開戦前夜
北方。
ノルディア公爵領。
空は重く、雪は止まない。
だが城内は、静かだった。
嵐の前の静けさ。
その中心で、ヴァルド・フォン・ノルディアは立っていた。
城壁の上。
遠くを見据える。
まだ、敵影はない。
だが。
来る。
確実に。
「……早いな」
背後から声。
振り返らずに答える。
「眠れぬだけだ」
副官が苦笑する。
「皆、同じです」
当然だ。
相手は魔王軍。
しかも将級が率いる軍勢。
数年前の敗北。
あの記憶は、消えていない。
「兵の配置は完了しております」
「第一線、第二線ともに展開済み」
「予備兵力も城内に待機」
報告は的確。
準備は整っている。
「……補給は」
「三週間は持ちます」
「それ以上は厳しいかと」
十分ではない。
だが、短期決戦になる。
問題はそこではない。
「敵の構成は」
「斥候によれば、魔族主体」
「下級から中級が中心ですが……」
一瞬、言葉を選ぶ。
「将級が一体、確認されています」
ヴァルドが目を細める。
「名は」
「……ゼルク=ハイド」
その名に、空気が変わる。
軽い。
だが危険。
そういう男だ。
「……厄介だな」
正直な評価。
力だけではない。
読みづらい。
それが最も厄介だった。
「だが」
一歩前へ出る。
「やることは変わらん」
城壁に手を置く。
「ここで止める」
それだけだ。
副官が頷く。
「はっ」
その時。
足音が近づく。
「父上」
若い声。
ヴァルドが振り返る。
そこに立っていたのは、一人の青年。
ノルディア公爵家長男。
まだ若い。
だが、その目には意志が宿っている。
「……来たか」
短く言う。
「話は聞きました」
まっすぐに言う。
「避難しろ、と」
沈黙。
風の音だけが響く。
「……そうだ」
ヴァルドは否定しない。
「お前はここを離れろ」
「領外へ出る」
青年は一歩踏み出す。
「なぜです」
分かっている。
だが、問う。
「ここは我が家です」
「戦うべき場所です」
正論。
若さゆえの真っ直ぐさ。
だが。
ヴァルドは首を振る。
「違う」
低く。
「お前の役目は、残ることではない」
視線を合わせる。
「繋ぐことだ」
一瞬。
言葉が止まる。
「……ここが落ちると?」
青年の声が揺れる。
ヴァルドは答える。
「可能性はある」
隠さない。
誤魔化さない。
「だからこそだ」
一歩近づく。
「血を絶やすな」
重い言葉。
「ノルディアは、ここで終わらせん」
沈黙。
青年は拳を握る。
震えている。
恐怖ではない。
悔しさだ。
「……逃げるのではないのですね」
絞り出すように言う。
「違う」
即答。
「残すためだ」
静かに。
だが、強く。
その言葉に。
青年は、ゆっくりと頭を下げる。
「……承知しました」
決断。
受け入れた。
ヴァルドは頷く。
「夜のうちに出ろ」
「護衛は最小限でいい」
「目立つな」
「はい」
短く応じる。
そして。
一度だけ、父を見る。
言葉はない。
だが。
すべてが込められている。
そのまま、踵を返す。
足音が遠ざかる。
静寂。
副官が小さく言う。
「……よろしかったのですか」
ヴァルドは空を見上げる。
「これでいい」
それだけだ。
雪が強くなる。
視界が白に染まる。
その向こうに。
確かに“敵”がいる。
「……来るぞ」
誰に言うでもなく。
呟く。
北方の盾。
その最後の戦いが。
今、始まろうとしていた。




