息を押し出す……そう、『パッ!』だ」
ケットシーの村に爽やかな朝の風が吹き抜ける中、私は丸木小屋の床の上で熱血指導を行っていた。
生後数ヶ月(相当)を過ぎ、乳歯も生え揃い始めた天智は、最近「あー」「うー」といったクーイングから、多様な子音を混ぜた喃語を喋るようになっていた。
言語の発達は、人間の知性が花開く極めて重要なプロセスである。
「さあ天智、パパの口元(※スライムの表面構造で作り出した仮初めの口)を見るんだ。『パ・パ』だよ! パッ・パ!」
「あぅ……ばば? ぷすー……」
「惜しい! 『ばば』ではなく『パパ』だ! 無声破裂音の『P』を意識するんだ!」
「あうー? パパ?」と言わせたい私の鼻息(呼吸器官はないが)は荒くなるばかりだ。
元住職として無数の経文を唱え、バイオ学者として講義を行ってきたこの私が、今や娘のたった二文字の言葉を引き出すために全神経を注ぎ込んでいる。
なぜなら——地球に残してきた愛する妻のことを、私は一日たりとも忘れたことはなかったからだ。
あの日、海外出張先で悲報を聞いた時の絶望。妻の悲しみを受け止めに帰る途中で命を落とし、娘とともにこの異世界へ転生してしまった後悔と運命の悪戯。
「(妻よ……私は今、スライムという奇妙な姿ではあるが、天智を命がけで育てているよ。君が抱きしめたかったこの小さな命は、毎日すくすくと成長している。だからこそ……この子に『パパ』と呼んでもらいたいんだ)」
妻の面影を抱きしめるように、私は天智の前に両手を広げた(スライムの腕を伸ばした)。
「さあ天智! パパだよ〜! 『パ・パ』って言ってみてごらん!」
「あう……」
天智は首をかしげ、くりくりとした大きな瞳で私を見つめた。
そして、ゆっくりとお口をパカッと開けた——。
◇
「——ニャー。」
ポタポタポタ……。
「……え?」
「ニャー! にゃ〜ご!」
天智は満面の笑みで、両手を猫のポーズ(おててをキュッと丸める動作)にしながら、完璧な発音とイントネーションでそう叫んだのだ。
「……にゃ……?」
私の思考回路が停止した。
「ニャー! にゃにゃー!」
パパではない。
ババでもない。
母国語(日本語)ですらない。
彼女が人生で最初に発した完璧な意味のある言葉——それは、毎日お世話をしてくれているケットシーたちの鳴き声『ニャー』だったのだ!!
「ショ……ショックゥゥゥゥゥゥゥッ!!!」
ジュワァァァァァァァッ……!!
あまりの精神的打撃に、私のスライムボディを保っていた表面張力と結合組織が完全に崩壊!
私は球体の形を保てなくなり、まるでバケツの水をひっくり返したかのように、**床一面にペチャッと広がる完全な『液体(水たまり)状態』へと溶解**してしまった。
「な、なんたる事態……! 毎日一番近くで身を削り、オムツになり、歯固めになってきた実の父親の言葉ではなく……日頃交流しているケットシーたちの言語が優先されるとは……! 言語獲得における環境決定論の恐ろしさよ……!」
床の隙間に染み込みそうな勢いで平べったく溶けている私。
そこへ、タイミング悪くガラリと扉が開いた。
「やあ天山さん、天智ちゃん! 今朝採れたての木の実を——って、うわぁぁぁっ!? 天山さんが床で青いジュースになってるにゃ!?」
遊びにやってきたルークが、果物の籠を落としそうになりながら叫んだ。
「あーっ! ルーク! ニャー! にゃーご!」
天智はルークの姿を見るやいなや、大喜びでハイハイして駆け寄り、ルークの足元で「ニャー!」を連発した。
「おおっ!? 天智ちゃん、いま言葉を喋ったか!? すごいにゃ! 最初に覚えた言葉がボクたちの言葉なんて、天才だにゃー!」
ルークは嬉しそうに天智を高い高いした。
「あははははっ! ニャー! にゃん!」
「よしよし、いい子だにゃ〜!」
和気藹々と戯れる一人と一匹。
その横で、床に広がる青い液体(私)から、怨念のような気泡がポコン……ポコン……と湧き上がっていた。
「(……私だぞ……。毎日……身を削って……ミルクをあげているのは……私なんだぞ……)」
「うわっ、液体から恨み節みたいな魔素振動が聞こえるにゃ!? 天山さん、しっかりするにゃ! スライムに戻ってくれにゃ!」
◇
その日の午後。
私はなんとか『ゲル状の肉体』を再構築したものの、ショックから立ち直れず、丸木小屋の隅っこで「平べったい座布団形態」になって落ち込んでいた。
「ハァ……バイオ学者としても、元住職としても情けない。娘の健やかな成長を喜ぶべきなのに、自分が『パパ』と呼ばれなかっただけでこれほど嫉妬し、凹んでしまうとは……」
ふと見ると、部屋の中央で天智が木のおもちゃで遊んでいた。
「ニャー……にゃー……」
嬉しそうにブツブツと「ニャー」を繰り返し練習している。
その姿はあまりにも愛くるしい。だが、その声を聞くたびに、私の核がキュッと切なく痛むのだ。
「(……ママ。私はダメな父親だよ。君がいたら、きっと優しく笑って『天智は可愛いわね』って抱きしめてあげられたのに。私はいまだに、自分自身が父親として認められたいという自我を捨てきれずにいる……)」
目を閉じると、生前の記憶が蘇る。
流産が決まった夜、病院のベッドで一人静かに泣いていた妻の姿。
「あの子に、逢いたかったな……」と呟いていた妻の声。
私が命を落として異世界へ来られたのは、奇跡だ。
天智と再会し、抱きしめることができたのも、とてつもない祝福だ。
なら、言葉なんてなんだと言うのだ。
「ニャー」であれ「ババ」であれ、天智が元気に笑って声を出してくれる。それ以上の幸せがどこにあるというのだ。
「……そうだね、天智。パパの我が儘だったよ」
私はすーっとスライムボディを持ち上げ、天智の横へと移動した。
「『ニャー』でも何でもいい。お前がこの世界で言葉を覚えて、たくさんの仲間と喋れるようになるなら、パパはそれが一番嬉しいよ」
私が優しく天智の背中をスライムの手で撫でると、天智は遊んでいた手を止め、くるりと私の方を振り返った。
「あぅ……?」
天智の大きな瞳が、私の顔(スライムの前面)をじっと見つめる。
いつもなら「ニャー!」と笑うはずの彼女が、今日はどこか真剣な表情をしていた。
小さな手が伸ばされ、私の冷たくて温かいスライムの頬にペタリと触れる。
「あー……うー……」
天智の小さな胸が、一生懸命に上下した。
口を何度も開けては閉じ、舌と唇の動きを確認するように、一所懸命に呼吸を整えている。
「天智……?」
彼女は知っていたのだ。
パパがずっと、自分に語りかけていた言葉を。
毎日、毎日、お腹が空いた時も、夜泣きをした時も、おしっこをした時も、ずっと優しく耳元で囁かれていた、あの音を。
天智の小さな両手が、私のスライムボディをギュッと強く抱きしめた。
そして、溢れんばかりの力と、心からの愛を込めて——。
「……パ……パ……!」
しん、と部屋の中が静まり返った。
つたない、小さな、けれどハッキリとした声。
「パパ……! パパぁ……っ!」
「……っ!?」
時間が止まったかと思った。
天智は私の胸に顔をうずめ、すりすりとおでこを擦り付けながら、何度も、何度も繰り返した。
「パパ……! あぅ……パパ!」
「あ……あ……」
声が出なかった。
スライムの体に涙腺など存在するはずもないのに、私の核の奥底から、熱いものが溢れ出して止まらなかった。
「天智……! 天智ぃぃぃぃぃっ!!」
私は自分の身体を大きく広げ、天智の小さな体を包み込むように抱きしめた。
「パパだよ……! そうだとも、パパだ! お前のパパだよ天智ぃぁぁぁぁぁっ!!」
「あはっ! パパ! ぷにぷにパパ!」
天智が嬉しそうに声をあげて笑う。
『ニャー』は、大好きなルークたちへのご挨拶だったのだ。
そして『パパ』は——自分を命がけで守り、身を削り、温めてくれる、世界でたった一人の存在へ贈る、特別な言葉だったのだ。
天智の小さな温もりが、私の体を通して心へと伝わってくる。
「(ママ……聞こえたかい? 天智が……天智が私を『パパ』って呼んでくれたよ……!)」
異世界でスライムになって、失敗ばかりで、ツルツル滑ったり大爆発したり、消滅しかけたりもしたけれど。
この一瞬のために、自分は生きてきたのだと心から思えた。
◇
「——で、泣きすぎてまた液体化したのかにゃ?」
夕方。
丸木小屋のドアを開けたルークが、呆れ返った声をあげた。
そこには、感動のあまり感情を制御できなくなり、再び部屋いっぱいに広がる「幸せな青い水たまり(私)」と、その水たまりの上で「きゃっきゃ!」と楽しそうにパシャパシャ泳いでいる天智の姿があった。
「パパ! パパ! みずあそびー!」
「ふふふ……そうだね天智……パパの海で存分にお泳ぎ……(ダバダバ)」
「うわぁぁぁ! 天山さん、感動するのはいいけど部屋を水浸しにするな部屋をーっ!!」
ルークの悲鳴が森に響き渡る。
いっぱい失敗して、いっぱい笑って、いっぱい泣いて。
手足のないスライムパパと、元気いっぱいの娘の「本当の子育て」は、これからもずっと、ずっと続いていく。




