国立総合病院
令和3年8月31日火曜日
清々しい夏晴れの青空に、モクモクの白い雲が広がる良い天気だった。
芳恵は陽一、由希に付き添われ、A市にある国立総合病院に来ていた。初めて来たこの病院は、出来てまだ数年という新しい病院で、とても清潔で綺麗だった。設備も最新式で規模も大きい。外にはドクターヘリも配備されている。また、コロナウィルス感染者受入れ病院となっており、外に大きなテントが設けられ自衛隊の姿も見えた。
芳恵は自分がこの病院に来るために陽一に仕事を休ませるのは申し訳ないと、ひとりで電車で来院するのを覚悟していたが、息子夫婦が仕事を休み、車で乗せて来てくれ、付き添ってくれると言ってくれた。芳恵の住むC市からは、電車で片道1時間ほどの距離だが、車でもまた、有料道路を使用するとだいたい同じ位の所要時間である。それでも車で送迎してもらうほうが体も精神的にもずっと楽だ。芳恵は随分と安堵した。
「お義母さん、年、何歳でしたっけ?」
「ナナパー(笑)」
新患手続きの書類を嫁の由希に書いてもらい総合受付に提出した。次に外科外来の受付にまわされ、そこでかかりつけ医から処方されている薬を全部出すよう言われた。持っている薬は全部ひとまとめにしているが、緊張からか今現在飲んでる薬の説明を上手くできない。まとめていた薬は、かなり多すぎた。とりあえず外科受付に全部渡した。
息子の陽一は機嫌が悪かった。でも今の芳恵の精神状況では息子を気遣う余裕など持てない。癌に侵された自分の身体の行く末が心配でならないのだ。予約していたとはいえ、外科外来での待ち時間は長かった。陽一はおもむろに待合室を出て行った。すると由希がこっそり耳打ちした。
「昨日、コロナの予防接種を受けたから副作用で少し熱があるの」
芳恵はマスクを押さえながら頷いた。
「ああ…」
機嫌が悪いのはそのせいなのか。陽一は由希から解熱鎮痛薬カロナールを受け取り、それを飲むために席を外したのだった。ここでマスクを外して飲むわけにはいかないと判断したからだ。しかし、不機嫌の理由はそれだけではなかった。たが、芳恵は言われたことを理解するので精一杯だった。今は自分の事で頭がどうにかなりそうだ。
しばらくすると、掲示板に芳恵の番号が掲示された。芳恵は息子夫婦に付き添われ、診察室に入った。
そこには恰幅のいい中年の男性医師が座っていた。この医師が外科部長だろう。既に内容は把握済みといった感じで、淡々と説明をする。由希は初めて芳恵のレントゲン写真を見た。胃の上部、胃の入口付近に癌があることを認識した。と同時に、由希は芳恵の面倒を見る覚悟をした。
医師はすぐに手術室の予約を入れるため、看護師に確認を取った。陽一は
「早く、早めに」
と懇願した。すると、翌週、という早い段階で予約を入れてもらうことができた。なんという幸運だ。こんなにトントン拍子に事が進むなんてまずありえないだろう。率先して医師とやり取りをする陽一は心の中でガッツポーズを決めた。
次は消化器内科の外来での診察を受けるよう指示された。入院前に検査の必要があるという。3人は外科外来を後にし、2階にある消化器内科へ芳恵のペースに合わせ、ゆっくりと向かった。
消化器内科では若い医師が担当だった。若いといっても、決してそれが不安要素という訳では無い。逆に、若さから来る一所懸命さ、熱意のようなものが感じられ、とても好感が持てた。
入院前検査は数日通院して受けなくてはならないという説明を受けた。胃カメラ検査も改めて行うという。芳恵はその頃、食事が喉を通らず、1食の量がかなり減っていた。一口噛んでは力を込め、ゆっくり飲み込むという状態で、食が細くなる一方だった。その為、C市からA市までの通院は芳恵の体力的に心配だ。しかし、だからといって毎日仕事を休んで陽一や由希が付き添うのは、それはそれで難しい。陽一は母親の年齢も踏まえ、事情を医師に説明し、検査入院ができないか尋ねた。すると医師は
「なるほど…」
と言うと、少し思いにふけった後、どこかに内線をかけてやり取りを始めた。会話が終わるとまた別の所にかける。何度かそれを繰り返した。3人はじっと黙って待っていると、しばらくして医師は電話を切りこちらを向いた。
「では、まず消化器内科で検査入院して、検査が終わったらそのまま外科に移動して手術、ということで了解取れましたので、それでいいですか?」
そしてカレンダーを指し示しながら
「検査は日曜休みなので、日曜はただ病院に泊まってもらうことになりまが」
と笑ってみせた。
コロナ禍でこの病院もかなり逼迫しているにもかかわらず、頑張って調整してくれたこの目の前の若い医師に感謝した。
「ありがとうございます!助かります!」
3人で口々にお礼を言った。そして
「今日できる検査をしてしまおう」
ということで、採血とレントゲンを撮ることになった。
1階に戻り採血室の前で待機する。芳恵は鞄の中を探った。鞄には小さなタッパーに入れたブドウと、栄養ドリンクを入れたはずだ。ゴソゴソ探っているうちに、掲示板に芳恵の番号が掲示され、由希に声をかけられた。芳恵はもう"ひと頑張り"という思いで、見つけた栄養ドリンクを急いでその場で一口慎重に飲み込み、立ち上がった。採血室の中に芳恵の姿が消えた頃、由希はひとりで呟いた。
「あれ?ドリンク飲ませてよかったのかな?」
採血が終わるとレントゲン室までまた移動。芳恵は疲労を感じてきた。しかし、そうも言ってられない。大きな病院は移動するのも大変だ。さすがに弱った体には堪える。でも自分のためだ、口に出す訳にはいかない。ましてや店を休みにして付き添ってくれている息子夫婦には、言えない。
レントゲン室前の待合室で名前が呼ばれた。静かにゆっくり腰を上げて立ち上がる。少しずつ歩を進め、名前を呼ぶ看護師のもとへ向かった。
「ハァ…」
中へ入り扉が閉まると、芳恵は大きく息をついた。
由希はさっきまで芳恵と座っていた場所でそのままじっと待っていた。歩く芳恵を後ろから見守っていた時、芳恵がかなり痩せてきていることに気付いた。元々芳恵は背が低く、腰回りから太ももはふくよかであった。芳恵は近頃、ゆったりとした足首まであるワイドパンツなどを好んで着ていたので隠れて見えてなかったが、今日は受診だからだろう、やや細身のスッキリしたクリーム色のズボンを履いていた。その為、芳恵の後ろ姿の全体を捉えた時、脚がかなり細くなっていることに気が付いた。由希は改めて癌の深刻さを見た気がした。
その日の検査を終え、入院の説明を受けに行く。
「入院まで家から出ないように。コロナウィルスに感染すると入院も手術もできなくなるので絶対に罹らないようにして下さい」
職員からかなり厳重に注意を受けた。陽一と由希は
(入院までの3日間、何としても感染を回避せねば)
と、気を引き締めたのだった。




