進軍
魔王軍は、動いた。
二万五千。
黒き軍勢が、大地を埋め尽くす。
雪原を踏み潰しながら進むその様は、まるで巨大な津波だった。
空を覆う魔力。
進軍に伴う振動。
進路上の森では魔物すら逃げ出し、鳥は消え、獣の声も消え失せる。
先頭を歩くのは、第1将バルグ=ゼディア率いる重装軍。
巨大な盾と長槍を携えた魔族たちが、一糸乱れぬ隊列で進む。
中央。
そこには魔王。
漆黒の外套を揺らしながら、静かに前を見据えている。
左右には各将の軍勢。
後方には補給と魔導部隊。
まさしく“軍”。
統率された破壊そのものだった。
そして――
グランデールへ向かうには、避けられぬ場所がある。
北方公爵領。
ノルディア家の支配する地域。
その報は即座に公爵家へ届いた。
ノルディア城。
軍議の間。
ヴァルド・フォン・ノルディアは地図を見下ろしていた。
「……来るか」
低く呟く。
側近が頷く。
「魔王軍主力。確認されただけでも二万を超えます」
重い空気。
周辺貴族たちも沈黙している。
「迎撃は」
誰かが問う。
だが、答えは決まっていた。
「不可能だ」
ヴァルドは即答する。
「今の我らでは、正面から止められん」
悔しさを押し殺した声。
数年前。
アレインとの戦で削られた戦力。
北方防衛戦での消耗。
もはや、公爵家に全軍を受け止める余力はない。
「進路上の住民を退避させろ」
命令が飛ぶ。
「急げ。一刻でも早く」
兵たちが動き出す。
鐘が鳴り響き、街道沿いの村々へ使者が走る。
「避難しろ!」
「魔王軍が来る!!」
悲鳴のような叫び。
荷をまとめ、雪の中を逃げる民。
老人を背負う者。
子を抱える母親。
だが――
すべてには、間に合わない。
小さな村。
北方領境付近。
雪の中を、数十人の村人が必死に逃げていた。
その背後。
地鳴り。
黒い影。
「ま、魔族だ!!」
民兵たちが粗末な槍を構える。
十数人。
農具上がりの兵。
だが、それでも立ちはだかる。
「ここを通すな!!」
叫び。
次の瞬間。
黒い槍が飛ぶ。
一人。
また一人。
肉体が容易く貫かれる。
悲鳴。
血飛沫。
魔王軍は止まらない。
重装兵がそのまま踏み潰し、魔導兵が火球を放つ。
木造の家屋が燃え上がる。
「に、逃げ――」
最後まで言い切る前に、首が飛ぶ。
抵抗。
それは、あまりにも無力だった。
別の村でも。
また別の集落でも。
同じことが繰り返される。
退避が間に合わなかった者たちは、ことごとく蹂躙された。
魔王軍は感情なく進む。
それは虐殺ですらない。
ただ、進軍路に障害物があった。
それだけだった。
一方。
ノルディア城。
報告が届くたび、空気が重くなる。
「……第三村落、壊滅」
「南部街道沿いの集落も、連絡途絶」
沈黙。
拳を握り締める貴族。
歯を食いしばる騎士。
「……出撃しますか」
若い貴族が震える声で問う。
ヴァルドは目を閉じる。
そして――
「ならん」
苦渋の決断。
「今、動けば」
地図を叩く。
「背後監視の部隊だけでなく、本隊がこちらへ向く」
それは終わりを意味する。
「……耐えろ」
絞り出すような声。
「グランデールとぶつかるまで、見守るしかない」
怒り。
屈辱。
それでも。
生き残るためには、耐えるしかない。
周辺貴族たちも理解していた。
ここで感情的に動けば、北方は滅ぶ。
「……必ず」
誰かが呟く。
「報いは受けさせる」
だが、その声は小さい。
魔王軍は止まらない。
背後を討たれぬよう、一部兵力を残しつつも。
主力は、そのまま南下。
そして――
ついに。
遠く、黒い城壁が見え始める。
グランデール。
死霊王の支配する地。
魔王軍は、ほぼ無傷のままそこへ辿り着こうとしていた。




