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-未来への祝杯- ④

 窓から差し込む陽の光で、雪子は目を覚ました。

 布団からはみ出した足先が寒くて、もぞもぞと足を布団の中へ引っ込めると、もう一度目を閉じる。

 あれだけ積もっていた雪も溶け、新しい春の予感を連れてきた季節。

 寒がりの雪子はいまだにコートとマフラーが手放せないが、世の中は新生活に向けてあくせくと準備を始めている。

 そんなことを夢現に考えていると、扉の隙間からコーヒーの香ばしい香りが漂ってきて雪子は今度こそ完全に目を覚ました。

 のっそりと起き上がって、買ったばかりのピンク色のスリッパに足を滑り込ませる。

 ワンピースタイプのパジャマ着のままリビングへの扉を開くと、既に起床してキッチンで朝食作りをしていた。

 グレーのスウェット姿の秋人の傍に近寄ると、ミルを使ってコーヒー豆を挽いているところであった。

 こうして秋人が豆から挽いてく作ってくれるカフェオレを飲むのが、同棲を始めてからの朝の日課である。

 秋人曰く、このミルもイタリアにいた頃よくしてもらったおじさんからの頂き物で、向こうで飲んだコーヒーの味が忘れられず自分で淹れているらしい。

 そこらの喫茶店にも引けを取らない秋人のコーヒーだが、あいにく雪子はコーヒーは苦手なためミルクたっぷりのカフェオレで頂いている。

「おはよう、雪子ちゃん。もうすぐ出来上がるから、ちょっと待っててね」

「おはようございます。今日の豆もええ香り……」

 秋人の手元を覗き込むと、彼は一旦手を止めて優しく雪子の髪を撫でた。

 朝のおはようの儀式が来る、と雪子は身構えてぎゅっと目を瞑る。

 すると秋人がほんのり笑う気配がしたかと思うと、そっと雪子の頭を支えて音もなく秋人の唇が雪子の額に降らせた。

 まるで神の誓いをするかのような、神聖な儀式かのように行われる額への口付けに雪子は頬を赤らめてされるがままになっている。

 そんな今だに朝の儀式に慣れないでいる雪子を、秋人はクスクスと笑いながら再び愛しげに髪を撫でた。

「寝ぼけている雪子ちゃんもかわいいね」

「寝癖だらけですよ……」

「寝癖でもかわいいよ……こんなにいい香りもするし」

 一度も染髪したことのない雪子の黒髪を手ですくい、同じシャンプーの香りを嗅ぐ秋人に雪子はぎゅっと身を固くした。

 秋人と違い、今だにこうした恋人同士のふれあいに慣れない様子の雪子を、秋人は雪子のためのカフェオレよりも甘く見つめてくる。

「じゃあ、もうすぐ朝食ができるから、先に顔洗っておいで」

 そう言ってようやく秋人の手が離れると、雪子はようやく息を吹き返して体の緊張が解かれる。

 同じ屋根の下で暮らし始めて1ヶ月半。この部屋に引っ越してからは1週間が経った。

 富山家との縁談を断り、秋人と共に逃げ出した雪子は彼に流されるまま、なし崩しに同棲生活がスタートした。

 そして秋人は宣言通り2人で住む部屋を見つけたかと思えば、ホテルのレストランでの仕事の傍すぐに新居へ引っ越しを済ませてしまったのである。

 場所は“うさぎの夢”の最寄駅である京都市営地下鉄烏丸線の今出川駅からもう少し北上したところにある、北山駅という京都でも人気のエリアであった。ここであれば“うさぎの夢”へのアクセスも良い上、周辺はおしゃれなカフェやベーカリーに京都府立植物園、京都コンサートホールなどがあり娯楽も揃っている。

 季節ごとに植物園に行くのも生の音楽を聴きに行くのも、これからは全て秋人と一緒なのだと思うと、今から楽しみで口元が緩んでしまう。

 雪子はすっかり治った両腕で朝の洗顔をこなしながら、鏡に映る自身の弛んだ顔を見てはっと我に返った。

(まさか、こんなことになるなんて1年前のうちにゆっても、全く信じへんやろうなあ……)

 刻々と近づく祖母の死に寂しさと悲しみを積らせ、これからの自分の居場所を失ってしまうような感覚に怯えていたあの頃。

 やっぱり自分は家からは逃れられないんだと絶望した夜もあったが、あの夢に出てきた祖母のおかげで、雪子は立ち向かう勇気と自信を持てた。

 あの夢は雪子の脳が勝手に作り出したものだったのか、それとも雪子を心配した祖母が夢枕に立ってくれたのか、雪子にはわからない。

 昔気質の祖母のもとで育った雪子は、それなりに神仏への信仰心はあるがああいう体験は生まれて初めてのことであった。

 お礼も兼ねて、祖母の墓参りに行かなくてはと考えつつリビングに戻ると、テーブルには秋人のコーヒーと雪子のカフェオレが、2人で一緒に選んだマグカップに注がれて仲良く並んでいる。

 何気ない1つ1つの小物や雑貨がこんなにも愛おしく感じるなんて、幸福の海に溺れて死んでしまいそうだった。

「今日の朝ご飯は俺の特製クロックムッシュに、柘榴サラダと昨日の残りのコーンスープです。あと雪子ちゃんはカフェオレね」

「わあ、美味しそう……!」

 骨折から治ったばかりの雪子のために、用意してくれたのは骨にいいとされる柘榴にカシューナッツや胡桃を使用したサラダ。

 緑の葉野菜の上に輝くルビー色の柘榴が目にも楽しく、滅多に食べない食材に心が躍る。

 クロックムッシュはフランス発祥のホットサンドの一種で、ハムとチーズの挟まったパンにベシャメルソースのかかった濃厚な味が特徴である。

 昨日のスープは買ってきたとうもろこしをブレンダーで撹拌させて秋人が作ってくれた特製であり、コーンの甘味と生クリームのコクが素晴らしい世界で1番美味しいコーンクリームスープであった。

 京都にいながらフランスの風を感じるような贅沢な朝食に、日本食ばかり食してきた雪子にとっては新鮮そのもので朝から食欲がぐんぐんと湧いてくる。

 秋人が引いてくれたイスに雪子は腰掛けた後、向き合うようにして座った秋人と手を合わせる。

「「いただきます」」

 人参のドレッシングのかかったシャキシャキの柘榴のサラダ。熱々のチーズがびよーんと伸びる様を楽しみながら、舌を火傷しないように食べるサンドウィッチ。寒い朝の体を温めてくれるコーンクリームスープの甘い香り。

 恋人お手製の、高級ホテルにも負けない豪華な朝食に雪子は舌鼓を打ち、頬をほころばせた。

「雪子ちゃんは、本当に美味しそうに食べてくれるよね」

「あ、あんまり見ないでください……」

「やだ、見る」

「……もう」

 秋人からじっと見られると雪子としては食べにくいことこの上ないのだが、料理が美味しすぎてまるで魔法にかかったように手と咀嚼が止まらない。

 世間の恋人同士というのは、こんなにも幸福に満ち満ちた日々を送っているのだろうか。

 そんなことを思いながらカフェオレを一口飲むと、雪子のスマートフォンから通知を知らせる音が聞こえてきた。

 こんな朝早くから何かあったのだろうかと画面を開くと、そこにはあの日決別したはずの卯ノ宮冬彦の名が無機質な文字で表示されていた。 




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