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星月夜

「……戻らない……だと……?」

 

 雛月から告げられた残酷で無情な答え。ある意味では一番彼の聞きたくなかった絶望的な答えが耳に入り、脳へと送られ、彼の意識とは無関係に意味を理解していく。

 扁桃体から激しい拒絶と否定が脳内に放出され、雛月の言ったことが誤りであると無理やり現実を変えさせようとする。

 

「そ、そんなバカなことがあるか。ウソをつかないでくれ雛月。必ず輝夜は元に戻るんだろ? そうだって言ってくれよ!」

 

 必死の剣幕で雛月の肩を揺らすが、雛月の答えは変わらない。

 輝夜は元に戻らない。

 海岸の砂浜に押し寄せた波の模様が全く同じ模様を描くことはないように、今まで接して来た輝夜には、もう二度と会えない。

 受け入れ難い現実を前にさすがの龍吾も戦慄きだし、彼の脚から力が抜けてその場に崩れるように座り込んだ。

 死別にも等しい急な別れを受け入れるには、彼はあまりに幼く、そしてまだまだ未熟だった。

 時には衝突もした。時には嫌悪も抱いた。それでも時の流れと共に和解し、ついさっきまで互いに無くては成らない唯一無二の伴侶となるはずだった。

 だが現実はこうだ。龍吾の気も知らず星屑を塗した空を無邪気に楽しむ幼い輝夜が、龍吾の傷心を無邪気に抉っていく。

 輝夜を責めることも出来ないが、どこかに当てることも出来ないもどかしさに、龍吾は俯きながら()り出すように哀叫する。

 

「おにいちゃん、どうしたの? ぽんぽんいたいの?」

 

 心配そうに顔を覗き込む輝夜は、特徴的だった猫の目のような縦に長い瞳孔がなく、雛月のように瞳孔が虹彩と一体化しているような瞳をしていた。

 見た目はいつも通りの、妖艶で無駄のない完璧に等しい体躯をした輝夜なのに、瞳の違いと言葉遣いが異なるだけで別人のように龍吾は感じていた。

 オロオロとする輝夜に龍吾は叫びたい心境を押し殺し、無理やり作った笑顔をしながら「大丈夫だぞ」と返す。

 

「ごめんな、ちょっと……ちょっと、疲れて……胸が苦しくなった……だけだ。大丈夫、今はもう苦しくないから……」

 

 すると輝夜は手を龍吾の胸に当てて「いたいのいたいのーとんでけー!」と、真剣な表情でおまじないをかけた。

 嬉しくもやるせない複雑な心境が全面戦争状態にある龍吾は、今にも泣き出しそうな面持ちを見せないよう顔に手を当てて項垂れた。

 そのとき彼は、クロユリから渡された装置のことをふと思い出す。

 元は輝夜が無事に目覚めたときに使うはずだったそれは、今となっては期待など微塵も持てるはずもない。

 諦めかけた龍吾は取り出した装置を手の上に出していると、雛月が「それは?」と、聞いてきた。

 

「……輝夜は、最初に俺と出会ったとき俺にしか見えない竹から出てきた。その透明な竹の中に……あったやつだ」

 

 彼はクロユリのことを言わなかった。混乱を避けるためとも、疑念を抱かせるのを防ぐためとも取れるが、それ以上に彼自身がクロユリのことは言うべきでないと判断したからだ。

 雛月は丁寧に手に取って装置を起動させる。

 すると彼女はひどく驚いた表情のまま「本当にこれが?」と龍吾に聞いた。

 彼が見た内容と同じものだと思っていたために空返事にも似た声で返すと、雛月は怪訝に装置を見る。

 それでもと最後の希望に縋るように、雛月は装置を起動させ輝夜に見せようとした。

 ところが輝夜は雛月が近づくと、反射的に龍吾の影に隠れるように距離を取った。

 

「……雛月の記憶(こと)も……かよ……!」

 

 幼児退行によって雛月のことすらも記憶から失われているという事実が、龍吾の心中で渦巻く諦観に拍車をかける。

 何故龍吾のことだけは覚えているのかは定かではないものの、龍吾は諸々の感情を抑えながら影に隠れる輝夜に優しくあやす。

 

「……輝夜? 大丈夫だぞ。このお姉ちゃんはな、雛月って名前で、輝夜のお友達なんだよ」

 

「ひな、つき? かぐやの、おともだち?」

 

「そうとも。それで、雛月が輝夜に見て欲しいものがあるんだ。見てくれるか?」

 

 満面の笑みを浮かべて快諾する輝夜。

 装置が起動され、輝夜だけの視覚と聴覚に龍吾が見た過去の映像が流れていく。

 記憶を無くした輝夜にとって、もはや先人たちの時を超えた思いは理解出来ない状況にあるだろう。

 しかし輝夜はふざけて笑うことも、飽きることも、そっぽを向いたりすることもせず映像と向き合っていた。無論、意味は半分も理解出来ているか怪しいところではあるが。

 が、現代までの顛末を放映し終えると、今度は龍吾が見たことのない映像が流れ出した。

 それは輝夜の母『月魄』が生前に残した肉声であった。

 ボロボロの姿に臨月を迎えた頃合いの膨らんだ腹を抱えながら、月魄は透き通るような美しい声で話し出した。

 

 『輝夜……。私は、まず貴女に謝らなければいけません。幼稚で卑怯な私のせいで、貴女を、貴女の人生を大きく狂わせたことを、心から謝ります。本当に、ごめんなさい。

 貴女は正しかった。本当だったら、貴女が地球から帰って来たとき、私も貴女と一緒に矢面に立って月界の国民に向き合うべきだった。なのに私は、月神という最高位にいながら、批難されることを恐れて娘の貴女を見捨ててしまった。貴女の怒り、貴女の不満。私に向けられるどれも全て、何も間違っていません。

 こうなったのも全ては私の自業故なのでしょう。本当だったら、面と向かって、貴女に謝りたかった。でも、もう時間がありません。最後の最後まで、卑怯者で恥知らずな私でごめんなさい。

 ……輝夜……。こんな不誠実な母親で、どの口がと言いたいかもしれないけれど、それでも私は貴女に言いたい。

 貴女を産んで、私は誇りに思っています。私は、いつまでも貴女を愛しているわ。本当に……ごめんね……』

 

 メッセージが終わると、奥から複数人の男たちが月魄を乱暴に捕らえて連れて行こうとした。

 その中には赫皇がいた。

 月魄を散々弄び、私利私欲のために汚して壊した下劣な張本人がカメラの方を向いたところで映像は終了した。

 龍吾も雛月も知らない月魄の壮絶な最期の言葉。

 二人は悲壮と同時に激しい怒りを覚えていた。無論その矛先は赫皇である。

 最後に映し出された彼は月魄を犯そうとしていた。しかも雰囲気や動き方から見て日常的に行っていたというのは容易に推察出来る。

 輝夜の母を犯していたということもさることながら、輝夜の支えであった母を奪ったことへの義憤が二人の心を一つにさせた。

 しかし輝夜は最後の映像は理解出来なかったらしくキョトンとした表情で「おにいちゃん、いまのなあに?」と龍吾の方を向いて聞いてきた。

 子どもならではの無邪気な質問は、しかし成長した龍吾と雛月には非常に答え難いものだった。

 そもそも今の輝夜には、何故月から地球に再び戻って来たのかということは元より、母親がいたという記憶すら失われている。

 覚えているのは龍吾のことだけだが、出会いから現在に至る過程は何一つ覚えていない。

 やきもきする思いで回答に困っていた二人だが、ふと、龍吾が輝夜の方を見ると目尻に大粒の涙を蓄えているのが目に入った。

 

「……う? あ、あれ?」

 

 涙が目尻から溢れて頬を伝い、顎下から地面に向かって大粒の雫となって落ちても、輝夜は何故自分が泣いているのか理解出来ていない。

 しかし涙は止めどなく流れ落ち、側から見れば号泣しているのと変わりないほどに輝夜の眼からは涙がこんこんと湧き出ている。

 

「あ……あれれ……? なんでだろう……。おめめぽろぽろって。なんにも、ないのに……なにも……やじゃないのに……」

 

 これは━━あくまで龍吾が思い付いた根拠のない推測でしかないが、彼は崩壊したかつての輝夜の意識がまだ生きていて、幼い輝夜を通じて輝夜が帰った後の過程と、母からの最期のメッセージを聞いたことで泣いているのではと見たのだ。でなければ右も左も分かっていない幼い輝夜が、映像を見た直後に泣き出す理由が何一つない。

 龍吾は困惑する輝夜の両肩に手を乗せて静かに話し出した。

 

「……輝夜、分からなくてもいいから聞いてくれ。……輝夜、お前は今までずーっと強い大人のフリをして来たんだよな。信頼できる人が誰もいない中で、そんなの無くたってへっちゃらだぞっていう風にさ。

 でもお前のことだ。ずっと心の中では怯えていたし、いっぱい悩んだり後悔もして、毎日心細い日々を過ごしていたんだろう。俺はそんなことも知らずに輝夜と出会ってから大半は冷たく当たってたよな。もう今更遅いって思うかもしれないけど、ゴメンな。

 ━━おかえり、輝夜。皆んな、待ってたぞ。輝夜が帰ってくるのを待っていた。よく、帰って来てくれたな」

 

 涙を蓄えて無表情で龍吾を見ていた輝夜は、次第に嗚咽を出し始めた。

 

「……おにいちゃん……かぐや、なんでこんなに……かなしいの? おにいちゃん……おにいちゃあん!」

 

 声を上げて、輝夜は泣いた。

 幼児に退行し、真実を知るには遅きに失したと思われた矢先の、しかし残滓(ざんし)となって尚生き続けた輝夜の想い。それがようやく報われた瞬間だった。

 子どものようにワアワアと声を上げて泣く輝夜を、龍吾は優しく抱きしめてあやす。

 この日を迎えるために祖先が紡いで来た使命は、今ここにようやくの帰結を迎えた……はずだった。

 しかし、まだ最後の課題が残っている。

 安寧の日々を過ごすためには不要な、この星と龍吾たちを脅かす脅威が、まだこの星に居座っている。

 低い鐘の音とも、船の汽笛とも思える音が空のどこからともなく響き渡る。

 その直後、龍吾たちの真上を天月絡繰が群れを成して首都の方へ飛んで行くのを、龍吾と雛月は確かに見た。

 おおよそ地球のものではない機影を目にして感動は一旦の鳴りを潜め、輝夜と龍吾は再び向き合った。

 

「輝夜、お帰りのお祝いをしたいところだが、最後に一つお仕事をしなきゃならん。俺たちと輝夜のお祝いを邪魔する悪い奴らがいてな、そいつらをやっつけてからじゃないとお祝いが出来ないんだ。輝夜、頼む。俺たちにもう一度だけ力を貸してくれないか?」

 

 涙でぐしょぐしょの輝夜は未だ止まらぬ嗚咽を出しながらベソを拭う。が、子どもならではの感情のコントロールが上手くいかないためか、中々泣き止まない。

 それでも焦ることなく龍吾は輝夜をあやしていると、輝夜の着ているドレスから何かがひび割れるような音と共に白い光が漏れ出した。

 淡く切なく、粉雪のように儚い表情のまま輝夜が顔を上げると、輝夜はドレスからの眩い光に包まれた。

 漆黒に染まっていたドレスは、穢れを落としたかのように一変して白藤色に染まり、金色の流線が所々で流星の如く走る神々しい姿となった。

 かつての輝夜が夜なら、今目の前で覚醒を遂げた輝夜は夜明け。

 星の瞬きと月の光が、まだ僅かに空を彩る神秘的な一時を表した姿に変貌した輝夜に、龍吾と雛月は言葉を失って見惚れていた。

 

「……わ……わっ! お、お、おにいちゃん! い、いまおべべがぴかーって! ぴかーってなったらね! おべべ、しろしろになっちゃったの!」

 

 さっきまで盛大に泣いていた輝夜は、自身に起きた異変に泣くことも忘れて龍吾へこれ見よがしに飛び跳ねながら知らせる。

 呆然と困惑する二人だが、雛月は声に全く力の入っていない掠れた声で「転醒……」と言った。

 

「……雛月、何だって?」

 

転醒(てんせい)……です……。信じられません……! 暗符の副作用を克服した者に、ごく稀に起こる現象です!」

 

 雛月が言うには、この転醒を起こせた者は確認できるものだけでも月界史上二人しかおらず、最後の一人を確認してから輝夜が起こすまでに数億年の(へだ)たりがあるほどに稀なことであると言う。

 思わぬ事態に輝夜はすっかり泣くのをやめて、我が身に満ち満ちる力に興奮する。

 

「おにいちゃんおにいちゃん! かぐやね! すごいの! もう、ぅわーーってなってるの! こう、ウワーッ! って!」

 

 子ども特有の語彙力のなさをカバーするように身体全体を使って大きく表す輝夜に、少し微笑ましさを感じる龍吾は気を取り直して興奮冷めやらぬ輝夜の目を見ながら頼み込んだ。

 

「ああ。今の輝夜はきっと、すっごい輝夜だ。きっとこれなら、どんなおっかないヤツらもやっつけられる。だから、輝夜。最後に俺たちと一緒に、悪いヤツらをやっつけに行こう」

 

 目を輝かせ、輝夜は快諾した。

 向かうは首都東京。

 焔渦巻き、爆音と咆哮轟く戦火の渦中。

 

 ※

 

「……どうやら月界は出入国を全面停止させたらしい。向こうも国内のことで手一杯なのだろうよ」

 

「知ったことか。俺は月界なんぞに戻る気は毛頭無い」

 

 銀皇を冷たくあしらう赫皇は、建設中の超高層ビルの最上階で天月絡繰が採取した靈光泉の量が映されたホログラムと睨めっこをしていた。

 彼にとっては月界は捨てたも同然。リアルタイムで月界の様子を映すホログラムを見ている銀皇とは対照的である。

 すると銀皇と赫皇は。否、その瞬間地球にいる天月絡繰も含む全ての生命が、奥多摩の方へ顔を向けた。

 視線の先には、暗澹と染まる黒い地平線の彼方で輝く光が小さくも煌々と煌めいていた。

 

「何だあの光は」

 

 事態に理解が追いついていない赫皇を無視して、銀皇は微かに口角を上げた。

 

「来たか……輝夜……!」

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