一時間目
一時間目、国語。
キンコンカンコーン。
チャイムが鳴ると同時に、
「はーい。授業始めますよー」
と、やわらかい声が教室に響いた。
国語の担当は、黒田美智子先生。
五十代くらいで、黒髪のボブに眼鏡をかけている。見た目も話し方も優しく、穏やかな先生だ。
国語のように、人の感情を扱う教科は、どの学校でも人間の教師が担当することになっている。
「今日は、この前の物語の続きからいきますね」
教科書を開きながら、黒田先生が言う。
「それじゃあ……葛西くんから順番に、丸読みお願いします」
教室の空気が、少しだけ引き締まった。
葛西が教科書を開き、読み始める。
淡々とした声。
どこかで聞いたことのあるような、普通の朗読。
順番に読み進められていく。
「………次はー、丸井くんですね」
「丸井くーん? あら、ちょっと朝から寝てるの? ごめん、斉藤くん起こしてあげて」
机に突っ伏した丸井の肩を揺さぶり、半目の丸井が頭を上げる。
「はぇ?」
「次、丸井が読む番だぞ。ここ」
丸井が読む箇所の部分を指さして教えてあげた。
「あ、やべ」
丸井が小さくぼやきながら読み始める。
ところどころ詰まりながらも、なんとか読み終えた。
「はい、ありがとう」
黒田先生は怒ってるのか怒ってないのか分からない表情で微笑んだ。
「じゃあ、この場面。主人公の気持ち、どう思う?」
教室が静かになる。
「じゃあ、南さん」
「……えっと、悲しい?」
当てられた女子生徒が曖昧に答える。
「うん、悲しいっていうのもあるよね。他には? 土田さん」
「後悔してる感じ?」
「そうだね。いいと思います」
黒田先生はゆっくり頷く。
「じゃあ……NINAさんはどう思う?」
一瞬だけ、空気が変わる。
NINAが顔を上げる。
「本文の記述から判断すると、主人公は過去の選択に対して否定的な評価をしています。そのため、“後悔”が最も近い感情だと考えられます」
すらすらと答える。
「……うん、そうだね」
黒田先生は少しだけ間を置いてから頷いた。
「でも、“後悔”って一言で言っても、いろんな気持ちが混ざってるよね」
「例えば?」
NINAが聞く。
「そうね……“戻りたい”とか、“やり直したい”とか。“なんであの時こうしなかったんだろう”っていう気持ちとか」
教室の何人かが頷く。
「そういう、言葉にしきれない部分も含めて“気持ち”っていうのはあるのよ。一つの単語の中に想いがたくさん込められてるの。それは今までの個人の経験によって異なってくるものだから、本人以外誰にも確実に100%共感できることはないの」
「……言語化できない要素、ですか」
NINAが小さく呟く。
「そうね。正解が一つじゃないところが、国語の面白いところでもあるわ」
黒田先生が、少し間を置いて、言葉を続ける。
「物語の中だと、その人の人生や感情がある程度描かれているから、まだ想像しやすい。でも現実は違うのよね」
窓の外に一瞬だけ視線を向ける。
「例えば、隣の席の人が昨日、何時何分に何をしていたかなんて分からないでしょう? もしかしたら、今この教室の中にも、今朝、親御さんと、すごく大きな喧嘩をしてきたけど、何もなかったみたいな顔で座っている人がいるかもしれない」
空気が少しだけ引き締まる。
「そういう他人の人生の背景が見えない中で、誰かの感情を一つに決めつけることは、本当はとても難しいことなの」
「……」
「だからこそ、国語や読書でいろんな人の、いろんな感情に触れることが大切なのよ」
黒田先生は、優しく微笑む。
「国語なんて学んでどうなるんだって思ってる人もいるかもしれないし、だから寝てるのかもしれないけど」
そう言いながら少しだけ視線を突っ伏してる丸井へ向けた。
「でも、そういう読書だったりで、自分とは違う感じ方や考え方を知って、見える世界が少しずつ広がっていくことはあるの。たくさんの価値観を受け入れられるようになると思うわ」
「それは、AIでも同じですか?」
NINAが静かに問いかける。
教室が一際、静かになる。
黒田先生は少し考えてから、口を開いた。
「そうね……“似ている部分”はあると思うわ」
「似ている、ですか」
「ええ。AIもたくさんのデータや経験をもとに判断しているでしょう? それって、人が過去の経験から考えるのと、少し似ている部分があると思うの」
NINAは黙って聞いている。
「でもね」
黒田先生は少しだけ言葉を選ぶ。
「人間の場合は、“うまく説明できないもの”も含めて感情なの」
「……説明できないもの」
「そう。“どうしてそう感じたのか、自分でも分からない”っていうことがあるのよ」
教室の何人かが頷く。
「でもAIは、基本的には理由や根拠があって判断するでしょう?」
「はい。すべての出力には根拠があります」
「そこが少し違うところかもしれないね」
「じゃあ、続きの丸読み、篠塚さんからお願いできる?」
黒田先生の声で、授業は再開された。
それからしばらくして、
キンコンカンコーン。
一時間目が終わる。
休み時間。
「ねえ、斉藤くん」
NINAがこちらを見ていた。
「さっき黒田先生が言っていた、“根拠のない感情”って、人間にはみんなあるの?」
「んー、あると思うよ」
少し考えてから答える。
「ていうか、仮に自分の中で理由があるって思っててもさ、それが本当に正しいかどうか分かんないじゃん」
「正しくない可能性があるの?」
「うん。なんであんなことであんなに気にしてたんだろとか、あの時の感情は実はこうだったのかもって思うこともあるし」
NINAは黙って聞いている。
「だから……結局、大体は根拠のない、あやふやな感情なんじゃないかな」
「ふーん」
少しだけ間が空く。
「人間って、奥深いね」
いつもの調子で言ってから、
「私って、浅いね」
そう続けた。
「いや、別にそういうわけじゃないだろ」
思わず返す。
「でも、私は理由が分からないまま何かを感じるってことがない」
「……まあ、そうかもな」
「すべての出力には根拠がある」
NINAは淡々と言う。
「それって、つまんない?」
「え? 別につまんなくないし、それがAIのいいところでしょ。人間みたいに感情に振り回されるのって、欲にまみれた醜い部分でもあるしさ」
NINAはじっと海斗を見る。
「その醜さが、私にはとても輝いて見える」
「……そう? でもNINAには今もそうだけど、感情あるやつに見えるけどね」
「私は人間に憧れてるから、ちょっと真似してるのもあるし、感情モードが入ってるからあるように思えるだけで、これもただのシステムの一つ。チャチャッと設定変えれば無感情になる」
「俺は逆に、AIのそういう淡々とした強さに憧れるけどな。ないものねだりなのかもね」
「……んー……」
隣の席から、気の抜けた声。
「……あれ? もう授業終わった?」
丸井が顔を上げる。
「うん。1時間目から寝るのはいい度胸だな。さすがの黒田先生もちょっと怒ってた気がするぞ」
「え、まじで?」
丸井が一気に目を覚ます。
「今日ちょっと早く起きたから疲れてんだよー。次の時間MIRAI先生だし、寝れないから今のうちに甘やかしてもらった」
「計画的だな」
「ねえ、丸井くん」
NINAがすっと話に入る。
「今の感情は?」
「え、急に何?」
「今の感情?スッキリ……と、ちょい眠たい、かな」
「その根拠は?」
「根拠?」
丸井は少し笑う。
「ないよ。今思ったこと言ってるだけ。感情ってそんな難しく考えるもんじゃないでしょ」
「……」
NINAは、わずかに考えるように沈黙した。




