episode3. - 失われた母の味 - ①
――なんで、どうして、なんでなんでなんで?
志穂店長の口から飛び出た言葉に、雪子は顔から表情を失くし、放心状態になった。
あの兄の栄一郎だけでなく、いよいよ父まで本格的に乗り出してきたという事実に、雪子は最近は収まっていたはずの発作に襲われる。
絶望に染め上げた雪子を落ち着かせるように、志穂店長は背中をさすりながら励ましてくれるのだった。
「大丈夫よ。本人の意思を無視した退職は了承していないわ。それはきちんとお父様にも伝えてあるからね」
「父はっ……父はなんて……」
「一応納得はしてくれて、話が拗れることはなかったけれど……雪子ちゃんには何も連絡は来てないの?」
「全然何も……父とは祖母の葬式以来会っていないんです、その時だって会話らしい会話はしてなくて……」
「雪子ちゃんのお部屋は知ってるの?」
「いえ、それは知らないと思います。女性専用でオートロックもありますから」
「でも警戒するに越したことはないと思うわ、何かあったら大変だから」
そう気遣ってくれた志穂店長にほんの少し心が救われ、雪子は激しく波打つ心臓を抑えつつ、なんとか笑顔を作ることができた。
その後の就業中もエリカや亜美も雪子の深い事情を察してくれている様子だった。そして、気遣ってはくれているものの、いつもと変わらない態度で接してくれているのが伝わってくる。
「あー! 大根の桂剥きがうまくできないーっ、キィっ」
「無理して包丁を使わなくても大丈夫ですよ、ピーラーもありますし」
「家の料理で大事なのは、いかにして洗い物を減らすかなんです! 先生、うまく桂剥きできるようにはどうしたらいいですか?」
「そうですねえ、練習と思い切りですかね……それか、こういうふうに大根を立てるようにしてまな板に置いて、包丁で削るようにして皮を剥くという方法もありますよ」
大根の桂剥きに苦戦している生徒に裏技を教えると、早速実践して感動の声を上げていた。
ありがとうございますっ、と感謝をされて、他に困っている生徒がいないか声をかけていると、自然と心も落ち着いていく。
仕事とはいえど、誰かと話していると気が紛れて楽になった。
しかし、休憩時間がやっていても空腹を感じられず、雪子は志穂店長たちに気を遣わせたくなくて、外で食べてくると嘘をついて店を離れた。
スマホを確認してみれば、今日は遅番だという秋人から『今から出勤してきます。雪子ちゃんもお仕事頑張って、気をつけて家に帰ってね』という文章と笑顔のスタンプのメッセージが届いて、思わず涙があふれてしまった。
(夢じゃない……うちは秋人さんの恋人なんや……)
雪子は嗚咽が出そうになるのを唇を噛んで堪え、『ありがとうございます、秋人さんもお仕事頑張ってくださいね』『今日の夜も時間が合えば、またお電話がしたいです』と文章を返した。
――負けたくない。
雪子の描く未来でそばにいて欲しいのは、秋人なのだ。
雪子はこぼれ落ちてくる涙を乱暴に拭い、スマホの画面を睨みつける。
父の電話番号は知らない。唯一わかるメールアドレスに雪子は自分の思いをぶちまけた。
結婚したい人が別にいること、2人で“うさぎの夢“を再開させるために計画を練っていること、職場に勝手に連絡を入れないで欲しいこと。
全てをぶちまけたメール文は見返すと自分でもギョッとするほどの長文になってしまったが、雪子は勢いのままそのメールを送信した。
その後数日経ってもメールの返信がくることはなく、雪子は違和感を抱きつつもどこかホッとしたような気がしていた。
(父はうちなんかに興味ないねんから、このまま放って置いて欲しい……)
秋人にはお店の計画で随分と世話をかけてしまっているので、できれば彼には知られずに穏便に済ませたい。
そんな考えが甘かったと後悔することに気がつくまで――、季節は進み、冬を告げる風が吹き付けるまで雪子は現実から目を逸らし続けた。
――――――――――――――
すっかり紅葉した葉も落ち切って、肌寒く感じることも増えてきた今日この頃。
“うさぎの夢“の再開を目指しての改装工事が進んでいた。
秋人と相談しあった結果、居住部分だった2階は物置と休憩室として使うことになったので、1階を店舗にして水回りや壁床の補修工事をお願いして、ほぼ完成まで進んでいる。
和の要素を取り入れたモダンな雰囲気にすることによって、和食と洋食のどちらにも合う空間にしようとお互いを尊重して決まった内装。
坪庭も専門の業者に発注して、一度綺麗に整えてもらう手筈になっている。
一方のプライベートも順調で、店の計画も進めながら、休憩と市場調査を兼ねて人気のお店や有名店に通い、デートを重ねていた。
相変わらず関係は手を繋いだり、たまに抱擁をしたりでストップしているが、それも秋人の誠実さを表しているようで雪子は嬉しかった。
「んっしょ……と」
業者の人も『こんな古いの久しぶりに見ましたわ!』と驚愕していた古いキッチンは姿を変え、手をかざすと水を出したり止めたりできる今時設備のキッチンへと様変わりしていた。
業務用の大きな炊飯機と冷蔵庫、ガスのコンロの他に炭火焼きのできるスペースまで料理人にとって夢のようなキッチンを何度も眺めては、雪子はここで並んで秋人と料理ができる日を心待ちにしていた。
もちろん改装したのはキッチンだけでなく店全体も昭和の名残を残していた薄暗い内装から、木の温かみが感じられつつシンプルさと和の調和が取れた京都感の強い雰囲気へと変化している。
ランチタイムは明るく入りやすい空間で、ディナータイムになるとダウンライトが心地よいちょっぴり大人の空間へと移り変わるのも特徴で、これも秋人との話し合いで『四季が移ろうように、時間の移ろいも感じられるように』というコンセプトだった。
そしていざ工事が始まると、改装業者に差し入れとして雪子の仕事が休みのたびに家から持ち寄った料理を振る舞うと『こんなに美味しい飯食べたことない!』と喜びの言葉をくれ、予定より早く工事が終わる目処がたったのである。
お礼に最終日はこのキッチンで作った出来立てを提供出来たらいいと秋人と話していたことを思い出しながら、雪子は2人で選んだお皿を綺麗に並べている時だった。
横引きの扉のガラガラとした音が鳴って、雪子は秋人がやってきたのかとぱっと笑顔を浮かべて振り向く。
しかし、玄関先に立っていたのは秋人などではなく、東京にいるはずの父の冬彦と兄の栄一郎の姿であった。
「どうして……」
「うわあ、すっげえキレイになってんじゃん! いいねえ、男を誑かしてお店持たせてもらって」
唖然とする雪子を他所に、兄の栄一郎がズカズカと店へ入ってくる。
そして乱暴な手つきでイスに腰掛けると、居丈高な様子で足をテーブルに乗せる。
兄の横暴な振る舞いに雪子はっと我に帰り、無理矢理テーブルから栄一郎の足を引きずり下ろした。
「そんな汚いことしやんとって! ここは食事をするところやのに!」
負けたくない、負けたくない。もう彼らの勝手な振る舞いは許さない。
そう必死にそう訴える雪子を、栄一郎は鼻で笑い飛ばす。
「汚いことぉ? 汚いのはお前だろうが。なあ、俺にも教えてくれよ。何回男と寝たらこんなに貢いでもらえるのかさ」
「秋人さんはそんなことする人やあらへんッ!」
雪子自身が兄から色々言われるのは慣れっこであった。
しかし、秋人のことまで侮辱するのは、絶対に許せなかった。
カッと頭に血が上り、自分でもこんな声が出せるのかと驚くほど声を張り上げた。
「出てって! はよ出てって、もう二度と来やんとってッ!」
「なんだよ、そう冷たいこと言うなよ。俺にもその“秋人さん“に合わせてくれよ。こんな地味でババア顔の女のどこがよかったのか聞きたいわ」
「うるさいうるさい! はよ出てってってばッ」
なんでこんなデリカシーの欠片もない男に、秋人と雪子の仲について話さねばならないのか。
今までの秋人との甘く優しい思い出が、醜く穢されるような気がして、腑が煮え繰り返る。
雪子は懸命に兄の腕を掴んで無理矢理引き剥がそうとするが、所詮非力な女の力ではビクとも動かなかった。
「栄一郎、もういい」
そう言う父の声がして、一瞬雪子は兄を引っ張る力が抜けた。
期待してしまったのだ。父が兄を止めてくれたのだと。
――そんなことはあり得ないと、ずっと知っていたのに。つい、期待してしまったのは、やはり相手が血のつながった親だったからなのだろうか。
ガッシャアアアアンっという激しい破壊音に、雪子は体を硬直させ、言葉を失った。
(そうやった……1番恐ろしいのは、兄さんじゃなくて……)
雪子のその目に映ったのは、ゴルフクラブを手に店の窓を破壊した父の姿であった。
「言って聞かせるより、こちらの方が手っ取り早い」
そう語る父の表情は能面ながらも、怒りや憎しみといった感情が身体中から沸き立っていた。




