自宅療養
みんな優しくしてくれる。
言えばなんでも買ってくれる。
食べたいと言えば作ってくれる。
どんな愚痴でも聞いてくれる。
自分の代わりにお金を払ってくれ
る。
そして、
何をおいても自分を優先してくれる
―
芳恵は浮かれていた。親戚、姉妹、客、親会社、息子と娘に嫁、…あらゆる人々が自分に優しく、励まし、気遣い、お見舞いや差し入れをくれる。
「お久しぶりですぅ。しばらく連絡しないでごめんなさいね。実は私、ガンになってしまって…ええそうなの、入院してたの、オホホホホ」
芳恵は、自らいろんな人に電話をかけまくって自分がガンだと触れ回った。自分のことを労わってくれる相手の反応が、嬉しくてたまらないのだ。
周囲からの
「大丈夫よ、ちゃんと栄養付けてれば治るわ。お見舞いに行くから何か食べたいのある?」
「応援するから何でも言って。きっと良くなるわ、大丈夫」
「手伝えることはない?ガンになっても何年も生きてる人もいるから気を落とさないで。ほらあの芸能人だって…」
といった励ましや優しさが嬉しくて、人々の「大丈夫」「良くなる」「治る」という言葉を信じた。確かに放射線治療をし、薬を続けていると背中の痛みが消えた。少しずつだが、抗がん剤で食事もできるようになった。病院食と違い、何を食べても美味しく感じる。そして何より自由だ。電話をかけることすら制限された入院中の不自由さはどこにもない。一人で暮らすのは不安だが、電話すればすぐに息子が駆けつけてくれる。食べたい物を言えば、何でも嫁が作ってくれる。きっとこのままずっと生きていられる…
陽一はイライラしていた。地元地域の病院に転院し、通院の度に店を休業にして母 芳恵に付き添った。通院のない時は、病院に処方箋を取りに行き、薬局で薬を受け取り母に届けた。車椅子を押しながらスーパーに連れて行き、好きな物を買い、妻の由希に調理してもらい料理も届けた。
話し相手にもなった。母の話といえば入院中の愚痴ばかり。
「女の若い先生がいるんだけどね、白衣のポケットに手を入れてツンツンしながら私に声を掛けるの。凄くそれが感じ悪いの」
「私がね、横になって足を組みながらお客さんと電話をしてると、看護師さんが来て『病室での電話は禁止って言いましたよね?』って怒るのよ。ちょっとだけなのに」
「病院の食事が美味しくないのなんのって。出汁の味しかしなくて気持ちが悪いの」
「プラスチックの食器の音を聞くだけ
で入院中を思い出して嫌になる…」
陽一はほとほと嫌気が差していた。母の度重なるこういった言動は尽きることが無い。
「何でそんな事ばかり言うんだ!助けてもらったんだろう?そのおかげで今生きてられるんだろ!」
と言うと、母はきまって口をへの字にして顔をそらすのだった。
「悪芳恵が出て来た」
家に帰ると陽一は由希にそう言った。母の病院の悪口はすでに由希も直接聞いて知っていた。
「まだ言ってたの?」
「行く度にずっとだ。嫌になる」
陽一の不機嫌はこれだけが原因ではなかった。コロナ禍がまだ続いているのである。飲食店を経営している陽一にとって、この状況は大きな痛手だった。
客が来ない。
営業時間の制限
飲食店で感染拡大という風評被害
密を避けるという席数減少の要請
仕入れ値の値上げ
エネルギーの値上げ…
店の経営の根幹の大きな見直しが必要だった。それが母の介護で手を付けられない。今、現状を乗り越える手段を考えねば、自分はもちろん、店も家族も、母さえも共倒れになってしまう。陽一は焦っていた。
芳恵は息子のそんな心境など意に介さず、わがままは日を追う事に膨れ上がっていった。
”息子夫婦は呼べば来る”
そう思い込んでいた芳恵は、陽一の仕事中にも電話をかけてきて
「今からお客さんの所へ車で乗せてって」
と言うようになった。陽一の限界は近づいていた。
「お母さんの医療保険、入金になったよ」
妹 恵から連絡が入った。恵は母の金融関係の管理を母が退院してからも手伝っていた。
「70万位振り込まれたはずだから。お母さんにも言ってあるよ」
陽一は連絡を受け、今まで立て替えていた母の入院費、通院費等の医療費を計算した。高額療養費申請で免除された分を差し引いた金額と高齢者の1割負担で、ざっと20万だ。それにしても1割負担の安さに陽一は驚いた。高齢者はあれだけ高度な治療を受けて、この程度の負担で済むのか。それでも今のご時世、20万は陽一にとって大金だ。
以前から陽一と芳恵はお互いに
「入院保険が入ったら返す(返してもらう)」
という約束を交わしていた。そして支払いの都度、母に領収書を渡し確認させていた。陽一はいよいよ、母の機嫌のいい時を見計らって切り出した。
「恵から入院保険入ったって聞いたよ。70万位だって」
すると、母は陽一から目をそらし
「あら、そう?さっぱり分からないわ。銀行にも行ってないし…ほほほ」
と、笑ってはぐらかした。今の母 芳恵は、以前約束した時の態度とまるで違う。陽一は不快感をこらえながら話を続けた。
「あのさ、来月子供の授業料の支払いがあるんだ。俺が20万立て替えてたの返して」
母は明らかに不機嫌になった。
「あら?入院代は18万何千位だったじゃない。」
「その後退院してからの通院だって立て替えてやってただろ?領収書渡してたじゃん」
母は、おもむろにテーブルの端に置いていた電卓を引き寄せ、ブツブツ言いながら叩き出した。
「入院代18万位なのに…私だって治療で死ぬ思いしたんだから、自分にご褒美買いたいのに…テーブルの下に赤いカーペット欲しいのに…」
ブツブツ言いながら電卓を使い、何やら計算している自分の母の様子を見て、陽一は顔を引きつらせた。
「別に買いたい物があるなら買えばいいじゃん。全部よこせって言ってる訳じゃないだろ?立て替えた医療費を払ってくれって言ってるだけなのに。自分だって『払う』って言ってたじゃん」
母はそれでも頑として応じようとしない。
「お金、お金って!どうせお母さんもうすぐ死ぬんだもの!お母さん死んだ後あんた達で分ければいいじゃない!」
母のその言葉に陽一はカチンときた。
「あのさ、何で死んだ後なのさ。孫の授業料の支払いがあるって言ってんのに、何で自分の事だけなの?今までずっと ”生きて欲しい” と思っていろいろ世話してきたのに、何でそんな事言うのさ。全部ただじゃないんだよ?」
母は、キッと息子を睨んだ。
「お金が目的か!?お母さんのお金目当てで世話してるんじゃないの!?」
母からその言葉を聞いた途端、陽一の中で何かがプツンと音をたてた。
「あんた達はいつもお金、お金って!…」
「もういい。そう思ってるなら、もう来ないから」
陽一は母がブツブツ文句を言っているのを、決定的な言葉で遮った。母はハッとして立ち上がる息子を見上げたが、遅かった。
芳恵は、またしても言ってはいけない事を言ってしまったのだった。昔の同居解消の経緯が頭を過ぎる。あの時も芳恵の失言が原因だった。
立ち上がった陽一は、振り返ることなく部屋を出た。そして玄関が閉まる音が聞こえると、間もなく響いた車のエンジン音がどんどん小さくなり、ついに聞こえなくなった。
芳恵はゆっくり、静かに動き、玄関のドアを開けてみた。息子の車はもうそこには無かった。夜の空は雲で覆われ、重く暗い闇の中、街灯だけが光っていた。
芳恵は一人、うなだれた。




