- 光さす黄金のレモネード - ④
「うちは祖母以外の家族と折り合いが悪くて……小さい頃は家族の顔色を伺って、ずっと怯えてました」
父は卯ノ宮家の長男で後取りである栄一郎ばかりに目をかけていて、雪子のことは眼中にもない様子であった。
母も父の意思に背くようなことはしない主義だったので、助けを求めることなど出来はしなかった。
そんな雪子にとってあまりに粗悪な家庭環境を見かねた祖母が、雪子は自分が引き取って育てると宣言したあの日。
気の強い祖母の手によってあの家からどうにか脱出できた雪子の姿は、髪にはフケがわき肌は垢まみれ、体は肋骨が浮いて見える目も当てられない様であったという。
「おばあちゃんには大事にしてもらえて、毎日お腹いっぱいご飯が食べられるようになって幸せでした。わざわざ私立の女子校にまで通わせてもらって……感謝してもしきれなくて、でも」
それでも、実の両親と兄の呪縛から雪子は逃れられなかった。
新型ウィルスの脅威に日本が晒されつつある時、東京にいる家族が全員感染してしまい、食糧に困っていると祖母に連絡が来たのだ。
それまでほぼ絶縁状態だったのだが、そんな連絡をよこすほど困り果てていると知った雪子は過去のひもじい思いをした自身を重ね、冷凍した食事を東京の実家へと何度か送ったのだった。
大きくなったら、祖母の店を継ぐのが夢だった雪子は学生時代でも友人に料理をふるまったり、店の手伝いで何品か作らせてもらうこともあり、料理の腕にはそこそこ自信があった。
もしかしたらこれで、自分のことを認めてもらえるかもしれない。
そんな思いで行動した雪子だったが、返ってきたのは昔と何1つ変わらない扱いであった。
『なんだ、このうっすい味はよ!』
『こんなクソババァが作りそうな料理なんか持ってくんじゃねーよ!』
『お前は本当バカだよなあ。みんなが美味いって言ってくれてたのはただのお世辞。京都で生まれたくせにそういうのマジで疎いよなあ、ぶぶ漬けと一緒だよ、ストレートに言えないから遠回しに言ってんだよ』
『仲がいいとはいえ、しょせん他人の言うことだろ? お世辞じゃないってどうしてわかる、本当のことを言ってくれるのは身内だけだろ? なあ!』
電話越しに聞こえる罵詈雑言の嵐に、――ああ、やっぱりそうなんだと、雪子の心はポッキリと折れてしまった。
コロナ禍で調理に携わる求人が消えたことを幸いに、雪子は夢を諦めた。
それでも今まで料理にしか携わってこなかったため、自身で調理する必要のない料理教室へ就職したのである。
だからこそ、果たして自分ににここまで大切にしてもらえる価値があるのだろうかという気持ちが、両親の愛情を受けられずに育った雪子の中にずっとしこりとして残っていた。
本当は雪子は両親の所有物であるべきで、両親の言う通りの食事を摂り、両親の言う通りの勉学をし、両親の言う通りの相手と結婚する。
そうでなければいけないのではないか、世間は雪子にそうあるように求めているのではないか。その期待に応えないといけないのではないか――そんな思いがずっと雪子の心の片隅にあった。
「……触れても、いいかな」
切なげな眼差しで雪子を見つめる秋人の言葉の真意が掴めず、瞼を瞬かせるとスッと秋人の手が伸ばされる。
骨ばった男性の指が雪子の眦に触れて、ようやく雪子は自分が涙していることに気がついた。
「だから、ずっと誰かに料理を作ることを避けてきました。だから、だから……うち、本当は――五乙女さんと一緒に、“うさぎさんち“になりたいです」
やっとの思いで自分の気持ちを口にすると、緊張で強張っていた秋人の顔が甘く蕩けた。
「ありがとう、雪子ちゃん。一生大事にする」
重ねられていた手が、絡み合う。
祖母が亡くなり、血のつながった身内は疎遠で頼ることもできない、天涯孤独の身になってしまったと思っていた。
雪子の身を案じた祖母の願いを、神様が叶えてくれたのだろうか。
(生まれる場所も、親も選ばれへんけど……これから一緒に生きていく人は、選べる)
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炭酸のシュワシュワとした感触が喉を通過する快感と、レモネードのさっぱりとした口当たり。後から舌に広がるハチミツの甘さ。
くどくない酸味と甘味のマリアージュは、まるで水のようにゴクゴクと飲んでしまう不思議な力を持っている。
口内がさっぱりとすると、少し心も落ち着けたように感じて雪子はふうと満足げな吐息をこぼした。
「それで、折入ってお願いがあるのですが」
「もう恋人なんだし、そこまで畏まらなくていいよ。雪子ちゃんのお願いならなんでも聞くし」
「じゃ、じゃあ五乙女さんにお願いがあるんやけど……」
「その呼び方もなし」
「えっと……秋人さん」
「はい、なんでしょう」
レモネードの力でやっと落ち着けたと思った矢先。恋人という今で自身の世界に存在しなかった単語にいちいちときめいてしまってつい吃ってしまう雪子に、秋人は爽やかな笑みを浮かべて応じる。
こんなに優しくて、包容力のある大人の男性が恋人だなんて、美術館に足を踏み入れてから雪子はずっと夢見心地であった。
「あの……1度、うちの料理を食べてみて欲しくて……。ちゃんと、秋人さんとやっていけるかどうか、確かめて欲しいんです」
自分の心の思うままの言葉を、行動をしても拒否されることを怖がらなくていいという信頼関係は、雪子の心に大きな変化をもたらした。
ずっと自分の気持ちを殺して、他人の顔色を伺い怯えていたけれど、秋人は絶対に雪子を傷つけるようなことはしない。
その安心感に雪子も素直な気持ちを曝け出せる勇気が湧いていた。
「もちろん、なんなら今からでもいいよ。そんなにたくさんの品数はいらないし、料理が出来上がるまで待ってるからさ」
「それは申し訳ないです、うちの賃貸はコンロが1口しかなくて時間がかかってまうし……」
「じゃあ俺の家にくる? まあ、俺も1人暮らしの賃貸だから、2口しかないけど……キッチン自体は広めだし」
2口もあれば充分だが本当にお邪魔しても大丈夫なのかと問いかけると、秋人はその問いにももちろんと頷いてみせた。
その後ゆっくりとレモネードを味わってから再び秋人の車に乗ることになったのだが、先ほどまで名のない関係だった2人の間には今や“恋人“という肩書きが横たわっている。
一歩進んだ関係に照れる一方の雪子に対して、秋人は自然な流れでさらっと雪子の手までとってしまう。
「俺は結構スキンシップ好きな方だけど、雪子ちゃんが嫌だったら遠慮せずに言ってね。雪子ちゃんに悲しい思いをさせるのは、俺も本意じゃないから」
これは嫌じゃない?と、顔を覗き込まれて雪子は無言のまま頷いた。
雪子は自身でも顔から火が出そうなほど真っ赤になっているのを感じつつ、この顔を見た秋人はさぞや面白がるに違いないと思ったのだが
「雪子ちゃんの顔真っ赤だ、かわいいね」
という愉しげな声音で指摘されると同時に柔い笑みを注がれて、雪子は羞恥のあまり何も言えなくなってしまった。
しかしこのままではいけないと雪子は気持ちを仕事モードに切り替えて、一旦自宅で調味料を取りに行かせてもらった後、大阪の吹田市にある秋人の住むマンションへと到着した。
「外見はぼろっちいけど、中はリフォームされてて綺麗だから。あ、でも待てよ。部屋をちょっと片付けるから5分だけ待って!」
そう言って慌てた様子でベージュ色の重い扉の向こうに身を滑らせた秋人の宣言通り数分待つと、顔をひょっこりと覗かせて雪子を招き入れる。
一人暮らしの男性の部屋に上がることに少しの不安と緊張を抱えつつ、中へ入ると一体何を焦る必要があったのだろうと不思議に思うほど綺麗に整頓された部屋が広がっていた。
「綺麗なお部屋……うちの部屋の方が汚いかも」
「いや、今荷物を全部寝室にぶち込んだから。そこの扉は開けないでね、絶対雪崩が起きるから」
そう秋人が言ったタイミングで、指した先の扉の向こうからガタガタと音を鳴らし扉を震わせたので、雪子はついクスっと笑ってしまった。
「意外です。秋人さんのことだから、てっきりモデルルームみたいなお部屋にお住まいなのかと」
「そうしたいのは山々なんだけど、海外にいる友人が送ってくれるお土産とか自分で集めた本なんかが整理できてなくてさ……多分あの山の中にカレー味の歯磨き粉とかが混ざってる」
「それはなんというか……歯を磨いた感じがしなさそうな……」
そう感想を述べて2人で顔を見合わせて笑うと、緊張も不安もほぐれてくる。
そして当初の目的を果たすため、冷蔵庫の中の使ってよいものとキッチンの道具がしまってある場所などを一通り教えてもらった後、早速調理へととりかかった。




