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- 光さす黄金のレモネード - ③

 全ての絵を鑑賞し終えると、展示されていたクリムトの絵が印刷されているグッズが販売されており、雪子は迷わず“接吻“のポストカードを購入した。

 エントランスホールに戻り、併設されたカフェで買ったばかりのポストカードを見つめている雪子の横顔は今までになく穏やかである。

「お待たせ、雪子ちゃん。はい、レモネードね」

「何から何まで……ありがとうございます」

「その絵、よっぽど気に入ったんだ」

「とても心惹かれるんです。吸い寄せられるというか」

 連れてきてもらった良かったと感謝の気持ちを伝えると、秋人も嬉しいよと呟いて雪子の隣の椅子に腰を下ろした。

 ガラス張りの向こうから晩夏の夕日が降り注ぎ、レモネードがキラキラと黄金の如く輝いた。

「こんなに穏やかな気持ちは初めて……」

 耳を澄ますと、小川のせせらぎのような音量でレコードが流れている。

 雪子はクラシックにもあまり見識がなかったが、この穏やかな気持ちを露わにしてくれるピアノの旋律に心地よさを覚えた。

 そして、他のお客さんたちの楽しげな会話も、今は映画のワンシーンを見ているような気持ちで雪子の心にスッと入り込んでくる。


「店長ー、さっきからクラシックばかり流されたら眠くなるんですけど」

「美術館でロックが流れる方がおかしいでしょ。それに君ももう成人したんだろう?大人の嗜みとしてクラシックを愉しむのはどうだい」

「いい曲だなーとは思いますよ? でもこんな午後の昼下がりに流されたらたまったもんじゃないですよ。水泳の後に古典の先生の朗読が始まる並の拷問です」

「はっはっは。君も絵を描くのであれば、音楽という美に触れるのも悪くないと思うがね」


「あーくん、どうだった? これでお受験の時に上手にお話しできそう?」

「変な絵ばっかりで、面白くなかったー」


 雪子にとって素晴らしいと感じるものを、相手も同じように思ってくれるとは限らない。

 また相手が素晴らしいと感じるものを、雪子が同じように思うとは限らない。

「最近雪子ちゃんの元気がなさそうだったからさ、そう言ってくれてよかった」

 いつも雪子を思いやって、優しくしてくれる。雪子の気持ちを尊重してくれる秋人に、今までは何故そんなにまでしてくれるのかが、理解できなかった。

 優しくしてくれることも配慮してくれることも、尊重してくれることさえも、自分にはそれをしてもらえるほどの価値がないと思っていた。

「どうして――五乙女さんはそんなに優しいんですか」

 気づけば、ぽろりと本音をこぼしていた。

 目に涙の膜が張りつつあるのを感じながら、雪子はそう胸の奥にしまっていた気持ちを吐露すると、秋人はいつもの気さくな笑顔を雪子に向けた。

「そんなの雪子ちゃんが好きだからに決まってるじゃん」

 雪子の心に甘い言葉が溶けてゆく。

 恐る恐る秋人の顔に視線を動かしてみると、彼の熱っぽい視線とぶつかって、羞恥に身を焦がされるような思いがした。

「そん、な……うちは、そんな……五乙女さんに好きになってもらえるような、人間じゃないのに……」

「なんで? 雪子ちゃんは素晴らしい女性だよ。素直で優しくて、向上心があって……そばにいると心が落ち着くんだ」

 一緒にいると安寧の時が過ごせるのは、雪子だって同じだった。

 エスコートも完璧で優しくて、英語も流暢で料理の腕だってピカイチ。

 完璧としか言いようのない秋人に雪子が差し出せるようなものは何もないのに。

 そう涙に睫毛を濡らす雪子に、秋人はどこか哀愁を滲ませる穏やかな口調で告げた。

「雪子ちゃんが思うほど、俺はすごい人間じゃないんだよ。俺も小さい頃に両親が離婚して、父子家庭だったし。それに……パリでは色々あったから」

 いつの日か、少しだけ話してくれた彼の海外での暮らし。

 楽しいことばかりではなかったことを滲ませていた詳細を、秋人は静かに語った。 

「最初はパリでも一流のフレンチレストランに入れてすごい嬉しかった。この歳で経験を積んでって、あわよくばって色々妄想してたりもしてたけど……」

 東京の有名ホテルからワーホリを使ってパリへ行った後、運よく星付きのレストランで勤務することになった秋人だったが、そこで彼を待ち受けていたのは想像を絶するような現場だった。

「オーナーがちょっと変わった人でさ、店で雇われるシェフは腕はいいんだけど、素行が悪くて他のレストランをクビになった奴らばっか集めてるような職場だったんだ。そんな中に無名の日本人の坊主が入ってきたとなったら、そりゃあまあいじめられるわな」

 よその国からしてみれば、日本も結局はアジアの中の1つという認識でしかない。

 しかも素行不良で他店をクビになるような人間達が集まっているとなれば、それは筆舌に尽くしがたい扱いである。

「それでも頑張って、就業ビザも取れて……分かる人には認めてもらえるようになった矢先にコロナ禍に巻き込まれて……なんか、もう疲れたってなったよね」

 ホームレスに襲われて、ゴミ置き場で目を覚ました時にそう思った。と、今はもうなんとも思ってない、あっけらかんとした口調で話す秋人に、雪子は言葉を失った。

 そういえばコロナ禍のニュースで、海外ではアジア系へのヘイトが高まり、日本料理店などが襲われる被害が起きたという報道があったということを思い出す。

 雪子が就職難で奔走している間、秋人にも想像を絶するような壁にぶち当たっていたのだろう。

「そんな時に逃げるようにして行った旅行先のイタリアの片田舎で、ご家族でされてる小さなレストランに出会ったんだ。色々と衝撃的だったよ」

 パリの一流レストランから、イタリアの田舎町の小さなレストランへ。

 秋人の眼差しは日本から遠く離れた異国の地に思いを馳せる、優しいものに変化した。

「本当に小さい町だったから常連客もみんな家族みたいなノリで……素性も知れない俺のことをすごく気遣ってくれて……働かせてくれることになったら、空き部屋があるからって家に住まわせてくれてさ。それでいつか……こんな風に家族でお店を開くのが、俺の新しい夢になったんだ」

 イタリアはまた日本とは違うベクトルで“家族“意識の強い国である。

 核家族化が進みながらも家父長制が残り、家として社会的な役割の意識が強い日本。

 それに対してキリスト教でもカトリック信者の多いイタリアでは、家族は“感情を共有“しあうものであり、母が中心となって社会全体で子供を大切にする風潮がある。

 母のいない家庭で育った秋人にとって、その暖かさは彼の中で救いをもたらしたのかもしれない。

「そこのおばちゃんが『あたしのことはママと呼びなさい』とまで言ってくるもんだから、他の人はどうしてるんだろうと思って娘婿さんに聞いたら『俺もちょっと気まずいから、あんまり呼ばないようにしてる』って言ってて仲良くなったりして……」

 そんな小ネタを混ぜながら穏やかな口調で語る秋人の横顔に、自然と雪子も聴き入っていた。

「お店をやるのだって並大抵の覚悟じゃ足りないし、そこに奥さんになってもらう人も巻き込むってなると正直厳しいだろうなとは思ってた。でも……雪子ちゃんに出会えた」

 秋人が言葉を積み重ねるたびに、心臓がどんどん早鐘を打つ。

 レコードの音は遠くなり、視界には頬を紅潮させた秋人しか見えない。


「卯ノ宮雪子さん、あなたが好きです。人生を共にする伴侶になって……俺の夢を一緒に叶えてくれませんか」


 ――心が震える、というのはこういうことを指すのだろうか。

 まさか自分の人生にこんなことが起きるだなんて。

 唇は戦慄き、歓喜で体が熱くなる。

 雪子は潤んだ瞳で秋人を見つめ返し、吐息混じりでその問いに答えた。


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