第11話「計算への介入」
記録室の前で、呼出しの音が止まった。
戦術記録室の防音扉がスライドし、無菌の静寂が広がる空間へ足を踏み入れる。
中央のホログラフィック・ディスプレイを囲むコンソールに、エリナ・ヴォロンスカヤ少佐が立っていた。
「遅いぞ、記録官」
振り返ったエリナの瞳が、氷のレンズのように蒼を射抜いた。
「同期を急げ。ミッドナイトハンマー着弾後の被害評価と、敵先鋒の再編成状況を記録しろ」
エリナの頭上にも、治部の表示が重なっていた。
『恐怖度0%』
その隣には、
『心理的動揺・観測不能』
とある。
蒼は二つの表示を見比べた。
エリナはコンソールの前から動かなかった。
蒼は無言で敬礼し、自身のステーションに着席した。記録板をポートに接続する。
『認証確認。記録官・蒼。戦術統制システムTACTICA、同期を開始します』
網膜の青い戦術グリッドが明滅した。
物理ディスプレイの戦術マップでは、敵味方の配置が急速に更新されていく。
『ミッドナイトハンマー着弾地点周辺、地形データの再構築完了。ヴォルガ軍、複数部隊が再編成を開始。進軍を継続しています』
赤い光点が、抉れた地形の縁を迂回しながら再び密集し始める。
軌道攻撃による遅延は続いていた。
だが、止まってはいない。
「第一防衛ラインの放棄を決定。第二ラインへ戦力を集中させ、遅滞戦闘へ移行する。記録官、この戦術変更をログに定着させろ」
蒼の視界で、治部の戦術グリッドが高速で明滅した。
『計算上は、敵先鋒の到達まであと二十八分。現在のTACTICAの迎撃プランでは、防衛火力は敵の突進力を削りきれず、第二ラインは接触から七分で瓦解します』
こめかみの奥が締まった。
『サヤへの経路を空けるため、敵左翼を誘撃ゾーンへ引き込みます。この機動条件を先行記録してください』
蒼の指が止まった。
青いグリッドの一部が明るくなる。
予定された後退先には、味方の車列が残っていた。
人員識別タグ。
生体反応。
車両三両。
蒼は記録の入力欄を開いた。
背後で、エリナがコンソールに触れる音がした。
蒼は振り返らず、治部の予測を入力する。
キーを叩くたび、青白い光が視界を横切った。
手元へ目を落としても、治部のグリッドは消えない。
『状態可視化に欠落があります。センサーの遅延を補正します』
ディスプレイには、泥に抉られたクレーターが映っていた。
斜面を這う機体へ、青いアイコンが重なる。
『継戦可能時間』
『恐怖度』
『生存確率』
蒼が機体の脚部損傷を追おうとすると、数値が先に視界へ入った。
「……ッ」
奥歯を噛み締める。
目の奥に痛みが走った。
室内環境表示は基準内のまま。
目を閉じても、青い数字だけが残った。
『警告。敵部隊の推進力が、当方の予測演算を大幅に超過しつつあります』
TACTICAの合成音声が記録室の静寂を切り裂いた。
ホログラムの映像が、セクターCの最前線を捉える。
ヴォルガ軍の無人地上戦闘ドローン群が、防衛線へ真っ直ぐ進んでくる。
関節から火花が散り、装甲の裂け目からオイルが流れていた。
先頭の機体が片脚を引きずる。
その横を、後続の機体が間隔を空けずに通った。
迎え撃つUG-03ケルベロス部隊が、一斉に制圧射撃を開始する。
計算された弾道が敵の前衛を穿ち、複数のドローンを鉄屑に変えた。
勢いは落ちなかった。
後続の機体が破壊された残骸を踏み潰し、そのまま前進する。
数分で、防衛側のケルベロス三機が突撃を受け、地面を滑った。
装甲がひしゃげる。
脚部が一本、回転しながら泥へ落ちた。
『第一防衛ライン、突破されました。敵先鋒、ポイント・アルファへ到達』
エリナは動かなかった。
「第二ラインの自走砲兵中隊へ、座標X-12からY-20に対する阻止弾幕を命令。遅滞戦闘を維持しろ」
「少佐」
蒼の声が低くなる。
「その迎撃プランでは、第二ラインは七分で崩壊します。敵の突撃速度は、TACTICAの計算する物理限界を四〇パーセント上回っています」
エリナの視線が蒼へ向いた。
「記録官。お前の予測など聞いていない。事象の結果だけをログに保存しろ」
蒼は画面へ視線を戻した。
『敵左翼への砲撃は、現在の条件では損耗効率が低下します』
治部の声。
青い表示の中で、自走砲兵中隊の頭上に浮かぶ生存確率が急速に下がっていく。
十二パーセント。
『敵左翼をセクターD方向へ引き延ばします。中央への損耗付与を避け、到達を遅らせる経路です』
蒼の指が震えた。
手首を台へ押しつける。
青い図の中で、一つの車列が折れた。
人が乗っている車列だった。
蒼は治部の提示した敵の突進軌道を、過去の類似戦例から抽出した異常挙動データと照合した。
一致率が表示される。
入力欄へ座標と条件を追加する。
TACTICAが新しいデータを読み込んだ。
『TACTICAによる再計算完了』
合成音声が記録室に響く。
『敵の突進力に対する第二ラインの維持は困難と判定。被害最小化のため、砲兵中隊をセクターD方面へ後退させつつ、斜線陣による遅滞戦闘への移行を推奨します』
エリナの眉がわずかに動いた。
「……システムが、後退を推奨だと」
ホログラムと蒼の記録ログを順に見る。
蒼は何も言わなかった。
「推奨案を承認する。第二ライン、セクターD方面へ後退しつつ迎撃を継続」
命令が流れた。
蒼の視界で、自走砲兵中隊の生存確率が四十五パーセントまで跳ね上がる。
同時に、セクターDへ向かう敵の到達予測時間が延びた。
青い数字が更新される。
蒼は額の汗を拭えなかった。
引き延ばした敵左翼の先に、味方の後退経路が重なっている。
少女への到達が遅れる分、その車列へ敵が向かう。
蒼が入力した経路だった。
『条件①指揮系統統一、未充足』
治部の演算表示が切り替わる。
『救出の目標を維持するなら、この損耗を計算へ含めます。目標を変更しますか』
成功率が下がる。
蒼は息を吸い直した。
口の中に溜まった唾を飲み込む。
入力した指先が冷えたまま戻らない。
「……分かっている」
声には出さなかった。
キーボードを叩き続ける。
モニターの向こうでは、命令に従って後退を始めたアウレリア軍の車両が泥濘に足を取られていた。
背後からヴォルガのドローン群が迫る。
一台の装甲が裂けた。
火柱が上がる。
通信チャンネルに悲鳴と警告音が重なった。
炎に包まれた車両の上で、兵士のアイコンが変化する。
『生存確率0%』
青いグリッドから消えた。
車両の映像は残っている。
通信の声が途切れた。
蒼は次の声を待った。
入力欄では、カーソルが明滅していた。
指の震えを台へ押しつける。
『敵右翼が座標Y-22で孤立しつつあります。第四ドローン小隊を座標X-18へ向かわせてください』
治部の声はそこで途切れた。
青い線が折れた。
蒼の目の奥に鋭い痛みが走る。
入力する座標を確かめるため、顔を画面へ近づけた。
視線が、再びセクターDの陥没穴のマーカーへ向かう。
あと十五分。
マーカーから手元へ目を戻した。
記録室では、冷却ファンが全開で回っていた。
それでも制服の背中に汗が張りついている。
「TACTICA、第三防衛ラインの隔壁を展開。全ての自動防衛火器のセーフティを解除しろ」
エリナの命令が飛んだ。
戦線が基地本体へ接近している。
蒼の網膜で、治部の展開する青いデータストリームがさらに激しく回転を始めた。




