第十一話 傀儡魔法
今回は、ほぼ全編にわたり説明回です。
「きょ……?何?」
エリスがキョトンとした顔で尋ねる。
魔法を専門に学ぶ者でもなければ、術式の名前など何の意味も無い物でしかないので、耳に馴染みが無いのは仕方がない。
エリスは人々に魔法を教える代名詞たる“教会”の支部が無いほど田舎な村の住人だ。
その辺りの知識が無くても驚きはしない。
リチャードは、そのことも踏まえて説明していく。
「精霊がマナの集合体だって事は分かるな。精霊は生死の概念から切り離された存在だ。不死――それは、いつの時代も権力者が必ず願うものだ。実際、世界中のほとんどの王家が一度は試しているんじゃないかな。詳細は省くが、大雑把に言えば、人間にマナを大量に流し込んで後天的に疑似精霊になろう、って実験の事だ」
当然、成功例などない――と言われている。
不死者として異名を馳せた過去の英雄たちにも、等しく死が訪れたことを見ても、事実だと言えるだろう。
人目に付かない辺鄙な土地に隠れ住んでいない限りは。
この術式の成立は、近代魔法成立直後、凡そ七〇〇年前と言われている。
近代魔法の成立によって、世界は二つの革新を迎えた。
一つは、万人が魔法に開花する可能性を得たこと。
それまでは限られた血縁によって支配されていた魔法という“異能”が、市井の人々にも習熟出来得る“技術”になったということだ。
もう一つは、魔法の高度化、複雑化である。
高い才能を持つ者しか使えず、ごく限られた人間に口伝によって伝えられ、その成否結末の全てが術者の才能一つに依っていた。
故にこそ使える者が限られ、さらには、それがどれほど才能溢れる術者であっても、人としての限界がその才能に追いつくことは無かった。
魔法的才能が劣る者も、努力次第ではそれが身に着けられるほど発動過程の補助技術が整った事で、それまでの才能あふれる魔法使いたちは、己の才能を余すところなく発揮出来るようになった。
魔法の近代化と同時に、それまではお伽話の題材として語られてきた『精霊』の実在が確認され、権力を持つ者たちがこぞってその不死性を手に入れようと要請し、その才能あふれる魔法使いたちが開発したのが、【強制マナ付与式精霊化術】だと言われている。
その過程は複雑にして明快。
人の身体を器に見立てて、精霊の現界条件――即ち、高濃度のマナの集約を、対象とする人体内で行う、というものである。
龍脈の支流、マナの吹き溜まりに堆積したマナが精霊に変わるまで、本来は数百年単位の時間が必要になる。
膨大な量のマナを素として生まれてくる精霊を、人の体内で生み出すためには、やはり同等の量が求められた。
第一段階は、龍脈の掌握。
手の届く範囲からマナをかき集めるよりも、マナの奔流たる龍脈を直接利用した方が良い。
巨大な流れを誘導し、任意の地点に導く。
第二段階は、マナの固定。
注いだマナが器から漏れないように、その場所に固定する。
入口しかないその器は直ぐに満たされるが、溢れないようにしてあるが故に、マナの密度は必然的に高まる。
最終段階が、精霊の現界と掌握。
精霊を世界に生み出し、その力を掌握する。
実験には数多くの天才が動員された。
国内でも特にマナの制御に長けると言われる天才たちだ。
だが、実験は尽く失敗に終わる。
問題は、術者の技量ではなく、器たる人間の方にあった。
誰一人として、マナを注ぎ込まれたものは生き残らなかった。
死因は様々だ。
破壊衝動に飲まれ、自ら命を絶つ者。
恐怖に飲まれ、憤死する者。
恐怖が突き抜け、それが快楽に変わったが故に、悶死する者。
治癒能力の暴走で、肉塊に変わる者。
それとは逆に、ボロボロに崩れていく者。
マナが、器となった人間の『感情』や『本能』といった、深い所と結びついてしまったために、だ。
どんな人間でも、自分の『感情』や『本能』という部分を完全に制御できる訳では無い。ましてや、マナによって増幅されたそれに、抗い、ねじ伏せ、あるいは耐えられる者は誰一人としていなかった。
そして、世界は理解する。
この実験に意味はないと。
この欲望に未来は無いと。
この結果に、興味を示した一派があった。
古の術師集団。
傀儡師たちである。
傀儡魔法。
その本流の歴史は古く、魔法がまだ一部の天才たちによる“異能”だった時代まで遡る。
中身は、読んで字の如く、幾つかの制約の上で対象を意のままに操る術である。
その制約とは――
一つ、対象は死亡済みでなくてはならない
二つ、対象は術者自らの手で殺害していなければならない
三つ、一つの対象に複数の使役者がいてはならない
――である。
対象となるのは主に獣。それも、比較的小型の物だ。
これは、傀儡師という魔法職が、戦場で重宝される高位のそれではなく、間諜や偵察などの裏方にあたる職業だったことにある。
つまりは、それほど優秀な人間が集まらなかった、ということである。
魔法は決して万能のものでは無い。
それは、近代魔法の開発以降でも同じである。
魔法は、大気に満ちるマナに働きかけて、世界を改変する奇跡。
万能の存在者たるマナ一つ一つを認識し、情報を与え、自らの望む形、望む世界を生み出す力。
それは、見えない砂粒で城を組み立てるがごとく、極めて繊細で緻密な作業。
当然ながら、それには生来の資質や一瞬の閃きだけでなく、本人の絶え間ない努力と、長い歴史に基づく知識や経験が必要となる。そこに、他の才能との差異など無い。
万人が魔法を使える、と言っても、大多数は小さな火花を散らしたり、冬場の窓の結露を払ったり、が精々だ。
それなりの資質を持つ者でも、手で、或いは肌で触れる範囲でなければうまく操作できない。
体から離れたところのマナを操作して、水を操ったり、爆発を起こしたり、なんてことが出来る魔法使いは、まず間違いなく後世に名を残すことになる。
そんな人間は、リチャードたちの故国、北メスレル大陸随一の大国エルリエール王国でも、魔法省外部委員チャールズ・ベルゼッフォ翁を含め、片手で足りるほどの宮廷付き魔法士しかいない。
ここで問題となるのは、制約その一『対象は死亡済みでなければならない』。
この制約のみに関わらず、魔法における制約の凡そ全てと呼べるものは、“魔法の限界”を示している。
この場合であれば、『生きているものの精神に魔法で干渉することはできない』という限界である。
マナの操作に関する主導権は、近ければ近いほど優先される。
それは、緻密な操作が要求されるが故である。
体外からの干渉よりも、体内の反応。
術者の「精神に干渉するマナの動き」よりも、被術者の「体を正常に保とうとする当たり前の生理現象」の方が、マナの反応する優先順位が高いのだ。
傀儡魔法の本質は、『生物を意のままに使役する魔法』ではなく、『死体を意のままに操る魔法』であった。
第三の制約はここに関わってくる。
操る側の意思が混線しては、術の制御自体が難しくなる。
最後の、第二の制約『対象は術者自らの手で殺害していなければならない』は、魔法使いの能力の限界に対しての制約である。
自分から離れた場所のマナを操ることは難しい。
さながら、自分と繋がっていない手足を、目隠しで動かすことに等しい。
そんなことは殆ど不可能だ――“殆ど”といったのは、それができる一部天才がいた所為で、普通の魔法使いにとってみれば“全くもって”不可能なことだ。
傀儡師の魔法に対する適正は、押し並べて特別高いものでは無かった。
才能の高い人間は、傀儡魔法という地味な魔法を習得するよりも、離れたところで爆発を起こすような、直接の戦闘力のある派手な魔法を修めた方が、後継に優秀な魔法の才能を受け継ぐ為にも、収入の面でも利が大きかったのである。
傀儡魔法はその性質上、術者と離れた場所で使役しなくてはならない。
術師たちはその解決策として、自分と親和性の高い形に加工したマナを対象に植え付け、常に自分の使役対象をそのマナの紐で繋ぎ止めておくことにした。
その方法は、対象の体内にマナを注ぎ込む、というものだった。
それはさらなる副次的効果を生んだ。
肉体の保善。
死体というものは、生命活動が終了したその時から腐り始め、また、硬直し始める。
傀儡魔法は“操り人形”の様に、天から吊るされた糸で操るものでは無い。
生物としての使役対象が持っていた機能を転用して、死体を操作しているに過ぎない。マナそのものに実体的な力を持たせて干渉するより、疑似的な神経情報を流して肉体を操作する方が、術者の負担が少ないということだ。
だから、骨だけになった者は動かしようがないし、固くなった筋肉を動かす方法も無い。
マナを注ぎ込む段に、その対象の『死にたてホヤホヤ』の状態を記憶させることで、腐らず固まらずの理想的な傀儡が出来上がる。
それには『死にたてホヤホヤ』の、もっと言えば『生と死が曖昧な状態』の時に術をかける必要があり、偶然にその場に居合わせる確率など、有って無いに等しい。
なればこそ、自らの手で殺した方が都合が良いというものだ。
酷なことを云うようだが、彼らにとっては対象となる生物は『材料』であり、傀儡となってからは『兵器』に過ぎない。
さて。
ここに至れば、理解が及ぶことと思う。
【強制マナ付与式精霊化術】と呼ばれる、当時最先端に高度な術式は、実は古来より受け継がれてきた秘術、傀儡魔法に酷似していたという事実に。
世界がこの事を知らなかったのは、傀儡魔法がある種の洗脳系魔法として――つまりは邪法、禁忌の類として認知されていたが故である。
傀儡師たちの側から見ても、その方が都合がよかったので、敢えて否定したりしなかったことも大いに関係している。――同様に、多くの古来から続く古い魔法の使い手たちは、技術の秘匿傾向が強く、未だに発動原理が分かっていない物も多い。
平時戦時を問わず、その高い情報収集能力は認めつつも、自分たちの身の安全――気づかないうちに自分や周囲の人間を傀儡にされたりしないか――を考えて、権力者たちは必要以上に彼らと近づこうとはしなかった。
結果として、多数の犠牲を出す前に儀式の無意味さを知ることが出来なかったことは、皮肉というより他なかった。
翻って、傀儡師たちである。
彼らとしては、傀儡魔法の到達点と古来から言われていた【人傀儡】を、遂に自分たちの手に出来ると喜んだ。
不死の軍団――というよりは死者の軍団だが――が作れると。
結局彼らの目論見も失敗に終わる。
傀儡師の魔法的力量では、荒れ狂うマナの奔流たる龍脈の、制御自体が上手くいかなかったのである。
国内最高峰の魔法使いが生み出した魔法を、それなりの才能しかない集団がなんとかしようとする方が無茶ともいえる。
また、よくよく考えてみれば、微妙に使い勝手の悪い魔法であることは明白で、実はそんなに優秀な魔法ではないんじゃないか、との考察が出された。
感覚的に言えば、自分の身体がもう一人分増えるだけである。
死を恐れぬ軍団といえども、所詮は人間の身体能力を超えることは無く、高火力の魔法を撃ち込まれればそれまで。術者との繋がりが断たれるか、四肢を失い行動不能になるのが関の山である。
この魔法を使うためには、賢者と呼ばれるほどの魔法的な才能を持ち、且つ、傀儡魔法を習得する、という無駄極まりない行いが必要となり、結果、【人傀儡】という魔法は、魔法としての体を為さぬまま、多くの人の目に触れることなく、時の流れによって風化するのを待つだけの魔法になった。
「【人傀儡】なんて、狙って作る物じゃない。意味が無いからな。かと言って、今更失敗することが分かり切っている儀式の実験をするとも思えない。正直、この術者が何を考えているのか、俺には皆目見当がつかないよ」
そう言ってリチャードは苦みを帯びた顔を森の奥に向けた。




