第10話「二重の視界」
『同期プロトコル、開始』
青白い光が蒼の網膜を灼いた。
現実の風景へ、無数の線と数値が一斉に重なる。
光は防弾ガラスを透過し、視神経の奥へ直接突き刺さった。蒼の背が反り、喉から声にならない呼気が漏れる。
床が傾いた。
いや、床は動いていない。
壁と天井の境界だけが横へずれ、次の瞬間には上下の感覚そのものが消えた。蒼はコンソールの縁を掴んだ。爪の付け根が白くなる。
耳の奥で高い音が鳴った。
レベル4.2の情報汚染が渦巻く外部から、異常なまでに整った情報列が流れ込んでくる。
脳髄に、言葉になる前のデータが雪崩れ込んだ。
泥。
軍馬。
密集する兵列。
盆地を埋める軍勢。
天候。地形。兵站。士気。
無数の条件が格子へ置かれ、数値へ変わり、配置される。
整っていた。
その一角だけが崩れた。
右翼。
配置されていた大軍勢が動かない。
次の瞬間、組み上げられていた数式が連鎖的に赤へ変わった。
血と泥の臭いが鼻腔を焼く。馬の嘶きと鉄の衝突音が、観測シェルターの静寂を押し潰した。
『感情は計算の誤差です。制度と論理で、指定された目標へ至る行動を統制します』
治部の声。
蒼の鼻から血が落ちた。
一滴。
床に赤い円ができる。
拭う余裕はなかった。
青白い光の配列が視界の奥へさらに入り込む。
その並びを見た瞬間、胸の奥が強く縮んだ。
知らないはずだった。
同じ痛み。
同じ光の角度。
同じ順序で流れる数字。
蒼は瞬きをした。
像は消えない。
知っている。
その感覚だけが先にあった。いつ、どこで見たのかは出てこない。
掴もうとすると、こめかみの奥へ痛みが走った。
情報の奔流が、唐突に止んだ。
『……同期プロセス、完了。これが、あなたの世界と私の計算が交わる座標です』
膝から力が抜けた。
蒼はコンソールへ手をつき、崩れるのを止めた。床に落ちた血へ視線を向けると、像が二重にずれた。
一つは現実の血。
もう一つは、その上に重なる青い輪郭。
顔を上げる。
シェルターの壁。
量子フィルタリング・ガラス。
その向こうでうねる河境の闇。
すべての上に、透過率七〇パーセントほどの青い表示層が重なっている。
縦線。
横線。
奥行きを示す細い補助線。
空間が立方体へ分割された。
闇の中に潜む熱源へ、青いタグが貼り付く。
『継戦可能時間』
『士気・恐怖度』
『移動可能距離』
数字が絶えず更新されていく。
蒼が視線を動かすと、表示も追従した。
遅れはほとんどない。
それでも、目の奥には焼けるような痛みが残っていた。
史霊・石田三成の戦争特性、《吏治万象》。
味方の状態、兵站、配分、移動、指揮系統。
複数の情報が同じ空間へ重ねられ、青い線として接続されていく。
『現状の基地防衛システムには、看過できない非効率が存在しています』
蒼は額の汗を袖で拭った。
『指揮伝達に遅延があります。記録官の入力経路から、配置の再評価を要求してください』
青い線が蒼の足元まで降りた。
その瞬間、足首から力が抜けた。
ガラスへ掌をつく。
青い表示の中では、味方部隊の列にいくつもの小さな待機印が残っていた。
「……記録官の権限で、戦術AIに直接干渉はできない。システムが拒絶する」
『観測ログへ、再評価に必要な条件を入力してください。TACTICAが採用すれば、行動命令が更新されます』
蒼の喉が乾いた。
入力欄には、配置変更の候補が青く並んでいた。
蒼の指が最上段の項目へ近づき、止まった。記録板の角が汗で滑る。
治部の青い線は消えない。
入力欄と、河境へ伸びる複数の経路を往復する。
蒼が記録板を握り直した時、端末が震えた。
『緊急呼出』
『戦術記録室へ帰還せよ』
蒼は表示を閉じた。
シェルターの扉を開く。
廊下へ出ても、青い線は残っていた。
夜勤明けの兵士が一人、壁際を歩いてくる。
その足元へ青い補助線が伸び、頭上には複数の数値が浮かんでいた。
蒼は二歩進んだところで壁へ手をついた。
現実の足音と、数字の更新が同時に流れ込んでくる。
片方だけを消すことはできなかった。
呼吸を一度整える。
視界の中央に、記録室までの青い線が伸びていた。
蒼は記録板を持ち直した。
新しい視界に体が追いつくのを待ってから、記録室へ向かった。




