- 失われた母の味 - ②
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『母さんをいじめるな!』
記憶の中の父はいつも暴力を振っていた、とんでもないクズ野郎だった。
母の実家である卯ノ宮家の財産を食い潰し、ギャンブルに明け暮れて、酒に酔って暴力を振るうような、社会の底辺のような人間。
それから母は父に見切りをつけて離婚を叩きつけると、わずかに残った財産で代々卯ノ宮家の当主が住んでいたという家を改築し、小料理屋を構えた。
あの時代は女にとって仕事は結婚までの腰掛けで、離婚をして息子1人食わせてこうとする女に碌な仕事なぞなかった。
どちらかというと、あの小料理屋ができた経緯はそうした消去法からの理由。
しかし接客業というのは母の性に合っていたようで、母はいつも嬉々として仕事に出掛けていた。
あの冷たく暗いアパートに私を1人残して。
母の料理は美味しかった、ほんの少し冷めていたけれど家を出るギリギリまで温めてくれていたであろう、ほんのり温かな味。
どの料理よりもあの母の味が美味しいのに、何故か私は満たされなかった。
いつからか私は食事が嫌いになった、生きるためにただエネルギーを摂取するためだけの無駄な行為。
周囲の人間が昨日は何を食べた、今日は何を食べるという話を楽しそうにしている意味が理解できない。
料理に楽しみや快楽を求めるから、金もかかるし不健康になってしまうのだ。
『ねえ、冬彦。ちゃんと雪子にご飯、食べさせてるだろうね?』
何故、母は孫娘の食事にばかり構うのか。
あいつは子供で女なんだから、そんなに量がいらないんだ。馬鹿みたいに食べさせて、醜く太って、嫁に行けなくなったらどうする?
女は嫁ぎ先で幸せが決まるんだ。
雪子はきっちり躾けて、母のような苦労を背負わせないようにしてやっているんだ。
――何故、そんな目で私を見る? 雪子に構う?
私はあんな父と呼ぶにも値しないようなクズにならないよう、必死で勉強してきた。
片親の家庭だと馬鹿にされても見下されても、必死で耐えて見返してきた。
ほら、見てくれよ。この誰もが羨む立派な家を。
私の言うことには必ず従う慎ましい妻と、一流の大学に入り一流の企業に勤めたこの家の後継である倅を。
星付きのレストランでのフルコース、選ばれたものにしか入れない会員制の割烹料理屋、海外での素晴らしい景色と共にいただいたワイン。
素晴らしい家族と共に、誰もが羨む食事を堪能した。実際、いつも周囲からは羨望の目を向けられた。だから、くだらない行為だとは思いつつ、私は評判の良い店に足を運んだ。
なのに、どうして。
――父がいない隙に母と2人で食べた味噌汁以上の、満たされたものに出会えないのだろう。
***
父の冬彦が次々とガラスを破壊し、テーブルを吹き飛ばしていく。
想像にしなかった父の暴挙に、思考が追いつかず呆然としていた雪子だったが父がキッチンへとズカズカと進んでいくのを見て、雪子は父の前へと飛び出した。
「やめてーッ!」
「うるさいっ、どけ!」
父は実の娘である雪子にも容赦はしなかった。
腕で庇ったものの、ゴルフクラブで殴られた激痛が雪子の左手を襲う。次の瞬間には雪子の体は吹き飛ばされて、後頭部にテーブルがぶつかった衝撃で、意識が朦朧とした。
「やめ、て……」
左の腕と後頭部が激しい痛みに襲われ、体がうまく動かせない。
よろよろと上体を動かして、右手で後頭部を押さえるとぬるりとした感触が手のひらに伝わってきた。
もしかして、と手のひらを確認した雪子は血で染まる己の手を信じられない気持ちで見つめた。
「お、オレは何も知らない、関係ないぞ……!」
そんな雪子を見て、先ほどまでふんぞり帰っていた兄の栄一郎が後ずさる。
雪子はリフォームされたばかりのキッチンが無惨に破壊されていく姿と、兄を交互に見つめ、己に残った体力を振り絞り大声で叫んだ。
「兄さ……ん、お父さんを止めて! お願い……!」
雪子の叫び声に、兄が怯え切った目で雪子を見下ろす。
まさかあの兄も、父がこんな行動に出るとは思わなかったのだろう。
栄一郎は雪子の悲痛な姿と暴れ回る父の姿を見て、ずるずると後ずさるとそのまま店を飛び出して行ってしまった。
(お願いしたうちがアホやった……)
あの兄があれだけ馬鹿にして、卑下した妹を助けるはずがなかった。
そんな兄にお願いした自分も馬鹿だと、情けない気持ちになりながら雪子はなんとか力を振り絞って立ちあがろうとする。
2人で夢見て、これから一緒に叶えていくはずの未来が失われてしまう。
しかし、立ちあがろうとすると激しい痛みと眩暈が雪子に襲いかかり、テーブルやイスを巻き添えにして雪子はもつれるようにして倒れ込んだ。
意識が遠のいていく中、木や金属の破壊音が雪子の耳に木霊していた。
――いいか。女が店なんかやって行って、それでどうなるって言うんだ。
店なんかやって、妊娠して、子供を産んだらどうするんだ。
子供を1人家に残して……子供がどんな思いでいると思う? 親の来ない授業参観を、子供はどんな気持ちで過ごすと思う?
キャリアだの、自由な生き方など馬鹿馬鹿しい。母なら子のためを思って、家にいるべきなんだ。
子と夫のためだけに、料理をすればいいんだ。
夢だのなんだの、甘ったれたことを抜かして……いい年した大人がみっともない。
身の程を弁えろ、お前のような細い腕で体力仕事なんて務まるわけがない。
ほら見てみろ。この店の惨状を。現に、守れなかったじゃないか――
――――――――――――
「――子ちゃ――雪子ちゃん――!」
秋人の呼ぶ声がして、雪子の意識がゆっくりと浮上する。
重い瞼を持ち上げて、徐々に焦点が合うと焦りに満ちた顔の秋人が雪子を見下ろしていた。
「秋人……さん」
「どうしたの、何があったの!? 違う、それよりも先に救急車と警察……!」
「だめッ! 呼んじゃだめ!」
雪子を抱きしめながら、通報しようとした秋人を雪子は反射的に止めた。
「いや、呼ぶ。雪子ちゃんをこんな状態にさせて、そのままにさせておけない!」
「違う……違うんです、呼んでも意味がないから……」
「呼んでも意味がない……?」
怪訝そうな表情の秋人に、雪子は真実を伝えるのが情けなくて、意図せず涙が溢れた。
「父なんです……うちの、身内の不始末ですから……警察も取り合ってくれないから……」
「雪子ちゃんのお父さんが……?」
秋人に何があったのかを伝えなければと思うのに、それ以上は声が震えて言葉にならなかった。
はらはらと涙をこぼす雪子に、秋人もそれ以上は追求できなかった。
「……じゃあ、俺が病院に連れてくよ。頭を打つのは本当に危ないから、ね」
それはもう秋人の決定事項らしく、雪子は秋人に背負われて車の後部座席に寝かせられると病院へと運ばれた。
まだ意識がはっきりしないながらも、うわごとのように「ごめんなさい……お店、守れなくて……ごめんなさい……」と繰り返す雪子に、秋人は幼子に言い聞かすように応じた。
「お店はまたやり直せばいいよ。それよりも雪子ちゃんに何かあったら、俺は死んでも死にきれない。雪子ちゃんのお祖母様にも、申し訳が立たない」
どうして、この人はこんなにも優しいのだろう。
店を守れなかった雪子を、父のことを伏せていた雪子を、一寸とも責めなかった。
そのまま近くの病院に運ばれた雪子は、左上腕骨折に後頭部裂傷、脳震盪と診断され、念のために一日入院することとなった。
その手続きも何もかも、雪子のために秋人が駆けずり回ってくれていた。




