翻弄と軟禁?
ここに一匹の小型犬、パピヨンがいる。大きな耳から長い毛がフサフサと垂れ下がり、その風貌はまるで蝶々のように美しい。毛並みは白と黒の斑模様で、まん丸い黒い瞳が愛らしい。その犬の名は "レオ" という。
夜、2人は話し合っていた。缶ビールは共に2本目を開けている。レオが2人の間に座り、左右の顔色を上目遣いで伺っている。どうやらどちらにも甘えられず困っているようだ。
「お前に『明日自分が行く』って言ってもらって良かった。感謝するよ」
「私らしかいないんだもん。恵さんが駄目なら当たり前じゃん」
「そうなんだけど、恵の前ですぐ言ってもらって本当に良かった」
それは妻 由希の機嫌を取るわけでもなく、陽一の本心だった。由希はとりわけ何とも思っていなかった。
「余命、聞くの?聞きにくいよね?」
「俺だって自分から聞きたくねぇよ」
陽一の心理を察し、それ以上由希は追求するのを止めた。これ以上何か言うと絶対怒る。
「100万でドリンク買うって聞いた時、ビックリした」
「俺も。『何言ってんだこいつ』って思った。面倒みるってどういうことか分かってねぇんだ。甘いんだよ、やったことねぇから」
陽一は母親と同居していた頃のことや、その後、いろいろ世話をしてきたことが脳裏に蘇る。それは由希も同じであった。
「確かにね。でも余命宣告で保険が下りる契約ってあるの?初めて聞いた」
「なんだろうな?俺も聞いたことない」
ほろ酔い気分で横になると、すぐにレオが陽一の胸元に寄ってきた。左腕を広げると、陽一の腕枕で埋もれるように寝そべり、濡れた鼻で頬をつつく。それは、もう片方の手で撫でてくれと要求する合図。陽一は右手でレオを撫でながら、眼を閉じていった。
陽一は母 芳恵の車椅子を押していた。看護師に案内されやって来た放射線科の入口は、人気がないからだろうか、どことなく薄暗いような冷たさを感じる。入口のドアを抜け中の待合室まで来ると、病棟看護師は去って行った。
中に入ると、待合室は広く明るかった。外の光がよく入る大きな窓は2つあり、正面にはテレビが付いている。中へ入る前の印象とだいぶ違っていた。受付で初診の問診票を受け取り、車椅子の母を近くの椅子の脇に固定し、側の椅子に陽一と由希は腰掛けた。
「昨日歯医者で奥歯抜いたの」
と、母は由希に声をかけた。事前に医師から放射線治療の前に歯科受診の必要性を説明されていたため、由希はすぐに理解したが、母は分かっているつもりでも納得しがたかったようだ。
初診の問診票を由希が記入を済ませた後、少し待ってから母の名が呼ばれた。陽一は再び車椅子を押し、3人で診察室へ入った。
放射線科の医師は40代位の男性だった。医師はレントゲン写真をこちらに見せながら骨転移の位置を示した。
背骨1か所と肋骨に2か所。そこにピンポイントに放射線を照射するという。それは入院中に数回行われる。今日はその為に母の体に癌の位置をマーキングするらしい。
治療の大まかな予定の説明を受けて3人は診察室を出る。由希は母の車椅子を後ろに引き戻してからドアを抜け、待合室へ戻った。陽一はひとり、診察室の中へ再び姿を消した。
放射線科の看護師が現れ、放射線を当てる位置にマーキングをする為、身に付けている貴金属類を全て外すよう母に指示した。由希は母の首元に目をやり、そっと声をかけた。
「お義母さん、ネックレス取るね」
母の後ろに回り、恵が "お守り" と言って掛けたネックレスを外した。そしてティッシュペーパーを出して、そのネックレスを丁寧に包んだ。
「お義母さん、これから何回も放射線するらしいから、これは恵さんに渡しておくね。無くしたら大変だから」
由希がそう言うと、母は
「うん、うん。持って行って」
と答えた。
そして母は看護師に車椅子を押されながら、暗い奥のドアへ入って行った。
母と入れ替わりに陽一が診察室から戻って来た。
「お義母さん、中に入ったよ」
と、由希は暗い奥のドアを指さした。
陽一は
「うん…」
と声だけで頷くと、椅子にどかりと深く腰掛け、目を閉じ天井を仰いだ。
「…聞いてきたの?」
由希は恐る恐る問いかけた。
「チキショー、恵の言うことなんかきかなきゃ良かった」
陽一は首をガックリとおとし、後悔と恥ずかしさでぐったりしている。
陽一は診察後、
「先生、ちょっといいですか?」
と言って、ひとり診察室へ再び戻った。医師は、患者に聞かれたくない質問だろうと察して入室を許可した。
陽一は言葉を選びながら恐る恐る母の余命について質問した。すると、医師の目がキッと釣り上がった。
「まだまだやれる治療があるのに何を言ってるんですか?余命宣告とは、もうやるだけやって治療の手立てがない、そういう時にするものです。まだそんな段階でないのに言えません!」
医師の厳しい言葉に、陽一はハッとした。
(なんてことを聞いてしまったんだろう…)
陽一は深く恥じ入った。穴があったら入りたい、自分の発した言葉を取り消したい。ほんの数分前に戻りやり直したい。
「恵に煽られて正常な判断ができなくなってた。チキショー、あいつ、なんてことを俺に聞かせたんだ」
陽一は由希に嘆いた。
(本来、この人はもっと冷静に物事の先の先まで計算して行動するのに。こんな行き当たりばったりな行動をすることは珍しい)
由希は普段の陽一らしくない振る舞いが心配になった。自分の親のこととなると、人間は自分を見失ってしまうのかも知れない。
「マジックで丸書かれたの」
待合室に戻って来た母は、まるで自分の体に落書きでもされたかのように話した。
迎えに来た病棟看護師に車椅子を押してもらい、母を挟むように陽一と由希は横に並んで病棟まで一緒に歩いた。歩きながら次の差し入れは何がいいか、お金は足りてるか話した。病棟の入口の中に入ると、母は
「ありがとう。気を付けて帰ってね」
と、2人に向かって言った。
2人はドアが閉まるまで母を見送った。
「お前、お袋の余命聞いたら先生に思いっきり怒られたぞ、俺!」
「あ、そうなの?ごめぇん。で、どうだった?」
「これから治療いろいろやることあるのにまだ言う時じゃないって。家族なのにいつ死ぬか聞くなんて、はぁ?って感じだったぞ!」
「あ、そうなんだ。じゃあ、まだ大丈夫ってことだよね?良かった、良かった。ゴメンネ、嫌なこと聞いてもらって。ありがとう」
陽一は恵との電話を切った。
2、3日して、恵が陽一が経営する店へやって来た。開店前の早い時間だ。
千恵から連絡があり、母 芳恵の病状を陽一と共に本家の伯母 千賀子へ説明に行くようにと説教されたらしい。
「だから『兄ちゃんに聞いてみる』って言ったの。そしたらね、夜とか夕方だと千賀子おばちゃんが眠れなくなるから昼に来いって…」
陽一は呆れるわ腹が立つわで声に力が入る。
「昼って…俺行けるわけねぇだろう!俺の仕事なんだと思ってんだよ!ババァ達や千恵みたいに暇じゃねぇんだよ!」
「じゃあどうする?私一人で行こうか?」
恵が陽一を気遣う素振りを見せるが、
「お前も行くことねぇよ!」
と陽一は一喝した。
「でもさ、一応行かないとさ、後からいろいろ言われると嫌だし。ほら、相手の思惑に乗るふりして私が上手く手のひらで転がせればさ、いいじゃん?」
恵は笑顔で自分の手のひらを上にして出し、クルクル回しておどけてみせた。陽一は脳天気な恵に忠告した。
「そんなスパイみたいな事出来るはずないから。嘘ついたり、何か企んでたらいつかバレぞ。変なこと考えるのやめろ」
恵は口をすぼめて手を引っ込めた。
「そうだ!スマホにボイスレコーダーのアプリ入れて録音しとけ。俺も何言われたか後で確認できるし、証拠になるから」
「ボイスレコーダー?そんなのあるんだ。やってみるね」
そして翌日、親戚達が手ぐすね引いて待つ本家へ、恵は一人で向かったのだった。
本家は陽一の住んでるところから車で30分くらいの山と海に挟まれた田舎だ。地域の真ん中を通る国道は、有料道路が出来てからは交通量がガクンと減り、国道沿いの店々に停車している客の車は少なく、閑散としている。
その国道から少し離れた所に、山を背にした大きな屋敷がある。広い敷地は青い瓦の付いた白い塀に一面ぐるっと囲まれており、屋敷の守りを固めている。入口の方へ回ると、遠くからでもすぐに目に飛び込んでくる、一際大きく立派な門がある。欅でできた屋根付きの大きな門は、太い丸太が柱となって両脇にたっており、来る者達を圧倒した。門をくぐるとすぐに駐車場が設備されている。駐車場の向こうへ目を向けると、そこには広い日本庭園が広がり、池を囲む木々や花々は色とりどりの四季を写し出す。奥に見える蔵は時代を感じさせ、由緒ある地主だったことをうかがわせるに足りうる大きさだ。足元の石畳を進むと、大理石がひかれた間口の広い玄関に辿り着く。大理石はキラキラ輝き、重厚感に満ちている。
この本家こそ、母 芳恵の実家だ。
午前11時40分、恵が運転する車は本家の門をくぐり駐車場で停止した。
この車は入院中の母の車である。元々の所有者は陽一であったが、母が以前乗っていた車はかなり老朽化し、危険を感じた陽一は母を見かねてこの軽自動車を譲り渡したのだった。気位の高い母だったが、経済的な理由でやむなく受け入れた。年数は経ってはいたが、中古とはいえ比較的キレイで距離も走っていないことから、周囲からは以外と評判が良かった。すると母はすぐに上機嫌で乗り回すようになった。恵は帰省した際、母のこの白い軽自動車で行動している。
そして、ここからは妹 恵から聞いた話である。
恵は車の中でボイスレコーダーを起動させようと携帯を取り出した。が、先に着いていた千恵がすぐに恵が乗っている車に駆け寄り、運転席の窓から顔を覗かせた。恵は慌てて携帯をバッグへ押し込み、ドアを開け車から降りた。
「陽一君は?」
「兄ちゃんは仕事あるから私だけ…」「何で!?兄妹二人って言ったじゃない!もういいわ!私から千賀子伯母ちゃんに話すから!」
千恵は恵を叱責しながら屋敷の中へ誘導した。恵はアプリを起動することができなかった。
玄関を抜け、太く大きな檜の柱を通り過ぎ、廊下を渡り、千恵が居間の扉を開けると、本家の千賀子伯母と千恵の母である恵美子叔母の姿が恵の目に入った。恵は一瞬身構えしたが、すぐに笑顔を作り愛想よく挨拶をして千恵と共に座った。恵は両脇を恵美子親子に挟まれ、正面に座る千賀子伯母からは重圧を感じた。この時
(囲まれた!)
と思った。
恵はこれから始まるであろう叱責と追撃を覚悟した。
「おばちゃん、陽一君来ないんだって!」
千恵はまるで恵が悪い事をしたかのような言い方で千賀子伯母へ報告した。
「ふぅん。ま、いいさ」
本家、その一族を取り仕切る千賀子伯母は、家督を継いだ母 芳恵の兄の妻である。夫はすでに他界しており、実質トップに君臨してるのが兄嫁である千賀子伯母だ。その姿はふくよかで、多少薄くなった髪を黒く染め綺麗に結い上げている。年季が入った顔はキチンと化粧がされ、整った身なりは一見して質の良さがわかる。もうじき80歳になる千賀子伯母は、この家に嫁いでから60年近くなるだろう。誰もが頼る存在ではあるが、反面、自分の中の常識から外れることを嫌い、何でも指示し、取り仕切ろうとする癖がある。
仙台箪笥が造り付けられた飾り棚を背に、千賀子伯母は恵が来たことで取り敢えず良しとしたようだ。
「良かったね。いいって」
千恵がホッとしたように恵に囁いた。恵はイラッとしたが顔は作り笑顔のままだった。
「来ると思ってお昼用意してたから」
どこからか取り寄せたようなプラスチック容器のお弁当が千賀子伯母の前に重なっている。千賀子伯母の言葉を聞くなり、千恵がそそくさと立ち上がり、各人の前に配り置いた。一つ余ったお弁当は千賀子伯母がテーブルの下へ置いた。
恵はお礼を言って箸をつけたが喉を通らない。千賀子伯母が気を悪くしないように適当な言い訳をして蓋をした。
そしてここから、恵の長い我慢との戦いが始まる。
食事中は千賀子伯母、恵美子叔母、千恵の3人での世間話で恵は疎外感を感じていたが、皆が食べ終わりお弁当を下げ、お茶が入れられると、視線が恵に集中した。
「芳恵ちゃん、どうなの?」
恵美子叔母がお茶を入れながら口火を切った。
「あ、お母さんは、手術じゃなく抗がん剤治療になるって…」
「あんた達、先のことどう考えてんの?」
「え?…どうって…治療が終わったら…?」
恵は恵美子叔母に言葉を遮られ面食らったが、同時に(きた!)と思い、差し出された湯のみ茶碗を両手で強く握った。
「違う、違う。死んだ後のことさ」
言いにくいことをハッキリ言う恵美子叔母にムッとしながら
「病院ではまだ治療の方法があるからって…」
と恵が言いかけると
「あれでは危ないぞ。今年いっぱい持つか持たないか」
「うん、うん。恵ちゃん、気持ちは分かるけど私達、父親で同じ病気を見てるから分かるのよ。だから準備としてね?大事だと思うの」
恵美子叔母と千恵に両脇から ”母は死ぬんだ” と言われているようで恵の目から涙が流れた。
「だって…病院からまだそんな事言われてないし、兄ちゃんも…」
恵が母の死を否定しようとした時、
「違うんだ、恵」
今まで黙っていた千賀子伯母の声が響いた。両脇がすっと黙った。
「何ヶ月先のことだとしても、最終的に世話になるのはお寺さんなんだ。あんた達は分からないかも知らねぇけど、墓に入るにもすぐに入れる訳では無い。おっさん(和尚さんの呼び方)に話を通しておかなきゃないんだ」
恵の正面にでんと構えた千賀子伯母の発した言葉に、両脇が喝采でもしてるかのように褒めそやし、同調の言葉を続けた。
「墓も予約してないと入れなくなってしまうしなぁ」
「そうだよね。今のうち墓地の購入もしておかないとね。」
「葬式も予約しておかないと、急に言っても上手くやってくれないんじゃないか?」
3人は一緒になって好き勝手な事を言っている。母の体の心配なんてしていない。ただ、母の死後の手順の事しか気にかけていない。これから母の治療が始まるっていうのに、これではまるで死ぬのを待っているようじゃないか。恵は怒りで体が震えた。
そして、恵はこの後約4時間、この親戚達と顔を合わせ、言葉の応酬を交わし続けた。
翌日、恵は陽一の元へ来た。昨日、本家へ行ったことの報告をするためである。恵は陽一の顔を見るなり怒りをぶつけた。
「ずっとお母さん死んだらどうすんだとか、墓買えとか、葬式はこうしなきゃないとかそんな話ばっかりでさ!アッタマきたから『医者にも兄ちゃんにも今は治療の段階でそういうことはまだ早いって言われてるから!』って泣きながら言ってきたの!」
恵の話を聞いた陽一は驚いた。親戚とはいえ癌を患った母親を持つ娘を泣かせるまで追い詰めるのかと。しばらく言葉を失ったまま恵の話を聞いているうちに、体の脇で握っていた拳に力がメキメキ入っていた。全容を確認する必要がある。
「録音したのか?」
「出来なかったの」
陽一はあからさまにガッカリしてみせた。恵は慌てて言葉を繋いだ。
「着いてすぐやろうと思ったんだけど、私も使い方慣れてなくて手こずってたら、すぐに千恵ちゃん来てしまって携帯をしまってしまったの。千恵ちゃにすぐ『陽一君は?』って言われて、『何で来ないの?2人でって言ったじゃない!』って凄い剣幕でさ、『もう!私からテルコ伯母ちゃんに話すから!』って。携帯出す余裕なかったの」
陽一はグッと言葉を飲み込んで、恵の話を聞くことにした。
「なんかさ、『お弁当買って来たから』とか言ってハンバーグ弁当出されてさ、でも食べる気しなくて一口食べて持って帰ってきたの。こんなさ、その辺で売ってるような弁当だよ?兄ちゃんが洋食屋やってんの知ってるくせにワザと?えっ?って思って…」
「隆志の店のだよ」
陽一は表情を変えずに言った。
「え?」
恵が言葉に詰まった。
「ほれ、家督継いだ次男の隆志。会社とは別に嫁さんにカフェやらせてんだよ。コロナでテイクアウトでも始めたんだろ」
と、陽一がかいつまんで説明すると
「ふーん…わかんないけど。それから!」
恵は次から次に湧き出る不満を、とにかく吐き出したいかのように話を変えた。
「ずっと葬式こうしろとか、お墓こうしろって、もう「はい」って、私が「はい」って返事するまで帰してもらえなくて、何?監禁?軟禁?って思って。でね、『私もお母さん介護する覚悟あります!』って怒鳴って、やっと帰ってきたの4時だよ?夕方だよ?信じらんない!」
恵はたどたどしくも、一生懸命話を続けていた。陽一は怒りを通り越していた。
「俺に言っても言うこと聞かないの分かってるから弱い恵に言うんだろ?もういいよ。親戚いらねぇ。お袋看るのは俺達なんだから、葬式もなにも俺達だけでいいよ。もしもの時は家族葬でやろうや」
陽一の言葉を聞いて、恵は力んでいた肩をすうっと下ろした。由希は傍らで聞いていた。
「あ、そうだ兄ちゃん、私今から本家に行ってこなくちゃない」
恵があっけらかんと思い出したように言った。
「はぁ?お前俺今言ったこと聞いてたか?何で?」
陽一の恵への声が大きくなった。
「あ、あの、違うの。千賀子伯母ちゃんがね、お母さんに差し入れした時のタッパー返してって言うから、さっさと返してこうと思って。また後でグチグチ言われるの嫌だからさ」
恵が慌ててそう言うと、陽一はまた苛立たしい顔をした。
そして恵は慌てて駆け出し、陽一の元を去って行った。
由希は、顔を背ける陽一と、立ち去る恵の背中を交互に目で追って見ていた。
妹に翻弄され、妹は親戚に軟禁された?と言う。だが、ずっと後に真実がわかります。




