射将先馬
三日が経った。秋子から渡された黒いカードを龍吾は結局一回も使うことなく過ごした。
欲しいと思ったものがなかった訳ではない。しかし欲しいという衝動が湧き上がる度に、彼の脳裏には輝夜と雛月、スミレが浮かんだ。
彼女たちと今欲しいものを天秤にかけること自体バカらしいというのに、一時の衝動に身を任せて秋子の思惑通りに動くのは更にバカらしい。そう考える度に龍吾の中で湧き上がった衝動はたちどころに冷めていった。夕食を輝夜たちと囲んでいるときには大概欲しかったものは存在感を無くし、風呂に浸かっているときになってまれに「そういえば」と思い出す。その頃にはすっかり欲しいという熱も欲もなくなっていて、秋子という強大な存在を出し抜いたんだと一人得意げにほくそ笑んだ。
そうしていつものように帰路についていると、バッグにしまったスマートフォンが震えた。
取り出して見ると、画面には差出人不明のメッセージを受診したとの通知が一件。内容は『桜新町で降りろ』とただ一言。
龍吾はメッセージ通り桜新町で降りると、すかさず新しいメッセージが届く。そこには当時桜新町で営業していた、中古本販売の大手チェーン店の名があった。
隣町とはいえ、持ち場を一点に限らせないという点や、誰もが知り、誰もが利用する企業を隠蓑にしているというのは、秋子の属する組織の規模が相当なものであると如実に分らせてくる。
スマートフォンに届くメッセージを頼りに、龍吾は関係者以外立ち入り禁止の扉を通って奥へ進む。
指定されたフロアのドアを開くと、そこには数人の部下と傍に部下の『銀杏』を控えさせている秋子が、イスに行儀良く座って待っていた。
「……カード、使わなかったのですね」
挨拶もなく単刀直入にものを言い出した秋子に、龍吾は動じることなく乾いた返事を返す。
「欲しいものが見つからなかったのですか? それとも期間が短すぎましたか? 申し訳ありませんが、期間については我々の出せる限界が三日だけなのです。それほどまでに事態は急を要している。そこはご理解の程をお願いします」
淡々と話す秋子には、感情らしい感情が感じられない。一言一句がその瞳に宿す冷たさのように、人らしい温もりが一切無いのが龍吾とスミレに悪寒を抱かせる。
「それで、貴方の答えは?」
秋子の問いに、龍吾はしまっていたカードを取り出すと無造作に投げ捨てた。
分かっていた、という気持ちと呆れの気持ちを含ませたように秋子は鼻で笑う。
「我々の提案に、貴方は拒否を示すということでよろしいですか?」
「ああ。元よりこんな怪しいものをホイそれと渡されて、喜んで使うやつがいるかって話だ」
「貴方が捨てたソレは、貴方の将来を約束するものなのですよ? お金に困らず、入りたい会社にも入れて、行きたい所にも行けて、好きなものは独占できる。体の調子が悪ければ最優先で貴方を治療して看護し、起業すれば八千代の繁盛を約束し、あらゆる企業が貴方の声を第一とする。叶えたい望みが何でも叶い、国内外問わず貴方は数少ない勝ち組の人間になれる証なのです。
煩わしい相手だって、貴方が問い合わせれば我々がいかなる者だって始末してあげましょう。全てが思うがままになる機会を、貴方はみすみす手放すというのですか?」
並べられたメリットは、どれもこれも龍吾には毛ほどの魅力さえ湧かなかった。衝動的に欲しいと思った店先の物にすら劣るメリットとは、メリットの意味があるのかと思うほどに。
「百歩譲って、俺がアンタらのいう異世界人と会った当初なら、もしかしたら呑んでいたかもしれないな。でも、もう遅いんだ。手遅れなんだよ。
俺はな、ようやく本物の家族を手に入れたんだ。二度も家族を失うハメになってたまるかってんだ」
「家族? その家族を出さなければ、貴方も追われる身となるのですよ。今ある生活も、これからの生活も、その家族のために全てを投げ捨てて、一生を棒に振り回すこととなるのです。そんな徒労なんて、ない方が貴方のためではありませんか。
そもそも、血は元より、住む星さえも異なる異世界人を家族と言うのはいかがなものかと。貴方には本当のご両親がいるでしょう。私たちの手にかかれば、もう一度お会いさせることだって出来るのですが?」
その瞬間、龍吾の中にあった対話の意思がプツリと切れた。
話が通じないというよりも、互いの価値観に致命的なまでの隔たりがあると察したのだ。
加えて秋子は、龍吾にとって最大の地雷を踏み抜いてしまった。金が生み出したトラブルからの一家離散。再会後に判明した、実の両親による我が子を利用した裏切り。龍吾のことを知り尽くしているはずの秋子が、その実態を知らない訳がない。しかし彼女は超えてはならない一線を超え、なおも龍吾に一方的な進言をしている。
龍吾は話の途中で首を振ると、そのまま部屋を後にしようとした。
「いいのですか。この部屋を出た瞬間に、貴方はこの国を脅かす、討つべき脅威と見做しますよ」
秋子の最後の警告に対する龍吾の返答は、黙って部屋を後にすることだった。
足音が遠のく中、秋子はイスに腰掛けたまま誰にというわけでもなく一人呟いた。
「フェーズ3、維持。オフラインプランを発動せよ」
※
龍吾が店の外に出て一番恐れたのは、秋子に仕える組員からの闇討ちだった。
銃撃か、武器による刺突か、あるいは薬物を用いた毒殺か。いずれにせよ、秋子のいた部屋を出てから何かをされると覚悟していた。
ところが、道ゆく人から時折刺すような視線を向けられる以外の目立ったことは起こらないまま、龍吾は呆気なく自宅前へとたどり着いた。
(アイツ、ハッタリをかましたか? いや、アイツらがそんなんで済ますわけがない)
今に何かが起きると踏んで恐る恐るドアを開けると、そこにはいつも通りに輝夜と雛月がいた。
満面の笑みで迎える二人の様子から見ても、不在中に何かが起きたとは思えない。
「龍吾、今日は大丈夫だった? 例の連中には会わなかった?」
親のように心配する輝夜に応えつつ、龍吾は電気をつけようとした。
すでに季節は立秋を迎えて、夏の季節ならまだ明るかった外も、今は電気がなければ暗く感じるほどだ。
ところが、電気の紐をいくら引いても電気はうんともすんとも言わない。停電かと思いブレーカーを見るが、ブレーカーは点いたままとなっている。レバーを上げようが下げようが反応は全くない。
悪寒が龍吾の首を冷やし、まさかと思うったように龍吾はガスコンロを点けようとした。
しかしコンロは点かなかった。更に龍吾は水道の蛇口を捻ってみるも、水は一滴も出て来ない。
「マジかよ……」
龍吾の中で最悪の予想が鮮明な色味を帯びる。
すると背後から輝夜が「念のために聞きたいのだけれど」と声をかけた。
「龍吾、貴方は光熱費とかは払っていたのよね?」
「もちろんだ。先月の分だってしっかり払ってある。もし払ってなかったら、もっと前に催促の手紙が来ているはずだ。……というか、いつぐらいから電気やガスが点かなくなった?」
「がす……って何?」
「要は火をつける燃料だよ。さっきコンロを点けようとしたろ? あのときにガスを使うんだが、今はうんともすんとも言わないんだ」
「焜炉とやらは私たちは触れていないから分からないけれど、電気については貴方が帰ってくる二十分前辺りから点かなくなったわ」
それだけで龍吾は察した。原因は紛うことなく秋子たちであると。
もちろんのことだが、その日のうちに電気やガスに水道が同時に止まることなどあり得ないことだ。
だが彼女らは、交渉が決裂することすら見越して、事前に全てのライフラインをいつでも断てるように工作をしていたのだと思うと、彼女らの手際の良さと周到さに龍吾は思わず敵ながら感心してしまっていた。
ともあれ、生活に絶対必要不可欠な要素を全て封じられる。それはこの現代の地球で生きていく上において、非即効性の死刑を言い渡されたも同然のことである。
直接殺しにかかるのではなく、間接的に、しかし確実に対象を葬るための周りくどさと陰湿さ。徐々に対象を追い詰めていくやり方は、いかにも日本人らしいやり方だなと思わず龍吾は皮肉った。
もはや諦めの境地で冷蔵庫を開けると、何故か冷蔵庫だけは普通に動いていた。
今し方ブレーカーを切って点けてと動かしたので、動いていたとしても今は起動中の状態にあるはずだが、冷蔵庫は普通に機能している。
「さすがに冷凍したものや生物を腐らせるわけにはいかないからね。そこは雛月の出番というわけよ」
雛月の方へ龍吾が目を向けると、得意げに目を光らせたしたり顔の雛月がいた。
「電気がないなら生み出せばいいのです。とっても簡単な理屈でしょう?」
「だけど、生み出すにも魔力が必要なんだろう? 雛月だけ苦労をかけっぱなしになっちまうじゃないか」
「とんでもありません。こんなの、呼吸をするのと同じくらい容易なことですよ。むしろどんどん頼って欲しいです」
「……それなら、コンロの上でもいいから火をつけられるか?」
龍吾がコンロの前に立つと、雛月は軽く指を弾いた。
するとガスがないにもかかわらず、コンロから調理に最適な火が灯り、キッチン周りは最新のLED照明を点けたように明るくなった。
「水回りが不安ですか? 何にも問題ありません。シラユリの力で事足ります。龍吾様に関わった組織の人たちは、私たちを少々みくびり過ぎましたね」
それは味方であるはずの龍吾でもひしひしと実感していた。
確かに秋子たちが行ったライフラインの遮断は、普通の人ならば致命的すぎる痛手であり、秋子との交渉を飲まざるを得ない方向へと必然的に動かされるところだった。
ところが、雛月一人の手で何の苦もなくライフラインを全て賄えるとなれば、怖いものは直接的な襲撃以外無くなったようなものだ。
「一応、私たちが地球で当面生活することを見越して、携帯食料の備蓄があるにはありますが……。月界のものなのでお口に合うか微妙……いえ、多分合わないと思いますが……」
「雛月、もしかして養天を持って来ているの? だったら私は絶対に食べないわよ。龍吾も食べない方がいいわ。後悔するわよ」
「ようてん? 何だその和菓子みたいな名前のものは」
龍吾が尋ねると、雛月は虚空から緑色のゼリー状のものが入った、輸血パックのようなものを実体化させて龍吾に見せた。
エメラルドグリーンのゼリーが中で揺蕩っている。話の流れからして、出されたコレが養天という名の食料なのだろう。輝夜の言う通り、その特異な見た目も相まって美味そうなものとはお世辞にも言い難い。
「経口口から吸って食べます。栄養は満点ですよ。味は……期待しない方がいいですけど」
物は試しと龍吾は出された養天を手に取って、言われた通り吸い込んだ。
途端、口の中にこの世にある野菜を全て突っ込まれたような野菜独特の濃い渋味や、酸味などが一気に龍吾の口内へ押し寄せる。
フルーツのような口当たりを柔らかくするような酸味や甘味は一切ない。濃厚で代わり映えのない味が常に舌の上に停滞するので、たった一口で龍吾は味に飽きてしまい、飲みかけの養天をうんざりしながら返した。
「補足をしておくと、一応月界の一流科学者と料理人が監修してはいます」
(味覚がイカれてんのか)と心中で吐き捨てた龍吾は、返事もそこそこに夕飯の準備に取り掛かった。
不味いものを食べたことによる対抗心と、これ以上ない心強い味方がそばにいるという安堵が、龍吾の料理魂に火をつける。
そんな合わさることのない二つの気持ちが奇妙な化学反応を起こし、龍吾の口元が緩んで自然と笑みが浮かんでいた。
龍吾は輝夜や雛月たちよりも圧倒的に弱い。そのことは彼自身が誰よりも理解している。だからこそ、返せる恩には出来得る限り返していく。使命にも似た思いを抱き、それ以上に満たされた幸福の中、龍吾は惜しみなく料理の腕を振るった。
その様子を、外から一人の影が見つめている。民家に扮した偽装拠点の一室から眺めるのは、春子の部下『一輝』だ。
「どうなってやがる。電気が普通に点いているじゃねえか。ちゃんとプランを発動させたのか?」
驚きを隠せない一輝に、夏の角首である蛍の付き人『酒井 京真』が二人分のお茶をお盆に乗せながらやって来た。
中学生にも見える華奢な少年の彼は、筋骨隆々の体育会系な一輝と比べると、叔父と子とでも思えてしまいそうなほどに細々としてあどけない。
「もしかして、異世界から来た人にとって、地球でのライフラインの遮断はあまり意味がないのでは? 向こうは電気やガスとかは自前で作るのが当たり前だから、みたいな」
「……あり得なくはないだろうな。まあ、ライフラインがダメなら次の手だ。京真、用意はもう出来てるのか?」
「出来てますよ。明日の朝までには全メディアやSNSで流されるでしょう。彼には気の毒ですけど、これで彼もおしまいです」
遠くで灯る幸せの光。その光を惜しむように京真は三つ折りにした紙を一輝に見せた。
「ああ。確かにそうだな。これなら逃げ場はもうないな」
時は平等に流れていく。この間にも電子の世界に流れ出た猛毒が、龍吾の知らぬ間に彼を追い詰めていることを知らぬまま、龍吾は輝夜たちとの夕食を堪能していた。




