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落照の空

 山は紅く染まり、木々の囁きはまもなく冬が到来することを知らせるかのように哀愁を帯びている。

 山中で一仕事を終えた龍吾の元に、雛月を連れた輝夜が一息入れようと持ちかけ、屈託のない笑みを浮かべて龍吾は輝夜たちと休憩に入った。

 談笑に花が咲いている円満な空気の中、輝夜一人だけがこれが夢であることを知っている。

 だが、少し前まで長らく夢すら見たことのなかった輝夜にとって、このような吉夢は久しく、そして愛おしかった。

 私は幸せになれたんだ。もう過去に(さいな)まれる必要はない。胸を張って「私は幸せになれたんだ」と、過去と決別するように言うべきなのだ。輝夜は夢で笑う自分に言い聞かせる。

 言うべき、とは誰に?

 苛まれていた過去とは?

 幸せになれた、とは?

 その疑問がふと浮かんだとき、輝夜の目の前には、いつの間にか輝夜の母『月魄(げっぱく)』が立っていた。

 持っていた茶器を落として驚きふためく輝夜を見下ろしながら、月魄は呪詛を呟いている。


「過去から目を背ける愚行に留まらず、親を親とも思わぬ暴言を吐いておいて、開き直るつもりか。この親不孝者め」


 龍吾と雛月が泥のように崩れ落ちていく。紅葉に染まった山々が枯れ、血のように真っ赤な空に、黒い太陽が浮かぶ世界で、輝夜の周りにはどこの誰とも知らぬ人たちに囲まれ、口々に輝夜を罵倒していく。


「お前を産んだ私が馬鹿だった。こんなろくでなしに育つようなら、さっさと降ろせば良かったのだ。手塩にかけてお前を育てた親に、お前はなんと言った? そのお前が過去から目を背けてのうのうと生きていくなどと。なんと、恥知らずなことか」


 顔も知らない野次馬たちがこぞって心ない誹謗中傷を浴びせる。

 しかしこれは全て輝夜が過去に起こした因果の果て。否定したくても、事実であることからは逃げられない。

 夢にしてはおかしな点が幾つもあるのに、追い詰められている輝夜にはまともな対処が出来るはずもない。目を強くつぶり、耳を両手で塞ぐ輝夜は、いつの間にか幼い少女の姿に変わって見下す母を泣きながら見上げている。


「ごめんなさい……ごめんなさい……! ごめんなさい! ごめんなさい!」


 幼い輝夜は泣きつきながら許しを請う。しかし月魄は細い両手を輝夜の首に回し、力の限りに締めつけた。


「泣いて許してもらえると思うな、人殺しめ。この恨み、お前の命でさえ足りんわ」


 呼吸のままならない輝夜は、切れ切れな息であらん限りに叫んだ。


「ごめんなさいお母さん! お母さんごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」


 ※


「━━り━━だ! ……ろ輝夜! 目を覚ませ!」


 龍吾の声が届き、闇から一気に覚醒した輝夜の目の前には焦燥に駆られた龍吾と雛月が心配そうに輝夜を見ていた。


「……龍吾。……わ……私は……」


「言わなくていい。悪い夢を見てたんだ。飯は作っといたから、落ち着いたら食いなよ」


 輝夜が時計に目を移すと、本来なら龍吾はとっくに登校しているはずの時間だった。


「龍吾……貴方、遅刻しちゃうわよ」


 今し方悪夢にうなされていたというのに、律儀にも輝夜は龍吾の遅刻を親のように気にかける。思わず龍吾は鼻で笑うと「心配すんな」と言い切った。


「電車が止まりました、ってウソ言えばいいさ。それより、少しは落ち着いたか?」


 息を整えながら輝夜は静かにうなずくと、龍吾は雛月に「あとは頼んだ」と言って登校した。

 しばらくの間、輝夜は起き上がったままの姿勢でいると、頃合いを見た雛月が恐る恐る「無礼を承知でお尋ねしますが」と口火を切った。


「一体どのような夢を見たのですか? あのうなされ方は、龍吾様ですら取り乱してしまうほどでしたよ」


「……私……そんなにうなされてたの?」


「はい。記憶にないかもしれませんが、度々「おかあさん」とか「ごめんなさい」と寝言を言っていました」


 観念したように息を吐くと、輝夜は窓の外へ振り返りながら静かに話し出した。


「私の母に怒られる夢よ」


「怒られる? それにしたってあのうなされ方は怒られるの度を超えているように見えましたが……」


「そのくらい私には心残りなのよ。……従者の貴女が知らないとは言わせないわよ。私と母は未だ絶縁状態なのを。……この関係も、私が一方的に押し付けたものだけれど……」


「夢に出るほど強く思っているということは、輝夜様は本当は、お母様と仲直りをしたいのでしょう?」


「……けれど今更許してと言って、母が許してくれると思う? 私は自分の考えを立証するために親に()()()背き、親を親とも思わないことを言って、挙げ句の果てにはあの大事件を引き起こした。脱獄したあのときだって、親に何も言わずに地球(こっち)へ来たのよ。

 月神の名を汚したこんな親不孝者が、どの面下げて許してなんて言えるのよ」


 輝夜は必死に感情を押し留めながら、自分の中にある思いを少しづつ打ち明ける。

 それに対して雛月は、いたって冷静に、しかし龍吾がその場にいたら別の意味で問い質しかねないことをサラリと言った。


「……そんな関係でも仲を直せるのが、家族なのだと思います。私は今日まで人として見られたことはないので、断言は出来ませんが」


「でも、何をどう言えばいいのか分からないわ。そもそも、月界にいるお母様に連絡する(すべ)がないのに、謝るも何もないわよね」


「いいえ、そんなこともあろうかと秘匿の魔術回線を用意しています。何重にも秘匿を重ねた回線で、見破るのは普通の能力者では不可能です。今すぐにお話なされますか?」


 しかし輝夜は、いざ母との対話を前にすると途端に畏ってしまう始末で「少し時間を頂戴」と言って、とうとう通話をしなかった。

 雛月はそれ以上言及せず、龍吾が残していった朝食をテーブルに並べると、無言で二人は朝食をとった。


 ※


 朝から波乱の幕開けとなった龍吾は、輝夜への心残りもほどほどにいつも通りに電車に揺られていた。

 電車さえ止まらなければ、現時刻からでもギリギリ間に合うと逆算した龍吾は、少しだけ胸を撫で下ろす。あれほどの悪夢にうなされていた理由は、帰ってから聞けばいいと踏んでいた龍吾だったが、駅に一つまた一つと着くたびに妙な違和感を感じ始めていた。

 周りの人たちが龍吾に気づくと、スマートフォンと龍吾の方を交互に見比べてくるのだ。

 秋子の組織に属する者かと思ったが、それにしてはあからさま過ぎる。

 一人、また一人とスマートフォンと龍吾を交互に見る人が増えてきて、渋谷に着く頃には車内にいたほぼ全ての人が龍吾をしきりに見ていた。


(……なんだってんだ? 俺の顔に何か着いているのか?)


 電車のドアが開き、山手線へと繋がるいつものルートへ足を伸ばしたそのとき、突如背後から「すみません」と声がかけられた。

 振り返るとそこにはどこにでもいそうな三十代後半のサラリーマンが一人。彼もまた呼び止めた龍吾とスマートフォンを、しきりに見比べている。


「あなた、雪下 龍吾さんですか?」


 名も知らぬ、顔も知らぬ人からいきなり名を聞かれた龍吾も一々答えなければいいのに、彼は「そうですが」と素直に答えてしまった。

 すると男は血相を変えてスマートフォンを操作し、どこかへ電話をし始めた。

 訳の分からなかった龍吾だが、直後に男の口から「警察ですか?」という言葉が出ると、龍吾も驚きのあまり血相を変える。


「はい……そうです。ネットとかニュースで書いてあった雪下 龍吾さんがですね、今、目の前にいるのですが━━」


「ちょっと待って下さい。何ですか急に」


 詰め寄る龍吾に男は答えない。

 そうこうしていると龍吾に気づいた人たちが、彼と男を逃さないように周りを囲っていた。

 周りの野次馬たちは口々に「あれじゃね?」「本物だ」「警察は?」と言っている。当の龍吾は未だに現状が掴めていない。しかし事情を知る人たちは、こぞってスマートフォンを龍吾に向ける。プライバシーも何もない状況下、野次馬の行為を咎める者は誰一人としていない。

 更に厄介なことに、一人が野次馬の群れに足を止めて野次馬に寄ると、それに釣られた人が更に群がり、更にそれに釣られた人がの繰り返しとなって、龍吾の周りは今や人によって形成された半ドームの中に閉じ込められてしまった。

 やがて男が電話を終えると、先ほどの丁寧な口調から一変して「逃げようなんて思うなよ」と吐き捨てた。


「逃げるも何も、一体全体どういう意味ですか。俺、これから学校なんですけど」


 すると男は、鼻で笑いながら聞き捨てのならないことを言った。


「ならその学校も一緒に報告してやるぞ、犯罪者め」


 思考が停止する。言っている意味がまるで分からない。やがて騒ぎを聞きつけた駅員と、警備員数名が野次馬をかき分けながらやって来た。

 男は即座に龍吾を指差しながら「彼です。間違いありません」と言っている。


「えぇと、雪下 龍吾くん? ですよね? ちょっとここだと人が多いので、とりあえず警察が来るまで事務所の方に━━」


「だから一体何なんですか。俺が一体何をしたっていうんですか」


 龍吾の必死の訴えが野次馬の一人には面白おかしく見えたのか、どこからともなく龍吾を茶化すように━━答えが割って入って来た。


「うるせえぞ、()()()()()!」


 テロリスト。それを聞いた途端、龍吾の脳裏に即座に浮かんだのは、秋子だった。

 そしてこの現状が一体どういうことなのかが、渋谷に来るまでの車内の様子と、男の一連のやり取りで光の如く導かれる。

 龍吾は即座に自分のスマートフォンを取り出し、すぐに開けるネットニュースを開くと、案の定の答えがトップにあった。


 『過激派アジトに強制捜査の手 計画されていた破壊工作の実行者には 学生すら関与』


 これ見よがしにトップに躍り出ている見出しの中身には、破壊工作に関与している人物の中に、龍吾がいたという内容だった。

 どこで撮ったのかさえ分からない鮮明な顔写真が他のメンバーと並べられ、名前の下にはご丁寧にも【現在逃走中】と書かれている。


(あのクソ(アマ)……ッ!)


 見くびっていた。

 まさか秋子の属する組織は、マスコミ界隈でさえも手中に収めているとは。しかも物理的な排除ばかりではなく、大々的な情報操作による社会的抹殺方法を仕掛けてくると、誰が予想できるだろうか。

 すると男は突然、無言で龍吾のスマートフォンを取り上げようとした。仲間に連絡をしようとしたと誤解し、それを阻止しようとしたのだ。

 対し龍吾は、唯一の連絡の術と、自分のスマートフォンを取られたくないという意思から、無意識に掴んだ手に力が入ると、男と取っ組み合いの状態となった。

 アルバイトで鍛えられた龍吾の膂力の前では、大の大人である男をいともたやすく力で圧倒し、野次馬目掛けて男を押し出した。

 倒れた男を野次馬は間一髪で避けると、そのわずかな隙間を見逃さず龍吾は猛スピードで駆け抜けた。野次馬の声を背にしながら龍吾は一目散に外へ繋がる階段を駆け上る。

 すると途中で通報を聞いた四人の警察と鉢合わせとなった。

 多数に無勢。いくら鍛えられた龍吾でも警察の前では無力。かといってここで立ち止まるわけにもいかない。

 ほんのわずかな、刹那の如き短い時間の中で龍吾が導き出した答えは、そのまま突っ切ることだった。

 左右に展開した警察の両手が開かれる。

 今にも龍吾の身を包もうとするその直前に、龍吾の身体に潜んでいたスミレの拳が、警察の無防備なアゴを疾風のごとき速さで正確に殴り弾いた。

 オダマキほどの力は無いものの、その一撃の前に屈強な警察の意識は一瞬で昇天し、崩れ落ちる同僚を前に残った警察二名も動揺して一瞬の隙を晒してしまう。

 そこをスミレが逃すはずもなく、龍吾が通り過ぎる直前に先の二名がそうだったように、素早く、正確に、両名のアゴを弾く。

 最後の一人が闇の底に意識を落とす前に見たのは、龍吾の背後で親指で首を掻っ切るジェスチャーをする、薄っすらと姿を現したスミレの姿だった。

 かくして地上へと出た龍吾は、本能的に人通りの少ない裏通りへ逃げるように入り込んだ。

 一息ついたのも束の間、次に待っていたのはこれからどうするか、ということだった。

 家に帰るにも電車やバスの類いは使えないし、徒歩で帰る間にも、多くの人達とすれ違う。道中で先ほどのような事態が起こらないと断言は出来ないし、次は警察も数を増やしてくるだろう。

 更に言えば、今や日本全体が敵と言っても過言ではない現状、唯一の味方であるスミレでも限界がある。

 それに家に帰っても問題はある。輝夜と雛月のことだ。

 恐らくと言わず、二人は龍吾に起きている事態を知らない。それを伝えずとも、本来なら登校しているはずの時間に帰ってくれば、何があったのかと問い質されるのは間違いない。

 二人に更なる心配をかけさせたくないが故に龍吾の脳裏にはあろうことか、とりあえず学校に行ってから考えるというあまりにバカげた考えさえよぎった。

 無論、そんな考えは即座に振り払った。ここで馬鹿正直に学校まで行けば、捕まる所が学校に変わっただけの話に過ぎない。こんな非常事態でも作用する日本人の勤勉勤労ぶりは、もはや異常ともいえる宿痾だ。

 雑然とする脳内を、龍吾は一度リセットする。

 秋子の率いる組織が龍吾を捕らえることに手段を問わなくなった今、冷静に考えれば輝夜たちの身も危うい。しかし帰るまでの道中、今のままではネットの海に名前と画像が大々的に載せられているために、間違いなく不特定多数の人に見られることは必至。

 どうすればいいかと考えた矢先、龍吾は朝早くから開店しているドラッグストアに目をつけた。

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