聖域の内側
王都ルミナス。
大聖堂の地下。
普段は閉ざされているその空間が、今は開かれていた。
石造りの通路。
湿った空気。
灯された燭台の炎が、壁に歪な影を揺らしている。
地下深くに設けられたその一室は、“祈りの場”ではなかった。
円形の広間。
床一面に刻まれた術式。
幾重にも重ねられた紋様は、見る者に本能的な不安を与える。
神聖魔術のそれとは、明らかに異質だった。
その中心に、エリシアは立っていた。
白い衣。
だが、その表情は固い。
周囲には神官たち。
そして、枢機卿。
「準備は整っております」
静かな声。
すべては計画通り。
エリシアは、足元の術式を見下ろす。
刻まれた文字。
流れる魔力。
それは確かに、“神聖”の系統に属している。
だが。
どこか、違う。
「対象は」
エリシアが問う。
枢機卿は視線を向けた。
広間の端。
そこに、一体のアンデッドが拘束されていた。
鎖に繋がれ、地に伏せられている。
かつては人だったもの。
今はただ、低く唸る存在。
「南方戦線で捕縛した個体です」
淡々とした説明。
「下位のものですが、術式の確認には十分でしょう」
エリシアは目を閉じる。
一瞬だけ。
そして開く。
「……始めます」
それ以上の言葉はなかった。
枢機卿が軽く手を上げる。
神官たちが配置につく。
詠唱の準備。
空気が張り詰める。
エリシアは中央に立つ。
深く息を吸う。
そして。
祈る。
それは、いつもの祈りとは違っていた。
より深く。
より強く。
神へと届くように。
光が、集まる。
白い輝きが、エリシアの周囲に満ちていく。
術式が反応する。
刻まれた紋様が、一つずつ光を帯びる。
神官たちの詠唱が重なる。
低く、重く。
響く声。
それらすべてが、中心へと収束していく。
「――顕現せよ」
枢機卿の声。
合図。
その瞬間。
光が爆ぜた。
白い閃光が広間を満たす。
そして。
それは一直線に、アンデッドへと降り注いだ。
叫び。
声にならない声。
焼かれる音。
肉が崩れ、骨が軋む。
だが。
それはただの浄化ではなかった。
光が、内側へと“入り込む”。
侵食するように。
書き換えるように。
エリシアの眉が、わずかに寄る。
違う。
これは――
だが、止めない。
止められない。
術式はすでに起動している。
やがて。
光が収まる。
静寂。
誰もが、息を呑む。
中央。
そこにあったもの。
アンデッドは――
動きを止めていた。
崩れてはいない。
焼けてもいない。
ただ。
静かに、跪いている。
まるで。
“命令を待つ兵”のように。
神官の一人が、息を呑む。
「……成功、ですか」
枢機卿は、ゆっくりと近づく。
その目は、明らかに輝いていた。
「……なるほど」
興味深そうに観察する。
「完全な消滅ではない」
「だが」
一歩、踏み出す。
「制御下に置かれている」
結論。
その声には、抑えきれない高揚があった。
神官たちの間にざわめきが広がる。
成功。
それも予想以上の形で。
「これは……」
「使えるぞ」
誰かが呟く。
それは希望だった。
恐怖に対する、明確な対抗手段。
だが。
エリシアだけは、動かなかった。
その場に立ったまま。
ただ、その存在を見ている。
跪くアンデッド。
動かない。
だが。
完全に“消えた”わけではない。
そこにある。
意志はない。
だが。
何かが、残っている。
「……違う」
小さく、呟く。
誰にも聞こえないほどの声。
これは、救いではない。
浄化でもない。
支配。
あるいは。
上書き。
それに近い。
「素晴らしい成果です」
枢機卿の声が響く。
「これで、死霊王に対抗する道が開けた」
確信。
疑いはない。
すでに次を見ている。
「さらに精度を上げれば――」
その言葉の先は、言わなくても分かる。
ガルド。
そして。
アレイン。
エリシアは、ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥に、重いものが沈む。
だが。
それでも。
口には出さない。
まだ。
まだ、その段階ではない。
「……次の段階へ進みましょう」
枢機卿が告げる。
迷いはない。
止まる気もない。
神の名のもとに。
その正しさを疑う者は、ここにはいなかった。
一人を除いて。
エリシアは、静かに目を開いた。
その視線は、まっすぐに術式を見ている。
そして。
わずかに。
本当にわずかにだけ。
表情を曇らせた。




