-未来への祝杯- ③
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秋人に連れて行かれた先は祖母が残してくれたお店“うさぎの夢”であった。
あれだけ破壊し尽くされたはずの店は、綺麗さっぱり元通りになっており、もういつでも使えそうなほどに整えられていた。
「あ、秋人さん、お店直してくれはったんですね。ありがとうござ」
言い終わる前に、強く秋人の腕の中にかき抱かれて雪子は二の句が告げなくなってしまう。
秋人の自身の香りとムスクの混じった雪子を落ち着かせる香りと、布越しの彼の体温が、勇気を振り絞って父に立ち向かおうとしていた雪子の心を解いていく。
「雪子ちゃん」
「秋人、さん……」
そうだ、背中の傷を見せてもらわないと。
そう言いたいのに、前髪が触れ合うほどの距離で見つめられ、腕の中に閉じ込められたら、雪子は何も言えなくなってしまう。
久方ぶりに感じる秋人の存在に、知らぬ間に頬に雫が伝っていく。
「目を閉じて」
雪子の耳元に唇を寄せて、秋人がそう希った。
その言葉が何を意味するのかわからないほど、雪子はもう子供では無い。
秋人に請われるまま、雪子はしずしずとまぶたを閉じる。
雪子を好きだと言い、美味しいねと同じものを食べて笑っていた彼の唇が、雪子にそっと重ねられる。
1つ1つは頼りなく、すぐに解けてしまう粉雪はいつの間にか、こんなにも降り積もっていた。
「雪子ちゃん、雪子ちゃん」
壊れた機械のように雪子の名を繰り返し呼んで、雪子の毛先を弄び、その存在を確かめるように体のラインをなぞる。
壊れ物に触れるような秋人の繊細な指先に、雪子の息は自然と早くなった。
「雪子ちゃんがいなくて、生きた心地がしなかった」
「秋人さ、ごめんなさい……傷つけて、ごめんなさ……んっ」
「くすぐったい?」
秋人が雪子の体のラインをなぞるたびに、くすぐったさで吐息が漏れる。
恥ずかしげに目を伏せて頷く雪子に、秋人は「かわいいね、雪子ちゃん」と甘く囁いて雪子の顎を持ち上げて、再び口付けを降らせた。
今度は触れるだけでなく、雪子の唇の感触を味わうようにねっとりと柔く食み、吐息を奪い去っていく。
(伝えたいこと、たくさんあるのに……)
秋人の執拗な口付けに、雪子の思考も奪われていくようで、身も心も水飴のように蕩けてしまいそうだった。
目を閉じてうっとりと秋人の口付けを受け入れていた雪子だったが、彼の手が下半身にまで伸びて雪子は小さく悲鳴を上げた。
「ヒョわっ」
「ははっ、また変な鳴き声してる。お尻のお触りはNGだった?」
「よ、よろしくはないかと存じます……!」
着物越しとはいえど、そんなところを触られては落ち着かない。
一気に現実に引き戻された雪子は、吹きこぼれたやかんのようにポコポコと抗議するが、その姿も愛おしくて仕方がないと秋人に強く抱きしめられてしまった。
「雪子ちゃんは本当にかわいいね、食べちゃいたい」
「人間は雑食なので、食べても美味しくないそうですよ」
「そういうことじゃないんだけどなあ」
「そういうこと……?」
「いいよ、今はわからなくても。そのうちいっぱい教えてあげるから」
「よくわからないけど……秋人さんは教えるのがお上手なので、楽しみです」
秋人は雪子にたくさんのことを教えてくれた。
きっとこの先も、彼のことだから優しく丁寧に雪子に新しい世界の扉を案内してくれるだろう。
そう思い答えた雪子を、秋人は言葉にならない表情を浮かべて雪子の頬を撫でた。
「雪子ちゃ――」
「おっほん! えーっと、そろそろよろしいかしら? あたし達も雪子さんに会いたいのだけれど?」
2階へ続く階段から志穂店長、亜美、エリカが顔を出していることに気がつき、雪子は顔にパッと花を咲かせた。
するりと秋人の腕の中から抜け出して、3人に駆け寄ると志穂店長が大きく腕を広げて雪子を抱き留める。
「無事でよかったわ! 突然いなくなっちゃうんだもの、もうあたし心臓が止まりそうなほどびっくりしちゃって!」
「職場にもご迷惑おかけして、すみませんでした……!」
「雪子さんは悪くないでしょ、あたしだって前の旦那と離婚した時は散々お世話になったしね」
「まあ、雪子さんは亜美さんと違って素敵な男性に巡り会えたようで何よりです」
ブラック企業だパワハラだと騒がれる昨今、こんなにも自分のことを心配してくれていた職場の仲間たちに暖かく迎え入れられて、雪子の心は歓喜で弾んだ。
抱擁を解かれて、志穂店長たちと向き合うと雪子は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「それでね、雪子ちゃん。退職の件なんだけど……」
わざわざ志穂店長がここまで来てくれた理由は、もちろん雪子の安否を確認するためでもあったが、それとは別にもう1つあった。
「前にもお伝えしたとおり、本人の意思が確認できなければこちらが退職の手続きを取ることはないの。それでなんだけど、雪子さんはどうしたいのかしら?」
志穂店長は雪子が何を言わんとしているのか、おおよそわかっているという菩薩のような表情で雪子にそう問いかけた。
そう、秋人との夢を叶えるのならば雪子は志穂店長たちの職場を離れなければならない。
コロナ禍で困難に直面しながらも、雪子を雇い入れてくれた料理教室。
雪子はそこからまた一歩、未来へ踏み出していく。
「志穂店長、今までお世話になりました。卯ノ宮雪子は新しい夢に向かって、彼と一緒に祖母の遺してくれたこのお店を、守っていきたいと思います」
胸を張って堂々と答えると、志穂店長たちもにっこりと笑って雪子の門出を祝ってくれる。
「あたしたちが手によりをかけて育てた職員です、どうぞよろしくお願いしますね」
「はい、もちろんです」
「では、あとはお若い2人でごゆっくり! どうぞ」
また退職の手続きは別の日にしましょう、と言い残して志穂店長ら3人は“うさぎの夢”を後にした。
これは間違いなく、噂の秋人の姿を一目見ようとわざわざここまで来たのだなと直感した雪子は
「なんか気を遣わせてしまったかな」と何も気づいていない様子の秋人をみて、どう伝えればいいなかわからなかった。
どうか秋人とのやりとりが、2階まで聞こえていませんようにと心の奥底から祈った。
「そうやっ。秋人さん背中見せて。怪我してない? 確か2階に絆創膏とかあったはず……」
「全然大丈夫だよ。京都がクソ寒いってゆうから、厚着してきたのがよかったみたいだ」
「それならええですけど……そういえば、なんで兄さんが秋人さんを呼んではったんです?」
「実は、雪子ちゃんがお義母さまといなくなった次の日、店にお義兄さんが来たんだ」
――雪子が別れを告げた後、父によって破壊された“うさぎの夢”の片付けをしていた秋人の元に、栄一郎がやってきて事のあらましを説明した。
そして雪子を助けるために連絡を取り合うようになり、今日結納のために京都に訪れた時を狙ってお店や部屋の位置まで共有していたのだという。
「兄さんが、そんなことを……」
「目が覚めた、って何度も言ってたよ。だからといって、今まで雪子ちゃんにしてきたことは許されることじゃないけど」
雪子の自己肯定感を奪い、料理を作るトラウマを植え付け、挙げ句の果てには頭を打って血を流している雪子を見捨てて逃げたした輩である。
反省しているという言葉を聞いた上で拳でブン殴った秋人だったが、それを雪子に伝えると心優しい彼女は兄を憐れむような気がして、雪子にはそれを伝えず墓場まで持っていくことにした。
「またそのうち連絡が来ると思うから、それまでお義父さんが何もしてこなければいいけど」
「そう、ですね……」
秋人が雪子を庇った様子を見て、あの父からは想像できないほど狼狽えていた姿を思い出す。
そして雪子に詰め寄っていた時のセリフから、祖母と何か確執があったのだろうと感じ取られたが、雪子にはさっぱり思いつかなかった。
「とにかく、今日は色々あったしうちでゆっくり休もうか。雪子ちゃんの諸々の生活用品も買いに行かなきゃだし」
「でも今日はホテルに泊まるので、アメニティがあれば十分ですからそこまでしていただかなくても……」
住んでいた社員寮は引き払ってしまい、この状態では東京にある家にも戻れない。
だとしたらホテルに泊まることになるのだが、買うといっても肌着くらいならコンビニにもあるのに。と暗に雪子は秋人に伝えるが、彼はにっこりと満面の笑みを浮かべてこう言った。
「泊まらないよ? 雪子ちゃんは今日から俺ん家で暮らすから」
「……くら、す?」
「そ。今までは雪子ちゃんを怖がらせないようにって、遠慮してたけど、これからはガンガンいかせてもらうもらうことにしたんだ。その初めに、今日から雪子ちゃんは俺の家で暮らすんだ」
もう絶対に逃さない。と、秋人はいつものように柔らかく微笑んで、雪子の手の甲に口付けを落とした。
「俺の家はまだシングルベットしかないから、落ちないようにひっついて寝ようね。日中は俺は仕事があるから離れちゃうけど、できるだけ雪子ちゃんと一緒にご飯を食べれるように調整するから。シャンプーもトリートメントも、雪子ちゃんの好きな奴を買ってもらったらいいし。そうだ、今度の休みの日は2人で住めるような部屋を探しに行こう。この店にも近くて、大きなベットがおける部屋にさ。家具も雪子ちゃんの好きなデザインのやつに買い替えて」
ペラペラと今後の生活について楽しそうに話す秋人を、雪子は「えっえっえっ」と困惑した様子で見つめる。
いくら遠慮しないと宣言されても、これはやりすぎではなかろうか。
急な展開についていけない雪子の腰に腕を回して、秋人は自身の方へ引き寄せる。まるで人間を堕落させようとする悪魔のような甘い声音で、雪子の耳元に囁いた。
「もう誰にも文句言われないように、籍も早めに入れようね。大好きだよ、雪子ちゃん」




